3093年を思ってみる
「西暦は2111年」
2010年にリリースされたアンダーグラフ×SoulJaが歌う「2111 ~過去と未来で笑う子供達へ~」という楽曲は、こう歌い出す。
この曲が収録されたアルバムが同年にリリースされてすぐに私は手にし、それ以来、今でも聞き続けている大好きな曲である。
夢の中を舞台に、2010年の現在を生きる人物と、過去・未来それぞれを生きる少年少女が対話を繰り広げる。
「空は青いの??」「雲は白いの??」「森は緑なの??」「月はどんな形をしているの??」
これらの無邪気な質問からは、未来の少年はなかなかにカタストロフィックな環境に身を置いていることがうかがえる。
それに対して“僕”は涙を流して謝っている。
時代は明らかではないが、「テレビも車もまだない過去」を生きる少女からは期待の眼差しだ。
「どんな服を着るの??」「どんなお菓子や遊びがあるの??」
「みんなが笑顔だよ」「パソコンとやらで服も買えるよ」
こちらは幾分か誇らしげだ。
2021年現在では服どころか、むしろインターネットで買うことができない物の方が少ないような気さえするが、この楽曲が製作された2010年当時を思い出すとパソコンで服やその他の商品を買うというライフスタイルはそこまで社会に浸透していなかったのではないか。
【101年先の未来を生きる子供達に素晴らしい地球を残したい】
とのメッセージが込められているそうだ。
2021年にはmillennium paradeが「2992」という楽曲をリリースした。
1992年生まれの制作者が、「自分が生まれた年から1000年たってもこの曲が残ってほしい」との願いを込めて名付けた。
西暦2992年の未来を生きる人に、今を生きる人の考えていることを伝えようとする歌詞になっている。
101年先にしろ1000年先にしろ、楽曲という形式で思いを遺そうとする試みは面白いではないか。
少なくとも私自身は生きていないであろうほどの未来に想いを馳せることができるというのは、今の世の中に余裕があるからであろうか。
私は小学生の頃から、勉強といえば圧倒的に理科が好きだった。
そもそも野外で遊ぶのが好きで、何かといえば兄とその友達とザリガニ釣りに出かけたものだ。
親の勧めで始めたボーイスカウトも、私をアウトドアへの道へと押し進めてくれた。
そのおかげで、高校で文理選択の際には一片の迷いもなく理系を選択することができた。
受験を目前に控えた高校生は志望大学について真剣に考える。
自分の夢を叶えるためにはどの大学のどの学部に進学するべきか、そして自分の実力はそれに見合っているのか…。
私の将来の夢とはずばり「科学者」であった。
小学校の卒業文集にも書いたほどで、高校生になっても変わっていなかった。
文理の別で何が言えるわけでもないが、高校時代には文系の友人が多かった。
彼らと進路について語り合うとき、彼らは弁護士や検察になりたいと言った。
そこで私は衝撃を覚えた!!
「弁護士」「検察」という“具体的”な職業に比べ、「科学者」とはなんと“抽象的”なのか…!!
もちろん今となってはそれぞれの職業について自分なりに語ることができるが、何しろ世の中の全てが国語・数学・理化・社会・英語で理解できると勘違いしていた高校生の時分である。
早計にも私は、理系を選択している学生は押し並べて科学者と呼ばれる人種になるものだと考えていたのだ。
弁護士や検察とは文系学問から専門的に分化した職業であるのに対し、科学者とは理系学問そのものに根差した職業である、という比較構造である。
つまり、「科学者になって何をしたいか」という具体的な対象まで全く思い至らず、理系の流れの行き着く先として呆然と科学者を見ていたのだ。
今でもはっきりと当時の教室の光景を思い出せるほど、明確な劣等感であった…。
とはいえさすがは受験勉強。
そんな劣等感なんかすぐに忘却の彼方に押しやった。
それから月日は経ち、自分の研究テーマを与えられた大学4回生。
研究は新素材開発の一端を担っており、担当准教授と科研費を獲得するために奮闘していたのだが、ふと答えを見つけた気がした。
と言っても何も特別なことではなく、科学研究ひいては社会全体にとって当然である、「有用性が期待されるテーマには投資がされる」という事実である。
そして何が有用か、言い換えれば何が必要とされているかはその時々によって変化するのが常であり、それを予測することは困難である、いや実質的には不可能である。
その時々に社会から必要とされる課題を柔軟に解決するための技術開発こそ、科学者に求められる本質なのだ。
(優れた投資家などはこれから成長が見込まれる分野や企業を上手く見極めているのであろうが、それも多岐に分散させている投資先のいくつかが上手くいっているにすぎない。)
子供の頃に思い描いた科学者という夢、
高校生の時に科学者という職業の抽象性への恐怖を感じたが、
大学生になって雲が晴れた。
ここで純粋科学では少し事情が異なることに言及しておきたい。
必要とされるか否かに関わらず、自然界を相手取り、その真理を追究しようとする人類の単純興味の具現化されたものが純粋科学である。
純粋科学の推進力の第一歩には「有用性」など度外視されるべきである。
では何が社会で必要とされるのか。
ここで、筆者が大学4回生であった2013年と、社会人6年目である2021年を比較してみよう。
全てを比較することなど到底不可能なので、私が科学者を目指すきっかけとなった地球温暖化問題を取り上げてみる。
小学校5年生の時だったか、社会の授業で京都議定書について学んだ。
地球温暖化の原因である温室効果ガスの排出量削減を先進国に課す取り決めである。
自然の中で遊ぶのが大好きだった私は、「京都議定書とはなんと素晴らしいのか!!これで地球温暖化を食い止めることができるに違いない!!」と感動したものだ。
世の中は京都議定書を認知していたはずだが、その実、その実現可能性には懐疑的であったのではなかろうか。
環境適用型技術も数多く世に送り出されたが、社会は無尽蔵に進化を続け、浪費の時代が続いた。
時は進んで2015年、京都議定書の後継であるパリ協定が採択され、先進国のみでなく途上国を含むすべての主要排出国が対象になった。
この時点では私も社会人となる目前であり、就職活動に取り組んでいた。
小学生の時とは違い、パリ協定が世界に与えるインパクトを理解できるようになっていた。
しかし世の中は依然として環境問題対策に腰を据えて取り組んでいたとは言えない。
石油開発企業が就職人気上位に位置していたり、電気自動車や太陽光発電も開発コストが高く社会に普及するのはまだ難しいという記事も散見された。
時を同じくして2015年、国際連合でSDGs(Sustainable Development Goals)が採択された。
京都議定書やパリ協定のように地球温暖化問題だけを対象にしたものではなく、持続可能な開発を目指して「世界が2030年までに取り組むべき17の目標」を定めたものである。
このSDGsというものが、2021年現在非常に普及している。
京都議定書やパリ協定は温室効果ガスの排出削減を主に産業界に課す取り決めであったのに対し、SDGsは気候変動をはじめ貧困・教育・健康・女性活躍など「持続可能な開発」に寄与すると期待されるあらゆる分野から構成されるため、全人類がプレーヤーとなる。
何ら拘束力を有さないため、国連で採択されてからすぐに普及したわけではなかったが、2019年頃から急に耳にするようになった。
今日ではSDGsに関する何かしらに触れない日はない。
どんな形であれ多くの人が自分事だと感じて地球環境問題に取り組むのは素晴らしいことだし、私自身も人並みに取り組んでいるつもりだ。
大衆の力とは強大で、京都議定書・パリ協定では動かなかった大勢の姿勢が、SDGsを合言葉に大きく変化し始めている。
ここ数年で最も大きく情勢が変化したのは石油・天然ガス業界ではないだろうか。
私が生まれた頃には(記憶はないが)石油製品を使用するのが当たり前になっていて、2019年頃までは石油無しの生活は考えられず、社会全体が石油利用をその前提としていた。
それがSDGsが叫ばれ始めた最近、石油業界は完全に悪者に仕立て上げられ、投資が激減している。
確かに太陽光発電、風力発電などが社会インフラとなりつつある現在からすると、もしかすると近い将来には石油を必要としない社会が到来するかもしれない。
しかしこれはなんとも都合のいい話ではないか。
「環境に悪いから、可及的速やかに事業を縮小するように。かといって急にエネルギー源が無くなると困るから、代替エネルギーが確保できるまでは石油に頑張ってもらいたい。」
こんなことを言われて世の為に努力する企業があるだろうか。
そのうち石油業界からのしっぺ返しを食らいそうだ。
話が逸れてしまったが、上でも述べたように科学者に求められる役割は、「その時々に社会から必要とされる課題を解決すること」である。
いつ何が要求されるかわからないからこそ準備をしておくことが重要であるが、これからの将来何が求められるか、今まで以上に予測が難しくなりそうだ。
例として、2015年には就職人気が高かった石油開発企業が、ほんの5年後には環境問題の大きな原因として吊るし上げられている。
こんな急激な変化を誰が予測しただろうか。
良かれと思い石油を生産し、石油・天然ガスが無ければ社会は何も動かないとも思われるほどに栄華を誇った石油・天然ガス業界ですらこの有様である。
昭和から平成時代のようにイケイケどんどんといった風潮は最早なく、令和を生きる人たちは「ほどよく我慢すること」を強いられている。
たとえそれが人々の生活をよくする発明であっても、「いや、それ○○に良くないよね。」と言われればそれまでになってしまった。
純粋科学で言うなれば、「その研究って何の意味があるの??」と一蹴されるようなものである。
「ただやりたい」「おもしろそう」
こんな単純で最も純粋な動機だけで物事を押し進めることができないというのはなんとも窮屈で退屈だ。
タイトルは「3093年を思ってみる」とした。
しかし別に3093年でなくたっていい。
要するに、どうなっているか予想できないぐらい未来であればいつだっていいのだ。
高度経済成長期のように、がむしゃらに社会全体をよりよく発展させることが是だとされている時代においては、その方針は簡単に大きく変わらないだろう。
しかし今は周りを気にしながら、うまく社会を発展させなければならず、そのためには柔軟な方針転換が求められる。
誰も取り残さない、公平で持続可能な社会を実現するには仕方ないのかもしれない。
上でも述べたように、人々は我慢を強いられている。
もちろん理不尽な我慢ばかりではないが、発展・繁栄を良しとする生物としての本分からは外れるものも多いのではないか。
何事もほどほどに、と肩透かしを食らわせられる世代の原動力は何なのか。
今、この2021年を生きる者として、少し先を生きる自分自身に、そして遠い将来を生きる者に問いかけておきたいのである。
ツルムラサキ好き。
3093年を思ってみる