アメリカでの高校生活初日の出来事
1985年高校2年の夏、父の仕事の都合により一年間限定で、家族(両親と弟の4人、専門学校生だった兄のみ途中から参加)でアメリカに行くことになり、私と一つ下の弟は日本の高校を一年間休学してアメリカの高校に通うことになりました。
父の仕事の都合と書きましたがこの事情がやや特殊で、父は当時教育者だったのですが、一年間お給料をもらいながら海外で勉強できるというような制度があり、これを利用して渡米するのに家族も自費でついて行った形です。
行った先はイリノイ州にある某田舎町で、ここの大学には教育の世界では神様みたいな人に関わる研究の資料が大量に残っているそうなのですが、一般的な日本人には全く知られていない場所です。
そんなわけで私と弟が通ったのは、日本の企業など全く進出していない土地の、交換留学生など受け入れていない高校でしたので、それ故に「素」のアメリカの高校を体験することができたのではないかと思っています。
家族4人がある程度アメリカの生活にも慣れ始めた9月のある日、私と両親と弟、更に案内役のアメリカ人女性の5人でこれから通うことになる地元の高校を訪れました。(アメリカは日本とは違い9月が新学期です)
高校に着くとすぐに、好奇心の強い母は一人で校舎の中の探索を始めてしまいました。
仕方なく残りの4人で校長室のようなところで待っていると、アジア人のような男子2人がその部屋に入ってきて「Where is your mom?(君たちのお母さんは何処?)」と話しかけてきたのですが、これが私と弟の一年間を決定づけてしまうことになります。
私は「なんでこんなことを訊くんだろう」と不思議に思いながら、母が何処へ行ってしまったのかはわからないので「I don't know.(知らない)」と答えました。
しかし、2人は首をかしげながらしつこく同じ質問を繰り返してきます。
私と弟は困ってしまって、うろたえながらも「何処にいるのか知らない」ということを必死に伝えようとましたが、彼らには全く通じてないようでした。
程なくして、威張った感じ(私が苦手なタイプ)の初老の男性が教室に入ってきて、この人が校長先生だったのですが、最初の2人組が「彼らは自分の母親が何処にいるかもわからないんだ」ということを校長先生に訴え始めました。
すると、校長先生はその2人の言葉を受けて「この2人の少年(私と弟のこと)はdull(愚か、鈍い)だから時間割は全部俺が決める、一番成績の悪いクラスに入れる」ということを言い出したのです。
これに対して案内をしてくれたアメリカ人女性が激怒して、「日本人は皆喋らない、それは愚かなのではなくシャイだからなんだ」と反論をしましたが、校長先生は全く聞く耳を持ってくれません。
結局「母親が何処にいるのか」という質問に対してまごまごしてしまった、たったそれだけのことで、私と弟は愚かという烙印を押され、最低ランクのクラスに勝手に振り分けられてしまったのです。
今ならはっきりわかることなのですが、ここで「dull」と判定されてしまったのは単に簡単な質問に答えられなかったというよりは、そのタイミングで積極的に自己主張しなかったのが一番の理由なんですね。
だから、案内役の女性も「喋らないのはシャイだからだ」と反論していたわけです。
日本では、初対面の相手にいきなり自分のことをべらべら喋りだしたら図々しいヤツだと思われてしまいますが、反対にアメリカではそれができないとダメなんだと思います。
そしてその翌日から私と弟はその高校に通い始めました。
割り当てられた授業はつぎのようなものでした。
一限目:英語、英語が喋れない外国人向けのクラスで、その中でも最低ランクだったので「This is an apple.」みたいな文章からのやり直しです。
二限目:数学、この科目だけは担当の先生が日本人は数学が得意だということを知っていて、上から2番目のクラスに強引に入れてくれましたが、それでも日本のレベルでは高校受験よりやや難しい程度に感じた記憶があり、とにかく平均以下程度の日本の高校生にとっても簡単すぎる内容でした。
三限目:P.E.、体育(physical education)のことで、この科目は成績関係なし。
四限目:セラミック、陶芸のことで、粘土で好きなものを作って釜で焼くだけの授業。殆ど遊びのような時間でしたが、先生は博士号を持っている立派な方でとても親切でした。
五限目:バンドクラス、日本のブラスバンドとやることはほぼ同じですが、部活動ではなく授業の一つです。私は日本の高校ではブラスバンドに入っていて自分のクラリネットも持っていたのでこのクラスに割り当てられました。(この時間、弟は一時間教室で好きな本を読むだけでした)
そんなこんなでアメリカの高校生活初日の授業が全て終わり、楽器を片付けて家に帰る支度をしていると、一人の男子生徒が私のところへやってきました。
彼はクイーンのロジャー・テイラーを彷彿とさせるブロンドヘアーの二枚目で、今日バンドクラスに日本からの転校生が来ることを知っていたようです。
そして、自分のことを「マイク」と自己紹介し、私に名前と出身地をたずねると、色々なことを話し始めました。
マイクは学校のジャズバンド(オーディションに合格した人しか入れません)ドラムを叩いており、音楽が大好きで日本の音楽にも興味があるということ、東京はニューヨーク、ロンドンと並んでアメリカの高校生が一番憧れる都市の一つなのだということ、それから好きなバンドがレベル42(イギリスのフュージョンバンド)であることや、好きな食べ物、家族の話等々。
彼は私がよく聞き取れないところがあると、嫌な顔をせずに何回も繰り返して話してくれましたし、私の拙い英語にも熱心に耳を傾けてくれました。
「Where is your mom?」という無意味な質問を一方的に繰り返した、前日に会った2人組とのあまりの違いに驚きましたが、やはりアメリカ人にも色々なタイプの人がいるということなのでしょう。
その後も彼は、私がギターも弾けるとわかるとバンドに誘ってくれたり、何回も家まで遊びに来てくれたりと、日本に帰るまでの一年間、彼のおかげでアメリカでの高校生活が充実したものになったと言っても過言ではありません。
たった二日の間に起こった出来事でしたが、非常に多くのことを考えさせられることとなりました。
先ず何よりも、初めての土地に行くときは、そこの文化について予習をして最低限の理解をしておく必要があること。
そして、同じアメリカ人なのに、自分のものさしだけで私と弟をダメな子ども達だと決めつけた校長先生と、自分が行ったことのない国の音楽文化に興味を持ち私のことを理解しようと努めてくれたマイク。
当然ですが、私からすれば校長先生は頭の硬い人に見えて、マイクはとても知性的に見えました。
ですが、もし自分が逆の立場であったらマイクの様に振る舞えたかというと、これは大変難しい問題だと思うのです。
私が通っていた小、中学校には帰国子女が多かったのですが、彼らの多くは日本語が上手に喋れない上に、日本の文化にも馴染んでいなかったので、言葉が通じないことや大げさな自己主張に私も周りもイラつくことが多かったと思います。
その結果彼らが周囲から浮いて友達ができなかったり、いじめの対象になってしまったりということもありました。
しかし、これがもし逆の立場であったらどんな気持ちになるか、どんなに困るかということはこのアメリカでの体験ではっきり実感できました。
違う文化の持ち主に対してはこちらの価値観だけで評価や判断をせず、相手の言葉にしっかりと耳を傾け、その元になっている文化を理解するよう努めなければいけないと強く思いました。
これは決して綺麗事なんかではなく、何よりも自分自身の為なのです。
また、成績最低のクラスに振り分けられてしまったカリキュラムですが、最初こそかなり情けなく感じてしまったものの、これが良い復習になってくれたおかげで帰国後日本での勉強が嘘のように楽になりました。
英語でも数学でも高度な問題をとても難しく感じるのは、実際は簡単なところでつまずいている部分があるからというのを身を持って感じました。
さらに特筆すべきであったのは体育で、スポーツ苦手な私にとってどんな地獄が待っているのかと思いきや、例えば先生が「きょうは歩く!」と言ったら、本当にダラダラと一時間グラウンドを歩くだけ、本当に良い意味でいい加減でありゆるゆるです。
帰国後、私が高校を卒業した少し後位から日本では「ゆとり教育」というものが導入されたものの、結局マイナス面だけが目立った形になり「間違いだった」と結論づけられてしまいましたが、アメリカのゆるゆるとした教育を一年間体験した者の個人的な意見として、これを非常に残念に思います。
異邦人である私のことを根気強く理解しようとしてくれたマイクのように、もっと時間をかけて「ゆとり教育」を受けた世代の方々の優れた部分を理解する必要があったのではないかと、今でも思います。
はじめまして、茨城在住の54歳男性です。
中学生の頃から音楽が大好きで、部活のブラスバンド、友人とのロックバンド、大学に入ってからはジャズのビッグバンド、と経験した挙げ句に音楽家を目指して音大に入り直したりしましたが夢はかなわず・・結局歳だけとってしまい、恥ずかしい人生をおくっております。
こんな私にも人生の大切な思い出はいくつかありますし、将来自分で読み返すことがあれば楽しいかなぁ、なんて思います。
よろしくお願いします。
アメリカでの高校生活初日の出来事