AGE

57

Autobiography

好きなことをして生きるということ

好きなことを仕事にする、誰もが望み憧れることでしょう。 もし実現できればこれ以上幸せなことはありません。 私は音楽が好きなので、若い頃は音楽家になりたいと思っていましたが、これはかなわない夢でした。 中学生の頃からブラスバンドで担当していたクラリネットで音楽の大学に進み、更には大学院の修士課程まで行きましたが、6年間でコンクールの類は一切通らず、挙げ句には定職にも就けないという挫折を味わい、お世話になった先生達を失望させてしまいました。 今でもこの頃のことを思い出すと恥ずかしく、申し訳ない気持ちになります。 それでは何故私の夢はかなわなかったのでしょうか? これにはいくつかの理由があると考えています。 一つには努力、根性が足りなかったことです。 楽器の演奏家というのは、ある意味スポーツのアスリートに似ています。 どれだけ頭の中に良い音楽のイメージを持っていたとしても、それを実際に音にするのは肉体の力です。 プロの演奏家になりたいのであれば、一日も休まずに己の身体を鍛え続ける必要があり、これがいわゆる基礎練習なのですが、私はこれが嫌いでした。 もう一つは、クラシックというジャンルの音楽に理解と愛情が足りなかったことです。 ロックやジャズと比べてクラシック音楽が決定的に違うのは、演奏家は作曲家が書いた曲を演奏するということであり、自分がこう演奏したいという望みよりも、作曲家の意図を優先しなければいけません。 また、特に時代の古いクラシック音楽には、100年以上も演奏され続ける間に積み重ねられたスタイル(様式)のようなものがあり、この作曲家のこの音符はこういう風に演奏する、というようなものが演奏家の間では暗黙の了解事になっています。 私にはこれらのことが全く理解できていませんでした。 そもそも「音楽家になりたいと思っていた」と最初に書きましたが、当時の私はその意味が十分にわかっていなかったのでしょう。 先生達は、生徒が職業としてクラシック音楽で生きていくことを前提に指導をして下さいます。 ですが私は、本当に好きな音楽はジャズやロックだけれどもそれらの音楽は学校で学べないから、楽器やジャンルはなんでも良いから音楽の学校へ行ければ、という程度に考えていました。 そんな甘い考え方では、好きなことで生きていくのは無理なんですね。

ドラマの時期:
1996年
4月
1日
文字数:1313
投稿時の年齢:54

チャーリー・パーカーの衝撃

私にはどうしても好きでたまらないミュージシャンが2名います。 一人目は言わずと知れたロックバンドのクイーン。 そしてもう一人が、ジャズ界最大の巨人の一人でありモダンジャズのスタイルを決定づけたと言っても過言ではない大天才、アルトサックス奏者のチャーリー・パーカー(1920~1955)です。 クイーンの音楽がとても親しみやすいのとは対象的に、パーカーの音楽は録音された年代が古いこともあり、批評家や演奏家の間での評価は非常に高く後世へ影響力も強いのにもかかわらず、普通に音楽が好きな人達にあまり受け入れられているとは言えません。 ですが、私にとって彼の演奏を聴く体験は人生が変わる程の衝撃であり、決して外すことができない「ドラマ」であるため、ここに書くことにしました。 私がパーカーの音楽を最初に聴いたのは、まだ中学生の頃だったと思います。 父が所持していた「チャーリー・パーカー・オン・ダイアル・コンプリート」(以下「オン・ダイアル」と略)という6枚のLPレコードで、パーカーの全盛期である1940年代の演奏を記録した大名盤なのですが、はっきり言ってその時の印象は最悪でした。 まず音質がボロボロで何をやっているのか全然わからない上に、1曲2~3分の短い演奏ばかり、さらに同じ曲の別テイクが延々と繰り返されて、全部聴くのは地獄のようでした。 その後、大学でジャズのビッグバンドに入ると、先輩達にすすめられて改めてパーカーのレコードやCDを聴くようになりました。 当時よく聴いていた「ウイズ・ストリングス」「ナウズ・ザ・タイム」といったアルバムは、先述の「オン・ダイアル」と比較すると録音された年代が新しくて、音質が良く聴きやすいのが特徴です。 特に「ウイズ・ストリングス」はサックスの音色と弦楽器の響きが美しくお気に入りでしたが、その年代はパーカーの絶頂期がすでに過ぎていたとも言われています。 さらに時が過ぎ、私は大学を中退して音大に入りなおし、厳しいレッスンを受けながら毎日嫌というほど色々な楽器(特に管楽器)の音を聴き続けることになるのですが、そういう生活を続けていると超一流の演奏家と普通の学生の音の違いがわかるようになってきますし、壁の向こう側で鳴っている音でも誰が出しているのかなんとなくわかるようになってきます。 そして、あるとき気まぐれで、CD化された「オン・ダイアル」を買って改めて聴いてみたのですが、そこで初めて、絶頂期のパーカーがあり得ないようなもの凄い音で演奏していたことに気づいたのでした。 人間離れした音の圧力でありながらなんともいえない艶やかな響きがあり、もしこれが生演奏であれば、最初の一音だけでその場の空気が変わることは間違いありません。 また、即興演奏というのはジャズの重要な要素の一つですが、延々と繰り返される別テイクでも彼は決して同じことはしていないと、その時はっきりわかりました。 楽曲の中に隠れている和音やビートを自在に引き出し、その中で自由に飛翔する力は神業です。 小節を埋めるために惰性で出したような音は一切存在せず、全ての音が意味を持っています。 全てのテイクが小さな作曲であり、それぞれが完成された作品になっていると言えるでしょう。 そして、繰り返しパーカーのCDを聴き続けていると、何故人間にこんな凄いことができるのかと考えるようになりました。 私が知っている限りでは、超一流のクラシック音楽の管楽器奏者でも、これ程の凄い音とテクニックの持ち主はただの一人も存在しません。 想像もつかないような量の練習の成果でもあるでしょうが、ここまでの凄さになるとそれだけの問題ではないように思えます。

ドラマの時期:
1996年
--月
--日
文字数:2021
投稿時の年齢:54

アメリカの高校のブラスバンドを体験して感じたこと

1985年の9月から一年間、私たち家族は父の仕事の都合でアメリカのイリノイ州の某田舎町で生活することになりました。 当時高校生だった私は日本の高校を一年休学して現地の高校に通ったのですが、そこで受けていた授業の一つに「バンドクラス」というものがありました。 内容は日本の吹奏楽とほぼ同じなのですが、課外活動ではなく選択式の授業の一つです。 オーディションのようなものは無く、自分の楽器を持っていれば誰でも入ることができます。 ただし、その高校の音楽活動には、他にジャズバンド(ジャズのビッグバンド)とオーケストラ(クラシック音楽の管弦楽団)があり、これらはオーディションに合格しないと入れません。 ちなみに、音楽なら殆どなんでも好きな私ですが、日本の部活動の吹奏楽だけはあまり好きではありません。 体育会的な独特のノリが苦手なのに加えて、一部強豪校が行う無茶な練習に強い抵抗感を覚えるからです。 今回はここら辺のことも含めて、アメリカのバンドクラスを一年間体験して感じたことと、そこで出会った一人の友人のことについて書きたいと思います。 授業は基本的に合奏のみで、先生が指揮をして演奏についてあれこれ指示を出すという形ですすめられます。 何を演奏するのかというと、スポーツの季節(アメフト、バスケ)はその応援がメイン、そしてこれらが無い時期は、吹奏楽のオリジナル曲などを練習します。 演奏のレベルは、技術的な面では日本の平均的な高校と比較して遙かに低かったと思います。 コンクールで他校の演奏もある程度聴きましたが、恐らくアメリカの高校生全体がそんなものなのだと感じました。 最初の授業の時に、同じクラリネットの仲間達が皆ペラペラな音色な上に、指使いも十分にわからないまま吹いているのを見て本当に驚きました。 (後述するクラリネットの名手は、この日バリトンサックスを吹いていました) ですが、技術的に低レベルだからといって、全てにおいて日本の吹奏楽よりダメなのかというと全くそんなことはありません。 先ず、ニューヨーク・ニューヨーク(映画の主題歌)やバードランド(ウェザー・リポートというフュージョンバンドの曲)のようなジャズ風の曲を演奏すると、日本の音大生より遙かに見事な演奏をします。 もちろん技術的には下手なのですが、音楽を演奏する上で技術以上に大切な、その楽曲で求められる固有の音色や音程、音の強弱、音が出るタイミングと切るタイミング、正しいテンポ等々を、彼らは生まれたときからジャズという音楽に慣れ親しんでいて体で覚えているので、ジャズとして聴けば素晴らしい演奏が可能なのです。 そして何よりも、彼らはどんなに下手でも堂々と演奏します。 合奏で上手く出来ない箇所があれば先生は当然怒りますが(30代位の女の先生で怒るとそれなりに迫力がありました)、日本の吹奏楽では当たり前の居残り練習なんて誰もしないしさせない、終業ベルが鳴れば先生も生徒も速攻で帰り支度を始め、次の日になれば皆ケロッと忘れて練習を始めます。 それで同じ箇所が上手く出来なければ再度先生は怒り、次の日は再度皆忘れるのループなのですが、ある日スルッと上手くいくことがあれば、皆で「イェー」と喜んで、それで終わりです 一方で日本の高校の吹奏楽のレベルの高さというのは、非常に無理な内容の練習に支えられています。 私が日本で通っていた高校の近くにはコンクール全国大会の常連校があり、何回か練習を見学に行ったことがあるのですが、放課後の練習は夜の9時までやっておりその他に朝練もあります。 音大を卒業したばかりの若い先生が非常に厳しい指導をしていて、上手くいかない箇所があると誰が悪いのかというところまで徹底追求して、メンバー全員が見ている前でその生徒のプライドが傷つくような暴言の繰り返し。 仲間たちもそんな様子を庇いもせず、上手く吹けない仲間をゲラゲラと嘲笑したりとか、見ているだけで辛く悲しくなりました。 私の音大時代のクラリネットの師匠は、こういう学校に頼まれて指導に行かれることが多く、高校生が厳しすぎる練習をさせられていることについて、生徒の将来を考えれば悪影響しかないと常に仰っていました。 しかしながら、日本の部活動はコンクール至上主義なため、どうしてもこういうことが起こります。 私の高校は弱小校で先生も良い意味でやる気が無かったので、比較的のびのびと練習をしていましたが、それでもアメリカの高校に比べればかなり厳しかったと思います。 再びアメリカの高校の話に戻って、コンクールについて少し書きます。 日本の吹奏楽コンクールは全体合奏のみですが、アメリカの私の高校があった地域では、合奏に加えてメンバー全員がソロ曲(ピアノの伴奏が付くもの等)を一曲演奏させられ、それぞれにS~Dの評価が付き、その総合点みたいなもの(メンバーの人数は学校毎に違うので、どうやって計算していたのかは不明ですが)を競っていたと思います。 このコンクールで私たちバンドクラスの合奏は確かAかBの評価をもらったと思いますが、私のクラリネットのソロ演奏はS評価をもらいました。 クラス全員の中でS評価をもらったのは3~4人程度だったのですが、日本で音大受験を考えるような人であれば、まずS評価がもらえると思います。 しかし、そんな私でも、このバンドクラスで、決してクラリネットパートのトップを取ることが出来なかったのです。 それは、このコンクールのクラリネットソロ演奏でもう一人S評価をもらった、デイブ(仮名)という少年がいたからです。 デイブは完全に別格でした。 バンドクラス以外でも、ジャズバンドではサックスパートのトップ、オーケストラでもクラリネットのトップを任されていました。(何故かスポーツの試合応援時のみバリトンサックスを担当していましたが) そして彼は、バンドクラスの中でただ一人の黒人でした。(アフリカ系アメリカ人という表現の方が正しいですが、便宜上「黒人」と表記します、ジャズバンドにはもう一人黒人の生徒がいましたが、オーケストラにはデイブ一人でした) デイブに会うまでは、私は黒人というとなんとなくワイルドで、音楽もノリノリで激しい演奏をするような先入観を持っていましたが、彼はモーツァルトとクラシック音楽を愛するとてももの静かな少年で、クラリネットの音色は誰よりも優しく柔らかく、音の繋がりも滑らかで、まるで美しい玉をコロコロと転がすように、自由自在にメロディーを紡ぐことができました。 彼の演奏技術は日本であれば最難関の音大にも楽々合格できるレベルであり、更に、技術とは別の音色のような部分では、日本のトッププロと比較しても彼の方が上であろうと思えた程です。 また、彼は大変知的な上に誰にでも優しい人物で、皆から好かれていました。 私が出会ったアメリカの高校生達は、もごもごとこもった感じの発音で早口で喋る人が多く(そういうのがかっこいいと思われていたようです)英語の発音を聞き取るのが大変だったのですが、彼は外国人にとっての外国語の難しさをよく理解していて、私と話しをする時はとりわけはっきりした発音でゆっくりと喋ってくれました。 ある日、彼と二人きりになった時に、私がなんとなく「なかなか英語が上手くならなくて」という話をすると、彼は「これは聞いた話なんだけど」と断って「君は話す前に日本語で考えてそれを英語に訳してる?それとも最初から英語で考えてる?」と質問してきました。 そして「日本語で考えずに英語で考えてそのまま話すようにすると上手になるらしいよ、聞いた話なんだけどね。」と言って照れくさそうに笑ったのです。 これは、実は彼の楽器演奏の上手さの秘密にも通じている、大変奥が深い本質を突いたアドバイスであったと思います。 そして、1986年の5月、一年間の音楽活動の締めくくりとして(アメリカでは9月が新学期で6月から夏休みです)、バンドクラス、ジャズバンド、オーケストラが合同で、ジャズ発祥の地であるニューオーリンズへ6泊7日の演奏旅行に行くことになりました。 一週間ライブ演奏を行いながら、地元のジャズ演奏を聴いたりプロのクリニックを受けたりという夢のようなイベントです。 しかし、その演奏旅行へ行く一週間位前の授業で事件は起こりました。 授業の冒頭で、先生はとても深刻な顔をして「このクラスで学業の成績が悪すぎてニューオーリンズへ行けなくなった者がいる」と話し始めました。 そして、低いドスの効いた声で「Dave」と一言名指しすると、見たことがないような恐ろしい顔でデイブのことを睨みつけたのです。 日本の平均的な高校生と比べても遙かに早熟で頭の良いデイブが、簡単なアメリカの高校の授業で落第点をとるなんて私には信じられませんでしたが、デイブは暗い顔をしてうなだれたまま一言も発しません。 「Don't worry Dave, we love you!(心配しないでデイブ、皆あなたのことが好きよ!)」とサックス担当の女の子が声を掛けると、クラス中が「イェー」と盛り上がりましたが、それでも先生はずっと怖い顔をしたままで、デイブはうなだれたままでした。 しかしその後、演奏旅行へ行く日がやってくると、デイブは当たり前のように皆の前に現れたのです。 先生もクラスメイト達もそのことには一切触れないまま、彼は皆と一緒にニューオーリンズへ行き、ライブでは見事な演奏を聴かせてくれました。 ただ、夜は先生も生徒も同じホテルに泊まっていた(4人部屋で部屋割りは先生が決めました)筈なのですが、彼は寝る時間になると、もう一人の黒人であったジャズバンドの男子と二人でそそくさと何処かへ行ってしまうようでした。 夢のような一週間が終わり、私の家族はいよいよ日本へ帰ることになり、お世話になった人達(父の仕事関係)に感謝を込めて、家族で食事を振る舞おうということになりました。 その時、我々家族と一番親しくしてくれた方が言ったことは、今でも決して忘れることができません。 「○○さんを呼んだら白人は一人も来ませんよ、何故なら彼が黒人だから。」 このアドバイスをしてくれた方は、帰国後もずっとお付き合いしてくれた本当に良い方で、あくまでも我々のことを心配してこんなことを言ってくれたのです。 この時、ニューオーリンズ演奏旅行で起こった一連の出来事が理解できたような気がしました。 これはあくまでも私の想像であり証拠は何も無いのですが、恐らく黒人の生徒と一緒に一週間も旅行することについて、クレームを付けた白人の親がいたのだと思います。 あるいは、誰も何も言わなかったとしても、当時のこの地方の社会常識として許されないことだったのかもしれません。 そこで、あくまでも建前で勉強の成績が悪いから行けないということにしたものの、先生は最初から連れて行くつもりで、クラスメイト達も皆それをわかっていたから、その後一切誰もそのことに触れなかったのだと思います。 それでも、他の生徒達と同じホテルの部屋に泊めることだけは出来なかったのでしょう。

ドラマの時期:
1986年
5月
--日
文字数:4990
投稿時の年齢:54

アメリカでの高校生活初日の出来事

1985年高校2年の夏、父の仕事の都合により一年間限定で、家族(両親と弟の4人、専門学校生だった兄のみ途中から参加)でアメリカに行くことになり、私と一つ下の弟は日本の高校を一年間休学してアメリカの高校に通うことになりました。 父の仕事の都合と書きましたがこの事情がやや特殊で、父は当時教育者だったのですが、一年間お給料をもらいながら海外で勉強できるというような制度があり、これを利用して渡米するのに家族も自費でついて行った形です。 行った先はイリノイ州にある某田舎町で、ここの大学には教育の世界では神様みたいな人に関わる研究の資料が大量に残っているそうなのですが、一般的な日本人には全く知られていない場所です。 そんなわけで私と弟が通ったのは、日本の企業など全く進出していない土地の、交換留学生など受け入れていない高校でしたので、それ故に「素」のアメリカの高校を体験することができたのではないかと思っています。 家族4人がある程度アメリカの生活にも慣れ始めた9月のある日、私と両親と弟、更に案内役のアメリカ人女性の5人でこれから通うことになる地元の高校を訪れました。(アメリカは日本とは違い9月が新学期です) 高校に着くとすぐに、好奇心の強い母は一人で校舎の中の探索を始めてしまいました。 仕方なく残りの4人で校長室のようなところで待っていると、アジア人のような男子2人がその部屋に入ってきて「Where is your mom?(君たちのお母さんは何処?)」と話しかけてきたのですが、これが私と弟の一年間を決定づけてしまうことになります。 私は「なんでこんなことを訊くんだろう」と不思議に思いながら、母が何処へ行ってしまったのかはわからないので「I don't know.(知らない)」と答えました。 しかし、2人は首をかしげながらしつこく同じ質問を繰り返してきます。 私と弟は困ってしまって、うろたえながらも「何処にいるのか知らない」ということを必死に伝えようとましたが、彼らには全く通じてないようでした。 程なくして、威張った感じ(私が苦手なタイプ)の初老の男性が教室に入ってきて、この人が校長先生だったのですが、最初の2人組が「彼らは自分の母親が何処にいるかもわからないんだ」ということを校長先生に訴え始めました。 すると、校長先生はその2人の言葉を受けて「この2人の少年(私と弟のこと)はdull(愚か、鈍い)だから時間割は全部俺が決める、一番成績の悪いクラスに入れる」ということを言い出したのです。 これに対して案内をしてくれたアメリカ人女性が激怒して、「日本人は皆喋らない、それは愚かなのではなくシャイだからなんだ」と反論をしましたが、校長先生は全く聞く耳を持ってくれません。 結局「母親が何処にいるのか」という質問に対してまごまごしてしまった、たったそれだけのことで、私と弟は愚かという烙印を押され、最低ランクのクラスに勝手に振り分けられてしまったのです。 今ならはっきりわかることなのですが、ここで「dull」と判定されてしまったのは単に簡単な質問に答えられなかったというよりは、そのタイミングで積極的に自己主張しなかったのが一番の理由なんですね。 だから、案内役の女性も「喋らないのはシャイだからだ」と反論していたわけです。 日本では、初対面の相手にいきなり自分のことをべらべら喋りだしたら図々しいヤツだと思われてしまいますが、反対にアメリカではそれができないとダメなんだと思います。 そしてその翌日から私と弟はその高校に通い始めました。 割り当てられた授業はつぎのようなものでした。 一限目:英語、英語が喋れない外国人向けのクラスで、その中でも最低ランクだったので「This is an apple.」みたいな文章からのやり直しです。 二限目:数学、この科目だけは担当の先生が日本人は数学が得意だということを知っていて、上から2番目のクラスに強引に入れてくれましたが、それでも日本のレベルでは高校受験よりやや難しい程度に感じた記憶があり、とにかく平均以下程度の日本の高校生にとっても簡単すぎる内容でした。 三限目:P.E.、体育(physical education)のことで、この科目は成績関係なし。 四限目:セラミック、陶芸のことで、粘土で好きなものを作って釜で焼くだけの授業。殆ど遊びのような時間でしたが、先生は博士号を持っている立派な方でとても親切でした。 五限目:バンドクラス、日本のブラスバンドとやることはほぼ同じですが、部活動ではなく授業の一つです。私は日本の高校ではブラスバンドに入っていて自分のクラリネットも持っていたのでこのクラスに割り当てられました。(この時間、弟は一時間教室で好きな本を読むだけでした) そんなこんなでアメリカの高校生活初日の授業が全て終わり、楽器を片付けて家に帰る支度をしていると、一人の男子生徒が私のところへやってきました。 彼はクイーンのロジャー・テイラーを彷彿とさせるブロンドヘアーの二枚目で、今日バンドクラスに日本からの転校生が来ることを知っていたようです。 そして、自分のことを「マイク」と自己紹介し、私に名前と出身地をたずねると、色々なことを話し始めました。 マイクは学校のジャズバンド(オーディションに合格した人しか入れません)ドラムを叩いており、音楽が大好きで日本の音楽にも興味があるということ、東京はニューヨーク、ロンドンと並んでアメリカの高校生が一番憧れる都市の一つなのだということ、それから好きなバンドがレベル42(イギリスのフュージョンバンド)であることや、好きな食べ物、家族の話等々。 彼は私がよく聞き取れないところがあると、嫌な顔をせずに何回も繰り返して話してくれましたし、私の拙い英語にも熱心に耳を傾けてくれました。 「Where is your mom?」という無意味な質問を一方的に繰り返した、前日に会った2人組とのあまりの違いに驚きましたが、やはりアメリカ人にも色々なタイプの人がいるということなのでしょう。 その後も彼は、私がギターも弾けるとわかるとバンドに誘ってくれたり、何回も家まで遊びに来てくれたりと、日本に帰るまでの一年間、彼のおかげでアメリカでの高校生活が充実したものになったと言っても過言ではありません。

ドラマの時期:
1985年
9月
--日
文字数:3840
投稿時の年齢:54

クイーン来日公演

私は音楽が大好きです、その中でも特に好きなのがロックバンドのクイーンです。中学生になってからはほぼ毎日彼らの音楽をカセットテープで聴いて、ギターでコピーしてきました。そして高校1年が終わる頃の冬に、そのクイーンが日本にやって来るというニュースが飛び込んで来ました。 クイーンの来日公演は1982年にもあったのですが、この時は諸事情あり行くことができませんでした。しかし、今度は違います。私は大喜びで親しい友人達に声をかけまくりましたが、残念なことに誰も行くとは言ってくれません。 これには理由があり、この来日公演の少し前に発表されたThe Worksというアルバムが友人達の間では不評であったのに加え、ボーカルのフレディマー・キュリーはスタジオ録音では滅茶苦茶上手いがライブでは高音域に無理がある、と当時から言われていたのです。 私は仕方なく一人で行くことを考えていましたが、中学時代私とは違うバンドでベースを弾いていた違う高校に通うM君が、一緒に行きたいと伝えてきました。M君は運動神経が良くバレーボール部なんかに入っているのにバンドもやっているという、運動音痴でネクラな私からすると苦手なタイプであり、仲も良くないと勝手に思っていたので、私はあろうことかその誘いを一回断ってしまいました。しかし、これは両親に滅茶苦茶怒られて、渋々謝って一緒に行くことにしました。 そして1985年5月8日、高校2年の春に念願のライブの日がやってきました。来なかった薄情な友人達の予想を見事に裏切り(?)、その演奏はとても素晴らしいものでした。これにも当然理由があります。 この時期のクイーンはアイデアの面ではある種の行き詰まり状態にあったと思いますが(個人の主観です)、演奏の面では完全に円熟期に入っていたのです。少なくとも私はそう思っています。特にドラムのロジャー・テイラーの成長が著しく、初期の演奏と比較してドラムがタイトになった分バンド全体のサウンドが引き締まっていました。フレディのボーカルは確かに高音域を一部下げて歌っていましたが、実際に生で聴くとそれ以上に豊かで艶やかで、完璧なバンド演奏の上で美しく響いていたことを今でもはっきりと思い出せます。映画ボヘミアンラプソディの中でハイライトになっている伝説のライブエイドの演奏が1985年の7月13日ですので、この時の来日公演でもいかにクオリティーの高い演奏をしていたかが想像ができると思います。 また、クイーンの演奏に感激するのと同時に、M君のことを勝手にこんな人だと決めつけて避けていた自分を大いに恥じました。一緒に茨城の田舎から東京まで行ってみると彼はとても細かいことに気がつく優しい人で、高校生が深夜に一人で東京から帰ってくるのは危ないから無理にでも誘ってくれたことがよくわかりましたし、何よりも素晴らしい音楽が目の前で繰り広げられていることをしっかり感じ取っている姿を見ると、この人は自分と何も変わらない、同じ人間なのだということがはっきりわかったのです。帰りの電車では、二人で中学時代の話など楽しく盛り上がりました。

ドラマの時期:
1985年
5月
8日
文字数:1612
投稿時の年齢:54

秋田県まで自転車旅行

私は極端な運動音痴でスポーツ全般が大の苦手です。 そんな私が今までの人生の中で一回だけ、滅茶苦茶頑張った運動のイベントがあります。 これが今回のドラマである、秋田県までの自転車旅行です。 私の家族は私が小学校に入った時から茨城に住んでいましたが、父と母の実家はともに秋田県の湯沢市というところにあり、毎年夏休みのお盆の時期にここに帰省するのが、家族にとって一年を通しての最大のイベントでした。 特に父の実家があった市内の某所は、一日にバスが3本しか通らずタクシーを呼んでも30分以上待たされるようなとんでもないド田舎でしたが、それ故とても自然が美しいところで、毎年ここで過ごす数週間は夢のようでした。 また、当時は東北新幹線なんていう洒落たものは存在せず、行きも帰りも丸一日かけての各駅停車の旅。 この旅がとても楽しく、とりわけ道中コトコトと進む列車の窓から眺める奥羽山脈の絶景は例えようのないものがありました。(仙山線と奥羽本線の2ルートがありました) そして、私が小学校四年生の初夏、今年は秋田の実家まで自転車で行こうということになったのです。 そもそも何故両親がこんなイベントを計画したのかというと、当時高校受験を控えていた兄が半分ノイローゼのようになっていたので、運動をさせて元気にしたいという思いがあったようです。 ですが私がこれを知ったのはずっと後のことであり、当時はもう、とにかく、素晴らしい東北地方の風景を自転車旅行で体験できるなんて、と考えるだけでワクワクが止まりませんでした。 道中へこたれぬように体力を付けようと、毎日苦手な早起きをしてラジオ体操をしたり、ちょっとだけ腕立て伏せや腹筋運動をやってみたり、と・・・ まあ、もともと運動嫌いな人間ができるのなんてこの程度のことだったりするのですが、それでも一生の中であんなに運動をやる気になったのはこの時だけだったと思います。 父は1週間で走破する予定を立て、母は無理なので電車で応援、まだ小学生だった私と弟は宮城県の古川市(※1)から参加することになりました。 そしていよいよ出発の時、自転車に乗る父と兄を送り出した3日後、私は母と弟と3人で電車に乗り古川市で父達と合流してその日は旅館に宿泊、次の日から母を除く4人で自転車旅行のスタート。 しかし、私は自分の考えが甘かったことを思い知らされます。 出発地点の辺りは平地なので比較的余裕がありました。 ですが、山間部に入ると、とにかく延々と続く上り坂が苦しくて苦しくて、雄大な風景を眺める余裕なんて微塵もありません。 しかも途中一番苦しいと思われていた辺りで大雨が降り、それでも宿泊先は全て予約済みであったため、雨具を着て休まず走行を続けました。 これが本当に辛くて一体いつまでこの苦行が続くのか、早く終わりにしたいという気持ちしかありませんでした。 しかし、山は登り終えればあとは下りになるので圧倒的に楽になります。 そして最終日いよいよゴールが間近になった時、周囲の風景が少しずつ見覚えのあるものになって行った時はもの凄い高揚感を覚えました。 ついに父の実家が見えた時はそれまでの疲れなんて全て吹っ飛び、母と祖母が笑顔で手を振っている家に4人で飛び込んで、そのまま祖母が沸かしてくれていた田舎の五右衛門風呂(※2)に兄弟3人で入りました。 普段は特に仲良しということでもなく男だけの兄弟故かケンカも多かった3人ですが、この時は本当に皆で笑いながら、「大変だった」「良くやった」とお互いを労い合ったのを今でも忘れられません。

ドラマの時期:
1978年
7月
--日
文字数:1861
投稿時の年齢:54

好きなこととの出会い

私は大変な運動音痴で、小さい頃からスポーツ全般が大の苦手でした。 小学校の体育の授業で長距離走をすれば、他の生徒達とは周回遅れの差を付けられ、皆がゴールした後もしばらく一人で走り続けることになります。 これは当時の私にはとても屈辱的なことでした。 また、その頃は巨人軍の王選手がホームランの世界記録を更新したりしていた時期で(1977年9月に達成)、小学生の間では野球が大人気であり、友達との遊びも決まって野球でした。 しかし、運動音痴の私は飛んでくるボールが怖く、外野フライをほぼ全てヒットにしてしまうので、その度に仲間から○○のせいで試合に負けたなどと責められることになります。 そんな状況の中で、いつしかこの運動神経の低さがそのまま自分の価値の低さのような感覚に陥ってしまい、毎日がとても憂鬱でいつも下ばかり向いていました。 そんな小学校生活を送っていた私ですが、忘れもしない小学校三年生の時、始めて自分が本当に好きだと思うことに出会うことになります。 きっかけは、Gという若い男の先生が私のクラスの音楽の授業の担当になったことです。 この先生はとても優しくて、他の男の先生達のように威張っていませんでした。 また、授業に直接関係ないのにわざわざにトランペットを持ってきて吹いてくれるような先生で、本当に音楽が好きな感じが伝わってきて、優しさも相まって生徒達から慕われていました。 そんなある日、G先生の何回目かの音楽の授業で、リコーダーの「タンギング」の練習をすることになったのです。 「タンギング」とは、音楽用語で舌を使って音を切る(或いは発音する)ことで、リコーダーに限らず殆ど全ての管楽器で使われる非常に重要なテクニックです。 先生は「真っ直ぐの糸をイメージして、それにハサミでプツンと切れ目を入れていくように」と教えて下さって、生徒一人ずつ順番にタンギングをさせ個別にアドバイスを始めました。 この時、私はクラスメイト達の音を聴きながら「おや?」と思いました。 皆のタンギングは力が入り過ぎて音が濁っていたり、反対にちゃんと舌が使えておらず音が不明瞭だったりでどれも今一な感じに聞こえます。 「体を使うことはなんでも下手な私だけど、もしかするとこれだけは自分の方がずっと上手に出来ているのではないか」という予感がしました。 そして私の番が回ってくると、私は先生から教わった通り、真っ直ぐ伸びた自分の息に舌で切れ目を入れるように「トゥートゥートゥー」と吹いてみました。 何故かクラス中がシーンとしています。 そして、静まりかえった教室の中で先生はゆっくりと口を開き「○○(私の名前)、とーっても良い音だよ」と私のことを褒めて下さったのです。 先生は決してお世辞を言ったのではなく、私の音にしっかりと耳を傾けた上で評価してくれました。 このことが本当に嬉しくて、また、野球では私のことを責めるクラスの男子達まできょとんとして私の音に聴き入っているのが不思議な感じがして、人前で何かを表現することの気持ち良さにこの時始めて気がつきます。 これは人生の中で極めて貴重な瞬間でした。 また、同じ頃東京の小学校から転校生がやってきたのですが、これがもう一つの転機になりました。 この転校生は名前をBといいましたが、大変な変わり者で周囲の評価など全く気にしない完全にマイペースな性格。 男子なのに読書や音楽が好きで、休み時間にはグラウンドに走る他のクラスメイト達には目もくれず、一人で本を読んだりリコーダーを吹いたりしています。 特に音楽に関しては、東京では児童合唱団に入っていてレコーディングの経験まであったそうで(アーティストのレコード録音で合唱パートを歌ったことがあるそうです)、歌もリコーダーも大変な腕前でした。 私とB君は直ぐに意気投合して一緒に遊ぶようになり、音楽の教科書に載っている楽譜の中から二重奏になっているものを探しては、それを二人でリコーダーで演奏することを繰り返しました。 二重奏とは二つの楽器で一緒に演奏することであり、二人でハーモニーになるもの、メロディーと伴奏に分かれているもの、二つの違うメロディーを同時に演奏するもの等がありますが、二人の音が一つの音楽になるのはとても気持ちが良く、B君のリコーダーがとても上手いこともあり、どれだけ繰り返しても決して飽きることがありません。 この二重奏は学年が上がってクラスが別々になっても続き、中学に入ると二人で「クイーン」や「レッド・ツェッペリン」のレコードやカセットテープを聴くようになり、やがて、私がギターを弾いてB君ベースを弾く、私の最初のロックバンドへと発展することになります。

ドラマの時期:
1977年
--月
--日
文字数:2369
投稿時の年齢:54
AGE

57

Autobiography

好きなことをして生きるということ

好きなことを仕事にする、誰もが望み憧れることでしょう。 もし実現できればこれ以上幸せなことはありません。 私は音楽が好きなので、若い頃は音楽家になりたいと思っていましたが、これはかなわない夢でした。 中学生の頃からブラスバンドで担当していたクラリネットで音楽の大学に進み、更には大学院の修士課程まで行きましたが、6年間でコンクールの類は一切通らず、挙げ句には定職にも就けないという挫折を味わい、お世話になった先生達を失望させてしまいました。 今でもこの頃のことを思い出すと恥ずかしく、申し訳ない気持ちになります。 それでは何故私の夢はかなわなかったのでしょうか? これにはいくつかの理由があると考えています。 一つには努力、根性が足りなかったことです。 楽器の演奏家というのは、ある意味スポーツのアスリートに似ています。 どれだけ頭の中に良い音楽のイメージを持っていたとしても、それを実際に音にするのは肉体の力です。 プロの演奏家になりたいのであれば、一日も休まずに己の身体を鍛え続ける必要があり、これがいわゆる基礎練習なのですが、私はこれが嫌いでした。 もう一つは、クラシックというジャンルの音楽に理解と愛情が足りなかったことです。 ロックやジャズと比べてクラシック音楽が決定的に違うのは、演奏家は作曲家が書いた曲を演奏するということであり、自分がこう演奏したいという望みよりも、作曲家の意図を優先しなければいけません。 また、特に時代の古いクラシック音楽には、100年以上も演奏され続ける間に積み重ねられたスタイル(様式)のようなものがあり、この作曲家のこの音符はこういう風に演奏する、というようなものが演奏家の間では暗黙の了解事になっています。 私にはこれらのことが全く理解できていませんでした。 そもそも「音楽家になりたいと思っていた」と最初に書きましたが、当時の私はその意味が十分にわかっていなかったのでしょう。 先生達は、生徒が職業としてクラシック音楽で生きていくことを前提に指導をして下さいます。 ですが私は、本当に好きな音楽はジャズやロックだけれどもそれらの音楽は学校で学べないから、楽器やジャンルはなんでも良いから音楽の学校へ行ければ、という程度に考えていました。 そんな甘い考え方では、好きなことで生きていくのは無理なんですね。

分類不能の職業
投稿時の年齢:54
茨城
投稿日時:
2022年12月21日
ドラマの時期:
1996年
文字数:1313

チャーリー・パーカーの衝撃

私にはどうしても好きでたまらないミュージシャンが2名います。 一人目は言わずと知れたロックバンドのクイーン。 そしてもう一人が、ジャズ界最大の巨人の一人でありモダンジャズのスタイルを決定づけたと言っても過言ではない大天才、アルトサックス奏者のチャーリー・パーカー(1920~1955)です。 クイーンの音楽がとても親しみやすいのとは対象的に、パーカーの音楽は録音された年代が古いこともあり、批評家や演奏家の間での評価は非常に高く後世へ影響力も強いのにもかかわらず、普通に音楽が好きな人達にあまり受け入れられているとは言えません。 ですが、私にとって彼の演奏を聴く体験は人生が変わる程の衝撃であり、決して外すことができない「ドラマ」であるため、ここに書くことにしました。 私がパーカーの音楽を最初に聴いたのは、まだ中学生の頃だったと思います。 父が所持していた「チャーリー・パーカー・オン・ダイアル・コンプリート」(以下「オン・ダイアル」と略)という6枚のLPレコードで、パーカーの全盛期である1940年代の演奏を記録した大名盤なのですが、はっきり言ってその時の印象は最悪でした。 まず音質がボロボロで何をやっているのか全然わからない上に、1曲2~3分の短い演奏ばかり、さらに同じ曲の別テイクが延々と繰り返されて、全部聴くのは地獄のようでした。 その後、大学でジャズのビッグバンドに入ると、先輩達にすすめられて改めてパーカーのレコードやCDを聴くようになりました。 当時よく聴いていた「ウイズ・ストリングス」「ナウズ・ザ・タイム」といったアルバムは、先述の「オン・ダイアル」と比較すると録音された年代が新しくて、音質が良く聴きやすいのが特徴です。 特に「ウイズ・ストリングス」はサックスの音色と弦楽器の響きが美しくお気に入りでしたが、その年代はパーカーの絶頂期がすでに過ぎていたとも言われています。 さらに時が過ぎ、私は大学を中退して音大に入りなおし、厳しいレッスンを受けながら毎日嫌というほど色々な楽器(特に管楽器)の音を聴き続けることになるのですが、そういう生活を続けていると超一流の演奏家と普通の学生の音の違いがわかるようになってきますし、壁の向こう側で鳴っている音でも誰が出しているのかなんとなくわかるようになってきます。 そして、あるとき気まぐれで、CD化された「オン・ダイアル」を買って改めて聴いてみたのですが、そこで初めて、絶頂期のパーカーがあり得ないようなもの凄い音で演奏していたことに気づいたのでした。 人間離れした音の圧力でありながらなんともいえない艶やかな響きがあり、もしこれが生演奏であれば、最初の一音だけでその場の空気が変わることは間違いありません。 また、即興演奏というのはジャズの重要な要素の一つですが、延々と繰り返される別テイクでも彼は決して同じことはしていないと、その時はっきりわかりました。 楽曲の中に隠れている和音やビートを自在に引き出し、その中で自由に飛翔する力は神業です。 小節を埋めるために惰性で出したような音は一切存在せず、全ての音が意味を持っています。 全てのテイクが小さな作曲であり、それぞれが完成された作品になっていると言えるでしょう。 そして、繰り返しパーカーのCDを聴き続けていると、何故人間にこんな凄いことができるのかと考えるようになりました。 私が知っている限りでは、超一流のクラシック音楽の管楽器奏者でも、これ程の凄い音とテクニックの持ち主はただの一人も存在しません。 想像もつかないような量の練習の成果でもあるでしょうが、ここまでの凄さになるとそれだけの問題ではないように思えます。

分類不能の職業
投稿時の年齢:54
茨城
投稿日時:
2022年12月30日
ドラマの時期:
1996年
--月
--日
文字数:2021

アメリカの高校のブラスバンドを体験して感じたこと

1985年の9月から一年間、私たち家族は父の仕事の都合でアメリカのイリノイ州の某田舎町で生活することになりました。 当時高校生だった私は日本の高校を一年休学して現地の高校に通ったのですが、そこで受けていた授業の一つに「バンドクラス」というものがありました。 内容は日本の吹奏楽とほぼ同じなのですが、課外活動ではなく選択式の授業の一つです。 オーディションのようなものは無く、自分の楽器を持っていれば誰でも入ることができます。 ただし、その高校の音楽活動には、他にジャズバンド(ジャズのビッグバンド)とオーケストラ(クラシック音楽の管弦楽団)があり、これらはオーディションに合格しないと入れません。 ちなみに、音楽なら殆どなんでも好きな私ですが、日本の部活動の吹奏楽だけはあまり好きではありません。 体育会的な独特のノリが苦手なのに加えて、一部強豪校が行う無茶な練習に強い抵抗感を覚えるからです。 今回はここら辺のことも含めて、アメリカのバンドクラスを一年間体験して感じたことと、そこで出会った一人の友人のことについて書きたいと思います。 授業は基本的に合奏のみで、先生が指揮をして演奏についてあれこれ指示を出すという形ですすめられます。 何を演奏するのかというと、スポーツの季節(アメフト、バスケ)はその応援がメイン、そしてこれらが無い時期は、吹奏楽のオリジナル曲などを練習します。 演奏のレベルは、技術的な面では日本の平均的な高校と比較して遙かに低かったと思います。 コンクールで他校の演奏もある程度聴きましたが、恐らくアメリカの高校生全体がそんなものなのだと感じました。 最初の授業の時に、同じクラリネットの仲間達が皆ペラペラな音色な上に、指使いも十分にわからないまま吹いているのを見て本当に驚きました。 (後述するクラリネットの名手は、この日バリトンサックスを吹いていました) ですが、技術的に低レベルだからといって、全てにおいて日本の吹奏楽よりダメなのかというと全くそんなことはありません。 先ず、ニューヨーク・ニューヨーク(映画の主題歌)やバードランド(ウェザー・リポートというフュージョンバンドの曲)のようなジャズ風の曲を演奏すると、日本の音大生より遙かに見事な演奏をします。 もちろん技術的には下手なのですが、音楽を演奏する上で技術以上に大切な、その楽曲で求められる固有の音色や音程、音の強弱、音が出るタイミングと切るタイミング、正しいテンポ等々を、彼らは生まれたときからジャズという音楽に慣れ親しんでいて体で覚えているので、ジャズとして聴けば素晴らしい演奏が可能なのです。 そして何よりも、彼らはどんなに下手でも堂々と演奏します。 合奏で上手く出来ない箇所があれば先生は当然怒りますが(30代位の女の先生で怒るとそれなりに迫力がありました)、日本の吹奏楽では当たり前の居残り練習なんて誰もしないしさせない、終業ベルが鳴れば先生も生徒も速攻で帰り支度を始め、次の日になれば皆ケロッと忘れて練習を始めます。 それで同じ箇所が上手く出来なければ再度先生は怒り、次の日は再度皆忘れるのループなのですが、ある日スルッと上手くいくことがあれば、皆で「イェー」と喜んで、それで終わりです 一方で日本の高校の吹奏楽のレベルの高さというのは、非常に無理な内容の練習に支えられています。 私が日本で通っていた高校の近くにはコンクール全国大会の常連校があり、何回か練習を見学に行ったことがあるのですが、放課後の練習は夜の9時までやっておりその他に朝練もあります。 音大を卒業したばかりの若い先生が非常に厳しい指導をしていて、上手くいかない箇所があると誰が悪いのかというところまで徹底追求して、メンバー全員が見ている前でその生徒のプライドが傷つくような暴言の繰り返し。 仲間たちもそんな様子を庇いもせず、上手く吹けない仲間をゲラゲラと嘲笑したりとか、見ているだけで辛く悲しくなりました。 私の音大時代のクラリネットの師匠は、こういう学校に頼まれて指導に行かれることが多く、高校生が厳しすぎる練習をさせられていることについて、生徒の将来を考えれば悪影響しかないと常に仰っていました。 しかしながら、日本の部活動はコンクール至上主義なため、どうしてもこういうことが起こります。 私の高校は弱小校で先生も良い意味でやる気が無かったので、比較的のびのびと練習をしていましたが、それでもアメリカの高校に比べればかなり厳しかったと思います。 再びアメリカの高校の話に戻って、コンクールについて少し書きます。 日本の吹奏楽コンクールは全体合奏のみですが、アメリカの私の高校があった地域では、合奏に加えてメンバー全員がソロ曲(ピアノの伴奏が付くもの等)を一曲演奏させられ、それぞれにS~Dの評価が付き、その総合点みたいなもの(メンバーの人数は学校毎に違うので、どうやって計算していたのかは不明ですが)を競っていたと思います。 このコンクールで私たちバンドクラスの合奏は確かAかBの評価をもらったと思いますが、私のクラリネットのソロ演奏はS評価をもらいました。 クラス全員の中でS評価をもらったのは3~4人程度だったのですが、日本で音大受験を考えるような人であれば、まずS評価がもらえると思います。 しかし、そんな私でも、このバンドクラスで、決してクラリネットパートのトップを取ることが出来なかったのです。 それは、このコンクールのクラリネットソロ演奏でもう一人S評価をもらった、デイブ(仮名)という少年がいたからです。 デイブは完全に別格でした。 バンドクラス以外でも、ジャズバンドではサックスパートのトップ、オーケストラでもクラリネットのトップを任されていました。(何故かスポーツの試合応援時のみバリトンサックスを担当していましたが) そして彼は、バンドクラスの中でただ一人の黒人でした。(アフリカ系アメリカ人という表現の方が正しいですが、便宜上「黒人」と表記します、ジャズバンドにはもう一人黒人の生徒がいましたが、オーケストラにはデイブ一人でした) デイブに会うまでは、私は黒人というとなんとなくワイルドで、音楽もノリノリで激しい演奏をするような先入観を持っていましたが、彼はモーツァルトとクラシック音楽を愛するとてももの静かな少年で、クラリネットの音色は誰よりも優しく柔らかく、音の繋がりも滑らかで、まるで美しい玉をコロコロと転がすように、自由自在にメロディーを紡ぐことができました。 彼の演奏技術は日本であれば最難関の音大にも楽々合格できるレベルであり、更に、技術とは別の音色のような部分では、日本のトッププロと比較しても彼の方が上であろうと思えた程です。 また、彼は大変知的な上に誰にでも優しい人物で、皆から好かれていました。 私が出会ったアメリカの高校生達は、もごもごとこもった感じの発音で早口で喋る人が多く(そういうのがかっこいいと思われていたようです)英語の発音を聞き取るのが大変だったのですが、彼は外国人にとっての外国語の難しさをよく理解していて、私と話しをする時はとりわけはっきりした発音でゆっくりと喋ってくれました。 ある日、彼と二人きりになった時に、私がなんとなく「なかなか英語が上手くならなくて」という話をすると、彼は「これは聞いた話なんだけど」と断って「君は話す前に日本語で考えてそれを英語に訳してる?それとも最初から英語で考えてる?」と質問してきました。 そして「日本語で考えずに英語で考えてそのまま話すようにすると上手になるらしいよ、聞いた話なんだけどね。」と言って照れくさそうに笑ったのです。 これは、実は彼の楽器演奏の上手さの秘密にも通じている、大変奥が深い本質を突いたアドバイスであったと思います。 そして、1986年の5月、一年間の音楽活動の締めくくりとして(アメリカでは9月が新学期で6月から夏休みです)、バンドクラス、ジャズバンド、オーケストラが合同で、ジャズ発祥の地であるニューオーリンズへ6泊7日の演奏旅行に行くことになりました。 一週間ライブ演奏を行いながら、地元のジャズ演奏を聴いたりプロのクリニックを受けたりという夢のようなイベントです。 しかし、その演奏旅行へ行く一週間位前の授業で事件は起こりました。 授業の冒頭で、先生はとても深刻な顔をして「このクラスで学業の成績が悪すぎてニューオーリンズへ行けなくなった者がいる」と話し始めました。 そして、低いドスの効いた声で「Dave」と一言名指しすると、見たことがないような恐ろしい顔でデイブのことを睨みつけたのです。 日本の平均的な高校生と比べても遙かに早熟で頭の良いデイブが、簡単なアメリカの高校の授業で落第点をとるなんて私には信じられませんでしたが、デイブは暗い顔をしてうなだれたまま一言も発しません。 「Don't worry Dave, we love you!(心配しないでデイブ、皆あなたのことが好きよ!)」とサックス担当の女の子が声を掛けると、クラス中が「イェー」と盛り上がりましたが、それでも先生はずっと怖い顔をしたままで、デイブはうなだれたままでした。 しかしその後、演奏旅行へ行く日がやってくると、デイブは当たり前のように皆の前に現れたのです。 先生もクラスメイト達もそのことには一切触れないまま、彼は皆と一緒にニューオーリンズへ行き、ライブでは見事な演奏を聴かせてくれました。 ただ、夜は先生も生徒も同じホテルに泊まっていた(4人部屋で部屋割りは先生が決めました)筈なのですが、彼は寝る時間になると、もう一人の黒人であったジャズバンドの男子と二人でそそくさと何処かへ行ってしまうようでした。 夢のような一週間が終わり、私の家族はいよいよ日本へ帰ることになり、お世話になった人達(父の仕事関係)に感謝を込めて、家族で食事を振る舞おうということになりました。 その時、我々家族と一番親しくしてくれた方が言ったことは、今でも決して忘れることができません。 「○○さんを呼んだら白人は一人も来ませんよ、何故なら彼が黒人だから。」 このアドバイスをしてくれた方は、帰国後もずっとお付き合いしてくれた本当に良い方で、あくまでも我々のことを心配してこんなことを言ってくれたのです。 この時、ニューオーリンズ演奏旅行で起こった一連の出来事が理解できたような気がしました。 これはあくまでも私の想像であり証拠は何も無いのですが、恐らく黒人の生徒と一緒に一週間も旅行することについて、クレームを付けた白人の親がいたのだと思います。 あるいは、誰も何も言わなかったとしても、当時のこの地方の社会常識として許されないことだったのかもしれません。 そこで、あくまでも建前で勉強の成績が悪いから行けないということにしたものの、先生は最初から連れて行くつもりで、クラスメイト達も皆それをわかっていたから、その後一切誰もそのことに触れなかったのだと思います。 それでも、他の生徒達と同じホテルの部屋に泊めることだけは出来なかったのでしょう。

分類不能の職業
投稿時の年齢:54
茨城
投稿日時:
2023年05月09日
ドラマの時期:
1986年
--日
文字数:4990

アメリカでの高校生活初日の出来事

1985年高校2年の夏、父の仕事の都合により一年間限定で、家族(両親と弟の4人、専門学校生だった兄のみ途中から参加)でアメリカに行くことになり、私と一つ下の弟は日本の高校を一年間休学してアメリカの高校に通うことになりました。 父の仕事の都合と書きましたがこの事情がやや特殊で、父は当時教育者だったのですが、一年間お給料をもらいながら海外で勉強できるというような制度があり、これを利用して渡米するのに家族も自費でついて行った形です。 行った先はイリノイ州にある某田舎町で、ここの大学には教育の世界では神様みたいな人に関わる研究の資料が大量に残っているそうなのですが、一般的な日本人には全く知られていない場所です。 そんなわけで私と弟が通ったのは、日本の企業など全く進出していない土地の、交換留学生など受け入れていない高校でしたので、それ故に「素」のアメリカの高校を体験することができたのではないかと思っています。 家族4人がある程度アメリカの生活にも慣れ始めた9月のある日、私と両親と弟、更に案内役のアメリカ人女性の5人でこれから通うことになる地元の高校を訪れました。(アメリカは日本とは違い9月が新学期です) 高校に着くとすぐに、好奇心の強い母は一人で校舎の中の探索を始めてしまいました。 仕方なく残りの4人で校長室のようなところで待っていると、アジア人のような男子2人がその部屋に入ってきて「Where is your mom?(君たちのお母さんは何処?)」と話しかけてきたのですが、これが私と弟の一年間を決定づけてしまうことになります。 私は「なんでこんなことを訊くんだろう」と不思議に思いながら、母が何処へ行ってしまったのかはわからないので「I don't know.(知らない)」と答えました。 しかし、2人は首をかしげながらしつこく同じ質問を繰り返してきます。 私と弟は困ってしまって、うろたえながらも「何処にいるのか知らない」ということを必死に伝えようとましたが、彼らには全く通じてないようでした。 程なくして、威張った感じ(私が苦手なタイプ)の初老の男性が教室に入ってきて、この人が校長先生だったのですが、最初の2人組が「彼らは自分の母親が何処にいるかもわからないんだ」ということを校長先生に訴え始めました。 すると、校長先生はその2人の言葉を受けて「この2人の少年(私と弟のこと)はdull(愚か、鈍い)だから時間割は全部俺が決める、一番成績の悪いクラスに入れる」ということを言い出したのです。 これに対して案内をしてくれたアメリカ人女性が激怒して、「日本人は皆喋らない、それは愚かなのではなくシャイだからなんだ」と反論をしましたが、校長先生は全く聞く耳を持ってくれません。 結局「母親が何処にいるのか」という質問に対してまごまごしてしまった、たったそれだけのことで、私と弟は愚かという烙印を押され、最低ランクのクラスに勝手に振り分けられてしまったのです。 今ならはっきりわかることなのですが、ここで「dull」と判定されてしまったのは単に簡単な質問に答えられなかったというよりは、そのタイミングで積極的に自己主張しなかったのが一番の理由なんですね。 だから、案内役の女性も「喋らないのはシャイだからだ」と反論していたわけです。 日本では、初対面の相手にいきなり自分のことをべらべら喋りだしたら図々しいヤツだと思われてしまいますが、反対にアメリカではそれができないとダメなんだと思います。 そしてその翌日から私と弟はその高校に通い始めました。 割り当てられた授業はつぎのようなものでした。 一限目:英語、英語が喋れない外国人向けのクラスで、その中でも最低ランクだったので「This is an apple.」みたいな文章からのやり直しです。 二限目:数学、この科目だけは担当の先生が日本人は数学が得意だということを知っていて、上から2番目のクラスに強引に入れてくれましたが、それでも日本のレベルでは高校受験よりやや難しい程度に感じた記憶があり、とにかく平均以下程度の日本の高校生にとっても簡単すぎる内容でした。 三限目:P.E.、体育(physical education)のことで、この科目は成績関係なし。 四限目:セラミック、陶芸のことで、粘土で好きなものを作って釜で焼くだけの授業。殆ど遊びのような時間でしたが、先生は博士号を持っている立派な方でとても親切でした。 五限目:バンドクラス、日本のブラスバンドとやることはほぼ同じですが、部活動ではなく授業の一つです。私は日本の高校ではブラスバンドに入っていて自分のクラリネットも持っていたのでこのクラスに割り当てられました。(この時間、弟は一時間教室で好きな本を読むだけでした) そんなこんなでアメリカの高校生活初日の授業が全て終わり、楽器を片付けて家に帰る支度をしていると、一人の男子生徒が私のところへやってきました。 彼はクイーンのロジャー・テイラーを彷彿とさせるブロンドヘアーの二枚目で、今日バンドクラスに日本からの転校生が来ることを知っていたようです。 そして、自分のことを「マイク」と自己紹介し、私に名前と出身地をたずねると、色々なことを話し始めました。 マイクは学校のジャズバンド(オーディションに合格した人しか入れません)ドラムを叩いており、音楽が大好きで日本の音楽にも興味があるということ、東京はニューヨーク、ロンドンと並んでアメリカの高校生が一番憧れる都市の一つなのだということ、それから好きなバンドがレベル42(イギリスのフュージョンバンド)であることや、好きな食べ物、家族の話等々。 彼は私がよく聞き取れないところがあると、嫌な顔をせずに何回も繰り返して話してくれましたし、私の拙い英語にも熱心に耳を傾けてくれました。 「Where is your mom?」という無意味な質問を一方的に繰り返した、前日に会った2人組とのあまりの違いに驚きましたが、やはりアメリカ人にも色々なタイプの人がいるということなのでしょう。 その後も彼は、私がギターも弾けるとわかるとバンドに誘ってくれたり、何回も家まで遊びに来てくれたりと、日本に帰るまでの一年間、彼のおかげでアメリカでの高校生活が充実したものになったと言っても過言ではありません。

分類不能の職業
投稿時の年齢:54
茨城
投稿日時:
2023年04月01日
ドラマの時期:
1985年
--日
文字数:3840

クイーン来日公演

私は音楽が大好きです、その中でも特に好きなのがロックバンドのクイーンです。中学生になってからはほぼ毎日彼らの音楽をカセットテープで聴いて、ギターでコピーしてきました。そして高校1年が終わる頃の冬に、そのクイーンが日本にやって来るというニュースが飛び込んで来ました。 クイーンの来日公演は1982年にもあったのですが、この時は諸事情あり行くことができませんでした。しかし、今度は違います。私は大喜びで親しい友人達に声をかけまくりましたが、残念なことに誰も行くとは言ってくれません。 これには理由があり、この来日公演の少し前に発表されたThe Worksというアルバムが友人達の間では不評であったのに加え、ボーカルのフレディマー・キュリーはスタジオ録音では滅茶苦茶上手いがライブでは高音域に無理がある、と当時から言われていたのです。 私は仕方なく一人で行くことを考えていましたが、中学時代私とは違うバンドでベースを弾いていた違う高校に通うM君が、一緒に行きたいと伝えてきました。M君は運動神経が良くバレーボール部なんかに入っているのにバンドもやっているという、運動音痴でネクラな私からすると苦手なタイプであり、仲も良くないと勝手に思っていたので、私はあろうことかその誘いを一回断ってしまいました。しかし、これは両親に滅茶苦茶怒られて、渋々謝って一緒に行くことにしました。 そして1985年5月8日、高校2年の春に念願のライブの日がやってきました。来なかった薄情な友人達の予想を見事に裏切り(?)、その演奏はとても素晴らしいものでした。これにも当然理由があります。 この時期のクイーンはアイデアの面ではある種の行き詰まり状態にあったと思いますが(個人の主観です)、演奏の面では完全に円熟期に入っていたのです。少なくとも私はそう思っています。特にドラムのロジャー・テイラーの成長が著しく、初期の演奏と比較してドラムがタイトになった分バンド全体のサウンドが引き締まっていました。フレディのボーカルは確かに高音域を一部下げて歌っていましたが、実際に生で聴くとそれ以上に豊かで艶やかで、完璧なバンド演奏の上で美しく響いていたことを今でもはっきりと思い出せます。映画ボヘミアンラプソディの中でハイライトになっている伝説のライブエイドの演奏が1985年の7月13日ですので、この時の来日公演でもいかにクオリティーの高い演奏をしていたかが想像ができると思います。 また、クイーンの演奏に感激するのと同時に、M君のことを勝手にこんな人だと決めつけて避けていた自分を大いに恥じました。一緒に茨城の田舎から東京まで行ってみると彼はとても細かいことに気がつく優しい人で、高校生が深夜に一人で東京から帰ってくるのは危ないから無理にでも誘ってくれたことがよくわかりましたし、何よりも素晴らしい音楽が目の前で繰り広げられていることをしっかり感じ取っている姿を見ると、この人は自分と何も変わらない、同じ人間なのだということがはっきりわかったのです。帰りの電車では、二人で中学時代の話など楽しく盛り上がりました。

分類不能の職業
投稿時の年齢:54
茨城
投稿日時:
2022年12月14日
ドラマの時期:
1985年
文字数:1612

秋田県まで自転車旅行

私は極端な運動音痴でスポーツ全般が大の苦手です。 そんな私が今までの人生の中で一回だけ、滅茶苦茶頑張った運動のイベントがあります。 これが今回のドラマである、秋田県までの自転車旅行です。 私の家族は私が小学校に入った時から茨城に住んでいましたが、父と母の実家はともに秋田県の湯沢市というところにあり、毎年夏休みのお盆の時期にここに帰省するのが、家族にとって一年を通しての最大のイベントでした。 特に父の実家があった市内の某所は、一日にバスが3本しか通らずタクシーを呼んでも30分以上待たされるようなとんでもないド田舎でしたが、それ故とても自然が美しいところで、毎年ここで過ごす数週間は夢のようでした。 また、当時は東北新幹線なんていう洒落たものは存在せず、行きも帰りも丸一日かけての各駅停車の旅。 この旅がとても楽しく、とりわけ道中コトコトと進む列車の窓から眺める奥羽山脈の絶景は例えようのないものがありました。(仙山線と奥羽本線の2ルートがありました) そして、私が小学校四年生の初夏、今年は秋田の実家まで自転車で行こうということになったのです。 そもそも何故両親がこんなイベントを計画したのかというと、当時高校受験を控えていた兄が半分ノイローゼのようになっていたので、運動をさせて元気にしたいという思いがあったようです。 ですが私がこれを知ったのはずっと後のことであり、当時はもう、とにかく、素晴らしい東北地方の風景を自転車旅行で体験できるなんて、と考えるだけでワクワクが止まりませんでした。 道中へこたれぬように体力を付けようと、毎日苦手な早起きをしてラジオ体操をしたり、ちょっとだけ腕立て伏せや腹筋運動をやってみたり、と・・・ まあ、もともと運動嫌いな人間ができるのなんてこの程度のことだったりするのですが、それでも一生の中であんなに運動をやる気になったのはこの時だけだったと思います。 父は1週間で走破する予定を立て、母は無理なので電車で応援、まだ小学生だった私と弟は宮城県の古川市(※1)から参加することになりました。 そしていよいよ出発の時、自転車に乗る父と兄を送り出した3日後、私は母と弟と3人で電車に乗り古川市で父達と合流してその日は旅館に宿泊、次の日から母を除く4人で自転車旅行のスタート。 しかし、私は自分の考えが甘かったことを思い知らされます。 出発地点の辺りは平地なので比較的余裕がありました。 ですが、山間部に入ると、とにかく延々と続く上り坂が苦しくて苦しくて、雄大な風景を眺める余裕なんて微塵もありません。 しかも途中一番苦しいと思われていた辺りで大雨が降り、それでも宿泊先は全て予約済みであったため、雨具を着て休まず走行を続けました。 これが本当に辛くて一体いつまでこの苦行が続くのか、早く終わりにしたいという気持ちしかありませんでした。 しかし、山は登り終えればあとは下りになるので圧倒的に楽になります。 そして最終日いよいよゴールが間近になった時、周囲の風景が少しずつ見覚えのあるものになって行った時はもの凄い高揚感を覚えました。 ついに父の実家が見えた時はそれまでの疲れなんて全て吹っ飛び、母と祖母が笑顔で手を振っている家に4人で飛び込んで、そのまま祖母が沸かしてくれていた田舎の五右衛門風呂(※2)に兄弟3人で入りました。 普段は特に仲良しということでもなく男だけの兄弟故かケンカも多かった3人ですが、この時は本当に皆で笑いながら、「大変だった」「良くやった」とお互いを労い合ったのを今でも忘れられません。

分類不能の職業
投稿時の年齢:54
茨城
投稿日時:
2023年01月23日
ドラマの時期:
1978年
--日
文字数:1861

好きなこととの出会い

私は大変な運動音痴で、小さい頃からスポーツ全般が大の苦手でした。 小学校の体育の授業で長距離走をすれば、他の生徒達とは周回遅れの差を付けられ、皆がゴールした後もしばらく一人で走り続けることになります。 これは当時の私にはとても屈辱的なことでした。 また、その頃は巨人軍の王選手がホームランの世界記録を更新したりしていた時期で(1977年9月に達成)、小学生の間では野球が大人気であり、友達との遊びも決まって野球でした。 しかし、運動音痴の私は飛んでくるボールが怖く、外野フライをほぼ全てヒットにしてしまうので、その度に仲間から○○のせいで試合に負けたなどと責められることになります。 そんな状況の中で、いつしかこの運動神経の低さがそのまま自分の価値の低さのような感覚に陥ってしまい、毎日がとても憂鬱でいつも下ばかり向いていました。 そんな小学校生活を送っていた私ですが、忘れもしない小学校三年生の時、始めて自分が本当に好きだと思うことに出会うことになります。 きっかけは、Gという若い男の先生が私のクラスの音楽の授業の担当になったことです。 この先生はとても優しくて、他の男の先生達のように威張っていませんでした。 また、授業に直接関係ないのにわざわざにトランペットを持ってきて吹いてくれるような先生で、本当に音楽が好きな感じが伝わってきて、優しさも相まって生徒達から慕われていました。 そんなある日、G先生の何回目かの音楽の授業で、リコーダーの「タンギング」の練習をすることになったのです。 「タンギング」とは、音楽用語で舌を使って音を切る(或いは発音する)ことで、リコーダーに限らず殆ど全ての管楽器で使われる非常に重要なテクニックです。 先生は「真っ直ぐの糸をイメージして、それにハサミでプツンと切れ目を入れていくように」と教えて下さって、生徒一人ずつ順番にタンギングをさせ個別にアドバイスを始めました。 この時、私はクラスメイト達の音を聴きながら「おや?」と思いました。 皆のタンギングは力が入り過ぎて音が濁っていたり、反対にちゃんと舌が使えておらず音が不明瞭だったりでどれも今一な感じに聞こえます。 「体を使うことはなんでも下手な私だけど、もしかするとこれだけは自分の方がずっと上手に出来ているのではないか」という予感がしました。 そして私の番が回ってくると、私は先生から教わった通り、真っ直ぐ伸びた自分の息に舌で切れ目を入れるように「トゥートゥートゥー」と吹いてみました。 何故かクラス中がシーンとしています。 そして、静まりかえった教室の中で先生はゆっくりと口を開き「○○(私の名前)、とーっても良い音だよ」と私のことを褒めて下さったのです。 先生は決してお世辞を言ったのではなく、私の音にしっかりと耳を傾けた上で評価してくれました。 このことが本当に嬉しくて、また、野球では私のことを責めるクラスの男子達まできょとんとして私の音に聴き入っているのが不思議な感じがして、人前で何かを表現することの気持ち良さにこの時始めて気がつきます。 これは人生の中で極めて貴重な瞬間でした。 また、同じ頃東京の小学校から転校生がやってきたのですが、これがもう一つの転機になりました。 この転校生は名前をBといいましたが、大変な変わり者で周囲の評価など全く気にしない完全にマイペースな性格。 男子なのに読書や音楽が好きで、休み時間にはグラウンドに走る他のクラスメイト達には目もくれず、一人で本を読んだりリコーダーを吹いたりしています。 特に音楽に関しては、東京では児童合唱団に入っていてレコーディングの経験まであったそうで(アーティストのレコード録音で合唱パートを歌ったことがあるそうです)、歌もリコーダーも大変な腕前でした。 私とB君は直ぐに意気投合して一緒に遊ぶようになり、音楽の教科書に載っている楽譜の中から二重奏になっているものを探しては、それを二人でリコーダーで演奏することを繰り返しました。 二重奏とは二つの楽器で一緒に演奏することであり、二人でハーモニーになるもの、メロディーと伴奏に分かれているもの、二つの違うメロディーを同時に演奏するもの等がありますが、二人の音が一つの音楽になるのはとても気持ちが良く、B君のリコーダーがとても上手いこともあり、どれだけ繰り返しても決して飽きることがありません。 この二重奏は学年が上がってクラスが別々になっても続き、中学に入ると二人で「クイーン」や「レッド・ツェッペリン」のレコードやカセットテープを聴くようになり、やがて、私がギターを弾いてB君ベースを弾く、私の最初のロックバンドへと発展することになります。

分類不能の職業
投稿時の年齢:54
茨城
投稿日時:
2023年02月25日
ドラマの時期:
1977年
--月
--日
文字数:2369