まだ喋らない、私の息子

現在4歳になった息子は、まだ言葉らしい言葉を話さない。
いわゆる発達障害である。
先日、療育手帳の発行を主治医に勧められた、といえばその程度がつたわるだろうか。
成長に偏りがあり、息子の場合は言葉を話す様子がなかなかみられなかったため療育園に通い始め今も月一の診察が欠かせない。

成長というものは人それぞれであるが
ある程度の目安があり月齢に伴った成長があまりに遅れているとなれば別の問題が出てくる。
人によってはその現実から目を背けたくもなるだろう、私もきっとそのひとりだったのだ。
なかなか話さない息子に不安はあっても
きっと、すぐに喋ってくれる、ママと呼んでくれるはず。

そう思い込むようにしながら生活していた。
普通にこだわるわけではなくても不安に勝てるほどまだ私は肝がすわってなかったのかもしれない。

しかし
言葉が伝わらないというのは想像していた何倍も苦難が多く、育児のストレスで私は両耳の難聴によく見舞われ始めた。

そうこうしてるうちに息子も2歳になる年になり、もう手を打たなければマズいと思い、2歳になる手前で小児科にいくと診察室に入るや否やすぐ「療育園への紹介状を出します」と医者が手配しはじめた。
あぁ、この子が話す日は遠いのか…と目の前が真っ暗になる想いだった。

我が子が心に抱えたものを言いたいのに言えないという現実に置かれていることが悲しくて悔しかった。
わかってあげられないことが、たまらなく辛かった。
伝わらないことが、本当に苦しかった。

療育園へ行くことになりすぐに療育は始まったが
通ってすぐに効果があるわけでもなく日々労力が募っていくだけにも思えた。

「いつ話せるようになるだろう」ということを心配して最初の三ヶ月間、毎回待ち時間に癇癪を起こす息子を宥めながら重い心で過ごしていた気がする。
難聴が癖になってしまった自身の体のことも夜が来るたびに責めた。親なのに、子供の声に耐えられずストレス難聴になったのかと今にして思えばそこまで自分を責める必要なんてないのに、当時離婚していたこともあってひとり親として自分が情けなかったのである。

早く息子の言葉を聞きたい。
どんなに反抗的でも構わない。この子の選ぶ言葉を聞きたい。
好きな色はなんだろう?
好きなお菓子はなんだろう?

どうか明日、一言でいいから言葉を交わしたい。
その願いはまだ、かなったことは無い。
まだ、息子の言葉は、聞けてはいない。

しかし当初のような不安や願いは、息子の成長を見守る中で薄れていった。
療育園でも効果がなかなかみられない中、ある出来事が私の真っ暗だった世界に光を灯した。

それは、息子がまだ3歳になる前。療育園に通い出して三ヶ月もかからない頃の話。
私が第二子を出産するにあたり1週間家をあけた時のことだった。
まだ幼い息子に、事情も伝えられないまま家を空けることが心配だった私は出産中も息子のことが頭から離れないでいた。

いまごろ、突然いなくなったママを探してはいないだろうか。
不安に思っているのではないか。なんて気持ちで私は胸が張り裂けそうになっていた。

それもそのはず。

先ほど述べたように、私は離婚している。それも第二子出産前に。
息子からしたらある日突然人が居なくなり二度とかえってこないという体感をしてすぐに母がいなくなったのだ。
帰ってこないのではないかと不安になるには充分すぎる条件が揃っていた。ただでさえ母親の姿が見えなければ泣く年齢の息子には重すぎる現実だ。

事情を言葉で伝えられない今、息子がこころのどこかで私も同じように二度と会えない人になっているのではないか不安だった。

きっと私が息子の立場なら、不安でたまらないはずだとも思った。

早く、息子に会いたい。そして、ちゃんと帰ってきたよと安心させてあげたい。

考えれば考えるほど、息子の言葉の遅れがもたらす現実は息子を寂しくさせているような気がしてより一層、悔しい気持ちで涙がこぼれてしまっていた。

しかし、その頃息子は全く泣かなかったとあとから実家の母に聞いた。
1日だけではなく、私が退院するまでの7日間、ずっと泣かないでいたという。
ママが居なくても平気なわけではない。
普段ならば息子は真夜中に起きればすぐに大泣きをするのに
私の入院期間は真夜中に目が覚めてもそっと起きてリビングで翌日のご飯の仕込みをしてる私の母の元へちょっと遠慮気味にちょこちょこと歩いてきて、一緒に寝てくれるかやや不安そうに甘えてきたとのことだった。

息子は、なんの事情もわからないはずだ。
いや、言葉で伝わっていないのだ。

それなのに、息子は私がいない1週間、泣くのを我慢していた様子だったと母が教えてくれた。

全てを聞いた時、息子の心根を知った気がした。
優しいだけじゃない。
人を信じる強さを持った子だと確信した。

息子は、私を信じたのだ。
この幼さで
家族が必ず帰ってくると信じて、泣くことを我慢したのだ。そこにいない母の存在のために。

第二子を連れて帰ってきた日
息子は私を見るなり、びっくりするでも泣き崩れるでもなく
朗らかなえがおで、私の所へゆっくりと歩いてきた。
そして、目で、「おかえり」と言ってくれた。

そっと近寄る息子の胸には不安は絶対あっただろうに、
それを自分だけの胸にしまい込み私の腕にだかれていた自分の妹を見て少しだけ照れたような顔をしながらニコニコしている。
口で言えない「こんにちは」を伝えようとしている。

この子は、自分が話せないことを知っていながら、伝えることを諦めたことは無い。
わがままだってちゃんと言える。
伝わらないことで伝えることを諦めたことが一度もないことにもこの時気がついた。
目は口ほどに物を言う、とはよく言ったもので
妹にちょっと照れながら目を合わせる息子は、確かに妹にまで語りかけていた。

帰ってきた日の夜、寝ようとするとそっと私の隣に来て眠ったことを一生忘れないだろう。
普段は騒ぐだけ騒いでコテンと寝るこの子が、甘えて眠ったことを、絶対、忘れない。
一晩中その日だけは夜泣きをせずに私の裾を掴んで眠った。

成長の遅れは、当人と、家族に大きな問題である。
療育園にはいまもかよっているが
やはりまだ、言葉は発してくれない。
まだ、ママと呼ばれたことはない。
息子の好きな色も、私は知らない。

それでも通い始めた頃のように焦ってはいない。
これでいいのである。
急ぐ必要なんてない。
一番必要なものはもう持っている息子に、これ以上を望むのは欲張りかもしれない。

言葉をべらべら話せるよりも必要で大事なことを息子は一人の人間として既に知っている、持っている。

人間、本当に大切な力はきっといくつかあって、そのうちの一つは誰かを信じる力ではないだろうか。

想いを伝えることを諦めないでいられることは、人を信じずには成り立たないことであり、諦めることほど簡単な道もない。

信じること、伝えることを諦めないこと。そのまま生きる強さ。
この強さを、何年生きたって得られない人はたくさんいるだろう。
悲しいがそれが現実だ。
言葉でこうしなさいと教えられるものでもないし、言って教えてもらって理解できるものかといえどそうではない。
富より名誉より、人を信じる力は、伝え続ける力は価値のある財産である。

息子のことは、なにも、心配せずに、出来ることはしながら、この子の人生を見守ろうと今日も子育てをしている。


そんな息子の名前は、楓、あだなは、かっくん。
楓の葉っぱは、手の形をしている温かい色の葉っぱ。
秋になれば、ぐんと小さな手を風に伸ばすように姿を見せる秋の葉っぱ。
その名前を息子につけた。
誰にでも手を差し伸べる子になりますように。
寒くなる外で、暖かい色を木々に、道端にたくさん広げるかえでの葉のように
君がいる世界が自分だけでなく自分の周りの世界を暖かい色で大切に彩ってくれますように。
そう願ってつけた名前をもつ息子は、名前に込めた願いに負けない人間性がある。
どうか、そのまま、生きてくれますように。
お金持ちにならなくてもいいのです。
偉い人にならなくていいのです。
人を何度でも信じて手をさしのべられる、そんな人になりなさい。
人を想えるあなたであり続けなさい。
何度裏切られても、裏切る人にはなってはいけませんよ。
伝えることを諦めては、いけませんよ。必ず誰かが聞いているでしょう、あなたが人を信じようとする限り。
どうか、あなたが自分の強さを、その生涯が終わる日まで
疑わないでくれますように。
母として我が子に願う。

分類不能の職業
投稿時の年齢:25
新潟
投稿日時:2025年10月30日
ドラマの時期:
2023年
--月
--日
文字数:3705

筆者紹介

何者かになりたい20代です。
二人の子供を育てています。

信じる心だけは失わないで生きていこう、その気持ちが何万回裏切られようとも、、、いつしか聞いた言葉を胸に息をしています。
そっと生きる中で出会った出来事を一つ一つ書いていきます。
それがいつかどこかでどなたかの役に立つことを願っています。

まだ喋らない、私の息子

現在4歳になった息子は、まだ言葉らしい言葉を話さない。
いわゆる発達障害である。
先日、療育手帳の発行を主治医に勧められた、といえばその程度がつたわるだろうか。
成長に偏りがあり、息子の場合は言葉を話す様子がなかなかみられなかったため療育園に通い始め今も月一の診察が欠かせない。

成長というものは人それぞれであるが
ある程度の目安があり月齢に伴った成長があまりに遅れているとなれば別の問題が出てくる。
人によってはその現実から目を背けたくもなるだろう、私もきっとそのひとりだったのだ。
なかなか話さない息子に不安はあっても
きっと、すぐに喋ってくれる、ママと呼んでくれるはず。

そう思い込むようにしながら生活していた。
普通にこだわるわけではなくても不安に勝てるほどまだ私は肝がすわってなかったのかもしれない。

しかし
言葉が伝わらないというのは想像していた何倍も苦難が多く、育児のストレスで私は両耳の難聴によく見舞われ始めた。

そうこうしてるうちに息子も2歳になる年になり、もう手を打たなければマズいと思い、2歳になる手前で小児科にいくと診察室に入るや否やすぐ「療育園への紹介状を出します」と医者が手配しはじめた。
あぁ、この子が話す日は遠いのか…と目の前が真っ暗になる想いだった。

我が子が心に抱えたものを言いたいのに言えないという現実に置かれていることが悲しくて悔しかった。
わかってあげられないことが、たまらなく辛かった。
伝わらないことが、本当に苦しかった。

療育園へ行くことになりすぐに療育は始まったが
通ってすぐに効果があるわけでもなく日々労力が募っていくだけにも思えた。

「いつ話せるようになるだろう」ということを心配して最初の三ヶ月間、毎回待ち時間に癇癪を起こす息子を宥めながら重い心で過ごしていた気がする。
難聴が癖になってしまった自身の体のことも夜が来るたびに責めた。親なのに、子供の声に耐えられずストレス難聴になったのかと今にして思えばそこまで自分を責める必要なんてないのに、当時離婚していたこともあってひとり親として自分が情けなかったのである。

早く息子の言葉を聞きたい。
どんなに反抗的でも構わない。この子の選ぶ言葉を聞きたい。
好きな色はなんだろう?
好きなお菓子はなんだろう?

どうか明日、一言でいいから言葉を交わしたい。
その願いはまだ、かなったことは無い。
まだ、息子の言葉は、聞けてはいない。
しかし当初のような不安や願いは、息子の成長を見守る中で薄れていった。
療育園でも効果がなかなかみられない中、ある出来事が私の真っ暗だった世界に光を灯した。

それは、息子がまだ3歳になる前。療育園に通い出して三ヶ月もかからない頃の話。
私が第二子を出産するにあたり1週間家をあけた時のことだった。
まだ幼い息子に、事情も伝えられないまま家を空けることが心配だった私は出産中も息子のことが頭から離れないでいた。

いまごろ、突然いなくなったママを探してはいないだろうか。
不安に思っているのではないか。なんて気持ちで私は胸が張り裂けそうになっていた。

それもそのはず。

先ほど述べたように、私は離婚している。それも第二子出産前に。
息子からしたらある日突然人が居なくなり二度とかえってこないという体感をしてすぐに母がいなくなったのだ。
帰ってこないのではないかと不安になるには充分すぎる条件が揃っていた。ただでさえ母親の姿が見えなければ泣く年齢の息子には重すぎる現実だ。

事情を言葉で伝えられない今、息子がこころのどこかで私も同じように二度と会えない人になっているのではないか不安だった。

きっと私が息子の立場なら、不安でたまらないはずだとも思った。

早く、息子に会いたい。そして、ちゃんと帰ってきたよと安心させてあげたい。

考えれば考えるほど、息子の言葉の遅れがもたらす現実は息子を寂しくさせているような気がしてより一層、悔しい気持ちで涙がこぼれてしまっていた。

しかし、その頃息子は全く泣かなかったとあとから実家の母に聞いた。
1日だけではなく、私が退院するまでの7日間、ずっと泣かないでいたという。
ママが居なくても平気なわけではない。
普段ならば息子は真夜中に起きればすぐに大泣きをするのに
私の入院期間は真夜中に目が覚めてもそっと起きてリビングで翌日のご飯の仕込みをしてる私の母の元へちょっと遠慮気味にちょこちょこと歩いてきて、一緒に寝てくれるかやや不安そうに甘えてきたとのことだった。

息子は、なんの事情もわからないはずだ。
いや、言葉で伝わっていないのだ。

それなのに、息子は私がいない1週間、泣くのを我慢していた様子だったと母が教えてくれた。

全てを聞いた時、息子の心根を知った気がした。
優しいだけじゃない。
人を信じる強さを持った子だと確信した。

息子は、私を信じたのだ。
この幼さで
家族が必ず帰ってくると信じて、泣くことを我慢したのだ。そこにいない母の存在のために。

第二子を連れて帰ってきた日
息子は私を見るなり、びっくりするでも泣き崩れるでもなく
朗らかなえがおで、私の所へゆっくりと歩いてきた。
そして、目で、「おかえり」と言ってくれた。

そっと近寄る息子の胸には不安は絶対あっただろうに、
それを自分だけの胸にしまい込み私の腕にだかれていた自分の妹を見て少しだけ照れたような顔をしながらニコニコしている。
口で言えない「こんにちは」を伝えようとしている。

この子は、自分が話せないことを知っていながら、伝えることを諦めたことは無い。
わがままだってちゃんと言える。
伝わらないことで伝えることを諦めたことが一度もないことにもこの時気がついた。
目は口ほどに物を言う、とはよく言ったもので
妹にちょっと照れながら目を合わせる息子は、確かに妹にまで語りかけていた。

帰ってきた日の夜、寝ようとするとそっと私の隣に来て眠ったことを一生忘れないだろう。
普段は騒ぐだけ騒いでコテンと寝るこの子が、甘えて眠ったことを、絶対、忘れない。
一晩中その日だけは夜泣きをせずに私の裾を掴んで眠った。
成長の遅れは、当人と、家族に大きな問題である。
療育園にはいまもかよっているが
やはりまだ、言葉は発してくれない。
まだ、ママと呼ばれたことはない。
息子の好きな色も、私は知らない。

それでも通い始めた頃のように焦ってはいない。
これでいいのである。
急ぐ必要なんてない。
一番必要なものはもう持っている息子に、これ以上を望むのは欲張りかもしれない。

言葉をべらべら話せるよりも必要で大事なことを息子は一人の人間として既に知っている、持っている。

人間、本当に大切な力はきっといくつかあって、そのうちの一つは誰かを信じる力ではないだろうか。

想いを伝えることを諦めないでいられることは、人を信じずには成り立たないことであり、諦めることほど簡単な道もない。

信じること、伝えることを諦めないこと。そのまま生きる強さ。
この強さを、何年生きたって得られない人はたくさんいるだろう。
悲しいがそれが現実だ。
言葉でこうしなさいと教えられるものでもないし、言って教えてもらって理解できるものかといえどそうではない。
富より名誉より、人を信じる力は、伝え続ける力は価値のある財産である。

息子のことは、なにも、心配せずに、出来ることはしながら、この子の人生を見守ろうと今日も子育てをしている。


そんな息子の名前は、楓、あだなは、かっくん。
楓の葉っぱは、手の形をしている温かい色の葉っぱ。
秋になれば、ぐんと小さな手を風に伸ばすように姿を見せる秋の葉っぱ。
その名前を息子につけた。
誰にでも手を差し伸べる子になりますように。
寒くなる外で、暖かい色を木々に、道端にたくさん広げるかえでの葉のように
君がいる世界が自分だけでなく自分の周りの世界を暖かい色で大切に彩ってくれますように。
そう願ってつけた名前をもつ息子は、名前に込めた願いに負けない人間性がある。
どうか、そのまま、生きてくれますように。
お金持ちにならなくてもいいのです。
偉い人にならなくていいのです。
人を何度でも信じて手をさしのべられる、そんな人になりなさい。
人を想えるあなたであり続けなさい。
何度裏切られても、裏切る人にはなってはいけませんよ。
伝えることを諦めては、いけませんよ。必ず誰かが聞いているでしょう、あなたが人を信じようとする限り。
どうか、あなたが自分の強さを、その生涯が終わる日まで
疑わないでくれますように。
母として我が子に願う。
分類不能の職業
投稿時の年齢:25
新潟
投稿日時:
2025年10月30日
ドラマの時期:
2023年
--月
--日
文字数:3705

筆者紹介

何者かになりたい20代です。
二人の子供を育てています。

信じる心だけは失わないで生きていこう、その気持ちが何万回裏切られようとも、、、いつしか聞いた言葉を胸に息をしています。
そっと生きる中で出会った出来事を一つ一つ書いていきます。
それがいつかどこかでどなたかの役に立つことを願っています。