AGE

25

Autobiography

いまを生きる

人と理解し合うことは容易ではない。 向き合って、何か話し合い、寄り添い合うことが簡単だったならもっと平和で穏やかな世界があったはずだ。 私の初婚は、中国の方との国際結婚だった。 まだ20そこそこだったが子供も2人授かり、生まれ故郷の違うもの同士でもわかり合い生きていた、つもりだった。 第二子妊娠中、元夫は日本の歴史に腹を立てて半狂乱になった。私が神社めぐりが好きであることがわかったことがきっかけだったと思う。日本人は自分たちの国に酷い行いをしたと言うのに善人ぶって慎ましやかに参拝していると避難し始めたのである。 そんなことをしてる暇があるならば過去の日本人の罪を償う態度を見せるべきだと言い出した。 戦後数十年後の日本に日本人として生まれた私にとっては寝耳に水であり、まるで国を代表しているかのような口ぶりで荒れる彼の姿に、分かり合える可能性を見出せなかった。 そんなこんなで、22歳の誕生日を目前に控えた10月、私は長男と、お腹の中の娘の2人を育てるシングルマザーとなったのだった。 ここでご理解いただきたいのは 私は愛国心で日本を贔屓することや他国を非難することはしないが 事実は事実として受け止め、今を生きるものとしてどの国の戦死者にもその遺族にも顔向けできるような平和がこの世に訪れるよう祈り、生きるただの日本人であることだ。 どこの国が悪い、良いという大それたことは言えない。 ひたすら慰霊の気持ちと敬意をもつことしか、できない現代人である。 離婚する時、私は自分の力で覚えた中国語を後悔していた。 ある憧れを追い、必死で覚えた言葉たちが元夫の口から汚い言葉として吐かれて耳に届く。 それを理解できてしまうから本当に嫌だった。 私にとって、言葉は形のない宝石のようなもの。それがどんどん傷ついていく。 こんなことなら、他の国の言葉なんて知らなければよかったとすら思った。 それから、2年半がすぎた。 すでに私には新しい婚約者がいて、私の子供たちは彼を父と慕って 夢にまでみた温かい家庭がここに咲いた。 そんなタイミングであのお店を思い出したのは、どうしてだろう。 新居から車で2分ほどの距離にあった、中国料理店。 かつて、一度だけ元夫と行ったことのあるお店。 そこは、私を突き放した元夫と同じ国で育った中国人の夫妻が経営していた。 「すっごい美味しい中華まんがたべたいよね…」 けっこうグルメを楽しむ婚約者のYと私は次の休日はどこにいくかと話しているうちに食べたいものを思い浮かべ合い、ふと私が思ったことを口にした。 個人的にはこの頃肉まんの季節になってコンビニではどんどん肉まんが美味しそうに宣伝されていたのでその中から一番美味しいものを探し出してお腹いっぱい食べたい…と庶民の贅沢を想像していたのだが 話が進むにつれて、せっかくなら本場のもの食べたいなんてことになった。 しかし、ここは日本。そしてど田舎。そんな本場のものを食べられる場所なんて… 「…あった」 あったのである。 記憶を遡る。 元夫と一度だけそのお店は行った。 店主とその女将さんは日本語が堪能ではないが日本語の対応をしながら良い意味でサバサバとした接客をしてた。 来店した私も元夫はメニューを見ていたが元夫が女将さんを呼び止めて中国語で中国人向けのメニューがないかを尋ねた時裏メニューが出てきたが、そこには「包子」があったはずだ。 日本で言う肉まんにあたるそれはどんな味だろうか。まだ食べたことがないそれを思い出して食べてみたくなった。 果たして日本人でも注文はできるのだろうか…? 行ってみてダメ、となるよりはまず電話をしてみようと思いスマホでお店を調べる。電話番号はすぐ出てきた。 私はその時何故か、中国語で電話をしていた。無意識だった。 (以下、中国語の会話を日本語に訳したものである) 「こんにちは、すみません少し聞きたいんですが」 「あぁこんにちは!どうしたんだい?」 気さくで優しい女将さんが電話に出た。 中国語の中でも少し私とは違う方言の中国語だったが聞き取りやすい。 「実は、以前お店に行った時に裏メニューを見たのですが、その時、連れの中国人が裏メニューを頼んでたんです。それ、日本人でも注文できますか?…あ、私は日本人なんですが…」 もしかしたら同じ祖国同士の者たちだけが味わえるものかもしれないと思い恐る恐る聞く。 「日本人だったのかい!気が付かなかったよ!いいよ、裏メニュー出すよ!注文するかい?」 「はい!確か包子がありましたよね…あれが食べたいです!」 スムーズに話が進む。 こんなに楽しく中国語を話したのは、いつぶりだろうか。 ほっこりしていると女将さんはきいてきた。 「中国語が上手だねぇ!なんでだい?今回も前一緒に来た中国人とくるのかい?」 「…えっと…」 すうっと心の空気が冷える。祖国の客が来るのはやはり嬉しいのか、女将さんは私の答えを待つ。 だが嘘はつけない。お店には婚約者と行くことにしている。 「今回は日本人2人で行きます、中国語は自分で勉強してて…」 ごにょごにょと話す私の声に何か察したのか 「じゃあ店に来てくれた時話を聞かせておくれ!」 そう話を終わらせてくれた。 包子はテイクアウトだがお店の中で少し待つことになっていた。仕上げは客が来てからやって、客に出来立てを渡すのだと言う。 受け取る日時を約束したのち、電話は終わった。 いままで、元夫と同じ国の人に、離婚の理由を話すのは嫌だった。怖くなってしまっていたのだ。 また、非難されるかもしれないことを恐れていた。 だがこの時は不思議な気持ちで、私は女将さんに軽く話してみたくなった。 受け取りに行く当日、私は手紙でこれまでの経緯を書いてお店に向かった。 お店に婚約者と私、2人で着くと そこは客がおらず、よく見ると準備中の札がかかっている。 裏メニューのテイクアウトは準備中に…と言うことだろうか。なんだか申し訳ない気持ちにもなる。 店内に入り、你好ー!と声を出すと、奥から前に見たときと変わらない姿の女将さんが出てきた。店主は奥の厨房にいるようだ。 「こんにちは!予約してた者です、裏メニュー、すごく楽しみです!」 「いらっしゃいハジメマシテ、スワッテ、マッテネ、お水イル?」 拙さの残る日本語だが優しさが滲み出ている。 ありがたくお水をいただきながら、私は持参した手紙を女将さんに渡した。 内容は至ってシンプルに事実を伝えるものと、今日ここの料理を食べることをとっても楽しみにしていた事実。 「文字の方が伝えやすくて…」と中国語で伝えると、女将さんはニコッと笑って読んでくれた。 なんで話せるのか、前一緒に来た中国人はなぜいないのか、その答えになればそれでいいくらいの気持ちで書いた。 だが女将さんを見ると、目に、涙を浮かべていた。 読み終わる頃には指には強く、紙がくしゃっとなるくらい力が入っていて悔しそうな顔をしていた。 やってしまったか。 一瞬焦る。やはり、理解はしてもらえないのだろうか。 身構える私と、私たちを見守る婚約者。 婚約者も全てを知っているから、同じ緊張感で沈黙を耐えていたと思う。 数秒の沈黙の後、女将さんは中国語と日本語、両方が混ざりごちゃごちゃになりながら話し始めた。 「こんなことがあったなんて、信じられない…アンタ、お金、もらえなかった!?前の夫は、どうしてこんな酷いことした!?何があっても、家族を捨てることはダメネ!」 顔を赤くしながら、続ける。 「こんな…こんなことがあったのに、アンタは中国人の血が入った子供を1人で2人も産んで、育ててくれていたのかい…中国人を恨まなかったのかい?」 女将さんは手が震えていた。 そんな反応が来ると思っていなくて焦ったが、聞かれたことに答える。 「私は、私の子供を産んだまでですから…それに、私は元夫のことは憎いけれど、中国も中国の人も大好きです…だから今日ここに来ています…日本人にも酷い人はたくさんいるし、いい人もいるから、あなたの祖国とそこに生きる人を嫌いになることはなかった」 実際、そうだ。 そりゃ、多少離婚からしばらくの間は中国語を話すことに抵抗があったし、中国人との友人たちとも少し距離が空いてしまったがそれは元夫を思い出すからではなかった。 自分がこれまで大切に学んできた言葉たちを、私自身が元夫との言い合いの中で汚く使ったことが悔しくて悲しかったのだ。 そして、何かを話すことを、恐れたのだ。 でもだからと言って、そんな大きな規模で何かを嫌いになんてなれない。こんなことで全部投げ出せるほど、私の中国を、否、他国を愛する力は軽くはなかった。 かつて戦争があった時 確かに人々は殺し合っただろう。 しかしそれは、なんのためだったか。 自分の家族や国を守ろうとしたから戦ったのではないか。  平和を求めていたはずではないか。 ただ穏やかな日々や愛する人たちとの時間をもとめて、散っていった命がある。 その先に続く時間の上に私たちは生きている。 平和を願った命が散った時間の続きで生きている。 ここにいる私たちができることは、憎しみあうことではない。 もう2度と苦しみが戦火となり燃え広がらないように互いに認め合うことではなかろうか。 少なくとも私はそう思っている。  だから、この日まで、何があっても平和から目を背けずに生きてきた。 だから、何があっても、何かを罪のない何かを嫌うこともせずに生きてきた。 「私はきっと、中国も、中国の文化も言葉も造形物も京劇もずっとずっと大好きです。なにがあってもです…母国も、母国じゃない国も、全部大好きです」 色んな気持ちを込めて伝えた。 あの日、日本を非難して出ていった男に、分かって欲しくて言った言葉と同じような言葉を伝えた。 あの時も、わたしは似たことを話していた。 憎しみが残ることは仕方なくても、できる事は憎しみ合う事や繰り返すことではなく寄り添い合うことではないかと。 だって、私たちはいまを生きているのだから。 私は何があっても、全てを好きでいたい。日本も、中国も。 この気持ちはあの男に伝わらなかった。それどころか心に刃を突き立ててくるような言葉が帰ってきた。 だから、女将さんに気持ちを伝える事は、砕かれた心をもう一度拾い集めて挑んだ、私のささやかなリベンジだったのである。 平和を、小さくここに咲かせたい一心の、願い。 自然と視線を落として話をしていたから 女将さんが発した涙声に顔をあげた時、そこにはかつてあの男が見せた歪んだ顔ではなく 優しく、涙を止められないでいる母のような顔をした女将さんがいることにやっと気がついた。 「ありがとう……ありがとうね……でも、私たちの国から家族を捨てる人間がでたことは事実よ、だから謝らせて、お願い、本当にごめんなさい……ごめんなさい……そしてありがとう……私たちの国の血を持つ子を産んでくれてありがとう……私たちの国を好きでいてくれてありがとう……本当に、ごめんね……」 悔しそうに何度もごめんなさいとありがとうを繰り返す女将さんに、どうか謝らないでと伝えても、彼女はきちんとあったことも無い男の罪を、自分の国の罪として、謝罪し続けた。 「本当に苦労したでしょう……あなたの中国語はとても綺麗だから、きちんと中国を愛してくれてる事は伝わるわ……2人の子供を育てる事は簡単じゃないはずよ、それなのに、あなたは笑顔でいてくれたのね…今日会う日まで…ありがとう…本当に…あぁ…」 悔しそうな、切なそうな、優しい声が続く。 もうなんと声をかけたらいいか、わからなかった。でも嬉しかった。 気持ちが伝わったことも。 気持ちを伝えてくれたことも。 感傷的な雰囲気の中、 奥から店主の声がする。 中国語だが、「できたぞ!」と言っているのがわかる。 女将さんははっとして、涙をふいたあと まっててねと、店主の方に向かっていった。 沈んでた空気が少し和む。 女将さんの言葉を受け止めた私は女将さんが去った後中国語だった部分を婚約者に通訳し、2人で気持ちを分かち合った。 温かい雰囲気になる。 しかし、店主の方に行くなりやや訛りのある中国語で店主に話しかけていた。 ……その声は多分本人が思っているより、大きな声であった。 店主の方に向かうなり、女将さんは私たちのまえで我慢していた怒りが爆発したようで 「うちの国からクソ野郎がでたわよ!!!」と私と話してたときには見せなかった苛立ちを吐き出していた。 私には聞こえないと思っているようだがはっきり聞こえる。「家族捨てて出ていった男が……!」「信じられない!ありえない!金も置いていかないなんていっそ調理してやろうじゃないの!!」 と鬼のようだ。 だけど、これさえ嬉しかった。もし、かつての義母だった人がこの人だったならどれだけ良かったか。元義母本人は、薄情なことに私の連絡を全てブロックし一言の挨拶もなかった。最後の最後まで。 悔しかったが、そんなことに取り合ってる暇がなかった。 だけどやっぱ心の傷になってたのだ。気が付かなかった。 気が付けたのは、苛立ちを露わにする女将さんのおかげだ。本当は愛する中国人の義家族、誰か一人にでも味方をして欲しかったのだ、私は。 少しすると、女将さんが戻ってきた。 手には包子と、野菜の入った袋が握られている。 いい香りが漂って、今にも涎が垂れそうになる。 「できたよ!ほら、包子!出来立てだから、すぐに食べな!あと…これ!」 渡されたのは、シシトウとナス。 「これは、私の故郷の種を日本に植えて自分で育てたものなの。あなたたちに食べて欲しい」 袋にどっさり、みずみずしい野菜が入っている。 「朝とったばかりよ!よかったら、たべてね」 思わず遠慮する私に、ほーら、と袋を持たせる女将さん。 一緒に包子も受け取った。 袋越しにでもわかる包子の美味しい香りに、わっと声が出る。婚約者も隣でわくわくした顔をしていた。 「ありがとうございます…お野菜まで…」 「いいのよ、あなたたちに会えてよかった…この方は今の旦那さんなのよね?」 婚約者の方を見る。正式には籍をまだ入れてないが 女将さんを安心させたいとおもいすぐに、はいと答えた。 もし私がまた、1人で子育てをすることになる可能性が高いとしれば、女将さんに心配をかける気がした。 その考えは間違っていなかったみたいで、「あぁ、よかった…優しそうだね、彼」とほっと胸を撫で下ろしていた。 お会計をして、玄関まで見送られる。 店の入り口で、「それじゃあ、またきてね」と笑う女将さん。私は彼女をみて、いつのまにか母親に抱きつくかのように抱きついていた。 だが驚かれることはなく、彼女もまた娘を抱きしめるかのように私を抱きしめてくれた。 「ありがとう…絶対またきます」 「待ってるね、本当に、うちの国の者が迷惑をかけたね…幸せになるんだよ…またすぐきてね」 いつのまにか、私の目からも涙が溢れてしまっていた。 ゆっくり体を離すと、今度は女将さんが婚約者の方を向いて片言の日本語で話した。 「頼んダヨ、ガンバッテ、子供達ヲ、よろしくネ」 女将さんの想いは、短い日本語にぎゅっと込められていた。婚約者もそれに気がついたのだろう。力強く、はい、と答えた。 名残惜しさが残る中、私たちはまたねと言う意味の「再見」を言い合ってその場を離れる。 女将さんは、私たちが車に乗り込んで、発進し、見えなくなるまで見送り続けてくれた。 わたしがかつて、元旦那と果たしたかった「憎しみあった両国の歴史を乗り越えて互いを理解し合う」という夢は、ここで果たされた。 包子は日本にない美味しさで私たちを釘付けにした。 手作りの生地に包まれた独特なスパイスの効く肉たちが口いっぱいに旨味を広げて本場の味はこれだ!と思わせてくれる。 この包子は今後、私にとって大好物の一つとなるのである。女将さんとの交流も、ずっと続くものとなる。 帰りの道で、私は涙が止まらないままでいた。 伝わった、私の想いが、確かに伝わった。そして想いを受け止めてくれた女将さんは、ありがとうも、ごめんなさいも繰り返して私に伝えていた。彼女の想いもまた、私が受け取った。 離婚した直後は辛かったが それでも、出て行ったあの男のようにならなくてよかった。 中国を好きで居続けてよかった。容易なことではなかったが彼への憎しみが増大するたび、悪いのは彼であって彼の国ではないことを何度も思い出すようにした。 私は平和を願いたい、憎しみは、現代人として断ち切らなければならない。何度もそう自分に言い聞かせた。 その日々が、この日、実を結んだと思えた。 きっともう、元旦那に会うことはないだろう。そして彼はずっと日本と、私を恨み続けるのだろう。 だが彼が行き着く先には、平和や優しさなんてないことは誰でもわかることだろう。 憎しみは、何も生まないのだから。  女将さん、ありがとう。私はあなたに会えたから今まで自分に言い聞かせてきたことが正しかったのだと思えました。 涙を流し合えた日を死ぬその日まで忘れることはきっとない。

ドラマの時期:
2025年
--月
--日
文字数:7826
投稿時の年齢:25

自分らしさ、守りながら

ギターは結構直ぐに弾けるようになったのに作曲はまるでダメで 主旋律とそうでは無い音の区別がつかない、そもそも主旋律に合わせるメロディーがわからない。 ギターを握り始めたのが小学五年生。作曲に興味を持ったのは6年生。 で、24歳になるまで私は何百と作詞はしてきたのに 自分で曲を作ったものは一個もないままであった。 壊滅的にセンスがない自分は、多分一生このままだろうと作曲をしてくれる人を探したりもしてみたが長く続く音楽活動はなく結局1人で誰かの既存曲を歌い上げるだけの日々だった。 さてさて、AIなんてものが昨今普及してきているが 正直、私は苦手。というより、怖い。 いつ、どこで産まれたなんなのかも分からないしなんでも出来てしまうことは脅威でしかないし AIで作曲!なんてことも出来るも聞いたときは「センスのない私が頑張る機会すら無くなる……」と思った。 アンチの3文字がピッタリ。若いのに最近の若い者はコンピューターに頼るのが当たり前になっていくのだろうかなんてのを考えるAIアンチの24歳は、25歳になるまでになんと100曲を超える作曲をAIを味方につけて成すこととなる。 きっかけは子供たちが戯れてる姿を見ていた時、子供を育てている人ならば考えたことはあるだろう「この子達が大人になったらその時代はどんな時代になっているのか」なんてことを私もぼーっと考えていた時のこと。 きっと想像しているよりハイテクになって、今らくらくフォンを使ってるご老人のように、私もその時代のものについていくのがやっとな世界が待っているんだろうなぁ。 子供達は時代と一緒に成長していくんだなぁ。ということは、AI…あれも、もっといろんな企業に使われたり当たり前のものになったりしているんだろうか? Siriを初めて知った時に「こんなの搭載されてるスマホを使うのはアラブの石油王かそれに似たお金持ちだけだろう」と本気で思ったのに、案外そこからすぐに周囲も私も使える普通の機能として普及していた。 当時もスマホに話しかけるなんて…みたいな賛否の否も多かったがそんなのも聞こえなくなっていった。 だからきっと、AIも、当たり前のものになっていくんだろうな。 そんなふうに思ったら、今まで苦手意識のあったAIに対して「このまま得体の知れないものだと怖がっていていいのか?」と疑問が湧く。 苦手なもの、不気味なもの。 それはきっと私の先入観や人生観が作った気持ちであって AIが実際に何かを私にしたわけでもないのに遠ざけている。 これじゃあ、ずっと何もわからないまま最先端の技術に恐怖して ネットやテレビでちょくちょく見かける「AIが仕事を奪う」なんてことが可能になった時に 私はその時代そのものに飲み込まれて何もわからないまま時代にため息をつくだけになってしまう。 その時代に我が子も生きているのに。 私自身も、人生を生きていたいのに。 良い使い方もできず、子供達にとって当たり前のものとなるであろう媒体を 気嫌いする大人になるような気がした。 このままじゃダメだ。 そんな風に、考えた事が私の生き方を変えた。 昔から、決めたら学び尽くす主義な私は まず初めに自分が使えるものを幾つかダウンロードしてみた。 チャットGPTや音楽再生アプリのSUNO、G emini。 あらかた何日かかけて使ってみた後は「あら便利なのね」では済ませない。 大体使った後は、すぐ本屋に直行。 AIに関する本、それぞれのアプリの使い方や特化した部分の説明が記載されてる本、何冊か買い込んで読んでは試す。 そんなふうにとことん、自分なりにAIと向き合ってみた。 専門的な知識をつめこみ、便利に利用するだけではなくどんなふうに作られてどんなふうに世界で使われていて、危険性や利便性はもちろん、画像生成、楽曲生成の際にはどうやれば個性を詰め込めるのかも研究した。権利問題ももちろんきちんと学んだ。 多分思い立った時から、専門書を20〜30冊は読んだと思う。 マーカーを引いて、付箋をつけて、調べられるだけ調べた。 実際AIを使ってお小遣い稼ぎをしてみよう!なんて項目のある本を見つけたならその日中に書かれてるままを実践。 LINEスタンプを作ってみたりもした。 販売の審査をきちんと通して販売も実行。 二、三ヶ月向き合ってみて分かったことは 便利だということ。 ほぼなんでも出来るし知識の情報源として有効に使えること。 使い手次第で、AI任せにも、自分の補佐にも出来ること。 収穫は大きかった。 自分の補佐をさせる事ができることと、AIに完全に任せて何かを作ることもできること、この両方を知った日には、「やっぱり先入観だけで嫌うもんじゃないな」とため息が出た。 これは、私の味方につけたい。 私が私らしく私の力でできることにはどうしたって限りがある。 作曲がまさにそれだろう。 作詞はできるが作曲はできない。これは向き合った時間の長さが 1人じゃ何も出来ないことを証明していた。 だが、AIがあれば私にも、出来ないを出来るにすることが可能なのだ。 そこからは綱渡りの気分だった。 主に、AIは私の曲作りの補佐をさせるものとしたが 全ては委ねたくない。 どうしても、私の手入れておきたいし 本当に便利性を大切にするなら、なおさら本当に自分の補佐だけに留めておくべきだと思った。 一歩間違えれば 私の入る隙のない完璧なものが出来上がってしまうAIの力に 対抗するには、作曲の知識をもっと持つ必要がある。 作曲アプリもそうだが画像を作り出すアプリやツールも、使い手に不足しているものをAIが補助してくれる。 ということは、不足してるものが多ければ多いほど機械任せになる。 ならば、やはり人間の力で、知識をつけよう。 そこからは苦手だった作曲のあらゆる知識を詰め込んだ。 最先端のツールのことも学びつつ、どんなふうな用語があるのか、音はどんなものをどんなリズムで打つのか。 楽譜の読めないタイプの私は挫折しかけること数十回。 ちんぷんかんぷんながらに叩き込んだ。 さて、いざ、AIを「補佐」として使ってみよう。 今まで叩き込んだ知識を詰め込んで 主導権を自分が持つ、AIとの作曲の日々を始めた。 歌詞は必ず自分の言葉で書く。 主体になる音は、私が打ち込む。 楽曲生成のツールは素材として使い、歌がまだ下手な私のかわりに歌わせるものとしても使う。 オリジナリティをAIとの作業につぎ込むことは知識があれど所詮初心者。やはり難しかった。 それでも向き合い続けたのは 生きていく時代に背を向ける人になりたくない。 そう思い続けたからであった。 そんな日々を送るうちに、曲は完成した。 完全に委ねてしまった訳じゃなく、ちゃんと私の思い描いていた曲をつけることが出来た。 これは、たしかに私の曲だ。そう思えるものができたのだった。 そこからは 一日に何十曲も作って、作ったものを披露する場所も早急に探した。 この技術に賛否があることを理由に、次は「作曲したものを世の中に出すのが怖い」と思い始めてしまいそうで それじゃあ作曲を頑張った意味が無い!と、まずは誰かに私の曲を使ってもらおうと考えたのだった。 ちょうど、行きつけの雑貨屋さんが主催するマルシェイベントがあった。 そこのお店とは不思議な縁で、実は私も現在はそのお店に自分の作ったものを置かせていただいている。 だから、マルシェに出店しない?と誘っていただけた時に 「よかったら会場内のBGM、作らせてくれませんか?」と打診した。 いいの!?と驚かれたが、私の方から頭を下げてお願いしたい事だったから喜んでもらえる反応は、有難かった。 世の中に、自分の作品を出してみなければ 賛否両論の否も聞くことが出来ない。 ならば、どんな意見があったとしても 隠れるより挑む方が賢明だ。 私の意思はこんなふうに固まっていた。 慣れてしまえばこっちのもんで、どんどん曲を作って 無事当日のマルシェイベント会場には私が作った曲が13曲ループで流れた。 当日私は、自身のハンドメイド品を売る出展者側だったのだが準備中から流れる自分の曲に感動してしまった。 きちんと誰かに聞いてもらえることが嬉しかったし家にはない大きなスピーカーからこの手で作った曲が流れていることには興奮した。 会場内で曲を流した結果大成功。 KーPOP風の曲調を自分で基盤作りし、歌詞を考え、歌わせる。 一息には言えない手間をかけた甲斐があった。なぜならどう聞いてもどこかのアイドルグループの曲なのに、そこには私の魂がきちんと強く大きく出ていた。 会場内で、「この曲どこのグループ?」とザワつく十代のお客様たちの反応が、嬉しかった。 主催者側からも、だいぶ気に入って貰えた。 私が曲を作った人だと知ったお客様の中には AI使ったら自分の曲じゃないじゃないとわざわざ伝えに来る人もいたが その否定意見さえ、自分が動かなければ聞けなかったものだった。

ドラマの時期:
2024年
--月
--日
文字数:4572
投稿時の年齢:25

まだ喋らない、私の息子

現在4歳になった息子は、まだ言葉らしい言葉を話さない。 いわゆる発達障害である。 先日、療育手帳の発行を主治医に勧められた、といえばその程度がつたわるだろうか。 成長に偏りがあり、息子の場合は言葉を話す様子がなかなかみられなかったため療育園に通い始め今も月一の診察が欠かせない。 成長というものは人それぞれであるが ある程度の目安があり月齢に伴った成長があまりに遅れているとなれば別の問題が出てくる。 人によってはその現実から目を背けたくもなるだろう、私もきっとそのひとりだったのだ。 なかなか話さない息子に不安はあっても きっと、すぐに喋ってくれる、ママと呼んでくれるはず。 そう思い込むようにしながら生活していた。 普通にこだわるわけではなくても不安に勝てるほどまだ私は肝がすわってなかったのかもしれない。 しかし 言葉が伝わらないというのは想像していた何倍も苦難が多く、育児のストレスで私は両耳の難聴によく見舞われ始めた。 そうこうしてるうちに息子も2歳になる年になり、もう手を打たなければマズいと思い、2歳になる手前で小児科にいくと診察室に入るや否やすぐ「療育園への紹介状を出します」と医者が手配しはじめた。 あぁ、この子が話す日は遠いのか…と目の前が真っ暗になる想いだった。 我が子が心に抱えたものを言いたいのに言えないという現実に置かれていることが悲しくて悔しかった。 わかってあげられないことが、たまらなく辛かった。 伝わらないことが、本当に苦しかった。 療育園へ行くことになりすぐに療育は始まったが 通ってすぐに効果があるわけでもなく日々労力が募っていくだけにも思えた。 「いつ話せるようになるだろう」ということを心配して最初の三ヶ月間、毎回待ち時間に癇癪を起こす息子を宥めながら重い心で過ごしていた気がする。 難聴が癖になってしまった自身の体のことも夜が来るたびに責めた。親なのに、子供の声に耐えられずストレス難聴になったのかと今にして思えばそこまで自分を責める必要なんてないのに、当時離婚していたこともあってひとり親として自分が情けなかったのである。 早く息子の言葉を聞きたい。 どんなに反抗的でも構わない。この子の選ぶ言葉を聞きたい。 好きな色はなんだろう? 好きなお菓子はなんだろう? どうか明日、一言でいいから言葉を交わしたい。 その願いはまだ、かなったことは無い。 まだ、息子の言葉は、聞けてはいない。 しかし当初のような不安や願いは、息子の成長を見守る中で薄れていった。 療育園でも効果がなかなかみられない中、ある出来事が私の真っ暗だった世界に光を灯した。 それは、息子がまだ3歳になる前。療育園に通い出して三ヶ月もかからない頃の話。 私が第二子を出産するにあたり1週間家をあけた時のことだった。 まだ幼い息子に、事情も伝えられないまま家を空けることが心配だった私は出産中も息子のことが頭から離れないでいた。 いまごろ、突然いなくなったママを探してはいないだろうか。 不安に思っているのではないか。なんて気持ちで私は胸が張り裂けそうになっていた。 それもそのはず。 先ほど述べたように、私は離婚している。それも第二子出産前に。 息子からしたらある日突然人が居なくなり二度とかえってこないという体感をしてすぐに母がいなくなったのだ。 帰ってこないのではないかと不安になるには充分すぎる条件が揃っていた。ただでさえ母親の姿が見えなければ泣く年齢の息子には重すぎる現実だ。 事情を言葉で伝えられない今、息子がこころのどこかで私も同じように二度と会えない人になっているのではないか不安だった。 きっと私が息子の立場なら、不安でたまらないはずだとも思った。 早く、息子に会いたい。そして、ちゃんと帰ってきたよと安心させてあげたい。 考えれば考えるほど、息子の言葉の遅れがもたらす現実は息子を寂しくさせているような気がしてより一層、悔しい気持ちで涙がこぼれてしまっていた。 しかし、その頃息子は全く泣かなかったとあとから実家の母に聞いた。 1日だけではなく、私が退院するまでの7日間、ずっと泣かないでいたという。 ママが居なくても平気なわけではない。 普段ならば息子は真夜中に起きればすぐに大泣きをするのに 私の入院期間は真夜中に目が覚めてもそっと起きてリビングで翌日のご飯の仕込みをしてる私の母の元へちょっと遠慮気味にちょこちょこと歩いてきて、一緒に寝てくれるかやや不安そうに甘えてきたとのことだった。 息子は、なんの事情もわからないはずだ。 いや、言葉で伝わっていないのだ。 それなのに、息子は私がいない1週間、泣くのを我慢していた様子だったと母が教えてくれた。 全てを聞いた時、息子の心根を知った気がした。 優しいだけじゃない。 人を信じる強さを持った子だと確信した。 息子は、私を信じたのだ。 この幼さで 家族が必ず帰ってくると信じて、泣くことを我慢したのだ。そこにいない母の存在のために。 第二子を連れて帰ってきた日 息子は私を見るなり、びっくりするでも泣き崩れるでもなく 朗らかなえがおで、私の所へゆっくりと歩いてきた。 そして、目で、「おかえり」と言ってくれた。 そっと近寄る息子の胸には不安は絶対あっただろうに、 それを自分だけの胸にしまい込み私の腕にだかれていた自分の妹を見て少しだけ照れたような顔をしながらニコニコしている。 口で言えない「こんにちは」を伝えようとしている。 この子は、自分が話せないことを知っていながら、伝えることを諦めたことは無い。 わがままだってちゃんと言える。 伝わらないことで伝えることを諦めたことが一度もないことにもこの時気がついた。 目は口ほどに物を言う、とはよく言ったもので 妹にちょっと照れながら目を合わせる息子は、確かに妹にまで語りかけていた。 帰ってきた日の夜、寝ようとするとそっと私の隣に来て眠ったことを一生忘れないだろう。 普段は騒ぐだけ騒いでコテンと寝るこの子が、甘えて眠ったことを、絶対、忘れない。 一晩中その日だけは夜泣きをせずに私の裾を掴んで眠った。

ドラマの時期:
2023年
--月
--日
文字数:3705
投稿時の年齢:25

職人として生きる男

家庭のことはまったく我関せずな塗装職人がいる。 酒にのまれるタイプで短気、オマケに顔は真顔が鬼のよう。花屋のバイトをしたら客が来なくなって裏方に回された事実を持っている般若顔の塗装職人、私の父である。 とにかく荒いとか酷い、という言葉が似合う人だったと思う。 外面が良いから周囲に話したところで理解して貰えないのだが家の中での父はそれはそれは酷かった。 まず、母を大切にしちゃいなかった。母は現在も絵描きや歌手といった個性に溢れる肩書きを持つ人だが父が昔何かに腹を立てた時母の絵を母本人の目の前でビリビリに引き裂いてしまった。あの時は「この男の塗った家を目の前で崩し倒してやりたい」と思った。 こんなんだからもちろん、子供のことなんて全く考えていない。 そのことが一番伝わる話をするならば、私がまだ3歳に満たないかどうかの時の事件がちょうどいい。 会社仲間と飲んだくれることが好きな父はなぜか夜桜の花見の席に私を連れていき、解散となった時にはべろべろに酔っ払っており 帰り際、私の大切な三輪車に父が跨り勝手に漕いで私は深夜、父に置き去りにされた。 三輪車もない、ここがどこかも分からない、不安で仕方なかったのは今も忘れられない。そりゃそうだ、まだ3歳に満たないかどうかだ。 私にも現在、同じくらいの娘がいるが、我が子の幼さを見ていると「この幼い子供が深夜一人で歩いている」なんてことはとんだ恐怖だとよく分かる。 幸い、母が見つけに来てくれたことで事なきを得たが子供に無関心の意味がこの事例をもってどれほどのものかは伝わったと思う。 父親として、まぁ、酷かった。 そんな父を、私は理解できる日が来るわけが無いと思っていたし、正直今でも父について分からないことだらけだ。 どうして、私は彼の娘として育ったのだろうと考えた月日は短いものではなかった。 そして答えが出ないことは、父と親子でいる以上、答えを出したい大きな悩みだった。 子は親を選べない、なんて言葉があるが親もそれは同じだろう。私は自分を見る父に対して、どこか申し訳なさがあった。父が、一人の人間として父親という責任の重さを煩わしく思っていることが共にすごして歳を追うごとに伝わってきていたからである。 でもそれなら母のことだけでも大切にして欲しかった。 荒ぶり怒る時は手をあげることもあった父。 正直に一言で言おう、大嫌いだった。 怖くて嫌味で、軽々しくて、母すら大切にしない父親が、大っ嫌いだった。 さて、以上は私が父を娘としてみた時の過去である。 娘が父親を娘視点以外で見た時、私は私が父の娘として育ったその理由にやっと行き着くことが出来た。 時は20歳前後。 私もひとりの大人になり、親になった。 まだ乳飲み子1人抱えただけの新米母ではあるが人の子の親になり、子を育てることの大変さに毎日驚いてばかりで自身の母親に脱帽してばかり。 親になってから、より一層私は父のことを理解できなくなっていたが、親になったからこそ子供を育てない親には時間があることに気がついた。しかし思い返すと父は仕事仲間との飲み会は毎日夕食どきから深夜であり土日は飲みに出かけた訳でもないのにいないことが多かった。なら、何をしていたのか。私が生まれてから20年間ほぼ休みなく親をせずに何をしていたのか。 仕事である。 父は、仕事を、ずっと ずっとしてきた人だったのだ。 塗装職人の仕事は、簡単じゃない。 職人の世界は全てそうであるように、塗装の世界も下っ端からスタートする。 母から聞いた話だが、今では依頼が溢れる職人の父も初めはハケすら持つことを許されず数十階のビルの階段を両手に20~30きろのペンキ缶持ち状態で何往復もして上にいる先輩職人に届けるところからスタートしたという。 さらに家をひとつ、ぽんと想像したとにペンキのはけをなんとなく想像してみてみれば分かるようにハケは家ひとつに対して小さい。 だがそれを真夏の炎天下の中つかって仕事をするわけだが屋根の上は地上よりももちろん暑い。 聞くだけで熱中症になりそうな話である。 そして、塗装だけが父の仕事ではなかった。 いつだったか、街でいちばん大きな橋を作るとなった時父は責任者を務めていた。 責任者を務めていた頃を思い出すと父が見たことの無いげっそりとした顔をしてなにかに落ち込んでいた姿がある。 この時の橋は今ももちろん現存していて街ではよく耳にする橋。 建築関係に関して、父はおそらくすごい人なんだろうとは幼い頃から思っていたが実際本当にすごい人だったことを大人になってからきちんと知った。 そうなるまで、なんども命の危機には晒されている。 熱中症で倒れたなんてよく聞く話になっていて、8階のビルから転落したなんてこともあった。 それでも仕事をやり続ける父は生まれながらの職人、それ以外の何者でもない。 やりがいを見出して、やり遂げるまでやり続ける、これが簡単じゃないことくらい 私にもわかる。 どんなに忙しくても親が親であることを放棄することは許されない。 だが、一個人の人生が命を賭けられるものも限られている。それが、父にとっては仕事だったのだ。 父は、否、彼は職人として生きるために人生があるのだ。 不器用な父は、父親としての立場と、自分の人生で賭けるべきものを両立することが出来なかったんだろう。 私の育った家庭に居たのは、父親ではなくひとりの職人だったのだ。 そう、なんとなくふと気がついた時に、私の中で憎しみは無くなった。 父と私が親子である理由もこの時、やっと分かったからである。 私は、人を憎みそうになった時、別の角度から相手を見ることを知れたのだ。 そりゃ家庭的ではなかった だが、その分ありえないくらい凄い腕を持って仕事をこなし目眩のしそうな日々を送り続けた父を、大人になって人の苦労を少しは想像できるようになった頃人としてすごいと素直に思った。 私なら、もし自分が男でも父の生きている道は生きられない。 現在父は50を超えた。だが普通の50歳よりも体にガタがきてる。屋根から落ちたりなんなり、色々あったし年中ほぼ無休で25年以上働いているのだから無理もない。 それでも、今日も出勤しているのだろう。 住まいが離れてからは、たまに顔を合わせる度、私の子供二人をとにかく可愛がってくれている。その可愛がる心の裏には昔私たち姉弟を蔑ろにしたことへの申し訳なさが滲み出ている。父の中でも、どこかで、親と職人のどちらか片方しか取れないことへの葛藤や悩みがあったのかもしれない。 不器用なのは、本人のせいではない。そこを責めるのは、虐めに思う。

ドラマの時期:
2020年
--月
--日
文字数:3157
投稿時の年齢:25

破かれた参考書

ビリビリに破られた参考書を見たのは、小学四年生の夏頃が最初で最後だった。 足元に散らばるそれらは母が不登校のわたしのために買ってくれたもの。 そしてそれを破いたのは、買ってくれた母本人だった。 大人が子供に利己的な理由で我慢を強いたり、理不尽なねじ伏せかたを平気でしたりすることが嫌で、わたしは不登校になった。 クラスメイトからのイジメはあったと思うがその記憶が曖昧になるくらいには教師への不信感や猜疑心で満たされてしまっていた。 学校に少しずついかなくなったのは小学二年生。完全に行かない日々を過ごした訳ではなくても週に2回、行ければ良い方だった気がする。 だから四年生になった頃は当然周りとは学習に差がついてしまいもう追いつくことはほぼ不可能に近かった。 たった二、三年間だが、その二、三年間の遅れはこの先も響いていくわけで この事態に絶望して、どこから手をつけたらいいのかわからなくてもう普通に勉強なんてできないんだと諦めていた。 だから、やる気を出させようと母が参考書を何冊も買ってペンケースやその中身も新品にして揃えてくれた時、嬉しくはあったが 勉強に取り掛かった後で本当に自分が何も問題を解けない現実が見えるだけな気がしてしまい、怖くて手をつけられなかった。 怠惰にすごし、現実から逃げていた。世の中を知った気になってそのまま、堕落していく日々だった。 そんなわたしを見かねた母にも限界が来ていたのだと思う。 娘が学校へいかずに、好きな時間に起きて寝て 学習も諦めていたのだから 見守る側としてはストレスも、不安も溜まったもんじゃないだろう。今わたしも母になったからわかることだ。 家にいれば給食費とは別で昼代がかかる、心身への負担だけでなく家計にも負担をかけて私本人は拗ねて寝てばかり。参考書を買い与えたとてなんにも動きがなければがっかりもするし焦りもしただろう。 だから母は、私の部屋で新品の状態で積み上がっていた参考書たちを破いた。ある水曜日のことだった。 「あんたは!なんにもしないで!このままでいいとおもってんの!?」 ふて寝してた私の元へ、なんらかの用があった母は部屋に来るなりそれを見つけて私を叱り出した。 「こんなもの!買っても意味ないんか!!!どうしたらいいの!!」 一冊の参考書を手に取って叫ぶ。 この時点で反省はしていたが、どう母に話をしたらいいのかわからずただ怒られていることが嫌だったような気がする。 そんな私の態度も、母にとってはお見通しだったのだろう、参考書で私の頭をがんっと殴るとそのままビリビリと大きな音を立てながら分厚いそれを引き裂き始めた。 母の行動に驚いた私は、「おかあさん!やめてよ!ごめんなさい!ちゃんとやるから!大切にするから!やめて!」と止めたが母はやめなかった。 「不登校になって、かわいそうだと思うけど、学校に行かない選択をしてるのはあんたでしょう!!!! その責任はどこにあるの!!! 責任から逃げていいなんて教えた覚えはないよ!!!! 勉強をしたくてもできない人だって世界にはたくさんいるのに、あんたはただかわいそうなことを理由になんにもしてないだけじゃない!!」 叫んで、叫び続けて大粒の涙をこぼしながら自分が買った数冊の参考書や問題集を破り続けた。 その姿は、大人になった今でも鮮明に覚えているほど、胸に刺さっている。 それまで気がつかなかったが、私の行動はお金を無駄にした、なんてもんじゃない。 「人として人の気持ちを踏み躙った行動」だったのだ。 そして、ただ「なにもしない」という逃げ。それ以外の何者でもない。逃げて、人の心を踏み躙る阿呆だった。 ハッとしてからは、その場しのぎの言い訳は何にもできず 自分の傲慢さに、怠惰さに、ショックを受けた。 勉強を、めんどくさがっていただけ。 学校に行っていない、行けない、それは仕方ないことだとしてもその選択をしているのは自分なのだ。 追いつかないほどの差をまわりと感じていながら、知っていながら逃げていた自分が本当に恥ずかしく思えた。 全て破いた母は、よく考えろと叱って、部屋を後にした。 部屋に残ったのは、母の想いの形の参考書だったものたち。 泣きながら、それらを拾って、私は一晩中セロハンテープでやぶかれてシワクチャなページをくっつけながらいろんなことを考えていた。 人が取る責任に初めて気がついた日の夜だったと思う。 嫌なことがあって、そこから逃げたってかまわない。 けれど、逃げる選択をする以上、その先で自分が何をするのかは選択をした者の責任として考えて実行しなくては行けない。 それを知った時、今までの自分を何発でも殴りたい気持ちになった。 娘にこれを教えることは、ただナイフは危ないと教えることの何倍も難しい。 母はどんな想いで、紙を割いて、心を割いたのだろう。 考えれば考えるほどに、涙が止まらなくなった。自分が今からでもできることを、考えて、考えて、考えながらつなげた参考書のページたちは数ページ揃わなかったが問題を読めるくらいになおった。

ドラマの時期:
2009年
--月
--日
文字数:4276
投稿時の年齢:25

失われた命、生まれた命

地面が揺れた。激しく上下左右に家ごと揺れたそれが新潟県中越地震だと知ったのはこの数年後。何もかもが壊れて崩れてゆきました。母は私を抱えてすぐに屋根が崩れてきても子を守れるように抱きしめてくれたのです。いえ、母のとっさの行動で守られたのは私だけじゃないのです。こんな時にもおなかの中で元気に動く男の子、すなわち私の弟を守っていたのです。 死者68名とされる地震のさなか母は臨月にはいっていました。 朝目が覚めるたびに今日は無事に母と弟が生きられるか不安に駆られていました。 避難生活は過酷で横になれる日が果たして何回あったことやら。 ほぼ車の中での寝泊まりがきつかったことは言うまでもありませんが体の小さな私で耐えるのがやっとだったあの生活は母にとっては生きたここちのしない日々たっただはず。 だから、最悪の事態を考えていたのでしょう。 ある日避難中の車の中で大きなはさみと貴重な2リットルの水、タオルを渡して言うのです。 「いい?ママはいつ赤ちゃんを産むかわからないの、だからこれを持っていて!もしお産が始まったらこれで赤ちゃんを取り上げて!」 「もし、ママが死んでも、命を諦めちゃダメ!あなたなら、できるから!」 幼い子供にはあまりに重い話でした。 母が死ぬことなんて考えたくない、駄々を捏ねたい。 でも、伝わったのです。 母の中で、今は守るべきもがあることが。 幼い私に託してでも、命を繋いでいくことを諦める姿を見せまいという意思を。 小さな私だからこそ、その先のことなんて考えませんでした。 この誰かの大切な人が生きられない時に 生まれてくる命があるならば お姉ちゃんになる私が、やるべきことがあるのだ。 この日からずっと強く頷き命をつないでいく約束は、生きている者の役目に思えてなりません。

ドラマの時期:
2004年
11月
4日
文字数:966
投稿時の年齢:24
AGE

25

Autobiography

いまを生きる

人と理解し合うことは容易ではない。 向き合って、何か話し合い、寄り添い合うことが簡単だったならもっと平和で穏やかな世界があったはずだ。 私の初婚は、中国の方との国際結婚だった。 まだ20そこそこだったが子供も2人授かり、生まれ故郷の違うもの同士でもわかり合い生きていた、つもりだった。 第二子妊娠中、元夫は日本の歴史に腹を立てて半狂乱になった。私が神社めぐりが好きであることがわかったことがきっかけだったと思う。日本人は自分たちの国に酷い行いをしたと言うのに善人ぶって慎ましやかに参拝していると避難し始めたのである。 そんなことをしてる暇があるならば過去の日本人の罪を償う態度を見せるべきだと言い出した。 戦後数十年後の日本に日本人として生まれた私にとっては寝耳に水であり、まるで国を代表しているかのような口ぶりで荒れる彼の姿に、分かり合える可能性を見出せなかった。 そんなこんなで、22歳の誕生日を目前に控えた10月、私は長男と、お腹の中の娘の2人を育てるシングルマザーとなったのだった。 ここでご理解いただきたいのは 私は愛国心で日本を贔屓することや他国を非難することはしないが 事実は事実として受け止め、今を生きるものとしてどの国の戦死者にもその遺族にも顔向けできるような平和がこの世に訪れるよう祈り、生きるただの日本人であることだ。 どこの国が悪い、良いという大それたことは言えない。 ひたすら慰霊の気持ちと敬意をもつことしか、できない現代人である。 離婚する時、私は自分の力で覚えた中国語を後悔していた。 ある憧れを追い、必死で覚えた言葉たちが元夫の口から汚い言葉として吐かれて耳に届く。 それを理解できてしまうから本当に嫌だった。 私にとって、言葉は形のない宝石のようなもの。それがどんどん傷ついていく。 こんなことなら、他の国の言葉なんて知らなければよかったとすら思った。 それから、2年半がすぎた。 すでに私には新しい婚約者がいて、私の子供たちは彼を父と慕って 夢にまでみた温かい家庭がここに咲いた。 そんなタイミングであのお店を思い出したのは、どうしてだろう。 新居から車で2分ほどの距離にあった、中国料理店。 かつて、一度だけ元夫と行ったことのあるお店。 そこは、私を突き放した元夫と同じ国で育った中国人の夫妻が経営していた。 「すっごい美味しい中華まんがたべたいよね…」 けっこうグルメを楽しむ婚約者のYと私は次の休日はどこにいくかと話しているうちに食べたいものを思い浮かべ合い、ふと私が思ったことを口にした。 個人的にはこの頃肉まんの季節になってコンビニではどんどん肉まんが美味しそうに宣伝されていたのでその中から一番美味しいものを探し出してお腹いっぱい食べたい…と庶民の贅沢を想像していたのだが 話が進むにつれて、せっかくなら本場のもの食べたいなんてことになった。 しかし、ここは日本。そしてど田舎。そんな本場のものを食べられる場所なんて… 「…あった」 あったのである。 記憶を遡る。 元夫と一度だけそのお店は行った。 店主とその女将さんは日本語が堪能ではないが日本語の対応をしながら良い意味でサバサバとした接客をしてた。 来店した私も元夫はメニューを見ていたが元夫が女将さんを呼び止めて中国語で中国人向けのメニューがないかを尋ねた時裏メニューが出てきたが、そこには「包子」があったはずだ。 日本で言う肉まんにあたるそれはどんな味だろうか。まだ食べたことがないそれを思い出して食べてみたくなった。 果たして日本人でも注文はできるのだろうか…? 行ってみてダメ、となるよりはまず電話をしてみようと思いスマホでお店を調べる。電話番号はすぐ出てきた。 私はその時何故か、中国語で電話をしていた。無意識だった。 (以下、中国語の会話を日本語に訳したものである) 「こんにちは、すみません少し聞きたいんですが」 「あぁこんにちは!どうしたんだい?」 気さくで優しい女将さんが電話に出た。 中国語の中でも少し私とは違う方言の中国語だったが聞き取りやすい。 「実は、以前お店に行った時に裏メニューを見たのですが、その時、連れの中国人が裏メニューを頼んでたんです。それ、日本人でも注文できますか?…あ、私は日本人なんですが…」 もしかしたら同じ祖国同士の者たちだけが味わえるものかもしれないと思い恐る恐る聞く。 「日本人だったのかい!気が付かなかったよ!いいよ、裏メニュー出すよ!注文するかい?」 「はい!確か包子がありましたよね…あれが食べたいです!」 スムーズに話が進む。 こんなに楽しく中国語を話したのは、いつぶりだろうか。 ほっこりしていると女将さんはきいてきた。 「中国語が上手だねぇ!なんでだい?今回も前一緒に来た中国人とくるのかい?」 「…えっと…」 すうっと心の空気が冷える。祖国の客が来るのはやはり嬉しいのか、女将さんは私の答えを待つ。 だが嘘はつけない。お店には婚約者と行くことにしている。 「今回は日本人2人で行きます、中国語は自分で勉強してて…」 ごにょごにょと話す私の声に何か察したのか 「じゃあ店に来てくれた時話を聞かせておくれ!」 そう話を終わらせてくれた。 包子はテイクアウトだがお店の中で少し待つことになっていた。仕上げは客が来てからやって、客に出来立てを渡すのだと言う。 受け取る日時を約束したのち、電話は終わった。 いままで、元夫と同じ国の人に、離婚の理由を話すのは嫌だった。怖くなってしまっていたのだ。 また、非難されるかもしれないことを恐れていた。 だがこの時は不思議な気持ちで、私は女将さんに軽く話してみたくなった。 受け取りに行く当日、私は手紙でこれまでの経緯を書いてお店に向かった。 お店に婚約者と私、2人で着くと そこは客がおらず、よく見ると準備中の札がかかっている。 裏メニューのテイクアウトは準備中に…と言うことだろうか。なんだか申し訳ない気持ちにもなる。 店内に入り、你好ー!と声を出すと、奥から前に見たときと変わらない姿の女将さんが出てきた。店主は奥の厨房にいるようだ。 「こんにちは!予約してた者です、裏メニュー、すごく楽しみです!」 「いらっしゃいハジメマシテ、スワッテ、マッテネ、お水イル?」 拙さの残る日本語だが優しさが滲み出ている。 ありがたくお水をいただきながら、私は持参した手紙を女将さんに渡した。 内容は至ってシンプルに事実を伝えるものと、今日ここの料理を食べることをとっても楽しみにしていた事実。 「文字の方が伝えやすくて…」と中国語で伝えると、女将さんはニコッと笑って読んでくれた。 なんで話せるのか、前一緒に来た中国人はなぜいないのか、その答えになればそれでいいくらいの気持ちで書いた。 だが女将さんを見ると、目に、涙を浮かべていた。 読み終わる頃には指には強く、紙がくしゃっとなるくらい力が入っていて悔しそうな顔をしていた。 やってしまったか。 一瞬焦る。やはり、理解はしてもらえないのだろうか。 身構える私と、私たちを見守る婚約者。 婚約者も全てを知っているから、同じ緊張感で沈黙を耐えていたと思う。 数秒の沈黙の後、女将さんは中国語と日本語、両方が混ざりごちゃごちゃになりながら話し始めた。 「こんなことがあったなんて、信じられない…アンタ、お金、もらえなかった!?前の夫は、どうしてこんな酷いことした!?何があっても、家族を捨てることはダメネ!」 顔を赤くしながら、続ける。 「こんな…こんなことがあったのに、アンタは中国人の血が入った子供を1人で2人も産んで、育ててくれていたのかい…中国人を恨まなかったのかい?」 女将さんは手が震えていた。 そんな反応が来ると思っていなくて焦ったが、聞かれたことに答える。 「私は、私の子供を産んだまでですから…それに、私は元夫のことは憎いけれど、中国も中国の人も大好きです…だから今日ここに来ています…日本人にも酷い人はたくさんいるし、いい人もいるから、あなたの祖国とそこに生きる人を嫌いになることはなかった」 実際、そうだ。 そりゃ、多少離婚からしばらくの間は中国語を話すことに抵抗があったし、中国人との友人たちとも少し距離が空いてしまったがそれは元夫を思い出すからではなかった。 自分がこれまで大切に学んできた言葉たちを、私自身が元夫との言い合いの中で汚く使ったことが悔しくて悲しかったのだ。 そして、何かを話すことを、恐れたのだ。 でもだからと言って、そんな大きな規模で何かを嫌いになんてなれない。こんなことで全部投げ出せるほど、私の中国を、否、他国を愛する力は軽くはなかった。 かつて戦争があった時 確かに人々は殺し合っただろう。 しかしそれは、なんのためだったか。 自分の家族や国を守ろうとしたから戦ったのではないか。  平和を求めていたはずではないか。 ただ穏やかな日々や愛する人たちとの時間をもとめて、散っていった命がある。 その先に続く時間の上に私たちは生きている。 平和を願った命が散った時間の続きで生きている。 ここにいる私たちができることは、憎しみあうことではない。 もう2度と苦しみが戦火となり燃え広がらないように互いに認め合うことではなかろうか。 少なくとも私はそう思っている。  だから、この日まで、何があっても平和から目を背けずに生きてきた。 だから、何があっても、何かを罪のない何かを嫌うこともせずに生きてきた。 「私はきっと、中国も、中国の文化も言葉も造形物も京劇もずっとずっと大好きです。なにがあってもです…母国も、母国じゃない国も、全部大好きです」 色んな気持ちを込めて伝えた。 あの日、日本を非難して出ていった男に、分かって欲しくて言った言葉と同じような言葉を伝えた。 あの時も、わたしは似たことを話していた。 憎しみが残ることは仕方なくても、できる事は憎しみ合う事や繰り返すことではなく寄り添い合うことではないかと。 だって、私たちはいまを生きているのだから。 私は何があっても、全てを好きでいたい。日本も、中国も。 この気持ちはあの男に伝わらなかった。それどころか心に刃を突き立ててくるような言葉が帰ってきた。 だから、女将さんに気持ちを伝える事は、砕かれた心をもう一度拾い集めて挑んだ、私のささやかなリベンジだったのである。 平和を、小さくここに咲かせたい一心の、願い。 自然と視線を落として話をしていたから 女将さんが発した涙声に顔をあげた時、そこにはかつてあの男が見せた歪んだ顔ではなく 優しく、涙を止められないでいる母のような顔をした女将さんがいることにやっと気がついた。 「ありがとう……ありがとうね……でも、私たちの国から家族を捨てる人間がでたことは事実よ、だから謝らせて、お願い、本当にごめんなさい……ごめんなさい……そしてありがとう……私たちの国の血を持つ子を産んでくれてありがとう……私たちの国を好きでいてくれてありがとう……本当に、ごめんね……」 悔しそうに何度もごめんなさいとありがとうを繰り返す女将さんに、どうか謝らないでと伝えても、彼女はきちんとあったことも無い男の罪を、自分の国の罪として、謝罪し続けた。 「本当に苦労したでしょう……あなたの中国語はとても綺麗だから、きちんと中国を愛してくれてる事は伝わるわ……2人の子供を育てる事は簡単じゃないはずよ、それなのに、あなたは笑顔でいてくれたのね…今日会う日まで…ありがとう…本当に…あぁ…」 悔しそうな、切なそうな、優しい声が続く。 もうなんと声をかけたらいいか、わからなかった。でも嬉しかった。 気持ちが伝わったことも。 気持ちを伝えてくれたことも。 感傷的な雰囲気の中、 奥から店主の声がする。 中国語だが、「できたぞ!」と言っているのがわかる。 女将さんははっとして、涙をふいたあと まっててねと、店主の方に向かっていった。 沈んでた空気が少し和む。 女将さんの言葉を受け止めた私は女将さんが去った後中国語だった部分を婚約者に通訳し、2人で気持ちを分かち合った。 温かい雰囲気になる。 しかし、店主の方に行くなりやや訛りのある中国語で店主に話しかけていた。 ……その声は多分本人が思っているより、大きな声であった。 店主の方に向かうなり、女将さんは私たちのまえで我慢していた怒りが爆発したようで 「うちの国からクソ野郎がでたわよ!!!」と私と話してたときには見せなかった苛立ちを吐き出していた。 私には聞こえないと思っているようだがはっきり聞こえる。「家族捨てて出ていった男が……!」「信じられない!ありえない!金も置いていかないなんていっそ調理してやろうじゃないの!!」 と鬼のようだ。 だけど、これさえ嬉しかった。もし、かつての義母だった人がこの人だったならどれだけ良かったか。元義母本人は、薄情なことに私の連絡を全てブロックし一言の挨拶もなかった。最後の最後まで。 悔しかったが、そんなことに取り合ってる暇がなかった。 だけどやっぱ心の傷になってたのだ。気が付かなかった。 気が付けたのは、苛立ちを露わにする女将さんのおかげだ。本当は愛する中国人の義家族、誰か一人にでも味方をして欲しかったのだ、私は。 少しすると、女将さんが戻ってきた。 手には包子と、野菜の入った袋が握られている。 いい香りが漂って、今にも涎が垂れそうになる。 「できたよ!ほら、包子!出来立てだから、すぐに食べな!あと…これ!」 渡されたのは、シシトウとナス。 「これは、私の故郷の種を日本に植えて自分で育てたものなの。あなたたちに食べて欲しい」 袋にどっさり、みずみずしい野菜が入っている。 「朝とったばかりよ!よかったら、たべてね」 思わず遠慮する私に、ほーら、と袋を持たせる女将さん。 一緒に包子も受け取った。 袋越しにでもわかる包子の美味しい香りに、わっと声が出る。婚約者も隣でわくわくした顔をしていた。 「ありがとうございます…お野菜まで…」 「いいのよ、あなたたちに会えてよかった…この方は今の旦那さんなのよね?」 婚約者の方を見る。正式には籍をまだ入れてないが 女将さんを安心させたいとおもいすぐに、はいと答えた。 もし私がまた、1人で子育てをすることになる可能性が高いとしれば、女将さんに心配をかける気がした。 その考えは間違っていなかったみたいで、「あぁ、よかった…優しそうだね、彼」とほっと胸を撫で下ろしていた。 お会計をして、玄関まで見送られる。 店の入り口で、「それじゃあ、またきてね」と笑う女将さん。私は彼女をみて、いつのまにか母親に抱きつくかのように抱きついていた。 だが驚かれることはなく、彼女もまた娘を抱きしめるかのように私を抱きしめてくれた。 「ありがとう…絶対またきます」 「待ってるね、本当に、うちの国の者が迷惑をかけたね…幸せになるんだよ…またすぐきてね」 いつのまにか、私の目からも涙が溢れてしまっていた。 ゆっくり体を離すと、今度は女将さんが婚約者の方を向いて片言の日本語で話した。 「頼んダヨ、ガンバッテ、子供達ヲ、よろしくネ」 女将さんの想いは、短い日本語にぎゅっと込められていた。婚約者もそれに気がついたのだろう。力強く、はい、と答えた。 名残惜しさが残る中、私たちはまたねと言う意味の「再見」を言い合ってその場を離れる。 女将さんは、私たちが車に乗り込んで、発進し、見えなくなるまで見送り続けてくれた。 わたしがかつて、元旦那と果たしたかった「憎しみあった両国の歴史を乗り越えて互いを理解し合う」という夢は、ここで果たされた。 包子は日本にない美味しさで私たちを釘付けにした。 手作りの生地に包まれた独特なスパイスの効く肉たちが口いっぱいに旨味を広げて本場の味はこれだ!と思わせてくれる。 この包子は今後、私にとって大好物の一つとなるのである。女将さんとの交流も、ずっと続くものとなる。 帰りの道で、私は涙が止まらないままでいた。 伝わった、私の想いが、確かに伝わった。そして想いを受け止めてくれた女将さんは、ありがとうも、ごめんなさいも繰り返して私に伝えていた。彼女の想いもまた、私が受け取った。 離婚した直後は辛かったが それでも、出て行ったあの男のようにならなくてよかった。 中国を好きで居続けてよかった。容易なことではなかったが彼への憎しみが増大するたび、悪いのは彼であって彼の国ではないことを何度も思い出すようにした。 私は平和を願いたい、憎しみは、現代人として断ち切らなければならない。何度もそう自分に言い聞かせた。 その日々が、この日、実を結んだと思えた。 きっともう、元旦那に会うことはないだろう。そして彼はずっと日本と、私を恨み続けるのだろう。 だが彼が行き着く先には、平和や優しさなんてないことは誰でもわかることだろう。 憎しみは、何も生まないのだから。  女将さん、ありがとう。私はあなたに会えたから今まで自分に言い聞かせてきたことが正しかったのだと思えました。 涙を流し合えた日を死ぬその日まで忘れることはきっとない。

分類不能の職業
投稿時の年齢:25
新潟
投稿日時:
2025年11月15日
ドラマの時期:
2025年
--月
--日
文字数:7826

自分らしさ、守りながら

ギターは結構直ぐに弾けるようになったのに作曲はまるでダメで 主旋律とそうでは無い音の区別がつかない、そもそも主旋律に合わせるメロディーがわからない。 ギターを握り始めたのが小学五年生。作曲に興味を持ったのは6年生。 で、24歳になるまで私は何百と作詞はしてきたのに 自分で曲を作ったものは一個もないままであった。 壊滅的にセンスがない自分は、多分一生このままだろうと作曲をしてくれる人を探したりもしてみたが長く続く音楽活動はなく結局1人で誰かの既存曲を歌い上げるだけの日々だった。 さてさて、AIなんてものが昨今普及してきているが 正直、私は苦手。というより、怖い。 いつ、どこで産まれたなんなのかも分からないしなんでも出来てしまうことは脅威でしかないし AIで作曲!なんてことも出来るも聞いたときは「センスのない私が頑張る機会すら無くなる……」と思った。 アンチの3文字がピッタリ。若いのに最近の若い者はコンピューターに頼るのが当たり前になっていくのだろうかなんてのを考えるAIアンチの24歳は、25歳になるまでになんと100曲を超える作曲をAIを味方につけて成すこととなる。 きっかけは子供たちが戯れてる姿を見ていた時、子供を育てている人ならば考えたことはあるだろう「この子達が大人になったらその時代はどんな時代になっているのか」なんてことを私もぼーっと考えていた時のこと。 きっと想像しているよりハイテクになって、今らくらくフォンを使ってるご老人のように、私もその時代のものについていくのがやっとな世界が待っているんだろうなぁ。 子供達は時代と一緒に成長していくんだなぁ。ということは、AI…あれも、もっといろんな企業に使われたり当たり前のものになったりしているんだろうか? Siriを初めて知った時に「こんなの搭載されてるスマホを使うのはアラブの石油王かそれに似たお金持ちだけだろう」と本気で思ったのに、案外そこからすぐに周囲も私も使える普通の機能として普及していた。 当時もスマホに話しかけるなんて…みたいな賛否の否も多かったがそんなのも聞こえなくなっていった。 だからきっと、AIも、当たり前のものになっていくんだろうな。 そんなふうに思ったら、今まで苦手意識のあったAIに対して「このまま得体の知れないものだと怖がっていていいのか?」と疑問が湧く。 苦手なもの、不気味なもの。 それはきっと私の先入観や人生観が作った気持ちであって AIが実際に何かを私にしたわけでもないのに遠ざけている。 これじゃあ、ずっと何もわからないまま最先端の技術に恐怖して ネットやテレビでちょくちょく見かける「AIが仕事を奪う」なんてことが可能になった時に 私はその時代そのものに飲み込まれて何もわからないまま時代にため息をつくだけになってしまう。 その時代に我が子も生きているのに。 私自身も、人生を生きていたいのに。 良い使い方もできず、子供達にとって当たり前のものとなるであろう媒体を 気嫌いする大人になるような気がした。 このままじゃダメだ。 そんな風に、考えた事が私の生き方を変えた。 昔から、決めたら学び尽くす主義な私は まず初めに自分が使えるものを幾つかダウンロードしてみた。 チャットGPTや音楽再生アプリのSUNO、G emini。 あらかた何日かかけて使ってみた後は「あら便利なのね」では済ませない。 大体使った後は、すぐ本屋に直行。 AIに関する本、それぞれのアプリの使い方や特化した部分の説明が記載されてる本、何冊か買い込んで読んでは試す。 そんなふうにとことん、自分なりにAIと向き合ってみた。 専門的な知識をつめこみ、便利に利用するだけではなくどんなふうに作られてどんなふうに世界で使われていて、危険性や利便性はもちろん、画像生成、楽曲生成の際にはどうやれば個性を詰め込めるのかも研究した。権利問題ももちろんきちんと学んだ。 多分思い立った時から、専門書を20〜30冊は読んだと思う。 マーカーを引いて、付箋をつけて、調べられるだけ調べた。 実際AIを使ってお小遣い稼ぎをしてみよう!なんて項目のある本を見つけたならその日中に書かれてるままを実践。 LINEスタンプを作ってみたりもした。 販売の審査をきちんと通して販売も実行。 二、三ヶ月向き合ってみて分かったことは 便利だということ。 ほぼなんでも出来るし知識の情報源として有効に使えること。 使い手次第で、AI任せにも、自分の補佐にも出来ること。 収穫は大きかった。 自分の補佐をさせる事ができることと、AIに完全に任せて何かを作ることもできること、この両方を知った日には、「やっぱり先入観だけで嫌うもんじゃないな」とため息が出た。 これは、私の味方につけたい。 私が私らしく私の力でできることにはどうしたって限りがある。 作曲がまさにそれだろう。 作詞はできるが作曲はできない。これは向き合った時間の長さが 1人じゃ何も出来ないことを証明していた。 だが、AIがあれば私にも、出来ないを出来るにすることが可能なのだ。 そこからは綱渡りの気分だった。 主に、AIは私の曲作りの補佐をさせるものとしたが 全ては委ねたくない。 どうしても、私の手入れておきたいし 本当に便利性を大切にするなら、なおさら本当に自分の補佐だけに留めておくべきだと思った。 一歩間違えれば 私の入る隙のない完璧なものが出来上がってしまうAIの力に 対抗するには、作曲の知識をもっと持つ必要がある。 作曲アプリもそうだが画像を作り出すアプリやツールも、使い手に不足しているものをAIが補助してくれる。 ということは、不足してるものが多ければ多いほど機械任せになる。 ならば、やはり人間の力で、知識をつけよう。 そこからは苦手だった作曲のあらゆる知識を詰め込んだ。 最先端のツールのことも学びつつ、どんなふうな用語があるのか、音はどんなものをどんなリズムで打つのか。 楽譜の読めないタイプの私は挫折しかけること数十回。 ちんぷんかんぷんながらに叩き込んだ。 さて、いざ、AIを「補佐」として使ってみよう。 今まで叩き込んだ知識を詰め込んで 主導権を自分が持つ、AIとの作曲の日々を始めた。 歌詞は必ず自分の言葉で書く。 主体になる音は、私が打ち込む。 楽曲生成のツールは素材として使い、歌がまだ下手な私のかわりに歌わせるものとしても使う。 オリジナリティをAIとの作業につぎ込むことは知識があれど所詮初心者。やはり難しかった。 それでも向き合い続けたのは 生きていく時代に背を向ける人になりたくない。 そう思い続けたからであった。 そんな日々を送るうちに、曲は完成した。 完全に委ねてしまった訳じゃなく、ちゃんと私の思い描いていた曲をつけることが出来た。 これは、たしかに私の曲だ。そう思えるものができたのだった。 そこからは 一日に何十曲も作って、作ったものを披露する場所も早急に探した。 この技術に賛否があることを理由に、次は「作曲したものを世の中に出すのが怖い」と思い始めてしまいそうで それじゃあ作曲を頑張った意味が無い!と、まずは誰かに私の曲を使ってもらおうと考えたのだった。 ちょうど、行きつけの雑貨屋さんが主催するマルシェイベントがあった。 そこのお店とは不思議な縁で、実は私も現在はそのお店に自分の作ったものを置かせていただいている。 だから、マルシェに出店しない?と誘っていただけた時に 「よかったら会場内のBGM、作らせてくれませんか?」と打診した。 いいの!?と驚かれたが、私の方から頭を下げてお願いしたい事だったから喜んでもらえる反応は、有難かった。 世の中に、自分の作品を出してみなければ 賛否両論の否も聞くことが出来ない。 ならば、どんな意見があったとしても 隠れるより挑む方が賢明だ。 私の意思はこんなふうに固まっていた。 慣れてしまえばこっちのもんで、どんどん曲を作って 無事当日のマルシェイベント会場には私が作った曲が13曲ループで流れた。 当日私は、自身のハンドメイド品を売る出展者側だったのだが準備中から流れる自分の曲に感動してしまった。 きちんと誰かに聞いてもらえることが嬉しかったし家にはない大きなスピーカーからこの手で作った曲が流れていることには興奮した。 会場内で曲を流した結果大成功。 KーPOP風の曲調を自分で基盤作りし、歌詞を考え、歌わせる。 一息には言えない手間をかけた甲斐があった。なぜならどう聞いてもどこかのアイドルグループの曲なのに、そこには私の魂がきちんと強く大きく出ていた。 会場内で、「この曲どこのグループ?」とザワつく十代のお客様たちの反応が、嬉しかった。 主催者側からも、だいぶ気に入って貰えた。 私が曲を作った人だと知ったお客様の中には AI使ったら自分の曲じゃないじゃないとわざわざ伝えに来る人もいたが その否定意見さえ、自分が動かなければ聞けなかったものだった。

分類不能の職業
投稿時の年齢:25
新潟
投稿日時:
2025年11月29日
ドラマの時期:
2024年
--月
--日
文字数:4572

まだ喋らない、私の息子

現在4歳になった息子は、まだ言葉らしい言葉を話さない。 いわゆる発達障害である。 先日、療育手帳の発行を主治医に勧められた、といえばその程度がつたわるだろうか。 成長に偏りがあり、息子の場合は言葉を話す様子がなかなかみられなかったため療育園に通い始め今も月一の診察が欠かせない。 成長というものは人それぞれであるが ある程度の目安があり月齢に伴った成長があまりに遅れているとなれば別の問題が出てくる。 人によってはその現実から目を背けたくもなるだろう、私もきっとそのひとりだったのだ。 なかなか話さない息子に不安はあっても きっと、すぐに喋ってくれる、ママと呼んでくれるはず。 そう思い込むようにしながら生活していた。 普通にこだわるわけではなくても不安に勝てるほどまだ私は肝がすわってなかったのかもしれない。 しかし 言葉が伝わらないというのは想像していた何倍も苦難が多く、育児のストレスで私は両耳の難聴によく見舞われ始めた。 そうこうしてるうちに息子も2歳になる年になり、もう手を打たなければマズいと思い、2歳になる手前で小児科にいくと診察室に入るや否やすぐ「療育園への紹介状を出します」と医者が手配しはじめた。 あぁ、この子が話す日は遠いのか…と目の前が真っ暗になる想いだった。 我が子が心に抱えたものを言いたいのに言えないという現実に置かれていることが悲しくて悔しかった。 わかってあげられないことが、たまらなく辛かった。 伝わらないことが、本当に苦しかった。 療育園へ行くことになりすぐに療育は始まったが 通ってすぐに効果があるわけでもなく日々労力が募っていくだけにも思えた。 「いつ話せるようになるだろう」ということを心配して最初の三ヶ月間、毎回待ち時間に癇癪を起こす息子を宥めながら重い心で過ごしていた気がする。 難聴が癖になってしまった自身の体のことも夜が来るたびに責めた。親なのに、子供の声に耐えられずストレス難聴になったのかと今にして思えばそこまで自分を責める必要なんてないのに、当時離婚していたこともあってひとり親として自分が情けなかったのである。 早く息子の言葉を聞きたい。 どんなに反抗的でも構わない。この子の選ぶ言葉を聞きたい。 好きな色はなんだろう? 好きなお菓子はなんだろう? どうか明日、一言でいいから言葉を交わしたい。 その願いはまだ、かなったことは無い。 まだ、息子の言葉は、聞けてはいない。 しかし当初のような不安や願いは、息子の成長を見守る中で薄れていった。 療育園でも効果がなかなかみられない中、ある出来事が私の真っ暗だった世界に光を灯した。 それは、息子がまだ3歳になる前。療育園に通い出して三ヶ月もかからない頃の話。 私が第二子を出産するにあたり1週間家をあけた時のことだった。 まだ幼い息子に、事情も伝えられないまま家を空けることが心配だった私は出産中も息子のことが頭から離れないでいた。 いまごろ、突然いなくなったママを探してはいないだろうか。 不安に思っているのではないか。なんて気持ちで私は胸が張り裂けそうになっていた。 それもそのはず。 先ほど述べたように、私は離婚している。それも第二子出産前に。 息子からしたらある日突然人が居なくなり二度とかえってこないという体感をしてすぐに母がいなくなったのだ。 帰ってこないのではないかと不安になるには充分すぎる条件が揃っていた。ただでさえ母親の姿が見えなければ泣く年齢の息子には重すぎる現実だ。 事情を言葉で伝えられない今、息子がこころのどこかで私も同じように二度と会えない人になっているのではないか不安だった。 きっと私が息子の立場なら、不安でたまらないはずだとも思った。 早く、息子に会いたい。そして、ちゃんと帰ってきたよと安心させてあげたい。 考えれば考えるほど、息子の言葉の遅れがもたらす現実は息子を寂しくさせているような気がしてより一層、悔しい気持ちで涙がこぼれてしまっていた。 しかし、その頃息子は全く泣かなかったとあとから実家の母に聞いた。 1日だけではなく、私が退院するまでの7日間、ずっと泣かないでいたという。 ママが居なくても平気なわけではない。 普段ならば息子は真夜中に起きればすぐに大泣きをするのに 私の入院期間は真夜中に目が覚めてもそっと起きてリビングで翌日のご飯の仕込みをしてる私の母の元へちょっと遠慮気味にちょこちょこと歩いてきて、一緒に寝てくれるかやや不安そうに甘えてきたとのことだった。 息子は、なんの事情もわからないはずだ。 いや、言葉で伝わっていないのだ。 それなのに、息子は私がいない1週間、泣くのを我慢していた様子だったと母が教えてくれた。 全てを聞いた時、息子の心根を知った気がした。 優しいだけじゃない。 人を信じる強さを持った子だと確信した。 息子は、私を信じたのだ。 この幼さで 家族が必ず帰ってくると信じて、泣くことを我慢したのだ。そこにいない母の存在のために。 第二子を連れて帰ってきた日 息子は私を見るなり、びっくりするでも泣き崩れるでもなく 朗らかなえがおで、私の所へゆっくりと歩いてきた。 そして、目で、「おかえり」と言ってくれた。 そっと近寄る息子の胸には不安は絶対あっただろうに、 それを自分だけの胸にしまい込み私の腕にだかれていた自分の妹を見て少しだけ照れたような顔をしながらニコニコしている。 口で言えない「こんにちは」を伝えようとしている。 この子は、自分が話せないことを知っていながら、伝えることを諦めたことは無い。 わがままだってちゃんと言える。 伝わらないことで伝えることを諦めたことが一度もないことにもこの時気がついた。 目は口ほどに物を言う、とはよく言ったもので 妹にちょっと照れながら目を合わせる息子は、確かに妹にまで語りかけていた。 帰ってきた日の夜、寝ようとするとそっと私の隣に来て眠ったことを一生忘れないだろう。 普段は騒ぐだけ騒いでコテンと寝るこの子が、甘えて眠ったことを、絶対、忘れない。 一晩中その日だけは夜泣きをせずに私の裾を掴んで眠った。

分類不能の職業
投稿時の年齢:25
新潟
投稿日時:
2025年10月30日
ドラマの時期:
2023年
--月
--日
文字数:3705

職人として生きる男

家庭のことはまったく我関せずな塗装職人がいる。 酒にのまれるタイプで短気、オマケに顔は真顔が鬼のよう。花屋のバイトをしたら客が来なくなって裏方に回された事実を持っている般若顔の塗装職人、私の父である。 とにかく荒いとか酷い、という言葉が似合う人だったと思う。 外面が良いから周囲に話したところで理解して貰えないのだが家の中での父はそれはそれは酷かった。 まず、母を大切にしちゃいなかった。母は現在も絵描きや歌手といった個性に溢れる肩書きを持つ人だが父が昔何かに腹を立てた時母の絵を母本人の目の前でビリビリに引き裂いてしまった。あの時は「この男の塗った家を目の前で崩し倒してやりたい」と思った。 こんなんだからもちろん、子供のことなんて全く考えていない。 そのことが一番伝わる話をするならば、私がまだ3歳に満たないかどうかの時の事件がちょうどいい。 会社仲間と飲んだくれることが好きな父はなぜか夜桜の花見の席に私を連れていき、解散となった時にはべろべろに酔っ払っており 帰り際、私の大切な三輪車に父が跨り勝手に漕いで私は深夜、父に置き去りにされた。 三輪車もない、ここがどこかも分からない、不安で仕方なかったのは今も忘れられない。そりゃそうだ、まだ3歳に満たないかどうかだ。 私にも現在、同じくらいの娘がいるが、我が子の幼さを見ていると「この幼い子供が深夜一人で歩いている」なんてことはとんだ恐怖だとよく分かる。 幸い、母が見つけに来てくれたことで事なきを得たが子供に無関心の意味がこの事例をもってどれほどのものかは伝わったと思う。 父親として、まぁ、酷かった。 そんな父を、私は理解できる日が来るわけが無いと思っていたし、正直今でも父について分からないことだらけだ。 どうして、私は彼の娘として育ったのだろうと考えた月日は短いものではなかった。 そして答えが出ないことは、父と親子でいる以上、答えを出したい大きな悩みだった。 子は親を選べない、なんて言葉があるが親もそれは同じだろう。私は自分を見る父に対して、どこか申し訳なさがあった。父が、一人の人間として父親という責任の重さを煩わしく思っていることが共にすごして歳を追うごとに伝わってきていたからである。 でもそれなら母のことだけでも大切にして欲しかった。 荒ぶり怒る時は手をあげることもあった父。 正直に一言で言おう、大嫌いだった。 怖くて嫌味で、軽々しくて、母すら大切にしない父親が、大っ嫌いだった。 さて、以上は私が父を娘としてみた時の過去である。 娘が父親を娘視点以外で見た時、私は私が父の娘として育ったその理由にやっと行き着くことが出来た。 時は20歳前後。 私もひとりの大人になり、親になった。 まだ乳飲み子1人抱えただけの新米母ではあるが人の子の親になり、子を育てることの大変さに毎日驚いてばかりで自身の母親に脱帽してばかり。 親になってから、より一層私は父のことを理解できなくなっていたが、親になったからこそ子供を育てない親には時間があることに気がついた。しかし思い返すと父は仕事仲間との飲み会は毎日夕食どきから深夜であり土日は飲みに出かけた訳でもないのにいないことが多かった。なら、何をしていたのか。私が生まれてから20年間ほぼ休みなく親をせずに何をしていたのか。 仕事である。 父は、仕事を、ずっと ずっとしてきた人だったのだ。 塗装職人の仕事は、簡単じゃない。 職人の世界は全てそうであるように、塗装の世界も下っ端からスタートする。 母から聞いた話だが、今では依頼が溢れる職人の父も初めはハケすら持つことを許されず数十階のビルの階段を両手に20~30きろのペンキ缶持ち状態で何往復もして上にいる先輩職人に届けるところからスタートしたという。 さらに家をひとつ、ぽんと想像したとにペンキのはけをなんとなく想像してみてみれば分かるようにハケは家ひとつに対して小さい。 だがそれを真夏の炎天下の中つかって仕事をするわけだが屋根の上は地上よりももちろん暑い。 聞くだけで熱中症になりそうな話である。 そして、塗装だけが父の仕事ではなかった。 いつだったか、街でいちばん大きな橋を作るとなった時父は責任者を務めていた。 責任者を務めていた頃を思い出すと父が見たことの無いげっそりとした顔をしてなにかに落ち込んでいた姿がある。 この時の橋は今ももちろん現存していて街ではよく耳にする橋。 建築関係に関して、父はおそらくすごい人なんだろうとは幼い頃から思っていたが実際本当にすごい人だったことを大人になってからきちんと知った。 そうなるまで、なんども命の危機には晒されている。 熱中症で倒れたなんてよく聞く話になっていて、8階のビルから転落したなんてこともあった。 それでも仕事をやり続ける父は生まれながらの職人、それ以外の何者でもない。 やりがいを見出して、やり遂げるまでやり続ける、これが簡単じゃないことくらい 私にもわかる。 どんなに忙しくても親が親であることを放棄することは許されない。 だが、一個人の人生が命を賭けられるものも限られている。それが、父にとっては仕事だったのだ。 父は、否、彼は職人として生きるために人生があるのだ。 不器用な父は、父親としての立場と、自分の人生で賭けるべきものを両立することが出来なかったんだろう。 私の育った家庭に居たのは、父親ではなくひとりの職人だったのだ。 そう、なんとなくふと気がついた時に、私の中で憎しみは無くなった。 父と私が親子である理由もこの時、やっと分かったからである。 私は、人を憎みそうになった時、別の角度から相手を見ることを知れたのだ。 そりゃ家庭的ではなかった だが、その分ありえないくらい凄い腕を持って仕事をこなし目眩のしそうな日々を送り続けた父を、大人になって人の苦労を少しは想像できるようになった頃人としてすごいと素直に思った。 私なら、もし自分が男でも父の生きている道は生きられない。 現在父は50を超えた。だが普通の50歳よりも体にガタがきてる。屋根から落ちたりなんなり、色々あったし年中ほぼ無休で25年以上働いているのだから無理もない。 それでも、今日も出勤しているのだろう。 住まいが離れてからは、たまに顔を合わせる度、私の子供二人をとにかく可愛がってくれている。その可愛がる心の裏には昔私たち姉弟を蔑ろにしたことへの申し訳なさが滲み出ている。父の中でも、どこかで、親と職人のどちらか片方しか取れないことへの葛藤や悩みがあったのかもしれない。 不器用なのは、本人のせいではない。そこを責めるのは、虐めに思う。

分類不能の職業
投稿時の年齢:25
新潟
投稿日時:
2025年11月20日
ドラマの時期:
2020年
--月
--日
文字数:3157

破かれた参考書

ビリビリに破られた参考書を見たのは、小学四年生の夏頃が最初で最後だった。 足元に散らばるそれらは母が不登校のわたしのために買ってくれたもの。 そしてそれを破いたのは、買ってくれた母本人だった。 大人が子供に利己的な理由で我慢を強いたり、理不尽なねじ伏せかたを平気でしたりすることが嫌で、わたしは不登校になった。 クラスメイトからのイジメはあったと思うがその記憶が曖昧になるくらいには教師への不信感や猜疑心で満たされてしまっていた。 学校に少しずついかなくなったのは小学二年生。完全に行かない日々を過ごした訳ではなくても週に2回、行ければ良い方だった気がする。 だから四年生になった頃は当然周りとは学習に差がついてしまいもう追いつくことはほぼ不可能に近かった。 たった二、三年間だが、その二、三年間の遅れはこの先も響いていくわけで この事態に絶望して、どこから手をつけたらいいのかわからなくてもう普通に勉強なんてできないんだと諦めていた。 だから、やる気を出させようと母が参考書を何冊も買ってペンケースやその中身も新品にして揃えてくれた時、嬉しくはあったが 勉強に取り掛かった後で本当に自分が何も問題を解けない現実が見えるだけな気がしてしまい、怖くて手をつけられなかった。 怠惰にすごし、現実から逃げていた。世の中を知った気になってそのまま、堕落していく日々だった。 そんなわたしを見かねた母にも限界が来ていたのだと思う。 娘が学校へいかずに、好きな時間に起きて寝て 学習も諦めていたのだから 見守る側としてはストレスも、不安も溜まったもんじゃないだろう。今わたしも母になったからわかることだ。 家にいれば給食費とは別で昼代がかかる、心身への負担だけでなく家計にも負担をかけて私本人は拗ねて寝てばかり。参考書を買い与えたとてなんにも動きがなければがっかりもするし焦りもしただろう。 だから母は、私の部屋で新品の状態で積み上がっていた参考書たちを破いた。ある水曜日のことだった。 「あんたは!なんにもしないで!このままでいいとおもってんの!?」 ふて寝してた私の元へ、なんらかの用があった母は部屋に来るなりそれを見つけて私を叱り出した。 「こんなもの!買っても意味ないんか!!!どうしたらいいの!!」 一冊の参考書を手に取って叫ぶ。 この時点で反省はしていたが、どう母に話をしたらいいのかわからずただ怒られていることが嫌だったような気がする。 そんな私の態度も、母にとってはお見通しだったのだろう、参考書で私の頭をがんっと殴るとそのままビリビリと大きな音を立てながら分厚いそれを引き裂き始めた。 母の行動に驚いた私は、「おかあさん!やめてよ!ごめんなさい!ちゃんとやるから!大切にするから!やめて!」と止めたが母はやめなかった。 「不登校になって、かわいそうだと思うけど、学校に行かない選択をしてるのはあんたでしょう!!!! その責任はどこにあるの!!! 責任から逃げていいなんて教えた覚えはないよ!!!! 勉強をしたくてもできない人だって世界にはたくさんいるのに、あんたはただかわいそうなことを理由になんにもしてないだけじゃない!!」 叫んで、叫び続けて大粒の涙をこぼしながら自分が買った数冊の参考書や問題集を破り続けた。 その姿は、大人になった今でも鮮明に覚えているほど、胸に刺さっている。 それまで気がつかなかったが、私の行動はお金を無駄にした、なんてもんじゃない。 「人として人の気持ちを踏み躙った行動」だったのだ。 そして、ただ「なにもしない」という逃げ。それ以外の何者でもない。逃げて、人の心を踏み躙る阿呆だった。 ハッとしてからは、その場しのぎの言い訳は何にもできず 自分の傲慢さに、怠惰さに、ショックを受けた。 勉強を、めんどくさがっていただけ。 学校に行っていない、行けない、それは仕方ないことだとしてもその選択をしているのは自分なのだ。 追いつかないほどの差をまわりと感じていながら、知っていながら逃げていた自分が本当に恥ずかしく思えた。 全て破いた母は、よく考えろと叱って、部屋を後にした。 部屋に残ったのは、母の想いの形の参考書だったものたち。 泣きながら、それらを拾って、私は一晩中セロハンテープでやぶかれてシワクチャなページをくっつけながらいろんなことを考えていた。 人が取る責任に初めて気がついた日の夜だったと思う。 嫌なことがあって、そこから逃げたってかまわない。 けれど、逃げる選択をする以上、その先で自分が何をするのかは選択をした者の責任として考えて実行しなくては行けない。 それを知った時、今までの自分を何発でも殴りたい気持ちになった。 娘にこれを教えることは、ただナイフは危ないと教えることの何倍も難しい。 母はどんな想いで、紙を割いて、心を割いたのだろう。 考えれば考えるほどに、涙が止まらなくなった。自分が今からでもできることを、考えて、考えて、考えながらつなげた参考書のページたちは数ページ揃わなかったが問題を読めるくらいになおった。

分類不能の職業
投稿時の年齢:25
新潟
投稿日時:
2025年11月03日
ドラマの時期:
2009年
--月
--日
文字数:4276

失われた命、生まれた命

地面が揺れた。激しく上下左右に家ごと揺れたそれが新潟県中越地震だと知ったのはこの数年後。何もかもが壊れて崩れてゆきました。母は私を抱えてすぐに屋根が崩れてきても子を守れるように抱きしめてくれたのです。いえ、母のとっさの行動で守られたのは私だけじゃないのです。こんな時にもおなかの中で元気に動く男の子、すなわち私の弟を守っていたのです。 死者68名とされる地震のさなか母は臨月にはいっていました。 朝目が覚めるたびに今日は無事に母と弟が生きられるか不安に駆られていました。 避難生活は過酷で横になれる日が果たして何回あったことやら。 ほぼ車の中での寝泊まりがきつかったことは言うまでもありませんが体の小さな私で耐えるのがやっとだったあの生活は母にとっては生きたここちのしない日々たっただはず。 だから、最悪の事態を考えていたのでしょう。 ある日避難中の車の中で大きなはさみと貴重な2リットルの水、タオルを渡して言うのです。 「いい?ママはいつ赤ちゃんを産むかわからないの、だからこれを持っていて!もしお産が始まったらこれで赤ちゃんを取り上げて!」 「もし、ママが死んでも、命を諦めちゃダメ!あなたなら、できるから!」 幼い子供にはあまりに重い話でした。 母が死ぬことなんて考えたくない、駄々を捏ねたい。 でも、伝わったのです。 母の中で、今は守るべきもがあることが。 幼い私に託してでも、命を繋いでいくことを諦める姿を見せまいという意思を。 小さな私だからこそ、その先のことなんて考えませんでした。 この誰かの大切な人が生きられない時に 生まれてくる命があるならば お姉ちゃんになる私が、やるべきことがあるのだ。 この日からずっと強く頷き命をつないでいく約束は、生きている者の役目に思えてなりません。

分類不能の職業
投稿時の年齢:24
新潟
投稿日時:
2025年09月12日
ドラマの時期:
2004年
文字数:966