職人として生きる男



家庭のことはまったく我関せずな塗装職人がいる。
酒にのまれるタイプで短気、オマケに顔は真顔が鬼のよう。花屋のバイトをしたら客が来なくなって裏方に回された事実を持っている般若顔の塗装職人、私の父である。

とにかく荒いとか酷い、という言葉が似合う人だったと思う。
外面が良いから周囲に話したところで理解して貰えないのだが家の中での父はそれはそれは酷かった。
まず、母を大切にしちゃいなかった。母は現在も絵描きや歌手といった個性に溢れる肩書きを持つ人だが父が昔何かに腹を立てた時母の絵を母本人の目の前でビリビリに引き裂いてしまった。あの時は「この男の塗った家を目の前で崩し倒してやりたい」と思った。
こんなんだからもちろん、子供のことなんて全く考えていない。
そのことが一番伝わる話をするならば、私がまだ3歳に満たないかどうかの時の事件がちょうどいい。
会社仲間と飲んだくれることが好きな父はなぜか夜桜の花見の席に私を連れていき、解散となった時にはべろべろに酔っ払っており
帰り際、私の大切な三輪車に父が跨り勝手に漕いで私は深夜、父に置き去りにされた。
三輪車もない、ここがどこかも分からない、不安で仕方なかったのは今も忘れられない。そりゃそうだ、まだ3歳に満たないかどうかだ。
私にも現在、同じくらいの娘がいるが、我が子の幼さを見ていると「この幼い子供が深夜一人で歩いている」なんてことはとんだ恐怖だとよく分かる。
幸い、母が見つけに来てくれたことで事なきを得たが子供に無関心の意味がこの事例をもってどれほどのものかは伝わったと思う。

父親として、まぁ、酷かった。

そんな父を、私は理解できる日が来るわけが無いと思っていたし、正直今でも父について分からないことだらけだ。
どうして、私は彼の娘として育ったのだろうと考えた月日は短いものではなかった。
そして答えが出ないことは、父と親子でいる以上、答えを出したい大きな悩みだった。

子は親を選べない、なんて言葉があるが親もそれは同じだろう。私は自分を見る父に対して、どこか申し訳なさがあった。父が、一人の人間として父親という責任の重さを煩わしく思っていることが共にすごして歳を追うごとに伝わってきていたからである。
でもそれなら母のことだけでも大切にして欲しかった。
荒ぶり怒る時は手をあげることもあった父。
正直に一言で言おう、大嫌いだった。
怖くて嫌味で、軽々しくて、母すら大切にしない父親が、大っ嫌いだった。

さて、以上は私が父を娘としてみた時の過去である。
娘が父親を娘視点以外で見た時、私は私が父の娘として育ったその理由にやっと行き着くことが出来た。

時は20歳前後。
私もひとりの大人になり、親になった。
まだ乳飲み子1人抱えただけの新米母ではあるが人の子の親になり、子を育てることの大変さに毎日驚いてばかりで自身の母親に脱帽してばかり。
親になってから、より一層私は父のことを理解できなくなっていたが、親になったからこそ子供を育てない親には時間があることに気がついた。しかし思い返すと父は仕事仲間との飲み会は毎日夕食どきから深夜であり土日は飲みに出かけた訳でもないのにいないことが多かった。なら、何をしていたのか。私が生まれてから20年間ほぼ休みなく親をせずに何をしていたのか。

仕事である。
父は、仕事を、ずっと
ずっとしてきた人だったのだ。

塗装職人の仕事は、簡単じゃない。
職人の世界は全てそうであるように、塗装の世界も下っ端からスタートする。
母から聞いた話だが、今では依頼が溢れる職人の父も初めはハケすら持つことを許されず数十階のビルの階段を両手に20~30きろのペンキ缶持ち状態で何往復もして上にいる先輩職人に届けるところからスタートしたという。

さらに家をひとつ、ぽんと想像したとにペンキのはけをなんとなく想像してみてみれば分かるようにハケは家ひとつに対して小さい。
だがそれを真夏の炎天下の中つかって仕事をするわけだが屋根の上は地上よりももちろん暑い。
聞くだけで熱中症になりそうな話である。

そして、塗装だけが父の仕事ではなかった。
いつだったか、街でいちばん大きな橋を作るとなった時父は責任者を務めていた。
責任者を務めていた頃を思い出すと父が見たことの無いげっそりとした顔をしてなにかに落ち込んでいた姿がある。
この時の橋は今ももちろん現存していて街ではよく耳にする橋。
建築関係に関して、父はおそらくすごい人なんだろうとは幼い頃から思っていたが実際本当にすごい人だったことを大人になってからきちんと知った。

そうなるまで、なんども命の危機には晒されている。
熱中症で倒れたなんてよく聞く話になっていて、8階のビルから転落したなんてこともあった。
それでも仕事をやり続ける父は生まれながらの職人、それ以外の何者でもない。
やりがいを見出して、やり遂げるまでやり続ける、これが簡単じゃないことくらい
私にもわかる。

どんなに忙しくても親が親であることを放棄することは許されない。
だが、一個人の人生が命を賭けられるものも限られている。それが、父にとっては仕事だったのだ。
父は、否、彼は職人として生きるために人生があるのだ。
不器用な父は、父親としての立場と、自分の人生で賭けるべきものを両立することが出来なかったんだろう。

私の育った家庭に居たのは、父親ではなくひとりの職人だったのだ。
そう、なんとなくふと気がついた時に、私の中で憎しみは無くなった。
父と私が親子である理由もこの時、やっと分かったからである。
私は、人を憎みそうになった時、別の角度から相手を見ることを知れたのだ。

そりゃ家庭的ではなかった
だが、その分ありえないくらい凄い腕を持って仕事をこなし目眩のしそうな日々を送り続けた父を、大人になって人の苦労を少しは想像できるようになった頃人としてすごいと素直に思った。
私なら、もし自分が男でも父の生きている道は生きられない。

現在父は50を超えた。だが普通の50歳よりも体にガタがきてる。屋根から落ちたりなんなり、色々あったし年中ほぼ無休で25年以上働いているのだから無理もない。
それでも、今日も出勤しているのだろう。
住まいが離れてからは、たまに顔を合わせる度、私の子供二人をとにかく可愛がってくれている。その可愛がる心の裏には昔私たち姉弟を蔑ろにしたことへの申し訳なさが滲み出ている。父の中でも、どこかで、親と職人のどちらか片方しか取れないことへの葛藤や悩みがあったのかもしれない。
不器用なのは、本人のせいではない。そこを責めるのは、虐めに思う。

人の苦労を考えることや別の視点から人や物事を見ること、命をかけて仕事をするということを
私は娘として、父から学んだ。
きっとこれが
私が父の娘として育った理由なのだ。
悩みに終止符を、きちんと打てた。
多分、たまたま家族として今世、生きているだけ。人なんてみんなきっとそう。
それぞれ、大切なものがある。
だからといって許されるわけじゃないこともあるが父を尊敬したことが私の中の事実であり重要なことなのだ。

父の元で育って、よかった。
そう思えるくらいには、今、私は父を尊敬してる。もちろん人として。そう、親としてでなく、一人の、人間として。

体には気をつけてほしい。
怪我には気をつけて。
長生きしてください、日本一の塗装職人さん。

分類不能の職業
投稿時の年齢:25
新潟
投稿日時:2025年11月20日
ドラマの時期:
2020年
--月
--日
文字数:3157

筆者紹介

何者かになりたい20代です。
二人の子供を育てています。

信じる心だけは失わないで生きていこう、その気持ちが何万回裏切られようとも、、、いつしか聞いた言葉を胸に息をしています。
そっと生きる中で出会った出来事を一つ一つ書いていきます。
それがいつかどこかでどなたかの役に立つことを願っています。

職人として生きる男



家庭のことはまったく我関せずな塗装職人がいる。
酒にのまれるタイプで短気、オマケに顔は真顔が鬼のよう。花屋のバイトをしたら客が来なくなって裏方に回された事実を持っている般若顔の塗装職人、私の父である。

とにかく荒いとか酷い、という言葉が似合う人だったと思う。
外面が良いから周囲に話したところで理解して貰えないのだが家の中での父はそれはそれは酷かった。
まず、母を大切にしちゃいなかった。母は現在も絵描きや歌手といった個性に溢れる肩書きを持つ人だが父が昔何かに腹を立てた時母の絵を母本人の目の前でビリビリに引き裂いてしまった。あの時は「この男の塗った家を目の前で崩し倒してやりたい」と思った。
こんなんだからもちろん、子供のことなんて全く考えていない。
そのことが一番伝わる話をするならば、私がまだ3歳に満たないかどうかの時の事件がちょうどいい。
会社仲間と飲んだくれることが好きな父はなぜか夜桜の花見の席に私を連れていき、解散となった時にはべろべろに酔っ払っており
帰り際、私の大切な三輪車に父が跨り勝手に漕いで私は深夜、父に置き去りにされた。
三輪車もない、ここがどこかも分からない、不安で仕方なかったのは今も忘れられない。そりゃそうだ、まだ3歳に満たないかどうかだ。
私にも現在、同じくらいの娘がいるが、我が子の幼さを見ていると「この幼い子供が深夜一人で歩いている」なんてことはとんだ恐怖だとよく分かる。
幸い、母が見つけに来てくれたことで事なきを得たが子供に無関心の意味がこの事例をもってどれほどのものかは伝わったと思う。

父親として、まぁ、酷かった。
そんな父を、私は理解できる日が来るわけが無いと思っていたし、正直今でも父について分からないことだらけだ。
どうして、私は彼の娘として育ったのだろうと考えた月日は短いものではなかった。
そして答えが出ないことは、父と親子でいる以上、答えを出したい大きな悩みだった。

子は親を選べない、なんて言葉があるが親もそれは同じだろう。私は自分を見る父に対して、どこか申し訳なさがあった。父が、一人の人間として父親という責任の重さを煩わしく思っていることが共にすごして歳を追うごとに伝わってきていたからである。
でもそれなら母のことだけでも大切にして欲しかった。
荒ぶり怒る時は手をあげることもあった父。
正直に一言で言おう、大嫌いだった。
怖くて嫌味で、軽々しくて、母すら大切にしない父親が、大っ嫌いだった。

さて、以上は私が父を娘としてみた時の過去である。
娘が父親を娘視点以外で見た時、私は私が父の娘として育ったその理由にやっと行き着くことが出来た。

時は20歳前後。
私もひとりの大人になり、親になった。
まだ乳飲み子1人抱えただけの新米母ではあるが人の子の親になり、子を育てることの大変さに毎日驚いてばかりで自身の母親に脱帽してばかり。
親になってから、より一層私は父のことを理解できなくなっていたが、親になったからこそ子供を育てない親には時間があることに気がついた。しかし思い返すと父は仕事仲間との飲み会は毎日夕食どきから深夜であり土日は飲みに出かけた訳でもないのにいないことが多かった。なら、何をしていたのか。私が生まれてから20年間ほぼ休みなく親をせずに何をしていたのか。

仕事である。
父は、仕事を、ずっと
ずっとしてきた人だったのだ。

塗装職人の仕事は、簡単じゃない。
職人の世界は全てそうであるように、塗装の世界も下っ端からスタートする。
母から聞いた話だが、今では依頼が溢れる職人の父も初めはハケすら持つことを許されず数十階のビルの階段を両手に20~30きろのペンキ缶持ち状態で何往復もして上にいる先輩職人に届けるところからスタートしたという。

さらに家をひとつ、ぽんと想像したとにペンキのはけをなんとなく想像してみてみれば分かるようにハケは家ひとつに対して小さい。
だがそれを真夏の炎天下の中つかって仕事をするわけだが屋根の上は地上よりももちろん暑い。
聞くだけで熱中症になりそうな話である。

そして、塗装だけが父の仕事ではなかった。
いつだったか、街でいちばん大きな橋を作るとなった時父は責任者を務めていた。
責任者を務めていた頃を思い出すと父が見たことの無いげっそりとした顔をしてなにかに落ち込んでいた姿がある。
この時の橋は今ももちろん現存していて街ではよく耳にする橋。
建築関係に関して、父はおそらくすごい人なんだろうとは幼い頃から思っていたが実際本当にすごい人だったことを大人になってからきちんと知った。

そうなるまで、なんども命の危機には晒されている。
熱中症で倒れたなんてよく聞く話になっていて、8階のビルから転落したなんてこともあった。
それでも仕事をやり続ける父は生まれながらの職人、それ以外の何者でもない。
やりがいを見出して、やり遂げるまでやり続ける、これが簡単じゃないことくらい
私にもわかる。

どんなに忙しくても親が親であることを放棄することは許されない。
だが、一個人の人生が命を賭けられるものも限られている。それが、父にとっては仕事だったのだ。
父は、否、彼は職人として生きるために人生があるのだ。
不器用な父は、父親としての立場と、自分の人生で賭けるべきものを両立することが出来なかったんだろう。

私の育った家庭に居たのは、父親ではなくひとりの職人だったのだ。
そう、なんとなくふと気がついた時に、私の中で憎しみは無くなった。
父と私が親子である理由もこの時、やっと分かったからである。
私は、人を憎みそうになった時、別の角度から相手を見ることを知れたのだ。

そりゃ家庭的ではなかった
だが、その分ありえないくらい凄い腕を持って仕事をこなし目眩のしそうな日々を送り続けた父を、大人になって人の苦労を少しは想像できるようになった頃人としてすごいと素直に思った。
私なら、もし自分が男でも父の生きている道は生きられない。

現在父は50を超えた。だが普通の50歳よりも体にガタがきてる。屋根から落ちたりなんなり、色々あったし年中ほぼ無休で25年以上働いているのだから無理もない。
それでも、今日も出勤しているのだろう。
住まいが離れてからは、たまに顔を合わせる度、私の子供二人をとにかく可愛がってくれている。その可愛がる心の裏には昔私たち姉弟を蔑ろにしたことへの申し訳なさが滲み出ている。父の中でも、どこかで、親と職人のどちらか片方しか取れないことへの葛藤や悩みがあったのかもしれない。
不器用なのは、本人のせいではない。そこを責めるのは、虐めに思う。
人の苦労を考えることや別の視点から人や物事を見ること、命をかけて仕事をするということを
私は娘として、父から学んだ。
きっとこれが
私が父の娘として育った理由なのだ。
悩みに終止符を、きちんと打てた。
多分、たまたま家族として今世、生きているだけ。人なんてみんなきっとそう。
それぞれ、大切なものがある。
だからといって許されるわけじゃないこともあるが父を尊敬したことが私の中の事実であり重要なことなのだ。

父の元で育って、よかった。
そう思えるくらいには、今、私は父を尊敬してる。もちろん人として。そう、親としてでなく、一人の、人間として。

体には気をつけてほしい。
怪我には気をつけて。
長生きしてください、日本一の塗装職人さん。
分類不能の職業
投稿時の年齢:25
新潟
投稿日時:
2025年11月20日
ドラマの時期:
2020年
--月
--日
文字数:3157

筆者紹介

何者かになりたい20代です。
二人の子供を育てています。

信じる心だけは失わないで生きていこう、その気持ちが何万回裏切られようとも、、、いつしか聞いた言葉を胸に息をしています。
そっと生きる中で出会った出来事を一つ一つ書いていきます。
それがいつかどこかでどなたかの役に立つことを願っています。