破かれた参考書

ビリビリに破られた参考書を見たのは、小学四年生の夏頃が最初で最後だった。
足元に散らばるそれらは母が不登校のわたしのために買ってくれたもの。
そしてそれを破いたのは、買ってくれた母本人だった。
大人が子供に利己的な理由で我慢を強いたり、理不尽なねじ伏せかたを平気でしたりすることが嫌で、わたしは不登校になった。
クラスメイトからのイジメはあったと思うがその記憶が曖昧になるくらいには教師への不信感や猜疑心で満たされてしまっていた。
学校に少しずついかなくなったのは小学二年生。完全に行かない日々を過ごした訳ではなくても週に2回、行ければ良い方だった気がする。
だから四年生になった頃は当然周りとは学習に差がついてしまいもう追いつくことはほぼ不可能に近かった。
たった二、三年間だが、その二、三年間の遅れはこの先も響いていくわけで
この事態に絶望して、どこから手をつけたらいいのかわからなくてもう普通に勉強なんてできないんだと諦めていた。
だから、やる気を出させようと母が参考書を何冊も買ってペンケースやその中身も新品にして揃えてくれた時、嬉しくはあったが
勉強に取り掛かった後で本当に自分が何も問題を解けない現実が見えるだけな気がしてしまい、怖くて手をつけられなかった。
怠惰にすごし、現実から逃げていた。世の中を知った気になってそのまま、堕落していく日々だった。
そんなわたしを見かねた母にも限界が来ていたのだと思う。
娘が学校へいかずに、好きな時間に起きて寝て
学習も諦めていたのだから
見守る側としてはストレスも、不安も溜まったもんじゃないだろう。今わたしも母になったからわかることだ。
家にいれば給食費とは別で昼代がかかる、心身への負担だけでなく家計にも負担をかけて私本人は拗ねて寝てばかり。参考書を買い与えたとてなんにも動きがなければがっかりもするし焦りもしただろう。

だから母は、私の部屋で新品の状態で積み上がっていた参考書たちを破いた。ある水曜日のことだった。
「あんたは!なんにもしないで!このままでいいとおもってんの!?」
ふて寝してた私の元へ、なんらかの用があった母は部屋に来るなりそれを見つけて私を叱り出した。
「こんなもの!買っても意味ないんか!!!どうしたらいいの!!」
一冊の参考書を手に取って叫ぶ。
この時点で反省はしていたが、どう母に話をしたらいいのかわからずただ怒られていることが嫌だったような気がする。
そんな私の態度も、母にとってはお見通しだったのだろう、参考書で私の頭をがんっと殴るとそのままビリビリと大きな音を立てながら分厚いそれを引き裂き始めた。
母の行動に驚いた私は、「おかあさん!やめてよ!ごめんなさい!ちゃんとやるから!大切にするから!やめて!」と止めたが母はやめなかった。
「不登校になって、かわいそうだと思うけど、学校に行かない選択をしてるのはあんたでしょう!!!!
その責任はどこにあるの!!!
責任から逃げていいなんて教えた覚えはないよ!!!!
勉強をしたくてもできない人だって世界にはたくさんいるのに、あんたはただかわいそうなことを理由になんにもしてないだけじゃない!!」
叫んで、叫び続けて大粒の涙をこぼしながら自分が買った数冊の参考書や問題集を破り続けた。
その姿は、大人になった今でも鮮明に覚えているほど、胸に刺さっている。
それまで気がつかなかったが、私の行動はお金を無駄にした、なんてもんじゃない。
「人として人の気持ちを踏み躙った行動」だったのだ。
そして、ただ「なにもしない」という逃げ。それ以外の何者でもない。逃げて、人の心を踏み躙る阿呆だった。
ハッとしてからは、その場しのぎの言い訳は何にもできず
自分の傲慢さに、怠惰さに、ショックを受けた。
勉強を、めんどくさがっていただけ。
学校に行っていない、行けない、それは仕方ないことだとしてもその選択をしているのは自分なのだ。
追いつかないほどの差をまわりと感じていながら、知っていながら逃げていた自分が本当に恥ずかしく思えた。
全て破いた母は、よく考えろと叱って、部屋を後にした。
部屋に残ったのは、母の想いの形の参考書だったものたち。
泣きながら、それらを拾って、私は一晩中セロハンテープでやぶかれてシワクチャなページをくっつけながらいろんなことを考えていた。
人が取る責任に初めて気がついた日の夜だったと思う。
嫌なことがあって、そこから逃げたってかまわない。
けれど、逃げる選択をする以上、その先で自分が何をするのかは選択をした者の責任として考えて実行しなくては行けない。
それを知った時、今までの自分を何発でも殴りたい気持ちになった。
娘にこれを教えることは、ただナイフは危ないと教えることの何倍も難しい。
母はどんな想いで、紙を割いて、心を割いたのだろう。
考えれば考えるほどに、涙が止まらなくなった。自分が今からでもできることを、考えて、考えて、考えながらつなげた参考書のページたちは数ページ揃わなかったが問題を読めるくらいになおった。

朝日が昇った頃、数冊分の紙束が揃った。気がつけば夜通し紙と紙をつなぎ合わせながら、いろんなことを考えていた。この一晩を過ごせたことを、大人になる度ありがたく思えるようになった。それくらい、責任というものと向き合えたのである。
きっと、気絶するように眠ってしまっていたのだと思う。
目が覚めると朝日は登りきって昼になっていた。とっくに投稿時間は過ぎている。おそらく、朝部屋の外から声がけはされたのかもしれないが眠っていた私は答えられず、この日も休むのねと母が学校に連絡をしたのだろう。
今日も学校を休んだ、と今置かれてる状況を整理してから徹夜でまとめた紙束たちを見つめた。
これを持って、謝りに行くことはなんだか違う気がする、この束を見せつけるより私にできる行動で母に謝ろう…。
まとめた紙束は机の上に置いたまま、母に謝りに行った。
母のいる部屋を開けないまま、おかあさん…と声をかける。
数秒の間があったのちに、なに、とそっけない声が返ってきた。
母の顔が見たい。ごめんなさいを顔を見て言いたい。でも。
「おかあさん、昨日はごめんなさい…」
ぐっと、たくさんの言葉を飲み込んで、伝える。
「参考書、なおった…これからは、大切にするね…今までごめんね」
返事はなかった。母も1人の人間。ここで「はいよくできました」なんて言えるのはロボットだけだ。
返事がないことにショックはなかった。聞いてくれただけで嬉しかった。あとは、行動して伝えねばいけない。その日から私はセロハンテープでつなぎ合わされた参考書の束で何時間も勉強した。
まずは、周りとついてしまった差を取り返さなければいけないと思った。
母が買ってくれていた新品の鉛筆は三ヶ月で小さくなって
相変わらず学校にはいけないでいたけれど私を見た母はいつのまにか日々の中で笑ってくれていて、許してくれていた。
許されるだけでは、ダメ。
泣いていた母だけに許されるのではなく、泣いて叱る母のその日までの苦悩や葛藤に対しても誠意を見せたい、許されたいわけじゃないけれども許してくれるくらいに頑張りたかった。
人の想いと、自分の行動に伴ってついてくる責任を長く放置していたことを一回のごめんなさいで済ませていいわけがない、相応の努力と結果を出してやっと謝罪ができる。
ただその気持ちだけで走り切るように続けた勉強は、三ヶ月経つ頃には同級生と肩を並べられる学習能力を生み出していた。
さらに二ヶ月経つ頃には小学六年生序盤の学習にまで辿り着いていて、良い意味で周りと差がついていた。
いつのまにか、「勉強には問題ない」と言われるようになっていた。
できない自分を認めたくなくて怯えていた私を変えてくれたのは、責任とは何かという目に見えなくて伝えることがとても難しい課題を全力で教えて、想いを伝えて、涙を流してくれた母だった。
悩んだ母に、教えてくれた母に伝えるごめんなさいは私の一生を持って示せるようにしようと誓って、今日もいきている。
この判断が、正解か不正解かはこれを読んでくださっているあなたに委ねたい。
当時の私の判断は、今大人になった私が考えても「人としての責任の取り方」として誠意のある行動ができていたか、まだ判別できないでいるのである。
数年悩んだ母へのごめんなさいを一生かけて…という決断には、首を傾げる人もいると思う。
しかし、これは結局私のためでもあることをお伝えしてこの話を終えたい。
私は、きっと何かを許されれば許されるほど傲慢で怠惰な人になるのだと思う。それに気がつけたことを、自分の誇りにしてしまってはこれまたその悦に浸りどこかしらに優越感を持ってしまう、それほどに自分が自分に流されやすいのが私なのだ。
だから、想いや責任に気がつけたままに、生きていきたい。ごめんなさいとあの日の母に言える自分でいたい。
そう考えての、結論なのである。
いつだって人は、何かの責任の上にいる。
そこには誰かの想いがある。
それがいいものか、厄介なものか、わからないけれど、確かにある。
全てから目を背けて目を逸らしていたら、いつのまにかいろんなものが怖くなってしまって果たせる責任も、温かい誰かの想いも踏み躙ってしまう。その瞬間本当の奈落に落ちるだろう。
だから目を開けて、現実を見て、できることから、答えられることから目を逸らさないで生きていたい。
これは、破られた参考書の答えが全て埋まる頃、私が考えていた人生の形である。
後日談をここで、少しだけ。
学び続けた結果、私は学ぶことが好きになっていた。誰かより上の成績に喜んでいたわけではなく
学ぶことで広がる視野の大きさに自分の世界が動いたのだ。不貞腐れて部屋にこもっていた小学四年生の女の子は、20歳になる頃には三カ国の言葉を自分で習得して言葉というものに人生を半分委ねる大人になる。あの時叱ってくれた母には「こんなに勉強してほしかったわけじゃないよ…ちょっとやりすぎ…」と苦笑いされるようになった。だれがどうなるかは、わからないものである。ちょっぴり笑えるこの話は、また次の機会に…。

分類不能の職業
投稿時の年齢:25
新潟
投稿日時:2025年11月03日
ドラマの時期:
2009年
--月
--日
文字数:4276

筆者紹介

何者かになりたい20代です。
二人の子供を育てています。

信じる心だけは失わないで生きていこう、その気持ちが何万回裏切られようとも、、、いつしか聞いた言葉を胸に息をしています。
そっと生きる中で出会った出来事を一つ一つ書いていきます。
それがいつかどこかでどなたかの役に立つことを願っています。

破かれた参考書

ビリビリに破られた参考書を見たのは、小学四年生の夏頃が最初で最後だった。
足元に散らばるそれらは母が不登校のわたしのために買ってくれたもの。
そしてそれを破いたのは、買ってくれた母本人だった。
大人が子供に利己的な理由で我慢を強いたり、理不尽なねじ伏せかたを平気でしたりすることが嫌で、わたしは不登校になった。
クラスメイトからのイジメはあったと思うがその記憶が曖昧になるくらいには教師への不信感や猜疑心で満たされてしまっていた。
学校に少しずついかなくなったのは小学二年生。完全に行かない日々を過ごした訳ではなくても週に2回、行ければ良い方だった気がする。
だから四年生になった頃は当然周りとは学習に差がついてしまいもう追いつくことはほぼ不可能に近かった。
たった二、三年間だが、その二、三年間の遅れはこの先も響いていくわけで
この事態に絶望して、どこから手をつけたらいいのかわからなくてもう普通に勉強なんてできないんだと諦めていた。
だから、やる気を出させようと母が参考書を何冊も買ってペンケースやその中身も新品にして揃えてくれた時、嬉しくはあったが
勉強に取り掛かった後で本当に自分が何も問題を解けない現実が見えるだけな気がしてしまい、怖くて手をつけられなかった。
怠惰にすごし、現実から逃げていた。世の中を知った気になってそのまま、堕落していく日々だった。
そんなわたしを見かねた母にも限界が来ていたのだと思う。
娘が学校へいかずに、好きな時間に起きて寝て
学習も諦めていたのだから
見守る側としてはストレスも、不安も溜まったもんじゃないだろう。今わたしも母になったからわかることだ。
家にいれば給食費とは別で昼代がかかる、心身への負担だけでなく家計にも負担をかけて私本人は拗ねて寝てばかり。参考書を買い与えたとてなんにも動きがなければがっかりもするし焦りもしただろう。
だから母は、私の部屋で新品の状態で積み上がっていた参考書たちを破いた。ある水曜日のことだった。
「あんたは!なんにもしないで!このままでいいとおもってんの!?」
ふて寝してた私の元へ、なんらかの用があった母は部屋に来るなりそれを見つけて私を叱り出した。
「こんなもの!買っても意味ないんか!!!どうしたらいいの!!」
一冊の参考書を手に取って叫ぶ。
この時点で反省はしていたが、どう母に話をしたらいいのかわからずただ怒られていることが嫌だったような気がする。
そんな私の態度も、母にとってはお見通しだったのだろう、参考書で私の頭をがんっと殴るとそのままビリビリと大きな音を立てながら分厚いそれを引き裂き始めた。
母の行動に驚いた私は、「おかあさん!やめてよ!ごめんなさい!ちゃんとやるから!大切にするから!やめて!」と止めたが母はやめなかった。
「不登校になって、かわいそうだと思うけど、学校に行かない選択をしてるのはあんたでしょう!!!!
その責任はどこにあるの!!!
責任から逃げていいなんて教えた覚えはないよ!!!!
勉強をしたくてもできない人だって世界にはたくさんいるのに、あんたはただかわいそうなことを理由になんにもしてないだけじゃない!!」
叫んで、叫び続けて大粒の涙をこぼしながら自分が買った数冊の参考書や問題集を破り続けた。
その姿は、大人になった今でも鮮明に覚えているほど、胸に刺さっている。
それまで気がつかなかったが、私の行動はお金を無駄にした、なんてもんじゃない。
「人として人の気持ちを踏み躙った行動」だったのだ。
そして、ただ「なにもしない」という逃げ。それ以外の何者でもない。逃げて、人の心を踏み躙る阿呆だった。
ハッとしてからは、その場しのぎの言い訳は何にもできず
自分の傲慢さに、怠惰さに、ショックを受けた。
勉強を、めんどくさがっていただけ。
学校に行っていない、行けない、それは仕方ないことだとしてもその選択をしているのは自分なのだ。
追いつかないほどの差をまわりと感じていながら、知っていながら逃げていた自分が本当に恥ずかしく思えた。
全て破いた母は、よく考えろと叱って、部屋を後にした。
部屋に残ったのは、母の想いの形の参考書だったものたち。
泣きながら、それらを拾って、私は一晩中セロハンテープでやぶかれてシワクチャなページをくっつけながらいろんなことを考えていた。
人が取る責任に初めて気がついた日の夜だったと思う。
嫌なことがあって、そこから逃げたってかまわない。
けれど、逃げる選択をする以上、その先で自分が何をするのかは選択をした者の責任として考えて実行しなくては行けない。
それを知った時、今までの自分を何発でも殴りたい気持ちになった。
娘にこれを教えることは、ただナイフは危ないと教えることの何倍も難しい。
母はどんな想いで、紙を割いて、心を割いたのだろう。
考えれば考えるほどに、涙が止まらなくなった。自分が今からでもできることを、考えて、考えて、考えながらつなげた参考書のページたちは数ページ揃わなかったが問題を読めるくらいになおった。
朝日が昇った頃、数冊分の紙束が揃った。気がつけば夜通し紙と紙をつなぎ合わせながら、いろんなことを考えていた。この一晩を過ごせたことを、大人になる度ありがたく思えるようになった。それくらい、責任というものと向き合えたのである。
きっと、気絶するように眠ってしまっていたのだと思う。
目が覚めると朝日は登りきって昼になっていた。とっくに投稿時間は過ぎている。おそらく、朝部屋の外から声がけはされたのかもしれないが眠っていた私は答えられず、この日も休むのねと母が学校に連絡をしたのだろう。
今日も学校を休んだ、と今置かれてる状況を整理してから徹夜でまとめた紙束たちを見つめた。
これを持って、謝りに行くことはなんだか違う気がする、この束を見せつけるより私にできる行動で母に謝ろう…。
まとめた紙束は机の上に置いたまま、母に謝りに行った。
母のいる部屋を開けないまま、おかあさん…と声をかける。
数秒の間があったのちに、なに、とそっけない声が返ってきた。
母の顔が見たい。ごめんなさいを顔を見て言いたい。でも。
「おかあさん、昨日はごめんなさい…」
ぐっと、たくさんの言葉を飲み込んで、伝える。
「参考書、なおった…これからは、大切にするね…今までごめんね」
返事はなかった。母も1人の人間。ここで「はいよくできました」なんて言えるのはロボットだけだ。
返事がないことにショックはなかった。聞いてくれただけで嬉しかった。あとは、行動して伝えねばいけない。その日から私はセロハンテープでつなぎ合わされた参考書の束で何時間も勉強した。
まずは、周りとついてしまった差を取り返さなければいけないと思った。
母が買ってくれていた新品の鉛筆は三ヶ月で小さくなって
相変わらず学校にはいけないでいたけれど私を見た母はいつのまにか日々の中で笑ってくれていて、許してくれていた。
許されるだけでは、ダメ。
泣いていた母だけに許されるのではなく、泣いて叱る母のその日までの苦悩や葛藤に対しても誠意を見せたい、許されたいわけじゃないけれども許してくれるくらいに頑張りたかった。
人の想いと、自分の行動に伴ってついてくる責任を長く放置していたことを一回のごめんなさいで済ませていいわけがない、相応の努力と結果を出してやっと謝罪ができる。
ただその気持ちだけで走り切るように続けた勉強は、三ヶ月経つ頃には同級生と肩を並べられる学習能力を生み出していた。
さらに二ヶ月経つ頃には小学六年生序盤の学習にまで辿り着いていて、良い意味で周りと差がついていた。
いつのまにか、「勉強には問題ない」と言われるようになっていた。
できない自分を認めたくなくて怯えていた私を変えてくれたのは、責任とは何かという目に見えなくて伝えることがとても難しい課題を全力で教えて、想いを伝えて、涙を流してくれた母だった。
悩んだ母に、教えてくれた母に伝えるごめんなさいは私の一生を持って示せるようにしようと誓って、今日もいきている。
この判断が、正解か不正解かはこれを読んでくださっているあなたに委ねたい。
当時の私の判断は、今大人になった私が考えても「人としての責任の取り方」として誠意のある行動ができていたか、まだ判別できないでいるのである。
数年悩んだ母へのごめんなさいを一生かけて…という決断には、首を傾げる人もいると思う。
しかし、これは結局私のためでもあることをお伝えしてこの話を終えたい。
私は、きっと何かを許されれば許されるほど傲慢で怠惰な人になるのだと思う。それに気がつけたことを、自分の誇りにしてしまってはこれまたその悦に浸りどこかしらに優越感を持ってしまう、それほどに自分が自分に流されやすいのが私なのだ。
だから、想いや責任に気がつけたままに、生きていきたい。ごめんなさいとあの日の母に言える自分でいたい。
そう考えての、結論なのである。
いつだって人は、何かの責任の上にいる。
そこには誰かの想いがある。
それがいいものか、厄介なものか、わからないけれど、確かにある。
全てから目を背けて目を逸らしていたら、いつのまにかいろんなものが怖くなってしまって果たせる責任も、温かい誰かの想いも踏み躙ってしまう。その瞬間本当の奈落に落ちるだろう。
だから目を開けて、現実を見て、できることから、答えられることから目を逸らさないで生きていたい。
これは、破られた参考書の答えが全て埋まる頃、私が考えていた人生の形である。
後日談をここで、少しだけ。
学び続けた結果、私は学ぶことが好きになっていた。誰かより上の成績に喜んでいたわけではなく
学ぶことで広がる視野の大きさに自分の世界が動いたのだ。不貞腐れて部屋にこもっていた小学四年生の女の子は、20歳になる頃には三カ国の言葉を自分で習得して言葉というものに人生を半分委ねる大人になる。あの時叱ってくれた母には「こんなに勉強してほしかったわけじゃないよ…ちょっとやりすぎ…」と苦笑いされるようになった。だれがどうなるかは、わからないものである。ちょっぴり笑えるこの話は、また次の機会に…。
分類不能の職業
投稿時の年齢:25
新潟
投稿日時:
2025年11月03日
ドラマの時期:
2009年
--月
--日
文字数:4276

筆者紹介

何者かになりたい20代です。
二人の子供を育てています。

信じる心だけは失わないで生きていこう、その気持ちが何万回裏切られようとも、、、いつしか聞いた言葉を胸に息をしています。
そっと生きる中で出会った出来事を一つ一つ書いていきます。
それがいつかどこかでどなたかの役に立つことを願っています。