受け継ぐ物、紡ぐもの。

私には形式上、事情上含め祖母と呼べる人は4人いる。
1人は、実父の母
もう1人は継父の母
もう1人は母の母
最後のひとりは、母の母の姉、つまり、叔母である。
叔母は、私だけでなく母方のいとこ兄弟全員が、第2の祖母と慕う方である。
独身を貫き、知恵を持ち、賢く、器用な、方である。
彼女がいなければ、我々従兄弟一同だけでなく、母や母の姉(従兄弟の母)は生きるためのハードルが益々高くなっていただろう。
皆が世話になり、皆が慕うその人は
以前記事に書いた私の曽祖父、地主の曽祖父の長女に当たる。

どうして彼女が独身なのかは
詳しく聞いていない。聞くべきでない、本人が話さないのなら聞かない。働き者で、忍耐力のある彼女は、私たちいとこ一同をよく可愛がってくれるが
中でも私はひとしお可愛がられている自覚がある。
それはきっと、一時期彼女が母親替わりのように世話をしてくれたからだろう。
その話を、今日はしよう。

弟が事故にあい、付き添いが必要だからと母と弟か入院で家を空けた時期は2ヶ月ほどだったと思う。
父(継父)は洗濯物1枚干すことの出来ない、職人としての腕は確かでも家庭の中ではお世辞にも良い父と言えない人だったため当時小学三年生だった私は、弟の入院に母が付き添うことになった際父だけに頼ることは難しいと悟り、不安でたまらなかった。
そこで、車で10分ほどの距離に一人暮らしをしていた叔母が仕事を続けながら私の世話をするために私の住むアパートにしばらく滞在してくれることとなった。
今思えば、通勤距離が倍になり、どんな日も自転車通勤していたわけだから酷だったと思う。
それでも、私は叔母がいてくれることに安堵した。
初めて母が長期不在となり、母自身も不安だっただろう。
だが、我々母子を同時に安心させることができるほど、叔母は落ち着いていた。
叔母との日々は、少し緊張したが、今振り返ればかけがえの無い思い出である。
記憶のどこを探しても父が世話をしてくれた記憶がないのは言わずもがな。家事は全て、叔母がしてくれた。
その時、家事のコツなども幼い私に教えてくれた。
仕事が休みの日は自分の仕事先であるイオンに連れて行ってくれて髪をとかすコームや、可愛らしい髪飾りを買い与えてくれた。
店内ではしゃいでいると叔母の同僚が「あら、お孫さん?」と、叔母に声をかけてきた。その時叔母は、否定せず、「うん、連れてきた」と笑っていた。
それが、嬉しかった。
昔から、孫のように可愛がられてることは分かっていたが、目の前で、孫として他人に紹介してもらえたことが、光栄に感じたのだ。
この時から、私は心の中で「この人は、私の祖母だ、私は母方に祖母がふたりいるんだ、孫としていつか、孝行したい」と、思うようになった。

時が経ち、現在25歳となった私は相変わらずその気持ちを持ち続けているのだが、当時と状況はだいぶ変わった。
私は再婚し、別の家に住み、体もガタがきた叔母は、祖母と共に私の実家に移り住んだ。ふたりが暮らす部屋は私が実家にいた際に使っていた部屋だった。
引越しが終わった時、お祝いを兼ねて叔母、祖母、父、母、私、私の夫、私の子供2人、私の弟(引越し作業に駆り出されて埼玉県から新潟県まで呼びつけられて帰省した、また背が伸びた気がする、私を見下ろすために伸びているのかと思うと脛を蹴りたくなる。)の、大勢が集まった。
ちょっといい食事処を予約してワイワイと楽しんだ。
ここまで人数が多いと、会話がまとまらず
2~3人ずつ別々の話をして盛り上がり、時々話の流れで全員がひとつの話題に集まるを繰り返していた。
その中でふと、叔母が私に話をした。
誰も私たちの会話は聞いていない。そのタイミングで叔母は言った。
「今度、私が持ってるアクセサリーを全部まとめてあげるね」と。
何気ないことに見えるだろうが、何気ないことなんかじゃないとすぐに分かった。
なにせ、叔母がアクセサリーを持っていることなんて、そもそも誰も想像つかない。堅実で、オシャレは好きでも彼女がアクセサリーをつけてる所なんて私は見たことがほとんどなかった。あるとすればシュシュで髪を結んでいた程度か、髪をピンで止める実用的な方法だった。
だが、叔母はつづけた。
「そんなに高価なものじゃないけどね、ネックレスとか耳飾りがある、着物もあるから、今度渡すね」
着物。
きっと、昔に仕立てたものだろう。
叔母が私に譲ると言っているそれらは、私が幼い頃には既にあったはず。それでも私たちがその存在を知らない、つまり、使わなくても大切にしていた、宝物なのだ。
本当に私が受け継いでいいのか迷ったが
叔母の言葉に、ありがとうと、頷くことを選んだ。

後日、本当に受け継いだ。
美しい着物数着、そして張り鼈甲という技法が使われたバラのペンダントを始めとした10本前後のペンダント。珊瑚を加工したペンダントが多く、全てきちんとケースに仕舞われていた。
耳飾りもダイヤが埋め込まれている。よほど大切にされてきたのだろう、ひとつとして錆び付いていたり輝きを失ったものは無かった。
驚いたのは、叔母がくれたアクセサリーのほとんどが私の好みと似ていたことだ。
ほんの偶然だろう、でも、ある理由で黄色のバラと片翼のモチーフが好きな私の手元には、叔母が若い頃に買ったというアクセサリーがあり、まさにその中のいくつかが、黄色のバラや、片翼のモチーフのアクセサリーだった。
こんな偶然があるのかと思うと共に
これは、私が受け継いで大切にするために今日まで輝きを失わないで居てくれたのとも思った。少し驕りのある考えだが、一つ一つのアクセサリーも次の持ち主として私を許してくれた気がしたのだ。

強く、賢く、優しい叔母…私の2人目の祖母は
宝物を受け継ぐ相手に、私を選んでくれた。
その事は、この人生において
有難いことであり
誇らしいことであり
光栄で、幸せなことである。

何度もお礼を伝えた。それでもまだ伝え足りない。
人が人に何かを受け継がせるとき、相応の思いがあることを私は知っている。
物の値段的価値ではなく
受け継がれる前、確かに持ち主の人生に関わっていた一つ一つの品物には値段ではつけられない価値がある。
叔母は、口には出さなかったが
きっと、終活の一環として生きている間の形見分けをしたのだろう。

生涯、受け継いだこれらを大切にしようと、固く誓った。同時に、私もいつか子供に、孫に、何かを譲り渡し、誇りを与えられるような人になりたいと思った。

尊敬している人の
大切なものを受け継ぐ時
そこに含まれる本当の意味を、理解できる人間でありつづけたい。
生きた証を値段的価値ではなく、誇りという形で受け継ぎ、いつか私も、誰かに受け継がせる。
そんな人生の繋がりを、途絶えさせてはならない。
この想いを、ここに記しておくことが、少しの祖母孝行になればいいと願い
また
誰かへの受け継ぎになると、願っている。

分類不能の職業
投稿時の年齢:25
新潟
投稿日時:2026年07月18日
ドラマの時期:
2009年
--月
--日
文字数:2947

筆者紹介

25歳二児の母、ハンドメイドとライティングがお仕事。趣味は音楽や写真、勉強。
実父と実母、継父の3人の親がおります。
鬱病と発達障害を持ち合わせているけどそれなりに元気に生きてます。
何故か多動の人生。
心が折れることもしばしば。
でも、生きてるなら、大丈夫。

受け継ぐ物、紡ぐもの。

私には形式上、事情上含め祖母と呼べる人は4人いる。
1人は、実父の母
もう1人は継父の母
もう1人は母の母
最後のひとりは、母の母の姉、つまり、叔母である。
叔母は、私だけでなく母方のいとこ兄弟全員が、第2の祖母と慕う方である。
独身を貫き、知恵を持ち、賢く、器用な、方である。
彼女がいなければ、我々従兄弟一同だけでなく、母や母の姉(従兄弟の母)は生きるためのハードルが益々高くなっていただろう。
皆が世話になり、皆が慕うその人は
以前記事に書いた私の曽祖父、地主の曽祖父の長女に当たる。
どうして彼女が独身なのかは
詳しく聞いていない。聞くべきでない、本人が話さないのなら聞かない。働き者で、忍耐力のある彼女は、私たちいとこ一同をよく可愛がってくれるが
中でも私はひとしお可愛がられている自覚がある。
それはきっと、一時期彼女が母親替わりのように世話をしてくれたからだろう。
その話を、今日はしよう。

弟が事故にあい、付き添いが必要だからと母と弟か入院で家を空けた時期は2ヶ月ほどだったと思う。
父(継父)は洗濯物1枚干すことの出来ない、職人としての腕は確かでも家庭の中ではお世辞にも良い父と言えない人だったため当時小学三年生だった私は、弟の入院に母が付き添うことになった際父だけに頼ることは難しいと悟り、不安でたまらなかった。
そこで、車で10分ほどの距離に一人暮らしをしていた叔母が仕事を続けながら私の世話をするために私の住むアパートにしばらく滞在してくれることとなった。
今思えば、通勤距離が倍になり、どんな日も自転車通勤していたわけだから酷だったと思う。
それでも、私は叔母がいてくれることに安堵した。
初めて母が長期不在となり、母自身も不安だっただろう。
だが、我々母子を同時に安心させることができるほど、叔母は落ち着いていた。
叔母との日々は、少し緊張したが、今振り返ればかけがえの無い思い出である。
記憶のどこを探しても父が世話をしてくれた記憶がないのは言わずもがな。家事は全て、叔母がしてくれた。
その時、家事のコツなども幼い私に教えてくれた。
仕事が休みの日は自分の仕事先であるイオンに連れて行ってくれて髪をとかすコームや、可愛らしい髪飾りを買い与えてくれた。
店内ではしゃいでいると叔母の同僚が「あら、お孫さん?」と、叔母に声をかけてきた。その時叔母は、否定せず、「うん、連れてきた」と笑っていた。
それが、嬉しかった。
昔から、孫のように可愛がられてることは分かっていたが、目の前で、孫として他人に紹介してもらえたことが、光栄に感じたのだ。
この時から、私は心の中で「この人は、私の祖母だ、私は母方に祖母がふたりいるんだ、孫としていつか、孝行したい」と、思うようになった。
時が経ち、現在25歳となった私は相変わらずその気持ちを持ち続けているのだが、当時と状況はだいぶ変わった。
私は再婚し、別の家に住み、体もガタがきた叔母は、祖母と共に私の実家に移り住んだ。ふたりが暮らす部屋は私が実家にいた際に使っていた部屋だった。
引越しが終わった時、お祝いを兼ねて叔母、祖母、父、母、私、私の夫、私の子供2人、私の弟(引越し作業に駆り出されて埼玉県から新潟県まで呼びつけられて帰省した、また背が伸びた気がする、私を見下ろすために伸びているのかと思うと脛を蹴りたくなる。)の、大勢が集まった。
ちょっといい食事処を予約してワイワイと楽しんだ。
ここまで人数が多いと、会話がまとまらず
2~3人ずつ別々の話をして盛り上がり、時々話の流れで全員がひとつの話題に集まるを繰り返していた。
その中でふと、叔母が私に話をした。
誰も私たちの会話は聞いていない。そのタイミングで叔母は言った。
「今度、私が持ってるアクセサリーを全部まとめてあげるね」と。
何気ないことに見えるだろうが、何気ないことなんかじゃないとすぐに分かった。
なにせ、叔母がアクセサリーを持っていることなんて、そもそも誰も想像つかない。堅実で、オシャレは好きでも彼女がアクセサリーをつけてる所なんて私は見たことがほとんどなかった。あるとすればシュシュで髪を結んでいた程度か、髪をピンで止める実用的な方法だった。
だが、叔母はつづけた。
「そんなに高価なものじゃないけどね、ネックレスとか耳飾りがある、着物もあるから、今度渡すね」
着物。
きっと、昔に仕立てたものだろう。
叔母が私に譲ると言っているそれらは、私が幼い頃には既にあったはず。それでも私たちがその存在を知らない、つまり、使わなくても大切にしていた、宝物なのだ。
本当に私が受け継いでいいのか迷ったが
叔母の言葉に、ありがとうと、頷くことを選んだ。

後日、本当に受け継いだ。
美しい着物数着、そして張り鼈甲という技法が使われたバラのペンダントを始めとした10本前後のペンダント。珊瑚を加工したペンダントが多く、全てきちんとケースに仕舞われていた。
耳飾りもダイヤが埋め込まれている。よほど大切にされてきたのだろう、ひとつとして錆び付いていたり輝きを失ったものは無かった。
驚いたのは、叔母がくれたアクセサリーのほとんどが私の好みと似ていたことだ。
ほんの偶然だろう、でも、ある理由で黄色のバラと片翼のモチーフが好きな私の手元には、叔母が若い頃に買ったというアクセサリーがあり、まさにその中のいくつかが、黄色のバラや、片翼のモチーフのアクセサリーだった。
こんな偶然があるのかと思うと共に
これは、私が受け継いで大切にするために今日まで輝きを失わないで居てくれたのとも思った。少し驕りのある考えだが、一つ一つのアクセサリーも次の持ち主として私を許してくれた気がしたのだ。

強く、賢く、優しい叔母…私の2人目の祖母は
宝物を受け継ぐ相手に、私を選んでくれた。
その事は、この人生において
有難いことであり
誇らしいことであり
光栄で、幸せなことである。

何度もお礼を伝えた。それでもまだ伝え足りない。
人が人に何かを受け継がせるとき、相応の思いがあることを私は知っている。
物の値段的価値ではなく
受け継がれる前、確かに持ち主の人生に関わっていた一つ一つの品物には値段ではつけられない価値がある。
叔母は、口には出さなかったが
きっと、終活の一環として生きている間の形見分けをしたのだろう。

生涯、受け継いだこれらを大切にしようと、固く誓った。同時に、私もいつか子供に、孫に、何かを譲り渡し、誇りを与えられるような人になりたいと思った。

尊敬している人の
大切なものを受け継ぐ時
そこに含まれる本当の意味を、理解できる人間でありつづけたい。
生きた証を値段的価値ではなく、誇りという形で受け継ぎ、いつか私も、誰かに受け継がせる。
そんな人生の繋がりを、途絶えさせてはならない。
この想いを、ここに記しておくことが、少しの祖母孝行になればいいと願い
また
誰かへの受け継ぎになると、願っている。
分類不能の職業
投稿時の年齢:25
新潟
投稿日時:
2026年07月18日
ドラマの時期:
2009年
--月
--日
文字数:2947

筆者紹介

25歳二児の母、ハンドメイドとライティングがお仕事。趣味は音楽や写真、勉強。
実父と実母、継父の3人の親がおります。
鬱病と発達障害を持ち合わせているけどそれなりに元気に生きてます。
何故か多動の人生。
心が折れることもしばしば。
でも、生きてるなら、大丈夫。