中卒で社会に出るという環境

 今、だいたいの子供は当たり前に高校に入学し、大学に進学しているように思われる。
 私の時代は、今ほど進学率が高かったわけではないが、言うほど低いわけではなかった。
 当時、中学一学年が300人程度、その中で高校に進学せずに、中卒で働き始める子供は10人未満だったろうか。
 だいたいの理由は、勉強が嫌いか(教育)、家が貧乏(貧困)の2種類なので、中卒で働く子供は「普通」では無い存在だったのかもしれない。

 この、色々な事情があろうこの10人未満の中に私もいたのであった。

 私は小学生の時には、すでに勉強が嫌いで授業をまともに聞いていられなかった。

 勉強が面白く感じなかった事は今でも鮮明に思えている。
 そのまま、勉強が嫌いなまま中学にあがったが、もちろん成績が上がるわけでも無く、運動も得意ではない、そうなると周りにもバカにされる。学校も休みがちになり、そのまま登校拒否。

 そのまま3年になり、ダメもとで受けた底辺の高校にも落ちた。

 そんな状況でも、当時は特に何も考えてはいなかったように思う。
 今になって思えば、学級主任の先生は、毎日電話くれたり、夜に連れ出してくれたりしたものだ。(進路も心配してくれて、調理の専門学校を紹介してくれた。)

 でも、そんな他人の親切すら感じる事も出来ない悲しい子供だった事に、今ではただ恥じるのみである。
 ようするに、考える事すら放棄した子供だった。

 当時の環境だが、両親が小2で離婚、母親と姉との3人で狭いアパートに暮らしていた。

 母親は夜の水商売で私たちを育てていたが、当時を振り返ってもかなりの貧乏だった事は忘れられない思い出だ。(そこのつらさはなぜか感じなかった)

 とはいえ、そのままで良いはずもなく、中学を卒業して直ぐに、偶然母親の店に来た社長の会社で仕事が見つかった。
 でも、働く場所は住んでいる岩手県ではなく、なんと三重県、岩手県から遠く離れた三重県に当時15歳の子供が働きにいったのだ。
 その時の事で覚えているのは、働く話が来て2日後にはその客(会社の社長)にさらわれるようにつれていかれた事。
 そして、母親が5千円だけ持たしてくれた事。(それだけ家には余裕が無かったのだろう。)
 今はあまり言わないかもしれないが、口減らしの意味もあったかもしれない。

 文章の最初の方で、中卒で働く主な理由の2つが、「教育」と「貧困」と書いたが、私の場合はその二つが見事に該当していた。

 もし、最初からまともな「教育」があれば、どこからかの援助を受けられたかも知れない。

 もし「貧困」が無ければ、この年齢で遠くに働きに行かなくても良かったかもしれない。

 しかし、今人生を振り返ってみると、この後の三重県の経験が、今の自分をささえた大きなかてとなった。

 それはその後の教育、その教育の成果である貧困からの脱出につながる事になる。

無職
投稿時の年齢:47
東京
投稿日時:2022年03月24日
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:1250

筆者紹介

こんにちは
育った場所は岩手県盛岡市。
家庭環境はお世辞にも良いとは言えませんでしたが、色々と人生を積み重ねて今は幸せに過ごしてます。

去年、会社を退職後、楽しむ人生を過ごすて行くために模索中です。

趣味:
読書(漫画、小説、なんでもござれ)、アニメ鑑賞、ゲーム、旅行、料理

性格:
周りの人からは悩みなんか無さそうと思われてますが、実際は神経質です。

中卒で社会に出るという環境

 今、だいたいの子供は当たり前に高校に入学し、大学に進学しているように思われる。
 私の時代は、今ほど進学率が高かったわけではないが、言うほど低いわけではなかった。
 当時、中学一学年が300人程度、その中で高校に進学せずに、中卒で働き始める子供は10人未満だったろうか。
 だいたいの理由は、勉強が嫌いか(教育)、家が貧乏(貧困)の2種類なので、中卒で働く子供は「普通」では無い存在だったのかもしれない。

 この、色々な事情があろうこの10人未満の中に私もいたのであった。
 私は小学生の時には、すでに勉強が嫌いで授業をまともに聞いていられなかった。

 勉強が面白く感じなかった事は今でも鮮明に思えている。
 そのまま、勉強が嫌いなまま中学にあがったが、もちろん成績が上がるわけでも無く、運動も得意ではない、そうなると周りにもバカにされる。学校も休みがちになり、そのまま登校拒否。

 そのまま3年になり、ダメもとで受けた底辺の高校にも落ちた。

 そんな状況でも、当時は特に何も考えてはいなかったように思う。
 今になって思えば、学級主任の先生は、毎日電話くれたり、夜に連れ出してくれたりしたものだ。(進路も心配してくれて、調理の専門学校を紹介してくれた。)

 でも、そんな他人の親切すら感じる事も出来ない悲しい子供だった事に、今ではただ恥じるのみである。
 ようするに、考える事すら放棄した子供だった。
 当時の環境だが、両親が小2で離婚、母親と姉との3人で狭いアパートに暮らしていた。

 母親は夜の水商売で私たちを育てていたが、当時を振り返ってもかなりの貧乏だった事は忘れられない思い出だ。(そこのつらさはなぜか感じなかった)

 とはいえ、そのままで良いはずもなく、中学を卒業して直ぐに、偶然母親の店に来た社長の会社で仕事が見つかった。
 でも、働く場所は住んでいる岩手県ではなく、なんと三重県、岩手県から遠く離れた三重県に当時15歳の子供が働きにいったのだ。
 その時の事で覚えているのは、働く話が来て2日後にはその客(会社の社長)にさらわれるようにつれていかれた事。
 そして、母親が5千円だけ持たしてくれた事。(それだけ家には余裕が無かったのだろう。)
 今はあまり言わないかもしれないが、口減らしの意味もあったかもしれない。

 文章の最初の方で、中卒で働く主な理由の2つが、「教育」と「貧困」と書いたが、私の場合はその二つが見事に該当していた。

 もし、最初からまともな「教育」があれば、どこからかの援助を受けられたかも知れない。

 もし「貧困」が無ければ、この年齢で遠くに働きに行かなくても良かったかもしれない。

 しかし、今人生を振り返ってみると、この後の三重県の経験が、今の自分をささえた大きなかてとなった。

 それはその後の教育、その教育の成果である貧困からの脱出につながる事になる。
無職
投稿時の年齢:47
東京
投稿日時:
2022年03月24日
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:1250

筆者紹介

こんにちは
育った場所は岩手県盛岡市。
家庭環境はお世辞にも良いとは言えませんでしたが、色々と人生を積み重ねて今は幸せに過ごしてます。

去年、会社を退職後、楽しむ人生を過ごすて行くために模索中です。

趣味:
読書(漫画、小説、なんでもござれ)、アニメ鑑賞、ゲーム、旅行、料理

性格:
周りの人からは悩みなんか無さそうと思われてますが、実際は神経質です。