AGE

50

Autobiography

中国での生活と目の前の拳銃

 普通に日本に住んでいる人は、拳銃を生で見る機会はないだろう。  だが、私は一度だけ見た事がある。それも、銃口は目の前1センチくらいの超近距離。その時の事を思い出してみよう。  それは、今から二十数年前、私が中国の北京に留学していた時だった。  当時の中国は、今の中国と比べて物価も安く、日本円で30円もあればラーメンが食べられたし、数人で近所の食堂に行っても150円もあれば、そこそこ良い食事が出来た時代だった。  だが、留学といっても基本的に無駄遣いは厳禁。私は、あまり余裕のない学生だったため、普段の食事はそれなりに質素にしていた。  とはいえ、ときには気晴らしも必要。週末になると、周りにいた日本人や韓国人留学生と共に食事に出かけた。  当時、よく行ったのは「五道口」と呼ばれるところだ。  そこは、外国人留学生が多く集まり、韓国人街もあったため、頻繁に焼肉を食べに行った。  交通手段だが、たいていは友達と一緒にタクシーに乗り込んだ。所要時間は、私たちが住んでいた宿舎から30分ほどだ。 そこで焼肉を食べ、お酒を飲み、かなり酔った状態で帰るのだが、遅くなりすぎるとタクシーが捕まらない。  では、どうするかというと、白タクがいるのでそれに乗る。  ちなみに、白タクとは国から許可を受けていない不法タクシーの事である。一般の中国人も普通に使うので、金額交渉さえちゃんと行い、遠回りされないように気をつけていればほぼ問題はない。  その時も、そのつもりで乗ったのだが、いつの間にか寝てしまった。  とはいえ、一緒に乗った友達もいたので、通常なら寝てても問題はない。  でも、その時は「コンコンコンコン」という音で起こされた。  「うるさいなぁ」と感じながら目を開けると、タクシーの窓ガラス越しの目の前に、銃口が見えた。

ドラマの時期:
1999年
--月
--日
文字数:1067
投稿時の年齢:47

中卒で社会に出るという環境

 今、だいたいの子供は当たり前に高校に入学し、大学に進学しているように思われる。  私の時代は、今ほど進学率が高かったわけではないが、言うほど低いわけではなかった。  当時、中学一学年が300人程度、その中で高校に進学せずに、中卒で働き始める子供は10人未満だったろうか。  だいたいの理由は、勉強が嫌いか(教育)、家が貧乏(貧困)の2種類なので、中卒で働く子供は「普通」では無い存在だったのかもしれない。  この、色々な事情があろうこの10人未満の中に私もいたのであった。  私は小学生の時には、すでに勉強が嫌いで授業をまともに聞いていられなかった。  勉強が面白く感じなかった事は今でも鮮明に思えている。  そのまま、勉強が嫌いなまま中学にあがったが、もちろん成績が上がるわけでも無く、運動も得意ではない、そうなると周りにもバカにされる。学校も休みがちになり、そのまま登校拒否。  そのまま3年になり、ダメもとで受けた底辺の高校にも落ちた。  そんな状況でも、当時は特に何も考えてはいなかったように思う。  今になって思えば、学級主任の先生は、毎日電話くれたり、夜に連れ出してくれたりしたものだ。(進路も心配してくれて、調理の専門学校を紹介してくれた。)  でも、そんな他人の親切すら感じる事も出来ない悲しい子供だった事に、今ではただ恥じるのみである。  ようするに、考える事すら放棄した子供だった。

ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:1250
投稿時の年齢:47

新しい場所、15歳で社会に出た環境での現実逃避

 知らない場所、知らない人、知らないルール。  今の自分から思えば「なにも感じる事すら出来ない」、そんな子供だったから、あの環境に順応する事が出来たのではないだろうか。  現実世界で現実逃避していた中学時代。  でも、社会に出てからも、その現実逃避はもう少し続いた。     会社は、今でいう派遣会社、三重県の車メーカ―工場に派遣される人たち。  当時は「派遣工」とか「外注」とかいわれていた。  住んだ場所は、雇ってもらった派遣会社の社宅、社宅といってもマンションの1階にある3DKの普通の部屋、そこには、既に当時30歳前後の菅野さん(男性仮名)が住んでいた。  菅野さんは、会社ではリーダー的な人で、何もしらない私になにかと世話をしてくれた優しい人。  繰り返しだが、当時本当に私は人に何かをしてもらって感謝するとか、あまり考えない子供だった。  朝食を作ってもらっても、夕食を作ってもらっても「もうしわけない」とかすら感じなかった。  又、菅野さんは仲間が多く、頻繁にバーベキューなど行っており、私もつれて行かれたが、「楽しい」、「美味しい」など、たいした反応もしなかったので、今思えば本当に面白味のない、かわいげのない、そっけない子供に見えた事だろう。

ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:935
投稿時の年齢:47

はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト

 私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。  ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。  まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。  そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。  その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。  正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。  ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。  それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。  例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。  そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。  では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。  当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。  話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。  そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。  たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。  ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。  実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。  そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。  仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。  まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。  素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。  また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。  さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。  このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。  夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。  そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)  

ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:2532
投稿時の年齢:47

子供が一人で行う役所の手続き

 中学を卒業して15歳で岩手県から一人で三重県に就職したが、働きはじめて社長に「役所」に行って「国保」の手続きをしてこいと言われた。  もちろん、当時の私は、最初何言われたか分からなかった。  「国保」とは国民健康保険の事だ。  私が就職した会社は有限会社だったせいなのか、社会保険ではなく国民健康保険だったと思う。  とはいえ、当時は「国保」でも1割負担で通院出来たので国民健康保険でも社会保険でも大した問題ではなかった。  社長から、「役所で手続きしてこい」と言われた時の事はうっすらとしか覚えていないが、役所での事は良く覚えている。  突然だが、当時の私は身長が低く幼かった。  なので、役所に入っても窓口が高く、話を聞くために窓口の向こうから係の人がこっちまで来てくれた。  社長に言われた必要な物は持って行った。  国保の手続き上問題はなかったと思うが、子供にしか見えない子が役所に一人で訪れて、国民健康保険加入の手続きをしたいと言った時、なんとも言えない顔をされた気がする。又はそんな雰囲気になった感じがする。  あと、うっすらとだが、アメをくれたのは覚えている。

ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:677
投稿時の年齢:47
AGE

50

Autobiography

中国での生活と目の前の拳銃

 普通に日本に住んでいる人は、拳銃を生で見る機会はないだろう。  だが、私は一度だけ見た事がある。それも、銃口は目の前1センチくらいの超近距離。その時の事を思い出してみよう。  それは、今から二十数年前、私が中国の北京に留学していた時だった。  当時の中国は、今の中国と比べて物価も安く、日本円で30円もあればラーメンが食べられたし、数人で近所の食堂に行っても150円もあれば、そこそこ良い食事が出来た時代だった。  だが、留学といっても基本的に無駄遣いは厳禁。私は、あまり余裕のない学生だったため、普段の食事はそれなりに質素にしていた。  とはいえ、ときには気晴らしも必要。週末になると、周りにいた日本人や韓国人留学生と共に食事に出かけた。  当時、よく行ったのは「五道口」と呼ばれるところだ。  そこは、外国人留学生が多く集まり、韓国人街もあったため、頻繁に焼肉を食べに行った。  交通手段だが、たいていは友達と一緒にタクシーに乗り込んだ。所要時間は、私たちが住んでいた宿舎から30分ほどだ。 そこで焼肉を食べ、お酒を飲み、かなり酔った状態で帰るのだが、遅くなりすぎるとタクシーが捕まらない。  では、どうするかというと、白タクがいるのでそれに乗る。  ちなみに、白タクとは国から許可を受けていない不法タクシーの事である。一般の中国人も普通に使うので、金額交渉さえちゃんと行い、遠回りされないように気をつけていればほぼ問題はない。  その時も、そのつもりで乗ったのだが、いつの間にか寝てしまった。  とはいえ、一緒に乗った友達もいたので、通常なら寝てても問題はない。  でも、その時は「コンコンコンコン」という音で起こされた。  「うるさいなぁ」と感じながら目を開けると、タクシーの窓ガラス越しの目の前に、銃口が見えた。

無職
投稿時の年齢:47
東京
投稿日時:
2022年04月01日
ドラマの時期:
1999年
--月
--日
文字数:1067

中卒で社会に出るという環境

 今、だいたいの子供は当たり前に高校に入学し、大学に進学しているように思われる。  私の時代は、今ほど進学率が高かったわけではないが、言うほど低いわけではなかった。  当時、中学一学年が300人程度、その中で高校に進学せずに、中卒で働き始める子供は10人未満だったろうか。  だいたいの理由は、勉強が嫌いか(教育)、家が貧乏(貧困)の2種類なので、中卒で働く子供は「普通」では無い存在だったのかもしれない。  この、色々な事情があろうこの10人未満の中に私もいたのであった。  私は小学生の時には、すでに勉強が嫌いで授業をまともに聞いていられなかった。  勉強が面白く感じなかった事は今でも鮮明に思えている。  そのまま、勉強が嫌いなまま中学にあがったが、もちろん成績が上がるわけでも無く、運動も得意ではない、そうなると周りにもバカにされる。学校も休みがちになり、そのまま登校拒否。  そのまま3年になり、ダメもとで受けた底辺の高校にも落ちた。  そんな状況でも、当時は特に何も考えてはいなかったように思う。  今になって思えば、学級主任の先生は、毎日電話くれたり、夜に連れ出してくれたりしたものだ。(進路も心配してくれて、調理の専門学校を紹介してくれた。)  でも、そんな他人の親切すら感じる事も出来ない悲しい子供だった事に、今ではただ恥じるのみである。  ようするに、考える事すら放棄した子供だった。

無職
投稿時の年齢:47
東京
投稿日時:
2022年03月24日
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:1250

新しい場所、15歳で社会に出た環境での現実逃避

 知らない場所、知らない人、知らないルール。  今の自分から思えば「なにも感じる事すら出来ない」、そんな子供だったから、あの環境に順応する事が出来たのではないだろうか。  現実世界で現実逃避していた中学時代。  でも、社会に出てからも、その現実逃避はもう少し続いた。     会社は、今でいう派遣会社、三重県の車メーカ―工場に派遣される人たち。  当時は「派遣工」とか「外注」とかいわれていた。  住んだ場所は、雇ってもらった派遣会社の社宅、社宅といってもマンションの1階にある3DKの普通の部屋、そこには、既に当時30歳前後の菅野さん(男性仮名)が住んでいた。  菅野さんは、会社ではリーダー的な人で、何もしらない私になにかと世話をしてくれた優しい人。  繰り返しだが、当時本当に私は人に何かをしてもらって感謝するとか、あまり考えない子供だった。  朝食を作ってもらっても、夕食を作ってもらっても「もうしわけない」とかすら感じなかった。  又、菅野さんは仲間が多く、頻繁にバーベキューなど行っており、私もつれて行かれたが、「楽しい」、「美味しい」など、たいした反応もしなかったので、今思えば本当に面白味のない、かわいげのない、そっけない子供に見えた事だろう。

無職
投稿時の年齢:47
東京
投稿日時:
2022年03月28日
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:935

はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト

 私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。  ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。  まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。  そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。  その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。  正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。  ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。  それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。  例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。  そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。  では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。  当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。  話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。  そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。  たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。  ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。  実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。  そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。  仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。  まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。  素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。  また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。  さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。  このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。  夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。  そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)  

無職
投稿時の年齢:47
東京
投稿日時:
2022年03月28日
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:2532

子供が一人で行う役所の手続き

 中学を卒業して15歳で岩手県から一人で三重県に就職したが、働きはじめて社長に「役所」に行って「国保」の手続きをしてこいと言われた。  もちろん、当時の私は、最初何言われたか分からなかった。  「国保」とは国民健康保険の事だ。  私が就職した会社は有限会社だったせいなのか、社会保険ではなく国民健康保険だったと思う。  とはいえ、当時は「国保」でも1割負担で通院出来たので国民健康保険でも社会保険でも大した問題ではなかった。  社長から、「役所で手続きしてこい」と言われた時の事はうっすらとしか覚えていないが、役所での事は良く覚えている。  突然だが、当時の私は身長が低く幼かった。  なので、役所に入っても窓口が高く、話を聞くために窓口の向こうから係の人がこっちまで来てくれた。  社長に言われた必要な物は持って行った。  国保の手続き上問題はなかったと思うが、子供にしか見えない子が役所に一人で訪れて、国民健康保険加入の手続きをしたいと言った時、なんとも言えない顔をされた気がする。又はそんな雰囲気になった感じがする。  あと、うっすらとだが、アメをくれたのは覚えている。

無職
投稿時の年齢:47
東京
投稿日時:
2022年03月30日
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:677