ふとした瞬間に見られる育ちの良し悪し
歴史の浅い土地で生まれ育った私は、俗に言う「良家」という存在とは無縁で大人になりました。今の世の中に身分というものは存在していませんが、ごく一部の上流階級では今でも家の格式なるものがあると噂されています。
良家ではないとしても、育ちのよい人というものはいるもので、あるときそんな人とすれ違い驚いたことがあります。
もう10年も前になりますが、私は仲の良い友人夫婦と鎌倉旅行へ行きました。鎌倉には昔から親戚が住んでいて縁がなかったわけではないのですが、その時初めての鎌倉でした。
憧れの江ノ電へ乗り江の島などを楽しんだ初日を終え、2日目のランチである蕎麦割烹を訪れたときちょっとした「驚き」に遭遇しました。
食事を終え建物の玄関へ向かうと、靴を入れている場所の前に上品そうな老齢のご婦人がスツールに腰かけていました。靴を取り出したかったので「すいません、その下から靴を出したいのですが」と声を掛けました。
すると上品そうなご婦人が少し驚いた表情をして「ごめんあそばせ」と言ってそこを避けてくれました。
生まれて初めての「ごめんあそばせ」です。この言葉が現実に使われていることに少し感動を覚えました。普段から使っている言葉ではないと咄嗟には出ないものです。人によってはどうでも良いような瞬間でしょうが、自分に足りないものが見えたような気がしました。
お店を出て移動のため江ノ電の停留所へ行った私たちでしたが、友人がボソッと「あの”ごめんあそばせ”すごく自然だったよね」と言うのを聞いて、一番大切にしているその友人が同じことを思ったことに嬉しさを感じた在りし日の鎌倉での出来事です。
ひねくれ者と言われることの多いオッサンですが、見方に関しては自信があります。って言うことも勘違いかもしれませんが、今を一生懸命に生きています。
ふとした瞬間に見られる育ちの良し悪し