AGE

56

Autobiography

社会経験を積んできたからこそ分かる学歴の大事さ

私は不幸とまでは感じていないものの育った家庭が不和で、学業で大事な高校在学時にいよいよ家庭は行き詰まり、私が高校3年のときに両親は離婚しました。 それまで何となく「大学に行く」ことが当たり前だと思っていたのですが、共通一次試験は受けたものの、2次試験へ行く費用すらありませんでした。私と妹2人を引き取った母の暮らしは厳しいものがあり、「働かない浪人生」でいることは許されませんでした。 ホテルでボーイとして働き、次の受験シーズンのころには諦めの心境と、それでも見栄をはってしまう下らない意地との狭間で揺れ動き、ホテルでの社員登用のお誘いも断って無職になりました。それから職を変えながら平成3年から税理士事務所で働きはじめ、今でも自分のアピールポイントである経理・税務の知識を身につけました。 あれから30年以上過ぎ、それなりに難しい仕事をこなしていても、大学進学を諦めたからこそ思えることがあります。よくネットなどで「学歴」について論争しているのを目にします。否定派からは「会社の新人が※※大学を卒業したのに仕事が出来ない」といった、ごく一部の事例で全てを否定するような視野の狭い意見が多いのですが、私から見れば呆れてしまうばかりです。 低い位置からスタートし何とかここまで辿り着いた私から言わせると、今の日本では高卒だとかなり不利なスタート地点から社会人生活を始めることは事実で、学歴を一部の事例で否定することは僻みに他なりません。 高い位置からスタート出来たら、下では経験できないことも多く、同じだけ努力しても身につくスキルには大きな差が出てしまいます。 下から這い上がってきたからこそ確信している現実です。別に悔やんでもいませんし、成り行きに身を任せてしまった結果なので、単なる真実を言っているに過ぎません。

ドラマの時期:
2015年
--月
--日
文字数:901
投稿時の年齢:52

ふとした瞬間に見られる育ちの良し悪し

歴史の浅い土地で生まれ育った私は、俗に言う「良家」という存在とは無縁で大人になりました。今の世の中に身分というものは存在していませんが、ごく一部の上流階級では今でも家の格式なるものがあると噂されています。 良家ではないとしても、育ちのよい人というものはいるもので、あるときそんな人とすれ違い驚いたことがあります。 もう10年も前になりますが、私は仲の良い友人夫婦と鎌倉旅行へ行きました。鎌倉には昔から親戚が住んでいて縁がなかったわけではないのですが、その時初めての鎌倉でした。 憧れの江ノ電へ乗り江の島などを楽しんだ初日を終え、2日目のランチである蕎麦割烹を訪れたときちょっとした「驚き」に遭遇しました。 食事を終え建物の玄関へ向かうと、靴を入れている場所の前に上品そうな老齢のご婦人がスツールに腰かけていました。靴を取り出したかったので「すいません、その下から靴を出したいのですが」と声を掛けました。 すると上品そうなご婦人が少し驚いた表情をして「ごめんあそばせ」と言ってそこを避けてくれました。 生まれて初めての「ごめんあそばせ」です。この言葉が現実に使われていることに少し感動を覚えました。普段から使っている言葉ではないと咄嗟には出ないものです。人によってはどうでも良いような瞬間でしょうが、自分に足りないものが見えたような気がしました。

ドラマの時期:
2012年
2月
--日
文字数:693
投稿時の年齢:52

薄々ダメだと気付いていた先へ転職して思うこと

もう50歳を超えてから過去を振り返ると、人生の分岐点と言えることがいくつも存在しているものです。今も会社員として働いていますが、ふとした瞬間「あの時、別の選択をしていたら今頃どんな人生を歩んでいただろうか」と思うことがあります。 30歳の私が下した、上手くいかないことを感じていた転職についてです。「うちに来ないか?」とクライアントから誘われる話は珍しい話ではありませんが、そのタイミングが職場に感じるちょっとした不満とシンクロすることで、正常な判断力が失われることがあります。 今思えば転職が目的ではなく手段になってしまった瞬間です。当時私が住んでいた地方都市で働いていた職場は、少なくともその街の相場より高い給料だったのですが、心は「ここを辞めて都会に行く」ことで支配されてしまい、ついに踏み切りました。 見て見ぬふりをしていたことですが、転職した会社は絵にかいたような「自転車操業」で、未来への展望も考えられぬまま3年と持たず破綻しました。大袈裟かもしれませんが、気持ちの中は「すべて失った」ような喪失感を抱え、再び地元へ帰り一度は仕事に就いたものの、なぜかしら帰った地元の居心地は最悪でした。 恐らく3年前に自分で下した判断の誤りを勝手に恥じていた結果です。ほどなく出稼ぎに行き、一度挑戦した都会へ戻ってきました。

ドラマの時期:
2007年
10月
25日
文字数:786
投稿時の年齢:52

父のあの世への旅立ちを笑って送り出した思い

私もすっかり中年になり、考えてみれば今まで生きてきた年月より、これから生きられる年月の方が短くなってしまいました。そんなことを思うと22年前に亡くなった父親のことを思い出します。 私が高校3年のとき両親は離婚して、兄弟は母親のもとで暮らしていました。一人になった父はというと、その後千葉県の田舎の方へ行って生活していたのですが、もともと体が弱かったせいもあり入退院を繰り返していて、私も何度か病院に呼び出されました。私が長男だからです。何度か行った病院では「退院できたら長男として引き取ってください」と言われていて、考え抜いた末面倒を見ることにしました。その打ち合わせのために千葉の病院へ行く日の朝、私が行くことを告げられた父は体調が急変し危篤状態になったそうです。 これは想像なのですが、プライドが高かった父は捨てたも同然の私に面倒を見られるのが嫌だったのだと思います。わざわざ千葉まで出向きやることもなく帰ってきました。 それから数か月経ったある日の夕方、帰りの車を運転していたところに千葉の病院から電話が掛かってきて「いまお父さんが危険な状態です。あっちょっと待ってください・・・今死亡が確認されました」と言われ、一瞬事態が理解できませんでしたが父が死んだのです。 急だったものの翌日に妹たちと千葉へ向かい、様々な手続きをしながらほとんど誰も来ないであろう簡単な通夜の準備をしました。通夜の手配は父が千葉で交友のあった方が手配してくれたので、大変助かりました。 通夜の夜にいたのは私と妹2人、そして千葉に住んでいた父の兄と鎌倉に住んでいた父の姉の5人だけでした。それ以前から入退院を繰り返していたことから、いつかはこんな日が来ることを皆考えていたと思います。 その夜は一切しんみりすることはなく、叔父や叔母も父の若いころの思い出話を笑いながら話してくれて、私たちも笑いながらそれを聞いていました。それも大いに飲みながらです。不謹慎かもしれませんが楽しい夜でしたし、きっと父も喜んでくれたと思っています。 「通夜」とは一晩中明かりを絶やさないため誰かが起きていなければならないものですが、大酒飲んで笑って話しているうち、私も妹たちも叔父も叔母も爆睡してしまいました。 起きたとき「しまった!」と思ったのですが、そこは簡単には消えない蝋燭や線香が用意されていて葬儀屋さんには感謝です。無事に終わったとは言い難いかもしれませんが、通夜を終え翌日には荼毘にふし、骨となった父を引き取ったのです。

ドラマの時期:
2000年
4月
--日
文字数:1271
投稿時の年齢:52

会計事務所は税金を安くしてくれるところという誤解

今も法人の経理として働いている私の仕事上の原点は20代のころから働き始めた会計事務所時代です。あまり深く考えず知り合いのつてで入職したのですが、「手に職」といえる知識を得られたことを思うと当時の上司や同僚には感謝しています。 色々な経験を積んだ会計事務所時代ですが、そこで見た中小企業主や個人事業主の、少なくとも「税金」に対する考え方には驚くばかりでした。基本的に税金は「払いたくないもの」なんです。個人事業主といっても業種は様々で、第一次産業の農業・漁業や開業医・飲食店・建設業など多岐にわたります。その中でも小規模な事業者になるほど確定申告の時期に「そんな税金払えないし払いたくない」などと、およそ法律を守ろうとする気のない発言を連発します。 第一次産業の方に至っては「税金やすくするのにあんたらに金払ってんだろうが!」と言われます。 この傾向は零細法人でも同じで、ある会社の社長さんは「あいつら(税務署のこと)、こっちが倒産しそうでヒイヒイ言っているときには何の手助けもしねーで、ちょっと儲かったら税金くれって何なんだ!」と言われていましたが、実際その通りです。 勤め人をしていると分からない苦労と、国に対する不信感が「税金」という一点で見えやすくなるものなのです。 少なくとも私が知っている範囲で言うならば、会計事務所選びは納税者目線で考えてくれるところに依頼すべきです。私も心掛けていましたが、節税という名のギリギリの勝負をしていたのも、苦労している納税者のためを思ってのことでした。

ドラマの時期:
1998年
--月
--日
文字数:812
投稿時の年齢:52

「人は信じてはいけない」と教えてくれた初恋の人

全ての人が初恋を経験するわけではないことに驚きを感じますが、私の知っている範疇では誰もが遅かれ早かれ初恋を経験しています。 私の初恋は幼稚園の年長さんの頃で、人と比べ早かったのかどうか比較したこともありません。もうかなり昔のことなので初恋の子の名前も顔すらも思い出せませんが、これはトラウマが記憶を消している・・・かもしれません。幼稚園には3年間通いました。思い出してみても覚えている記憶と言えば、尿意を我慢できずにお漏らしした記憶や、金魚の絵を描いてその出来栄えが人と違い過ぎるが故の嘲笑など、楽しかった記憶はありません。 そんな幼稚園時代の最後の年に好きになった子がいました。成人式を迎えるころまでは覚えていたような気がしますが、今ではまるで思い出せません。 幼稚園の同じクラスには下の名前が私と同じ男の子がいて、今は仮に私とその子を「太郎くん」としておきます。 ある日の帰りの時間になって初恋の子が泣いていて、担任のオバサンが事情を聞いている風な感じでした。心配しながらその様子を見ていたのですが、担任のオバサンが「太郎くんが帽子を引っ張ったせいで首が苦しくなったようです」と言ったので、幼稚園児だった私は「あの太郎がやりやがった」と、妙な正義感が沸き上がった・・・ような気がします。 そしてオバサンが初恋の子に犯人が誰かを聞くと、その子は私を指さしました。 そこからの記憶は残っておりません。 これが生まれて初めての「濡れ衣」というやつです。よりによって好きだった子が私を犯人にするとは、幼稚園児には回避のしようがないシチュエーションです。 その後、初恋の子は私とは別の小学校へ行きどうなったかは知りません。私が人から「ちょっと変かも」と思われるきっかけは”あれ”だったのかもしれません。

ドラマの時期:
1975年
--月
--日
文字数:910
投稿時の年齢:52
AGE

56

Autobiography

社会経験を積んできたからこそ分かる学歴の大事さ

私は不幸とまでは感じていないものの育った家庭が不和で、学業で大事な高校在学時にいよいよ家庭は行き詰まり、私が高校3年のときに両親は離婚しました。 それまで何となく「大学に行く」ことが当たり前だと思っていたのですが、共通一次試験は受けたものの、2次試験へ行く費用すらありませんでした。私と妹2人を引き取った母の暮らしは厳しいものがあり、「働かない浪人生」でいることは許されませんでした。 ホテルでボーイとして働き、次の受験シーズンのころには諦めの心境と、それでも見栄をはってしまう下らない意地との狭間で揺れ動き、ホテルでの社員登用のお誘いも断って無職になりました。それから職を変えながら平成3年から税理士事務所で働きはじめ、今でも自分のアピールポイントである経理・税務の知識を身につけました。 あれから30年以上過ぎ、それなりに難しい仕事をこなしていても、大学進学を諦めたからこそ思えることがあります。よくネットなどで「学歴」について論争しているのを目にします。否定派からは「会社の新人が※※大学を卒業したのに仕事が出来ない」といった、ごく一部の事例で全てを否定するような視野の狭い意見が多いのですが、私から見れば呆れてしまうばかりです。 低い位置からスタートし何とかここまで辿り着いた私から言わせると、今の日本では高卒だとかなり不利なスタート地点から社会人生活を始めることは事実で、学歴を一部の事例で否定することは僻みに他なりません。 高い位置からスタート出来たら、下では経験できないことも多く、同じだけ努力しても身につくスキルには大きな差が出てしまいます。 下から這い上がってきたからこそ確信している現実です。別に悔やんでもいませんし、成り行きに身を任せてしまった結果なので、単なる真実を言っているに過ぎません。

事務従事者
投稿時の年齢:52
北海道
投稿日時:
2022年03月26日
ドラマの時期:
2015年
--月
--日
文字数:901

ふとした瞬間に見られる育ちの良し悪し

歴史の浅い土地で生まれ育った私は、俗に言う「良家」という存在とは無縁で大人になりました。今の世の中に身分というものは存在していませんが、ごく一部の上流階級では今でも家の格式なるものがあると噂されています。 良家ではないとしても、育ちのよい人というものはいるもので、あるときそんな人とすれ違い驚いたことがあります。 もう10年も前になりますが、私は仲の良い友人夫婦と鎌倉旅行へ行きました。鎌倉には昔から親戚が住んでいて縁がなかったわけではないのですが、その時初めての鎌倉でした。 憧れの江ノ電へ乗り江の島などを楽しんだ初日を終え、2日目のランチである蕎麦割烹を訪れたときちょっとした「驚き」に遭遇しました。 食事を終え建物の玄関へ向かうと、靴を入れている場所の前に上品そうな老齢のご婦人がスツールに腰かけていました。靴を取り出したかったので「すいません、その下から靴を出したいのですが」と声を掛けました。 すると上品そうなご婦人が少し驚いた表情をして「ごめんあそばせ」と言ってそこを避けてくれました。 生まれて初めての「ごめんあそばせ」です。この言葉が現実に使われていることに少し感動を覚えました。普段から使っている言葉ではないと咄嗟には出ないものです。人によってはどうでも良いような瞬間でしょうが、自分に足りないものが見えたような気がしました。

事務従事者
投稿時の年齢:52
北海道
投稿日時:
2022年03月29日
ドラマの時期:
2012年
--日
文字数:693

薄々ダメだと気付いていた先へ転職して思うこと

もう50歳を超えてから過去を振り返ると、人生の分岐点と言えることがいくつも存在しているものです。今も会社員として働いていますが、ふとした瞬間「あの時、別の選択をしていたら今頃どんな人生を歩んでいただろうか」と思うことがあります。 30歳の私が下した、上手くいかないことを感じていた転職についてです。「うちに来ないか?」とクライアントから誘われる話は珍しい話ではありませんが、そのタイミングが職場に感じるちょっとした不満とシンクロすることで、正常な判断力が失われることがあります。 今思えば転職が目的ではなく手段になってしまった瞬間です。当時私が住んでいた地方都市で働いていた職場は、少なくともその街の相場より高い給料だったのですが、心は「ここを辞めて都会に行く」ことで支配されてしまい、ついに踏み切りました。 見て見ぬふりをしていたことですが、転職した会社は絵にかいたような「自転車操業」で、未来への展望も考えられぬまま3年と持たず破綻しました。大袈裟かもしれませんが、気持ちの中は「すべて失った」ような喪失感を抱え、再び地元へ帰り一度は仕事に就いたものの、なぜかしら帰った地元の居心地は最悪でした。 恐らく3年前に自分で下した判断の誤りを勝手に恥じていた結果です。ほどなく出稼ぎに行き、一度挑戦した都会へ戻ってきました。

事務従事者
投稿時の年齢:52
北海道
投稿日時:
2022年03月23日
ドラマの時期:
2007年
文字数:786

父のあの世への旅立ちを笑って送り出した思い

私もすっかり中年になり、考えてみれば今まで生きてきた年月より、これから生きられる年月の方が短くなってしまいました。そんなことを思うと22年前に亡くなった父親のことを思い出します。 私が高校3年のとき両親は離婚して、兄弟は母親のもとで暮らしていました。一人になった父はというと、その後千葉県の田舎の方へ行って生活していたのですが、もともと体が弱かったせいもあり入退院を繰り返していて、私も何度か病院に呼び出されました。私が長男だからです。何度か行った病院では「退院できたら長男として引き取ってください」と言われていて、考え抜いた末面倒を見ることにしました。その打ち合わせのために千葉の病院へ行く日の朝、私が行くことを告げられた父は体調が急変し危篤状態になったそうです。 これは想像なのですが、プライドが高かった父は捨てたも同然の私に面倒を見られるのが嫌だったのだと思います。わざわざ千葉まで出向きやることもなく帰ってきました。 それから数か月経ったある日の夕方、帰りの車を運転していたところに千葉の病院から電話が掛かってきて「いまお父さんが危険な状態です。あっちょっと待ってください・・・今死亡が確認されました」と言われ、一瞬事態が理解できませんでしたが父が死んだのです。 急だったものの翌日に妹たちと千葉へ向かい、様々な手続きをしながらほとんど誰も来ないであろう簡単な通夜の準備をしました。通夜の手配は父が千葉で交友のあった方が手配してくれたので、大変助かりました。 通夜の夜にいたのは私と妹2人、そして千葉に住んでいた父の兄と鎌倉に住んでいた父の姉の5人だけでした。それ以前から入退院を繰り返していたことから、いつかはこんな日が来ることを皆考えていたと思います。 その夜は一切しんみりすることはなく、叔父や叔母も父の若いころの思い出話を笑いながら話してくれて、私たちも笑いながらそれを聞いていました。それも大いに飲みながらです。不謹慎かもしれませんが楽しい夜でしたし、きっと父も喜んでくれたと思っています。 「通夜」とは一晩中明かりを絶やさないため誰かが起きていなければならないものですが、大酒飲んで笑って話しているうち、私も妹たちも叔父も叔母も爆睡してしまいました。 起きたとき「しまった!」と思ったのですが、そこは簡単には消えない蝋燭や線香が用意されていて葬儀屋さんには感謝です。無事に終わったとは言い難いかもしれませんが、通夜を終え翌日には荼毘にふし、骨となった父を引き取ったのです。

事務従事者
投稿時の年齢:52
北海道
投稿日時:
2022年04月01日
ドラマの時期:
2000年
--日
文字数:1271

会計事務所は税金を安くしてくれるところという誤解

今も法人の経理として働いている私の仕事上の原点は20代のころから働き始めた会計事務所時代です。あまり深く考えず知り合いのつてで入職したのですが、「手に職」といえる知識を得られたことを思うと当時の上司や同僚には感謝しています。 色々な経験を積んだ会計事務所時代ですが、そこで見た中小企業主や個人事業主の、少なくとも「税金」に対する考え方には驚くばかりでした。基本的に税金は「払いたくないもの」なんです。個人事業主といっても業種は様々で、第一次産業の農業・漁業や開業医・飲食店・建設業など多岐にわたります。その中でも小規模な事業者になるほど確定申告の時期に「そんな税金払えないし払いたくない」などと、およそ法律を守ろうとする気のない発言を連発します。 第一次産業の方に至っては「税金やすくするのにあんたらに金払ってんだろうが!」と言われます。 この傾向は零細法人でも同じで、ある会社の社長さんは「あいつら(税務署のこと)、こっちが倒産しそうでヒイヒイ言っているときには何の手助けもしねーで、ちょっと儲かったら税金くれって何なんだ!」と言われていましたが、実際その通りです。 勤め人をしていると分からない苦労と、国に対する不信感が「税金」という一点で見えやすくなるものなのです。 少なくとも私が知っている範囲で言うならば、会計事務所選びは納税者目線で考えてくれるところに依頼すべきです。私も心掛けていましたが、節税という名のギリギリの勝負をしていたのも、苦労している納税者のためを思ってのことでした。

事務従事者
投稿時の年齢:52
北海道
投稿日時:
2022年03月30日
ドラマの時期:
1998年
--月
--日
文字数:812

「人は信じてはいけない」と教えてくれた初恋の人

全ての人が初恋を経験するわけではないことに驚きを感じますが、私の知っている範疇では誰もが遅かれ早かれ初恋を経験しています。 私の初恋は幼稚園の年長さんの頃で、人と比べ早かったのかどうか比較したこともありません。もうかなり昔のことなので初恋の子の名前も顔すらも思い出せませんが、これはトラウマが記憶を消している・・・かもしれません。幼稚園には3年間通いました。思い出してみても覚えている記憶と言えば、尿意を我慢できずにお漏らしした記憶や、金魚の絵を描いてその出来栄えが人と違い過ぎるが故の嘲笑など、楽しかった記憶はありません。 そんな幼稚園時代の最後の年に好きになった子がいました。成人式を迎えるころまでは覚えていたような気がしますが、今ではまるで思い出せません。 幼稚園の同じクラスには下の名前が私と同じ男の子がいて、今は仮に私とその子を「太郎くん」としておきます。 ある日の帰りの時間になって初恋の子が泣いていて、担任のオバサンが事情を聞いている風な感じでした。心配しながらその様子を見ていたのですが、担任のオバサンが「太郎くんが帽子を引っ張ったせいで首が苦しくなったようです」と言ったので、幼稚園児だった私は「あの太郎がやりやがった」と、妙な正義感が沸き上がった・・・ような気がします。 そしてオバサンが初恋の子に犯人が誰かを聞くと、その子は私を指さしました。 そこからの記憶は残っておりません。 これが生まれて初めての「濡れ衣」というやつです。よりによって好きだった子が私を犯人にするとは、幼稚園児には回避のしようがないシチュエーションです。 その後、初恋の子は私とは別の小学校へ行きどうなったかは知りません。私が人から「ちょっと変かも」と思われるきっかけは”あれ”だったのかもしれません。

事務従事者
投稿時の年齢:52
北海道
投稿日時:
2022年03月27日
ドラマの時期:
1975年
--月
--日
文字数:910