他人の釜の飯を食うということ
大学受験にすべて失敗した。さて、どうするか。母子家庭の我が家に予備校の費用を負担する余裕はない。新聞で、住み込みで新聞配達をすれば、新聞社が奨学金を出してくれるという情報を得た。早速申し込んだ。
住み込み先の居住環境は最悪だった。倒壊寸前の埃の2センチも積もっているような部屋に寝泊まりさせられた。広さは3畳。机がポツンと置かれているだけ。天井は屋根の傾斜そのままに、高いところで2メートル、低いところは腰をかがめねばならない低さだった。雨が降ればナメクジが壁を這う、そんな状況だと言えばわかってもらえるだろうか。当時エアコンなどというしゃれたものは設置されていなかった。
さらに、新聞配達の仕事は配達だけではなかった。朝3時に起きて幹線道路に置かれている新聞塊を10個ほどリヤカーに載せて運ぶ。すぐさま新聞に折り込み広告を挟む作業を開始。自分の分350部が完成した時点で配達に出る。私は免許がなかったので自転車だった。自転車に乗った状態で頭を超えるほどの高さになる新聞をすべて配り終えるのは6時半ごろになった。7時にようやく仕事から解放。7時半から食事。自分の時間となる。
予備校は9時から授業が始まる。本来なら3時まであるはずの授業は12時で切り上げ、販売店に戻らねばならなかった。2時に到着する夕刊の受け入れ作業が待っているからだ。3時から配り始めて6時に終了。7時から晩御飯。しばし休息の後、8時から折りこみ作業が待っていた。一日のチラシの量は多い時で20枚。少ない時でも5,6枚にはなった。それをひとまとめにして、朝、新聞本体に挟みやすくまとめていく作業が待っていたのだ。その作業が9時に終了。それから銭湯に走る。それも毎日は行けず2日に1回のペースだった。
過酷なスケジュールの合間に、販売店の皆さんは家族同然のように接してくださった。毎週日曜日の晩御飯は決まってカレーだった。これを楽しみに一週間頑張れた。予備校は3か月で行かなくなってしまった。睡魔に襲われて授業を聞いているどころではなかったからだ。
住み込みの新聞配達という、「他人の飯を食う」経験は、自分という存在を相対化するということではなかったかと思う。父を5歳の時に無くし、それ以後母親が一人で歯を食いしばって家族を守ってきた。それこそ大海に手漕ぎボートで乗り出すような不安との闘いだったろうと思う。それなのに、私はのほほんと高校生活を送り、就職するでもなく、浪人生活を選択した。
この住み込み生活を体験して、一人で生きるということの厳しさ、自分で始末をつけるということの重みを知ることができたように思う。同時に家族の暖かさ、ありがたさも実感をもって知ることができた。58歳で他界した母には申し訳ないが、もう70年生きている。この人生70分の1の経験は、折に触れて思い出さずにはいられない、私にとって貴重なものといえる。
シニアとよばれる年代に差し掛かったのだと、自分でも驚いています。知らない間に年を重ねて今に至ったのだけれど、何もしてこなかったとの感が強く私の心を突き上げます。
チャレンジするのが好きで、また人と比べられるのが大嫌い。自分の宝物を持ちたい。そんな思いでこのサイトを訪れました。心に残るエポックを残せるように、記憶をたどりながら、また、読み応えのあるものを残していきたいと考えています。
他人の釜の飯を食うということ