AGE

72

Autobiography

隣の芝生は青い

 私は現在、日本語学校で日本語を教えている。私の担当するクラスでは毎日二人ずつテーマを決めてスピーチをすることになっている。来日してもう二年。それなのにたどたどしい学生もいれば、日本人以上に会話の上手な学生もいる。どうしてこれほどの違いが生まれるのかと、ため息交じりにぶつぶつつぶやくのが私の日課になっていた。  今日は「私の気になる名言」というタイトルでのスピーチだった。原稿は書いて準備すること、スマホでのコピペは認められないこと、原稿を読み上げるのではなく覚えて発表すること。以上が条件だ。今日の発表のトップバッターは●●さんだ。彼女はベトナム出身で、誤解を恐れずに言えば、田舎の出身と思われた。化粧っ気もなく、髪はひっつめの後ろで束ねた形で、失礼だが若い女性の色気といったものは感じられない学生だった。何より不潔そうなのが嫌だった。毎日手入れしているとは思われない髪、油の浮いた顔、それを恥ずかしいと思わない心が嫌だった。学力的にも他の学生には劣っていた。明らかに会話ができない。コミュニケーション能力が一段低いと言われても仕方がない学生だった。 彼女のスピーチが始まった。”私が今日、皆さんにお話しする名言は「隣の芝生は青い」です。この意味は、人が持っているものは自分のものより良く見えるということです。私のうちにはテレビがあります。でも、隣のうちのテレビの方が値段が高そうに見えます。いいな、うらやましい。そんな気持ちを表したのがこの言葉です。しかし、私はちょっと違った考え方をしました。確かに値段が高いテレビはきれいに映るかもしれません。しかし、誰がそれを見るのでしょうか。たった一人で、その高価なテレビを見ても楽しいのでしょうか。ドラマの内容は高価なテレビでは違うのでしょうか。私のうちではテレビを家族6人で見ます。楽しい番組はみんなで笑いながら、悲しい番組は涙を流しながら、共感しながら見ます。  人は誰でも、自分にないものを欲しがります。しかし、自分の持っているものに誇りを持った方がいいです。私は自分のうちのテレビを、みんなで見られることに誇りをもっています。そして、みんなと一緒に誰かの役に立てる事に喜びを見出したいと思っています。”  ●●さんのスピーチは一瞬で終わった。しばらくクラスは静まり返った。そしてその後、クラス中から感動の拍手が沸き上がった。誰も●●さんにこれだけのスピーチができるとは思っていなかったのだ。

ドラマの時期:
2022年
9月
--日
文字数:1204
投稿時の年齢:69

兄弟ガチャ(その1)

 最近よく耳にする言葉に親ガチャがある。親ガチャがあるなら兄弟ガチャもあるのだろう。今日は、私の弟の話をせねばならない。私にとって気持ちの良い記憶ではないが、これも私の人生であり、残しておかねばならない1ページだと思う。  私には2歳年下の弟がいる。小さい頃は体が弱く、学校は休みがちであったが、頭はよかった。私が並みなら弟は極上の頭といっていいだろう。現在は68歳になっているはずだ。 ある晩、携帯に電話がかかってきた。弟からだった。久しぶりの挨拶やら近況報告が一通り済み、さて何の話かと問いただしてみると、「実は…」と声が真顔になった。 「金が要る。借金があって、払わないと今晩のうちにも取り立てに来られるかもしれない。」 「いったい何の金なのだ。どうして借金までしなければならなくなったのか。」 「それはいえない。」 「いくらなんだ。」 「250。もしかしたらそっちにも取り立てに行くかもしれない。」 「至急振り込んでくれ。口座はメールで送る。」 ここでいったん電話は切られた。  頭の中ではぐるぐると250という数字が渦巻いていた。払えない数字ではない。それで取り立てが免れるのであれば…。もし、私のところに取り立てに来られたら、どうしよう。それより、きれいさっぱりと払った方がいいのではないか。そんな気持ちも頭をよぎった。暗い部屋で私の声だけが響いている。暗闇に包まれて一層不安が増していく。だが、待てよ。これですべてなのか?もしかしたら他にももっと借金があるかもしれない。どうするべきか、判断に迷った。  私の先輩に弁護士がいた。その男に夜中にもかかわらず電話をかけ、相談に乗ってもらった。 「明日、弟さんを連れてきなさい。弁護士が取り立ての現場に直接行くことはない。弁護士が入っているとわかれば、取り立てはやむ。」  早速弟に電話を掛け、弁護士の言葉をそのまま伝えた。すると、意外な言葉が返ってきた。 「自己破産させられる。それで一生が終わってしまう。任意整理ならまだ何とかなる。どうして弁護士に相談したんだ!」  取り立てを免れるようにと相談したのに、逆切れされて面くらったが、「とにかく、明日8時に駅で待っている。必ず来るように。」と伝えて電話を切った。

ドラマの時期:
1997年
10月
--日
文字数:1217
投稿時の年齢:69

晴天の霹靂

 私が塾を始めてからちょうど7年目の3月。春を迎えてこれから新入生の受け入れ態勢を整えようという時だった。いつもと違って学生が来ない。おかしい。何か変だぞ。と思っている間に時間は過ぎて授業開始の時刻が来た。しかし、誰も来ない。待てど暮らせど一人も来ない。  自宅で玄関の扉に張り紙をして塾を初めて以来、こんなことはなかった。しかし思い当たる節はあった。  塾は弟と二人で分業態勢で授業をこなしていた。私は英語以外の4科目。弟は英語。週に1回の授業だが弟を信頼していた。だがそれが間違いの元だった。当時大学生だった弟は部活動やらなにやら忙しそうにしていた。塾のある日だけは帰宅して、きちんと教えてくれているものだと思っていたが、違った。授業開始の時間に遅れること30分。平然と帰ってきて何の準備もせず授業を始めていたのだ。たまたま私が家にいて弟の遅刻が発覚した。学生の立場にすればたまったものではないだろう。遅刻はするわ、月謝だけはきちんと取られるわ、なんの対応もせず放置していたのだから。  もう一つ、思い当たることは、私の側にもあった。前年、資格試験の一次に合格して、今年こそと気合を入れていた。自分の勉強に熱を入れすぎて、塾の準備や対応に手抜かりがあったかもしれないということだ。 学生の数は大きく減ってしまった。回復する見込みはない。さて、どうする?今日にも生活費はいる。新聞の求人欄を探すと、堂島の中華料理屋で皿洗いのバイトを募集していた。通うのに1時間ぐらいかかる。朝8時から2時までの6時間。迷わず応募した。  次の日から洗い場で皿洗いのバイトが始まった。調理師は気性が荒い。みんな徒弟制度のような関係で、皿洗いなどは眼中にないようだった。有線でもんた&ブラザーズのダンシングオールナイトを聞きながら、教えられるままに黙々と仕込みを続けた。11時から営業開始。客が入ってくると、ホールはもちろんのこと、調理場も戦場と化した。次々と運ばれてくる皿。それをシンクに放り込んで洗剤で洗うのだが、時折、皿が割れていることがある。洗剤で真っ白になっているお湯の中に手を突っ込んで、嫌というほど手を切った。そんな毎日が2年続いた。

ドラマの時期:
1980年
3月
--日
文字数:1079
投稿時の年齢:70

他人の釜の飯を食うということ

 大学受験にすべて失敗した。さて、どうするか。母子家庭の我が家に予備校の費用を負担する余裕はない。新聞で、住み込みで新聞配達をすれば、新聞社が奨学金を出してくれるという情報を得た。早速申し込んだ。  住み込み先の居住環境は最悪だった。倒壊寸前の埃の2センチも積もっているような部屋に寝泊まりさせられた。広さは3畳。机がポツンと置かれているだけ。天井は屋根の傾斜そのままに、高いところで2メートル、低いところは腰をかがめねばならない低さだった。雨が降ればナメクジが壁を這う、そんな状況だと言えばわかってもらえるだろうか。当時エアコンなどというしゃれたものは設置されていなかった。  さらに、新聞配達の仕事は配達だけではなかった。朝3時に起きて幹線道路に置かれている新聞塊を10個ほどリヤカーに載せて運ぶ。すぐさま新聞に折り込み広告を挟む作業を開始。自分の分350部が完成した時点で配達に出る。私は免許がなかったので自転車だった。自転車に乗った状態で頭を超えるほどの高さになる新聞をすべて配り終えるのは6時半ごろになった。7時にようやく仕事から解放。7時半から食事。自分の時間となる。  予備校は9時から授業が始まる。本来なら3時まであるはずの授業は12時で切り上げ、販売店に戻らねばならなかった。2時に到着する夕刊の受け入れ作業が待っているからだ。3時から配り始めて6時に終了。7時から晩御飯。しばし休息の後、8時から折りこみ作業が待っていた。一日のチラシの量は多い時で20枚。少ない時でも5,6枚にはなった。それをひとまとめにして、朝、新聞本体に挟みやすくまとめていく作業が待っていたのだ。その作業が9時に終了。それから銭湯に走る。それも毎日は行けず2日に1回のペースだった。

ドラマの時期:
1970年
4月
--日
文字数:1217
投稿時の年齢:69

コスモスと桜

 今は10月。ようやく秋らしい気配が漂い始めた。幹線道路を車で走っていると、田んぼの跡に赤、白、ピンクと色とりどりの秋桜のたゆとう姿がのんびりとした田舎を想起させてくれる。秋桜の花言葉は「乙女の真実」「謙虚」「調和」だ。華奢な茎のわりに大きな花が風に吹かれてユラユラと揺れる姿は、いかにも健気で、可憐な少女のような趣を感じさせてくれる。 私の父は昭和32年11月12日に29歳で亡くなった。交通事故だった。そのころ私は5歳ではっきりとは覚えてはいないが、市バスとバイクの事故だったこと、大正橋辺りでの事故だったこと、長い時間かかってようやく病院にたどり着いたということ、を母から聞いて覚えている。ベッドに横たわる父は、鼻のあたりにぬぐい切れない血のりがたまっていて、全身むき出しの腹部は縦に裂かれて、そのところどころにガムテープのようなものが張られていた。ベッドに横たわる父親の足元で母が泣いている。私は悲しくなかったが、母が泣いてるから泣かないといけないんじゃないかと思っていた。 母は、後から ・父が「痛い痛い」といって死んでいったこと ・事故の相手の名前も住所も聞かなかったこと ・そして、聞かなくてよかったと後から思ったこと を、よく話していた。

ドラマの時期:
1957年
11月
12日
文字数:784
投稿時の年齢:70
AGE

72

Autobiography

隣の芝生は青い

 私は現在、日本語学校で日本語を教えている。私の担当するクラスでは毎日二人ずつテーマを決めてスピーチをすることになっている。来日してもう二年。それなのにたどたどしい学生もいれば、日本人以上に会話の上手な学生もいる。どうしてこれほどの違いが生まれるのかと、ため息交じりにぶつぶつつぶやくのが私の日課になっていた。  今日は「私の気になる名言」というタイトルでのスピーチだった。原稿は書いて準備すること、スマホでのコピペは認められないこと、原稿を読み上げるのではなく覚えて発表すること。以上が条件だ。今日の発表のトップバッターは●●さんだ。彼女はベトナム出身で、誤解を恐れずに言えば、田舎の出身と思われた。化粧っ気もなく、髪はひっつめの後ろで束ねた形で、失礼だが若い女性の色気といったものは感じられない学生だった。何より不潔そうなのが嫌だった。毎日手入れしているとは思われない髪、油の浮いた顔、それを恥ずかしいと思わない心が嫌だった。学力的にも他の学生には劣っていた。明らかに会話ができない。コミュニケーション能力が一段低いと言われても仕方がない学生だった。 彼女のスピーチが始まった。”私が今日、皆さんにお話しする名言は「隣の芝生は青い」です。この意味は、人が持っているものは自分のものより良く見えるということです。私のうちにはテレビがあります。でも、隣のうちのテレビの方が値段が高そうに見えます。いいな、うらやましい。そんな気持ちを表したのがこの言葉です。しかし、私はちょっと違った考え方をしました。確かに値段が高いテレビはきれいに映るかもしれません。しかし、誰がそれを見るのでしょうか。たった一人で、その高価なテレビを見ても楽しいのでしょうか。ドラマの内容は高価なテレビでは違うのでしょうか。私のうちではテレビを家族6人で見ます。楽しい番組はみんなで笑いながら、悲しい番組は涙を流しながら、共感しながら見ます。  人は誰でも、自分にないものを欲しがります。しかし、自分の持っているものに誇りを持った方がいいです。私は自分のうちのテレビを、みんなで見られることに誇りをもっています。そして、みんなと一緒に誰かの役に立てる事に喜びを見出したいと思っています。”  ●●さんのスピーチは一瞬で終わった。しばらくクラスは静まり返った。そしてその後、クラス中から感動の拍手が沸き上がった。誰も●●さんにこれだけのスピーチができるとは思っていなかったのだ。

専門的・技術的職業従事者
投稿時の年齢:69
奈良
投稿日時:
2022年09月17日
ドラマの時期:
2022年
--日
文字数:1204

兄弟ガチャ(その1)

 最近よく耳にする言葉に親ガチャがある。親ガチャがあるなら兄弟ガチャもあるのだろう。今日は、私の弟の話をせねばならない。私にとって気持ちの良い記憶ではないが、これも私の人生であり、残しておかねばならない1ページだと思う。  私には2歳年下の弟がいる。小さい頃は体が弱く、学校は休みがちであったが、頭はよかった。私が並みなら弟は極上の頭といっていいだろう。現在は68歳になっているはずだ。 ある晩、携帯に電話がかかってきた。弟からだった。久しぶりの挨拶やら近況報告が一通り済み、さて何の話かと問いただしてみると、「実は…」と声が真顔になった。 「金が要る。借金があって、払わないと今晩のうちにも取り立てに来られるかもしれない。」 「いったい何の金なのだ。どうして借金までしなければならなくなったのか。」 「それはいえない。」 「いくらなんだ。」 「250。もしかしたらそっちにも取り立てに行くかもしれない。」 「至急振り込んでくれ。口座はメールで送る。」 ここでいったん電話は切られた。  頭の中ではぐるぐると250という数字が渦巻いていた。払えない数字ではない。それで取り立てが免れるのであれば…。もし、私のところに取り立てに来られたら、どうしよう。それより、きれいさっぱりと払った方がいいのではないか。そんな気持ちも頭をよぎった。暗い部屋で私の声だけが響いている。暗闇に包まれて一層不安が増していく。だが、待てよ。これですべてなのか?もしかしたら他にももっと借金があるかもしれない。どうするべきか、判断に迷った。  私の先輩に弁護士がいた。その男に夜中にもかかわらず電話をかけ、相談に乗ってもらった。 「明日、弟さんを連れてきなさい。弁護士が取り立ての現場に直接行くことはない。弁護士が入っているとわかれば、取り立てはやむ。」  早速弟に電話を掛け、弁護士の言葉をそのまま伝えた。すると、意外な言葉が返ってきた。 「自己破産させられる。それで一生が終わってしまう。任意整理ならまだ何とかなる。どうして弁護士に相談したんだ!」  取り立てを免れるようにと相談したのに、逆切れされて面くらったが、「とにかく、明日8時に駅で待っている。必ず来るように。」と伝えて電話を切った。

専門的・技術的職業従事者
投稿時の年齢:69
奈良
投稿日時:
2022年09月10日
ドラマの時期:
1997年
--日
文字数:1217

晴天の霹靂

 私が塾を始めてからちょうど7年目の3月。春を迎えてこれから新入生の受け入れ態勢を整えようという時だった。いつもと違って学生が来ない。おかしい。何か変だぞ。と思っている間に時間は過ぎて授業開始の時刻が来た。しかし、誰も来ない。待てど暮らせど一人も来ない。  自宅で玄関の扉に張り紙をして塾を初めて以来、こんなことはなかった。しかし思い当たる節はあった。  塾は弟と二人で分業態勢で授業をこなしていた。私は英語以外の4科目。弟は英語。週に1回の授業だが弟を信頼していた。だがそれが間違いの元だった。当時大学生だった弟は部活動やらなにやら忙しそうにしていた。塾のある日だけは帰宅して、きちんと教えてくれているものだと思っていたが、違った。授業開始の時間に遅れること30分。平然と帰ってきて何の準備もせず授業を始めていたのだ。たまたま私が家にいて弟の遅刻が発覚した。学生の立場にすればたまったものではないだろう。遅刻はするわ、月謝だけはきちんと取られるわ、なんの対応もせず放置していたのだから。  もう一つ、思い当たることは、私の側にもあった。前年、資格試験の一次に合格して、今年こそと気合を入れていた。自分の勉強に熱を入れすぎて、塾の準備や対応に手抜かりがあったかもしれないということだ。 学生の数は大きく減ってしまった。回復する見込みはない。さて、どうする?今日にも生活費はいる。新聞の求人欄を探すと、堂島の中華料理屋で皿洗いのバイトを募集していた。通うのに1時間ぐらいかかる。朝8時から2時までの6時間。迷わず応募した。  次の日から洗い場で皿洗いのバイトが始まった。調理師は気性が荒い。みんな徒弟制度のような関係で、皿洗いなどは眼中にないようだった。有線でもんた&ブラザーズのダンシングオールナイトを聞きながら、教えられるままに黙々と仕込みを続けた。11時から営業開始。客が入ってくると、ホールはもちろんのこと、調理場も戦場と化した。次々と運ばれてくる皿。それをシンクに放り込んで洗剤で洗うのだが、時折、皿が割れていることがある。洗剤で真っ白になっているお湯の中に手を突っ込んで、嫌というほど手を切った。そんな毎日が2年続いた。

専門的・技術的職業従事者
投稿時の年齢:70
奈良
投稿日時:
2022年09月25日
ドラマの時期:
1980年
--日
文字数:1079

他人の釜の飯を食うということ

 大学受験にすべて失敗した。さて、どうするか。母子家庭の我が家に予備校の費用を負担する余裕はない。新聞で、住み込みで新聞配達をすれば、新聞社が奨学金を出してくれるという情報を得た。早速申し込んだ。  住み込み先の居住環境は最悪だった。倒壊寸前の埃の2センチも積もっているような部屋に寝泊まりさせられた。広さは3畳。机がポツンと置かれているだけ。天井は屋根の傾斜そのままに、高いところで2メートル、低いところは腰をかがめねばならない低さだった。雨が降ればナメクジが壁を這う、そんな状況だと言えばわかってもらえるだろうか。当時エアコンなどというしゃれたものは設置されていなかった。  さらに、新聞配達の仕事は配達だけではなかった。朝3時に起きて幹線道路に置かれている新聞塊を10個ほどリヤカーに載せて運ぶ。すぐさま新聞に折り込み広告を挟む作業を開始。自分の分350部が完成した時点で配達に出る。私は免許がなかったので自転車だった。自転車に乗った状態で頭を超えるほどの高さになる新聞をすべて配り終えるのは6時半ごろになった。7時にようやく仕事から解放。7時半から食事。自分の時間となる。  予備校は9時から授業が始まる。本来なら3時まであるはずの授業は12時で切り上げ、販売店に戻らねばならなかった。2時に到着する夕刊の受け入れ作業が待っているからだ。3時から配り始めて6時に終了。7時から晩御飯。しばし休息の後、8時から折りこみ作業が待っていた。一日のチラシの量は多い時で20枚。少ない時でも5,6枚にはなった。それをひとまとめにして、朝、新聞本体に挟みやすくまとめていく作業が待っていたのだ。その作業が9時に終了。それから銭湯に走る。それも毎日は行けず2日に1回のペースだった。

専門的・技術的職業従事者
投稿時の年齢:69
奈良
投稿日時:
2022年08月28日
ドラマの時期:
1970年
--日
文字数:1217

コスモスと桜

 今は10月。ようやく秋らしい気配が漂い始めた。幹線道路を車で走っていると、田んぼの跡に赤、白、ピンクと色とりどりの秋桜のたゆとう姿がのんびりとした田舎を想起させてくれる。秋桜の花言葉は「乙女の真実」「謙虚」「調和」だ。華奢な茎のわりに大きな花が風に吹かれてユラユラと揺れる姿は、いかにも健気で、可憐な少女のような趣を感じさせてくれる。 私の父は昭和32年11月12日に29歳で亡くなった。交通事故だった。そのころ私は5歳ではっきりとは覚えてはいないが、市バスとバイクの事故だったこと、大正橋辺りでの事故だったこと、長い時間かかってようやく病院にたどり着いたということ、を母から聞いて覚えている。ベッドに横たわる父は、鼻のあたりにぬぐい切れない血のりがたまっていて、全身むき出しの腹部は縦に裂かれて、そのところどころにガムテープのようなものが張られていた。ベッドに横たわる父親の足元で母が泣いている。私は悲しくなかったが、母が泣いてるから泣かないといけないんじゃないかと思っていた。 母は、後から ・父が「痛い痛い」といって死んでいったこと ・事故の相手の名前も住所も聞かなかったこと ・そして、聞かなくてよかったと後から思ったこと を、よく話していた。

専門的・技術的職業従事者
投稿時の年齢:70
奈良
投稿日時:
2022年10月02日
ドラマの時期:
1957年
文字数:784