晴天の霹靂
私が塾を始めてからちょうど7年目の3月。春を迎えてこれから新入生の受け入れ態勢を整えようという時だった。いつもと違って学生が来ない。おかしい。何か変だぞ。と思っている間に時間は過ぎて授業開始の時刻が来た。しかし、誰も来ない。待てど暮らせど一人も来ない。
自宅で玄関の扉に張り紙をして塾を初めて以来、こんなことはなかった。しかし思い当たる節はあった。
塾は弟と二人で分業態勢で授業をこなしていた。私は英語以外の4科目。弟は英語。週に1回の授業だが弟を信頼していた。だがそれが間違いの元だった。当時大学生だった弟は部活動やらなにやら忙しそうにしていた。塾のある日だけは帰宅して、きちんと教えてくれているものだと思っていたが、違った。授業開始の時間に遅れること30分。平然と帰ってきて何の準備もせず授業を始めていたのだ。たまたま私が家にいて弟の遅刻が発覚した。学生の立場にすればたまったものではないだろう。遅刻はするわ、月謝だけはきちんと取られるわ、なんの対応もせず放置していたのだから。
もう一つ、思い当たることは、私の側にもあった。前年、資格試験の一次に合格して、今年こそと気合を入れていた。自分の勉強に熱を入れすぎて、塾の準備や対応に手抜かりがあったかもしれないということだ。
学生の数は大きく減ってしまった。回復する見込みはない。さて、どうする?今日にも生活費はいる。新聞の求人欄を探すと、堂島の中華料理屋で皿洗いのバイトを募集していた。通うのに1時間ぐらいかかる。朝8時から2時までの6時間。迷わず応募した。
次の日から洗い場で皿洗いのバイトが始まった。調理師は気性が荒い。みんな徒弟制度のような関係で、皿洗いなどは眼中にないようだった。有線でもんた&ブラザーズのダンシングオールナイトを聞きながら、教えられるままに黙々と仕込みを続けた。11時から営業開始。客が入ってくると、ホールはもちろんのこと、調理場も戦場と化した。次々と運ばれてくる皿。それをシンクに放り込んで洗剤で洗うのだが、時折、皿が割れていることがある。洗剤で真っ白になっているお湯の中に手を突っ込んで、嫌というほど手を切った。そんな毎日が2年続いた。
私は、自分が努力すれば夢はかなうと信じていた。自分さえしっかりしていれば、大丈夫だと思っていた。だが、思わぬ事故で、あるいは災害で、運命が狂わされることがある。名もない生活人はみんなそのような理不尽な仕打ちを経験して生きているのだろう。その後の私は30歳で受験を諦めてしまった。ちょうど母が58歳で亡くなった年だった。
シニアとよばれる年代に差し掛かったのだと、自分でも驚いています。知らない間に年を重ねて今に至ったのだけれど、何もしてこなかったとの感が強く私の心を突き上げます。
チャレンジするのが好きで、また人と比べられるのが大嫌い。自分の宝物を持ちたい。そんな思いでこのサイトを訪れました。心に残るエポックを残せるように、記憶をたどりながら、また、読み応えのあるものを残していきたいと考えています。
晴天の霹靂