AGE

30

Autobiography

最後のプレゼント

私は、祖父母・両親・妹の6人家族。 その中でも、私はじいちゃんが一番大嫌いで、子供の頃はよく喧嘩していた。 今は社会人になり、振り返ると幼稚で嫉妬していたとつくづく思う。 私の実家は、お風呂を薪で沸かしたり、野菜やお米を育てている。 じいちゃんとの事件は幼稚園の頃・・・妹が産まれ、妹にぞっこん。 妹ばかり可愛がる姿に腹を立てていた。 私が先に見ていたテレビでも、妹が来たらチャンネルを急に変えられ、怒ると「年上なんだから譲りなさい」と毎回のようにじいちゃんから言われる。 普通だったら親から言われるようなことも、じいちゃんから言われ、鬱陶しく感じるように。 しかし、高校生になると私の良き理解者になり、好きになっていた。 それは、私のいろんな姿を小さい頃から見せていたからこそだ。 就職が決まり実家を離れることに、社会人になっても週に一回はじいちゃんに電話、近況を報告していた。そして、電話時の毎回の決め台詞「お前の結婚式まで俺は生きるぞ」 そんな中、仕事では上手くいかず、上司から罵倒され、ほんとに嫌になっていた。 仕事が嫌いで、楽しくなくて、やる気なんて微塵も起きなかった。 そして、2019年8月訃報が届いた。じいちゃんが亡くなったのだ。 仕事が上手くいかない中での訃報、悲しみに暮れた・・・ お葬式も終わり、普段の生活に戻った時、母からある話を聞かせてもらった。 じいちゃんが亡くなる前、薪割りをしている時のことだ。 朝から夕方まで、手にはマメができてもなお、ずっと薪割りをしている。 母が「そんな辛い作業、どうしてずっとできるの?」と聞いたそうだ。 すると、じいちゃんは一言「好きだから」 その5文字に感動し勇気をもらい、これはプレゼントだと思った。

ドラマの時期:
2019年
8月
--日
文字数:922
投稿時の年齢:27

反省からの気づき

誰しも「仕事を辞めたい」「この上司嫌い」など思ったことがあると思います。 私もその中の一人でした。 というのも、私の上司は自ら言った発言に対して責任を持たず、都合が悪くなると「そんな指示出していない」などその場から逃げるのです。 今回は、このような中で気付いたこと、感じたことを書きます。私は、高校卒業後某自動車製造メーカーに就職しました。 製造業なので、昼夜の仕事で2直24時間体制での仕事。新入社員の時から、その上司はパワハラする傾向で、無責任という噂が出回っていました。 5年経ち、最悪にもその上司と同じ直に。その日その日によって機嫌は変わり、威圧的な態度で仕事を押し付けてきて、到底上司とは思えない身振りでした。 そして、事件は起きました。 私は改善活動のリーダーを任され、生産率を向上させるために加工タイムの短縮の改善を行なっていた時のことです。 不運にも一つ不良を作ってしまいました。正直言うと改善には失敗がつきもので、しょうがない部分もあります。 ところがその上司は「なにやってんだ!ふざけんな」と一言・・・だけで終わらず蹴りを入れられ、同じ作業してもらうと、上司もやはり不良を作り・・しかしその上司が作った不良は暗闇に消え、私が作った不良だけ会社に報告されました。 暴力と隠蔽で、私は憤りを感じ、次の日重役が集まる全体の会議で私はその上司に対して「あなたを上司とは思いません」と一言。言ってやったぜ。ざまぁみろと思いましたが、同時にその上司の面子を潰してしまいました。 その帰り、車を運転しているとサイドミラー同士がぶつかるという事故を起こし、家では下の階の人が火事を起こすという事件が立て続けに起こり、ここまで不運が起きると、自身の行動を振り返ることに。 重役のいる会議であそこまで言う必要があったのか。もっと他の方法があったのでは。など考えさせられました。 結論、言いすぎたと感じ、謝罪することに。上司もここまで言われたのは初めてだったらしく、改心できたと言っていました。

ドラマの時期:
2018年
--月
--日
文字数:1090
投稿時の年齢:27

カーコンプレッサー製造現場で経験した苦い失敗と成功体験

 幼少期より私は機械に触れることが多かった。農家だった実家はトラクターや稲刈り機、チェーンソー、草刈機などの農機器が沢山あり、壊れたら自分で修理をし、また使うの繰り返し。その影響もあり、工業高校へ進路を決めた。そこには沢山の工作機械があり、「ものづくり」の楽しさを肌で感じながら工業系の専門科目を学んだ。卒業後は、某自動車部品をつくる会社へ就職。カーコンプレッサー用部品の製造に改善班の一員として携わり、実に7年間勤めた。現在は物流クレーンをメンテナンスする仕事をしているが、最初の自動車部品製造会社での数々の体験が印象に残っており、今となっては多くのことを学ばせてもらったと感じる。  ちなみに、カーコンプレッサーとは名前の通り、自動車に載っているコンプレッサー(空気圧縮機)のことだ。コンプレッサーが生み出す圧縮空気のエネルギーを利用することで、空気の加熱あるいは冷却を行い、車の冷暖房(エアコン)機能を担う。実は日本で車にエアコンが標準装備されるようになったのは、1970年後半〜1980年代と歴史は浅い。しかし、今となっては必需品で、使ったことがない人はいないだろう。では、車内環境を快適に保つこのカーコンプレッサーのどの部品の製造に携わっていたのか説明していく。  私が配属された工場では、カーコンプレッサーのハウジングという部品を製造していた。ハウジングとは、コンプレッサーの外枠のアルミ素材で作られた筐体部品のことを指す。  工場は国内でも屈指の規模。24時間体制で稼働しており、1日に約1200台のハウジングを製造していた。もちろん製造量だけでなく、安定した品質を維持するため、様々な取り組みもされていた。  たとえばコンプレッサーのような機械は1/100ミリ、部位によっては1/1000ミリ単位の精度の加工が求められる。しかし、筐体はアルミ製のため、熱による膨張や凝縮の影響が大きく出てしまう。対策として、加工ズレが生じないように、機械とアルミの温度をこまめに管理した。  また、ハウジングの細部を形作る切削加工のあとは、アルミの粉(切粉)も残留する。そこで、刃物の回転速度や送り速度を計算し、切粉が除去されるように設定する。こういった創意工夫を重ねることで、ようやくハウジングという部品の品質は保たれるのだ。  ところで、一般的に工場と聞くと、上述したような制御を行えば、あとは大量の機械が自動で製品の加工を行なっていくように想像するだろう。もちろん、そういった側面もある。が、製品の仕様変更、工場設備の変更、機械の老朽化、そして変動する人員体制に対応しつつ、品質や製造を納期通りに保つことが、現場ではとにかく大変だった。  ちなみに私は工場全体の改善班の一員として携わっていたのだが、特に機械の老朽化への対応には気を引き締めていた。これはなぜか?簡単にいえば、工場設備は日に日に変化するのだ。例を挙げると、たとえば包丁を毎日使用すると、刃が摩耗し、切れ味が落ちる。このような現象は工場機械のあらゆるところで起きる。包丁が摩耗して、野菜や肉が切れなくなるように、工場の機械も老朽化に伴い加工精度が落ちていく。結果的に製品の不良につながる。 もちろん、過去の経験を頼りに、問題を早めに対処できるケースもあるが、全てではない。仕様変更に応じた状況の変化や、初めて壊れる箇所など、無数に問題はでてくる。それが大量の機器を運用し、複雑な製品を製造する上での難しいポイントだ。  機械の老朽化には最善の注意が必要なことは、わたしもこの身を持って経験した。入社して3数年目のころ、新しいコンプレッサー製品の品質検査の担当に就いた。そんなある日、後工程で組み付け不可というクレームが起きた。理由は筐体に致命的なキズが入っていたためで、私が見落としてしまったのた。キズの原因は、検査する前段階の加工の際、製品が置かれる基準台に老朽化による傾きが生じていたことだ。  幸い、車に取り付ける前で大惨事は防げた。が、クレームが出る前に製造された製品すべてを廃棄するとなると、損失は数百万円を軽く超えた。そのため、在庫品数千台を一つずつ確認することになった。 決して仕事の手を抜いていたわけではない。品質検査チェック項目を適宜見ながら行った。私の言い分として、その新しいコンプレッサー製品は今までとは異なった構造で、クレームの出た部位は既存の検査項目に入っていなかったのだ。つまり、今回の基準台の老朽化に伴う傾きの誤差は、これまで重視されない箇所だった。さらに、出たキズも目を凝らさないとわからない所で「正直こんなの分からないよ」と言いたい気持ちだった。  そうは思いつつも、工場長や各部署の上役が集まりだした。あれこれと発生状況の調査やなぜ見逃したのか事情聴取され、事態は大きくなった。「下手したら減給、あるいは解雇か」そんなこと思いながら血の気がひいていた。その後は、毎日のように工場長がラインに訪れては、「人的な問題はなかったのか」と張りつきながらの確認が行われた。さらに品質検査動作の確認や作業手順の間違いの有無など、1週間にわたり、各所で念入りな調査も入った。 不幸中の幸いか、今回は私の人的問題というよりは、品質検査チェックシステムに根本的な問題があったと判断された。さらにキズがついた製品に関しては、各部署の経験豊富な上役が連携をとり、「後工程の修正でなんとかなるのはないか?」と工夫をひねり出し、なんとか難を免れられた。  のちに思い返すと、品質検査の本質が理解できていなかったように思う。新しいコンプレッサー製品の製造となると、重視すべき箇所も変わりうる。当然、それを想定して検査チェック項目の追加を上司に提言しなければならなかった。さらに、そのチェック項目箇所の追加に応じて、これまで対応する必要がなかった老朽化に伴う機械の誤差を、他部署も含めて確認すべきだった。こういった日々の改善を重ねながらノウハウを蓄積することで、生産ラインは次の課題に対応するレベルへと成長していくのだろう。 そして何より、自分の意識にも問題があった。品質検査の担当は、品質を守る最後の砦であるが、どこか品質に関して、「問題なんて出ないだろう」と、疎かに考えていた自分がいたことに気づいた。だからチェック項目のみの確認という、受動的な仕事しかできていなかったのだろう。表現は難しいが、「問題は必ず起きる。それを探し出す。」という攻めの心理こそ、検査では重要に感じた。 思い返すと、このあたりから「ここの老朽化は今でこそ重要ではないが、もしココの誤差が拡大したら、話は変わるのではないか?」といった、観察力や疑問を重ねる探求心も湧いてきたと記憶している。

ドラマの時期:
2016年
--月
--日
文字数:4349
投稿時の年齢:27

ありがとうを忘れない。

「めっちゃコミュ力あるね」今となってはみんなから言われる。 私は、小学校の全校生徒21人、中学校34人。大分の小さい田舎町で育ち、生徒のほとんどは保育園からの幼馴染や顔見知りばかり。 この学校以外の人とは喋ったことはなく、コミュニケーション力の「コ」の字もなかった。私は田舎町を出たいのと、車好きだった為、愛知へ就職。 思い切って田舎を出たものの、知らない土地での生活、知らない人との会社生活で毎日がストレスだった。 そんな中、「バレーしてみない?」同じ会社のおばちゃんが声をかけてくれた。 私は中学、高校とバレーボールしていた為、気分転換で行ってみることに。 練習場へ行くと最初は人見知りを発動していたが、とても楽しく毎週練習に参加していくうち、自然に馴染めるようになってきた。 そんな時、一緒の練習に参加していた私と同年代くらいの人が「もっと若いチームで練習しない?」と誘われ、参加。 そこにはたくさん同年代の人がいて、人との会話が楽しくなり、人見知りも改善された。 今となっては、積極的に声をかけることでたくさんの友達ができ、仕事でも活かされている。

ドラマの時期:
2014年
10月
8日
文字数:652
投稿時の年齢:27
AGE

30

Autobiography

最後のプレゼント

私は、祖父母・両親・妹の6人家族。 その中でも、私はじいちゃんが一番大嫌いで、子供の頃はよく喧嘩していた。 今は社会人になり、振り返ると幼稚で嫉妬していたとつくづく思う。 私の実家は、お風呂を薪で沸かしたり、野菜やお米を育てている。 じいちゃんとの事件は幼稚園の頃・・・妹が産まれ、妹にぞっこん。 妹ばかり可愛がる姿に腹を立てていた。 私が先に見ていたテレビでも、妹が来たらチャンネルを急に変えられ、怒ると「年上なんだから譲りなさい」と毎回のようにじいちゃんから言われる。 普通だったら親から言われるようなことも、じいちゃんから言われ、鬱陶しく感じるように。 しかし、高校生になると私の良き理解者になり、好きになっていた。 それは、私のいろんな姿を小さい頃から見せていたからこそだ。 就職が決まり実家を離れることに、社会人になっても週に一回はじいちゃんに電話、近況を報告していた。そして、電話時の毎回の決め台詞「お前の結婚式まで俺は生きるぞ」 そんな中、仕事では上手くいかず、上司から罵倒され、ほんとに嫌になっていた。 仕事が嫌いで、楽しくなくて、やる気なんて微塵も起きなかった。 そして、2019年8月訃報が届いた。じいちゃんが亡くなったのだ。 仕事が上手くいかない中での訃報、悲しみに暮れた・・・ お葬式も終わり、普段の生活に戻った時、母からある話を聞かせてもらった。 じいちゃんが亡くなる前、薪割りをしている時のことだ。 朝から夕方まで、手にはマメができてもなお、ずっと薪割りをしている。 母が「そんな辛い作業、どうしてずっとできるの?」と聞いたそうだ。 すると、じいちゃんは一言「好きだから」 その5文字に感動し勇気をもらい、これはプレゼントだと思った。

サービス職業従事者
投稿時の年齢:27
愛知
投稿日時:
2022年03月27日
ドラマの時期:
2019年
--日
文字数:922

反省からの気づき

誰しも「仕事を辞めたい」「この上司嫌い」など思ったことがあると思います。 私もその中の一人でした。 というのも、私の上司は自ら言った発言に対して責任を持たず、都合が悪くなると「そんな指示出していない」などその場から逃げるのです。 今回は、このような中で気付いたこと、感じたことを書きます。私は、高校卒業後某自動車製造メーカーに就職しました。 製造業なので、昼夜の仕事で2直24時間体制での仕事。新入社員の時から、その上司はパワハラする傾向で、無責任という噂が出回っていました。 5年経ち、最悪にもその上司と同じ直に。その日その日によって機嫌は変わり、威圧的な態度で仕事を押し付けてきて、到底上司とは思えない身振りでした。 そして、事件は起きました。 私は改善活動のリーダーを任され、生産率を向上させるために加工タイムの短縮の改善を行なっていた時のことです。 不運にも一つ不良を作ってしまいました。正直言うと改善には失敗がつきもので、しょうがない部分もあります。 ところがその上司は「なにやってんだ!ふざけんな」と一言・・・だけで終わらず蹴りを入れられ、同じ作業してもらうと、上司もやはり不良を作り・・しかしその上司が作った不良は暗闇に消え、私が作った不良だけ会社に報告されました。 暴力と隠蔽で、私は憤りを感じ、次の日重役が集まる全体の会議で私はその上司に対して「あなたを上司とは思いません」と一言。言ってやったぜ。ざまぁみろと思いましたが、同時にその上司の面子を潰してしまいました。 その帰り、車を運転しているとサイドミラー同士がぶつかるという事故を起こし、家では下の階の人が火事を起こすという事件が立て続けに起こり、ここまで不運が起きると、自身の行動を振り返ることに。 重役のいる会議であそこまで言う必要があったのか。もっと他の方法があったのでは。など考えさせられました。 結論、言いすぎたと感じ、謝罪することに。上司もここまで言われたのは初めてだったらしく、改心できたと言っていました。

サービス職業従事者
投稿時の年齢:27
愛知
投稿日時:
2022年03月27日
ドラマの時期:
2018年
--月
--日
文字数:1090

カーコンプレッサー製造現場で経験した苦い失敗と成功体験

 幼少期より私は機械に触れることが多かった。農家だった実家はトラクターや稲刈り機、チェーンソー、草刈機などの農機器が沢山あり、壊れたら自分で修理をし、また使うの繰り返し。その影響もあり、工業高校へ進路を決めた。そこには沢山の工作機械があり、「ものづくり」の楽しさを肌で感じながら工業系の専門科目を学んだ。卒業後は、某自動車部品をつくる会社へ就職。カーコンプレッサー用部品の製造に改善班の一員として携わり、実に7年間勤めた。現在は物流クレーンをメンテナンスする仕事をしているが、最初の自動車部品製造会社での数々の体験が印象に残っており、今となっては多くのことを学ばせてもらったと感じる。  ちなみに、カーコンプレッサーとは名前の通り、自動車に載っているコンプレッサー(空気圧縮機)のことだ。コンプレッサーが生み出す圧縮空気のエネルギーを利用することで、空気の加熱あるいは冷却を行い、車の冷暖房(エアコン)機能を担う。実は日本で車にエアコンが標準装備されるようになったのは、1970年後半〜1980年代と歴史は浅い。しかし、今となっては必需品で、使ったことがない人はいないだろう。では、車内環境を快適に保つこのカーコンプレッサーのどの部品の製造に携わっていたのか説明していく。  私が配属された工場では、カーコンプレッサーのハウジングという部品を製造していた。ハウジングとは、コンプレッサーの外枠のアルミ素材で作られた筐体部品のことを指す。  工場は国内でも屈指の規模。24時間体制で稼働しており、1日に約1200台のハウジングを製造していた。もちろん製造量だけでなく、安定した品質を維持するため、様々な取り組みもされていた。  たとえばコンプレッサーのような機械は1/100ミリ、部位によっては1/1000ミリ単位の精度の加工が求められる。しかし、筐体はアルミ製のため、熱による膨張や凝縮の影響が大きく出てしまう。対策として、加工ズレが生じないように、機械とアルミの温度をこまめに管理した。  また、ハウジングの細部を形作る切削加工のあとは、アルミの粉(切粉)も残留する。そこで、刃物の回転速度や送り速度を計算し、切粉が除去されるように設定する。こういった創意工夫を重ねることで、ようやくハウジングという部品の品質は保たれるのだ。  ところで、一般的に工場と聞くと、上述したような制御を行えば、あとは大量の機械が自動で製品の加工を行なっていくように想像するだろう。もちろん、そういった側面もある。が、製品の仕様変更、工場設備の変更、機械の老朽化、そして変動する人員体制に対応しつつ、品質や製造を納期通りに保つことが、現場ではとにかく大変だった。  ちなみに私は工場全体の改善班の一員として携わっていたのだが、特に機械の老朽化への対応には気を引き締めていた。これはなぜか?簡単にいえば、工場設備は日に日に変化するのだ。例を挙げると、たとえば包丁を毎日使用すると、刃が摩耗し、切れ味が落ちる。このような現象は工場機械のあらゆるところで起きる。包丁が摩耗して、野菜や肉が切れなくなるように、工場の機械も老朽化に伴い加工精度が落ちていく。結果的に製品の不良につながる。 もちろん、過去の経験を頼りに、問題を早めに対処できるケースもあるが、全てではない。仕様変更に応じた状況の変化や、初めて壊れる箇所など、無数に問題はでてくる。それが大量の機器を運用し、複雑な製品を製造する上での難しいポイントだ。  機械の老朽化には最善の注意が必要なことは、わたしもこの身を持って経験した。入社して3数年目のころ、新しいコンプレッサー製品の品質検査の担当に就いた。そんなある日、後工程で組み付け不可というクレームが起きた。理由は筐体に致命的なキズが入っていたためで、私が見落としてしまったのた。キズの原因は、検査する前段階の加工の際、製品が置かれる基準台に老朽化による傾きが生じていたことだ。  幸い、車に取り付ける前で大惨事は防げた。が、クレームが出る前に製造された製品すべてを廃棄するとなると、損失は数百万円を軽く超えた。そのため、在庫品数千台を一つずつ確認することになった。 決して仕事の手を抜いていたわけではない。品質検査チェック項目を適宜見ながら行った。私の言い分として、その新しいコンプレッサー製品は今までとは異なった構造で、クレームの出た部位は既存の検査項目に入っていなかったのだ。つまり、今回の基準台の老朽化に伴う傾きの誤差は、これまで重視されない箇所だった。さらに、出たキズも目を凝らさないとわからない所で「正直こんなの分からないよ」と言いたい気持ちだった。  そうは思いつつも、工場長や各部署の上役が集まりだした。あれこれと発生状況の調査やなぜ見逃したのか事情聴取され、事態は大きくなった。「下手したら減給、あるいは解雇か」そんなこと思いながら血の気がひいていた。その後は、毎日のように工場長がラインに訪れては、「人的な問題はなかったのか」と張りつきながらの確認が行われた。さらに品質検査動作の確認や作業手順の間違いの有無など、1週間にわたり、各所で念入りな調査も入った。 不幸中の幸いか、今回は私の人的問題というよりは、品質検査チェックシステムに根本的な問題があったと判断された。さらにキズがついた製品に関しては、各部署の経験豊富な上役が連携をとり、「後工程の修正でなんとかなるのはないか?」と工夫をひねり出し、なんとか難を免れられた。  のちに思い返すと、品質検査の本質が理解できていなかったように思う。新しいコンプレッサー製品の製造となると、重視すべき箇所も変わりうる。当然、それを想定して検査チェック項目の追加を上司に提言しなければならなかった。さらに、そのチェック項目箇所の追加に応じて、これまで対応する必要がなかった老朽化に伴う機械の誤差を、他部署も含めて確認すべきだった。こういった日々の改善を重ねながらノウハウを蓄積することで、生産ラインは次の課題に対応するレベルへと成長していくのだろう。 そして何より、自分の意識にも問題があった。品質検査の担当は、品質を守る最後の砦であるが、どこか品質に関して、「問題なんて出ないだろう」と、疎かに考えていた自分がいたことに気づいた。だからチェック項目のみの確認という、受動的な仕事しかできていなかったのだろう。表現は難しいが、「問題は必ず起きる。それを探し出す。」という攻めの心理こそ、検査では重要に感じた。 思い返すと、このあたりから「ここの老朽化は今でこそ重要ではないが、もしココの誤差が拡大したら、話は変わるのではないか?」といった、観察力や疑問を重ねる探求心も湧いてきたと記憶している。

サービス職業従事者
投稿時の年齢:27
愛知
投稿日時:
2022年03月28日
ドラマの時期:
2016年
--月
--日
文字数:4349

ありがとうを忘れない。

「めっちゃコミュ力あるね」今となってはみんなから言われる。 私は、小学校の全校生徒21人、中学校34人。大分の小さい田舎町で育ち、生徒のほとんどは保育園からの幼馴染や顔見知りばかり。 この学校以外の人とは喋ったことはなく、コミュニケーション力の「コ」の字もなかった。私は田舎町を出たいのと、車好きだった為、愛知へ就職。 思い切って田舎を出たものの、知らない土地での生活、知らない人との会社生活で毎日がストレスだった。 そんな中、「バレーしてみない?」同じ会社のおばちゃんが声をかけてくれた。 私は中学、高校とバレーボールしていた為、気分転換で行ってみることに。 練習場へ行くと最初は人見知りを発動していたが、とても楽しく毎週練習に参加していくうち、自然に馴染めるようになってきた。 そんな時、一緒の練習に参加していた私と同年代くらいの人が「もっと若いチームで練習しない?」と誘われ、参加。 そこにはたくさん同年代の人がいて、人との会話が楽しくなり、人見知りも改善された。 今となっては、積極的に声をかけることでたくさんの友達ができ、仕事でも活かされている。

サービス職業従事者
投稿時の年齢:27
愛知
投稿日時:
2022年03月26日
ドラマの時期:
2014年
文字数:652