はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト
私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。 ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。 まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。 そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。 その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。 正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。 ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。 それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。 例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。 そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。 では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。 当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。 話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。 そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。 たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。 ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。 実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。 そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。 仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。 まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。 素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。 また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。 さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。 このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。 夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。 そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)
アラフォーの挑戦!ピアスホール開けました
昭和末期生まれ、気がつけばアラフォー世代の私。 目を使う職業柄なのか?こめかみ辺りにグッと白髪が増え、最近は頬に小さなシミのようなものを見つけてしまいました。 どうせ着飾ったってねぇ…。 年齢に逆らって若い人と同じような格好をしたって、陰で笑われるだけでしょう。 若さを失い卑屈な思いを抱え、忙しさのせいにしておしゃれすることをあきらめていました。 物足りなさ、味気なさを感じる日々。 こんなことではますます老け込んでしまう…。 そんな中、ハンドメイドマーケットですてきなピアスを見つけました。 小さなビーズをていねいにステッチした、キラキラ輝く一点物です。 ダークブラウンとゴールドの色合いに一目惚れ、その場ですぐ衝動買いしました。 ただ、当時私はピアスホールを開けていませんでした。 高校生の頃ピアスに憧れて、卒業と同時にピアスホールを開けた同級生がうらやましい!と感じ、何度挑戦しようと思ったことか。 それでも実行に至らなかったのは、父から猛反対されたのと、注射嫌いで痛みに耐えられる自信がなかったから。 なので、イヤリングにお直ししてもらい大切に使っていました。 しかし、出先で危うくイヤリングを紛失しそうになりました。 「耳に挟んでたら痛いな…」と、金具を少し緩めていたのが原因。 それ以来、無くすのが怖くて身につけるのをためらっていました。 そんなことがあってから、ある日ふと思いつきました。 「ピアスホール、開けてみようかな…?」 思い立ったが吉日、すぐにピアッサーを準備してひと思いに開通式(笑) 心配していた痛みもほぼ感じず、その日から私の耳たぶには小さなジュエリーのきらめきが…。 いつか憧れていたピアスが、ついに現実のものとなりました。
私の人生を変えたスイス旅行
私には大切な思い出がある。それは、数年前のスイス旅行だ。当時の私は、仕事もプライベートもうまくいかず、生きる意味を見失っていた。ストレスで体調を崩し、体重は7kgも減ってしまった。自分の未来に絶望し、これからどうやって生きていけばいいのか、途方に暮れていた。 そんな時ふと思い立って、仕事のお盆休みにスイスに一人旅をすることにした。スイスは、私の両親が新婚旅行で行った国。両親の思い出話を聞いて、「いつか行ってみたい!」と憧れていた国だった。 3日間という短い滞在時間だったが、とにかく素晴らしかった。地球にこんなにも美しい場所があったのかと、心が震えて涙が止まらなかった。澄んだ空気、青く透き通る湖、広大なアルプスの山々。天国ってこんなところなのかな、と思うほどに、優しくて美しい国だった。日本では見ることができない美しい風景と豊かな時間の流れに、傷つき疲れ果てた私の心は、一瞬にして癒されていったのだ。 「この美しい地球に生きているって、なんて素晴らしいんだ。」悲しみや絶望が吹き飛び、私の心は感謝の気持ちで満ち溢れた。 この旅行をきっかけに、私の人生観は大きく変わった。日常の些細なトラブルや仕事の成果などに、心が乱されることがなくなったのだ。だって、「生きているだけで、素晴らしい」のだから。すると不思議なことに、いろんなことがうまくいくようになってきた。あんなに嫌だった仕事も楽しくなってきて、新しい友人もでき、恋人もできた。悲しいことや厳しい状況に陥っても、自分の力で立ち上がることができるようになった。
3093年を思ってみる
「西暦は2111年」 2010年にリリースされたアンダーグラフ×SoulJaが歌う「2111 ~過去と未来で笑う子供達へ~」という楽曲は、こう歌い出す。 この曲が収録されたアルバムが同年にリリースされてすぐに私は手にし、それ以来、今でも聞き続けている大好きな曲である。 夢の中を舞台に、2010年の現在を生きる人物と、過去・未来それぞれを生きる少年少女が対話を繰り広げる。 「空は青いの??」「雲は白いの??」「森は緑なの??」「月はどんな形をしているの??」 これらの無邪気な質問からは、未来の少年はなかなかにカタストロフィックな環境に身を置いていることがうかがえる。 それに対して“僕”は涙を流して謝っている。 時代は明らかではないが、「テレビも車もまだない過去」を生きる少女からは期待の眼差しだ。 「どんな服を着るの??」「どんなお菓子や遊びがあるの??」 「みんなが笑顔だよ」「パソコンとやらで服も買えるよ」 こちらは幾分か誇らしげだ。 2021年現在では服どころか、むしろインターネットで買うことができない物の方が少ないような気さえするが、この楽曲が製作された2010年当時を思い出すとパソコンで服やその他の商品を買うというライフスタイルはそこまで社会に浸透していなかったのではないか。 【101年先の未来を生きる子供達に素晴らしい地球を残したい】 とのメッセージが込められているそうだ。 2021年にはmillennium paradeが「2992」という楽曲をリリースした。 1992年生まれの制作者が、「自分が生まれた年から1000年たってもこの曲が残ってほしい」との願いを込めて名付けた。 西暦2992年の未来を生きる人に、今を生きる人の考えていることを伝えようとする歌詞になっている。 101年先にしろ1000年先にしろ、楽曲という形式で思いを遺そうとする試みは面白いではないか。 少なくとも私自身は生きていないであろうほどの未来に想いを馳せることができるというのは、今の世の中に余裕があるからであろうか。 私は小学生の頃から、勉強といえば圧倒的に理科が好きだった。 そもそも野外で遊ぶのが好きで、何かといえば兄とその友達とザリガニ釣りに出かけたものだ。 親の勧めで始めたボーイスカウトも、私をアウトドアへの道へと押し進めてくれた。 そのおかげで、高校で文理選択の際には一片の迷いもなく理系を選択することができた。 受験を目前に控えた高校生は志望大学について真剣に考える。 自分の夢を叶えるためにはどの大学のどの学部に進学するべきか、そして自分の実力はそれに見合っているのか…。 私の将来の夢とはずばり「科学者」であった。 小学校の卒業文集にも書いたほどで、高校生になっても変わっていなかった。 文理の別で何が言えるわけでもないが、高校時代には文系の友人が多かった。 彼らと進路について語り合うとき、彼らは弁護士や検察になりたいと言った。 そこで私は衝撃を覚えた!! 「弁護士」「検察」という“具体的”な職業に比べ、「科学者」とはなんと“抽象的”なのか…!! もちろん今となってはそれぞれの職業について自分なりに語ることができるが、何しろ世の中の全てが国語・数学・理化・社会・英語で理解できると勘違いしていた高校生の時分である。 早計にも私は、理系を選択している学生は押し並べて科学者と呼ばれる人種になるものだと考えていたのだ。 弁護士や検察とは文系学問から専門的に分化した職業であるのに対し、科学者とは理系学問そのものに根差した職業である、という比較構造である。 つまり、「科学者になって何をしたいか」という具体的な対象まで全く思い至らず、理系の流れの行き着く先として呆然と科学者を見ていたのだ。 今でもはっきりと当時の教室の光景を思い出せるほど、明確な劣等感であった…。 とはいえさすがは受験勉強。 そんな劣等感なんかすぐに忘却の彼方に押しやった。 それから月日は経ち、自分の研究テーマを与えられた大学4回生。 研究は新素材開発の一端を担っており、担当准教授と科研費を獲得するために奮闘していたのだが、ふと答えを見つけた気がした。 と言っても何も特別なことではなく、科学研究ひいては社会全体にとって当然である、「有用性が期待されるテーマには投資がされる」という事実である。 そして何が有用か、言い換えれば何が必要とされているかはその時々によって変化するのが常であり、それを予測することは困難である、いや実質的には不可能である。 その時々に社会から必要とされる課題を柔軟に解決するための技術開発こそ、科学者に求められる本質なのだ。 (優れた投資家などはこれから成長が見込まれる分野や企業を上手く見極めているのであろうが、それも多岐に分散させている投資先のいくつかが上手くいっているにすぎない。) 子供の頃に思い描いた科学者という夢、 高校生の時に科学者という職業の抽象性への恐怖を感じたが、 大学生になって雲が晴れた。 ここで純粋科学では少し事情が異なることに言及しておきたい。 必要とされるか否かに関わらず、自然界を相手取り、その真理を追究しようとする人類の単純興味の具現化されたものが純粋科学である。 純粋科学の推進力の第一歩には「有用性」など度外視されるべきである。 では何が社会で必要とされるのか。 ここで、筆者が大学4回生であった2013年と、社会人6年目である2021年を比較してみよう。 全てを比較することなど到底不可能なので、私が科学者を目指すきっかけとなった地球温暖化問題を取り上げてみる。 小学校5年生の時だったか、社会の授業で京都議定書について学んだ。 地球温暖化の原因である温室効果ガスの排出量削減を先進国に課す取り決めである。 自然の中で遊ぶのが大好きだった私は、「京都議定書とはなんと素晴らしいのか!!これで地球温暖化を食い止めることができるに違いない!!」と感動したものだ。 世の中は京都議定書を認知していたはずだが、その実、その実現可能性には懐疑的であったのではなかろうか。 環境適用型技術も数多く世に送り出されたが、社会は無尽蔵に進化を続け、浪費の時代が続いた。 時は進んで2015年、京都議定書の後継であるパリ協定が採択され、先進国のみでなく途上国を含むすべての主要排出国が対象になった。 この時点では私も社会人となる目前であり、就職活動に取り組んでいた。 小学生の時とは違い、パリ協定が世界に与えるインパクトを理解できるようになっていた。 しかし世の中は依然として環境問題対策に腰を据えて取り組んでいたとは言えない。 石油開発企業が就職人気上位に位置していたり、電気自動車や太陽光発電も開発コストが高く社会に普及するのはまだ難しいという記事も散見された。 時を同じくして2015年、国際連合でSDGs(Sustainable Development Goals)が採択された。 京都議定書やパリ協定のように地球温暖化問題だけを対象にしたものではなく、持続可能な開発を目指して「世界が2030年までに取り組むべき17の目標」を定めたものである。 このSDGsというものが、2021年現在非常に普及している。 京都議定書やパリ協定は温室効果ガスの排出削減を主に産業界に課す取り決めであったのに対し、SDGsは気候変動をはじめ貧困・教育・健康・女性活躍など「持続可能な開発」に寄与すると期待されるあらゆる分野から構成されるため、全人類がプレーヤーとなる。 何ら拘束力を有さないため、国連で採択されてからすぐに普及したわけではなかったが、2019年頃から急に耳にするようになった。 今日ではSDGsに関する何かしらに触れない日はない。 どんな形であれ多くの人が自分事だと感じて地球環境問題に取り組むのは素晴らしいことだし、私自身も人並みに取り組んでいるつもりだ。 大衆の力とは強大で、京都議定書・パリ協定では動かなかった大勢の姿勢が、SDGsを合言葉に大きく変化し始めている。 ここ数年で最も大きく情勢が変化したのは石油・天然ガス業界ではないだろうか。 私が生まれた頃には(記憶はないが)石油製品を使用するのが当たり前になっていて、2019年頃までは石油無しの生活は考えられず、社会全体が石油利用をその前提としていた。 それがSDGsが叫ばれ始めた最近、石油業界は完全に悪者に仕立て上げられ、投資が激減している。 確かに太陽光発電、風力発電などが社会インフラとなりつつある現在からすると、もしかすると近い将来には石油を必要としない社会が到来するかもしれない。 しかしこれはなんとも都合のいい話ではないか。 「環境に悪いから、可及的速やかに事業を縮小するように。かといって急にエネルギー源が無くなると困るから、代替エネルギーが確保できるまでは石油に頑張ってもらいたい。」 こんなことを言われて世の為に努力する企業があるだろうか。 そのうち石油業界からのしっぺ返しを食らいそうだ。 話が逸れてしまったが、上でも述べたように科学者に求められる役割は、「その時々に社会から必要とされる課題を解決すること」である。 いつ何が要求されるかわからないからこそ準備をしておくことが重要であるが、これからの将来何が求められるか、今まで以上に予測が難しくなりそうだ。 例として、2015年には就職人気が高かった石油開発企業が、ほんの5年後には環境問題の大きな原因として吊るし上げられている。 こんな急激な変化を誰が予測しただろうか。 良かれと思い石油を生産し、石油・天然ガスが無ければ社会は何も動かないとも思われるほどに栄華を誇った石油・天然ガス業界ですらこの有様である。 昭和から平成時代のようにイケイケどんどんといった風潮は最早なく、令和を生きる人たちは「ほどよく我慢すること」を強いられている。 たとえそれが人々の生活をよくする発明であっても、「いや、それ○○に良くないよね。」と言われればそれまでになってしまった。 純粋科学で言うなれば、「その研究って何の意味があるの??」と一蹴されるようなものである。 「ただやりたい」「おもしろそう」 こんな単純で最も純粋な動機だけで物事を押し進めることができないというのはなんとも窮屈で退屈だ。
GCM1ガスタービンエンジン
今から6年ほど前、私は母親に祖父の家に連れていかれた。母親に仕事のことを聞かれ、社会人一年目だった私が曖昧な返事をしたことがきっかけだった。工学系の大学院卒業後、私は現場で機械に携わる仕事を選んだ。しかしながら仕事内容が想像と異なり、戸惑っていた。そこで心配性の母親が勝手に祖父に相談し、先の経緯となった。母親は昔から過干渉で、今回も再び事を面倒にされたと思い私は腹を立てていた。その日は祖父と母親の三人で食事をすることとなり、祖父が仕事のことを色々と鋭く聞いてきた。まだ仕事経験も浅く、説明下手な私はしどろもどろ答えたように思う。そして祖父は「そんなじゃあまだまだダメだ。一生懸命仕事しなさい。」と厳しい言葉を私にかけた。 祖父は勤勉家かつ寡黙で、家族皆で集まって食事をしていても隅の方で黙々と食べているイメージだった。もともと大手重工メーカーで開発の仕事をしていたらしく、定年間際には別のメーカーで経営の仕事をしていたことぐらいは知っていた。ひょうきんな性格の自分がノリで話すと、理詰め思考の祖父から「適当なことをじいに言うな」と怒られる印象が強かった。なので気軽に話かけることができず、上述した以上のことを長い間知らなかった。 三人で食事した数日後、一人暮らしをしていた私の自宅に祖父から資料が届いた。見てみると、祖父が務めていた会社の社内誌の一部を印刷したものだった。そこには1957年、祖父が二十代のときに携わった「GCM1」というガスタービンエンジン(圧縮空気を燃焼器で燃料を噴射して燃焼させ、発生させた高温・高圧のガスでタービンを回し、回転運動エネルギーを取り出す内燃機関。タービンを回した後、ガスを後方に噴出して推力を得る場合は航空機の動力源として使用される(J79)。タービンを回した後、圧縮空気を得る場合は始動用のエンジンとして使用される(GCM1)。)に関する開発ストーリーが記載されていた。GCM1はF-104戦闘機用の大型J79ガスタービンエンジンの始動用小型ガスタービンエンジンである。一般的にJ79の様な大型航空機用の推力を得るためのガスタービンエンジンは、最初に外部からタービンを回転させる力を借りる必要がある。そこでGCM1はJ79に始動用圧縮空気を供給する。 このGCM1ガスタービンエンジンの開発ストーリーを理解するためには、当時の情勢も理解する必要がある。日本は1945年に太平洋戦争に敗北したのち、GHQの「航空禁止令」により、航空機の研究・設計・製造が全面的に禁止された。その後、朝鮮戦争(1950年)戦闘機の修理需要やサンフランシスコ講和条約(1952年)による航空機産業の部分的な解除で、ようやく国内の航空機産業が少しずつ再開される。つまり、日本の航空機産業は世界の遥か後方にいた。そしてGCM1は戦後もっとも早い時期の何もないところから開発・設計されていたのだ。 GCM1開発ストーリーを読むと1957年の開発開始から1961年の開発終了まで、苦労の連続であったことが伺えた。燃焼器内で燃料をもやしきれない不具合、運転試験の最中に圧力が出ない問題、振動問題、そして始動停止サイクル運転試験時のタービンの不具合等、多くの困難を本当に優秀な方々で乗り越えたことが記載されている。燃焼器の試験中には「ゼロ戦」の堀越二郎氏や本庄季郎氏も観察しに来ていたそうだから驚きだ。終にGCM1は1961年に一旦形となったものの、始動停止サイクル回数はMIL規格(United States Military Standard)をギリギリで通過する200回程度が限界の仕様だったそうだ。当時米国のAiResearch社の同種エンジンが3000回サイクルの実力であったことから、世界との差は歴然としていたことがここからも分かる。始動停止サイクルの限界が200回であった理由は1200℃にも上る燃焼器内部に設置されている燃料を噴射する蒸発器の管の先が赤熱してしまっていたためだ(赤熱が不具合を促す理由:炭素鋼は900℃以上の箇所に赤熱脆性が生じ割れやすくなる。つまり赤熱している箇所は材料が脆くなり、始動停止サイクルを繰り返しながら冷却と加熱を行うと割れにつながると思われる)。しかしながら、開発チームの誰もが解決できないまま、一旦GCM1開発は終了する。 1961年に開発メンバーが解散した後も、祖父は燃焼器の不具合解決に取り組み続けたそうだ。そしてある日、赤熱している蒸発器に空気をいれて冷却する方法を思いつく。そして燃焼器から蒸発器の先の赤熱箇所に目がけて空気が入るように6ミリの孔を開けて試験したところ、とうとう赤熱を止めることができたという。本来、燃焼器は圧縮空気を燃料で燃やして温度を上昇させる機能をもっているため、部分的にも温度を下げて冷やすという発想はなかなかできないものである。実験だから色々気楽に試すことができたと祖父は説明している。結果的にGCM1は初期の頃の10倍の2000回サイクルの始動停止耐久試験にパスしたそうだ。その後GCM1は163台生産され、F-4戦闘機等の始動用エンジンとして半世紀以上に渡ってオーバーホール整備をされながら活躍したそうである。
ミニ四駆アニメ
恥ずかしながら私の座右の銘はミニ四駆アニメのキャラクターのセリフからきている。1990年代半ばに子供達の間で動力付き自動車模型「ミニ四駆」の流行があった。子供の所有欲を駆り立てる特有のデザイン、強化パーツを通した創造性の刺激、そして専用コースでレースを行う競争性など、子供を忙しくさせる仕掛けが満載のコンテンツだった。ブームの絶頂期には漫画化やアニメ化も行われ、その当時6歳だった私もミニ四駆に夢中になった。しかし、ブームの真っ只中に私は父親の仕事の関係でアメリカの田舎に住むことになってしまった。途中まで見ていたミニ四駆アニメから離れることは本当に残念であり、日本の流行から置き去りにされた孤独感は昨日のことの様に思い出せる。 そんな中、救いの手があった。日本にいる祖父母が録画したミニ四駆アニメをアメリカに送り続けてくれたのだ。兄が送られてきたビデオをビデオデッキに入れ、ソファに座ってミニ四駆のアニメを二人でよく見ていた。アメリカ生活の中でたまに触れる懐かしい日本文化は子供ながらに非日常的で強く脳裏に刻まれた。 アニメの内容は、キャラクター間で各々が持つミニ四駆を競争させ、勝者を決めるというシンプルなものである。しかし、エッジの効いたキャラクター同士のミニ四駆レースの展開はとにかく手に汗を握った。主人公は熱血な性格の二人の兄弟で、主人公にふさわしい高い仕様とデザイン性のミニ四駆でスリリングな競争を展開していた。負けることや困難はあるものの、最後の最後は工夫と頑張りで勝利をつかんでいた。子供だった当時の私もアニメの主人公を見習い、、困難な状況でも工夫と頑張りで突き進もうとしていたように思う。 ただし、アニメの中で最も印象に残った言葉は意外にもあるサブキャラクターのセリフだった。そのキャラクターの性格は能天気で、所有しているミニ四駆も仕様が低く、主人公たちとのレースで頻繁に負けていた。印象に残ったセリフはアニメの最終回に登場している。小学4年生のときに旅行で日本に一時帰国しており、最終回は日本の祖父母の家で見たことをはっきりと覚えている。自分がアメリカにいる間に世間のミニ四駆ブームが去ってしまい、不完全燃焼のやり場のない悲しい気持ちが忘れられなかったからだと思う。その日は昼間に近くのレンタルビデオ店で最終回のミニ四駆アニメを借り、窓の外が橙色の夕焼けが染まった頃に最終回を見ていた。 最終回では主人公が強力な敵キャラクターに対して激闘の末の勝利を手にした。一方、そのサブキャラクターは完走したものの、当然のようにレースでは最下位だった。しかし驚くことに、サブキャラクターは完走しただけで喜ぶと同時にポジティブだった。僅差で負けて落ち込んでいる敵キャターは疑問を抱き、なぜ最下位なのに喜んでいられるのか問い詰める。そのサブキャラクターは説明する、「完走したってことは、また次のレースでチャンスがあるってことじゃねぇーか!」。なぜかは分からなかったが、ミニ四駆小僧はこの言葉に心を打たれた。事実、大人になっても時折思い出した。
はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト
私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。 ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。 まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。 そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。 その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。 正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。 ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。 それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。 例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。 そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。 では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。 当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。 話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。 そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。 たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。 ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。 実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。 そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。 仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。 まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。 素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。 また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。 さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。 このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。 夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。 そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)
はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト
私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。 ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。 まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。 そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。 その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。 正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。 ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。 それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。 例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。 そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。 では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。 当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。 話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。 そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。 たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。 ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。 実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。 そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。 仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。 まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。 素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。 また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。 さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。 このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。 夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。 そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)
アラフォーの挑戦!ピアスホール開けました
昭和末期生まれ、気がつけばアラフォー世代の私。 目を使う職業柄なのか?こめかみ辺りにグッと白髪が増え、最近は頬に小さなシミのようなものを見つけてしまいました。 どうせ着飾ったってねぇ…。 年齢に逆らって若い人と同じような格好をしたって、陰で笑われるだけでしょう。 若さを失い卑屈な思いを抱え、忙しさのせいにしておしゃれすることをあきらめていました。 物足りなさ、味気なさを感じる日々。 こんなことではますます老け込んでしまう…。 そんな中、ハンドメイドマーケットですてきなピアスを見つけました。 小さなビーズをていねいにステッチした、キラキラ輝く一点物です。 ダークブラウンとゴールドの色合いに一目惚れ、その場ですぐ衝動買いしました。 ただ、当時私はピアスホールを開けていませんでした。 高校生の頃ピアスに憧れて、卒業と同時にピアスホールを開けた同級生がうらやましい!と感じ、何度挑戦しようと思ったことか。 それでも実行に至らなかったのは、父から猛反対されたのと、注射嫌いで痛みに耐えられる自信がなかったから。 なので、イヤリングにお直ししてもらい大切に使っていました。 しかし、出先で危うくイヤリングを紛失しそうになりました。 「耳に挟んでたら痛いな…」と、金具を少し緩めていたのが原因。 それ以来、無くすのが怖くて身につけるのをためらっていました。 そんなことがあってから、ある日ふと思いつきました。 「ピアスホール、開けてみようかな…?」 思い立ったが吉日、すぐにピアッサーを準備してひと思いに開通式(笑) 心配していた痛みもほぼ感じず、その日から私の耳たぶには小さなジュエリーのきらめきが…。 いつか憧れていたピアスが、ついに現実のものとなりました。
私の人生を変えたスイス旅行
私には大切な思い出がある。それは、数年前のスイス旅行だ。当時の私は、仕事もプライベートもうまくいかず、生きる意味を見失っていた。ストレスで体調を崩し、体重は7kgも減ってしまった。自分の未来に絶望し、これからどうやって生きていけばいいのか、途方に暮れていた。 そんな時ふと思い立って、仕事のお盆休みにスイスに一人旅をすることにした。スイスは、私の両親が新婚旅行で行った国。両親の思い出話を聞いて、「いつか行ってみたい!」と憧れていた国だった。 3日間という短い滞在時間だったが、とにかく素晴らしかった。地球にこんなにも美しい場所があったのかと、心が震えて涙が止まらなかった。澄んだ空気、青く透き通る湖、広大なアルプスの山々。天国ってこんなところなのかな、と思うほどに、優しくて美しい国だった。日本では見ることができない美しい風景と豊かな時間の流れに、傷つき疲れ果てた私の心は、一瞬にして癒されていったのだ。 「この美しい地球に生きているって、なんて素晴らしいんだ。」悲しみや絶望が吹き飛び、私の心は感謝の気持ちで満ち溢れた。 この旅行をきっかけに、私の人生観は大きく変わった。日常の些細なトラブルや仕事の成果などに、心が乱されることがなくなったのだ。だって、「生きているだけで、素晴らしい」のだから。すると不思議なことに、いろんなことがうまくいくようになってきた。あんなに嫌だった仕事も楽しくなってきて、新しい友人もでき、恋人もできた。悲しいことや厳しい状況に陥っても、自分の力で立ち上がることができるようになった。
3093年を思ってみる
「西暦は2111年」 2010年にリリースされたアンダーグラフ×SoulJaが歌う「2111 ~過去と未来で笑う子供達へ~」という楽曲は、こう歌い出す。 この曲が収録されたアルバムが同年にリリースされてすぐに私は手にし、それ以来、今でも聞き続けている大好きな曲である。 夢の中を舞台に、2010年の現在を生きる人物と、過去・未来それぞれを生きる少年少女が対話を繰り広げる。 「空は青いの??」「雲は白いの??」「森は緑なの??」「月はどんな形をしているの??」 これらの無邪気な質問からは、未来の少年はなかなかにカタストロフィックな環境に身を置いていることがうかがえる。 それに対して“僕”は涙を流して謝っている。 時代は明らかではないが、「テレビも車もまだない過去」を生きる少女からは期待の眼差しだ。 「どんな服を着るの??」「どんなお菓子や遊びがあるの??」 「みんなが笑顔だよ」「パソコンとやらで服も買えるよ」 こちらは幾分か誇らしげだ。 2021年現在では服どころか、むしろインターネットで買うことができない物の方が少ないような気さえするが、この楽曲が製作された2010年当時を思い出すとパソコンで服やその他の商品を買うというライフスタイルはそこまで社会に浸透していなかったのではないか。 【101年先の未来を生きる子供達に素晴らしい地球を残したい】 とのメッセージが込められているそうだ。 2021年にはmillennium paradeが「2992」という楽曲をリリースした。 1992年生まれの制作者が、「自分が生まれた年から1000年たってもこの曲が残ってほしい」との願いを込めて名付けた。 西暦2992年の未来を生きる人に、今を生きる人の考えていることを伝えようとする歌詞になっている。 101年先にしろ1000年先にしろ、楽曲という形式で思いを遺そうとする試みは面白いではないか。 少なくとも私自身は生きていないであろうほどの未来に想いを馳せることができるというのは、今の世の中に余裕があるからであろうか。 私は小学生の頃から、勉強といえば圧倒的に理科が好きだった。 そもそも野外で遊ぶのが好きで、何かといえば兄とその友達とザリガニ釣りに出かけたものだ。 親の勧めで始めたボーイスカウトも、私をアウトドアへの道へと押し進めてくれた。 そのおかげで、高校で文理選択の際には一片の迷いもなく理系を選択することができた。 受験を目前に控えた高校生は志望大学について真剣に考える。 自分の夢を叶えるためにはどの大学のどの学部に進学するべきか、そして自分の実力はそれに見合っているのか…。 私の将来の夢とはずばり「科学者」であった。 小学校の卒業文集にも書いたほどで、高校生になっても変わっていなかった。 文理の別で何が言えるわけでもないが、高校時代には文系の友人が多かった。 彼らと進路について語り合うとき、彼らは弁護士や検察になりたいと言った。 そこで私は衝撃を覚えた!! 「弁護士」「検察」という“具体的”な職業に比べ、「科学者」とはなんと“抽象的”なのか…!! もちろん今となってはそれぞれの職業について自分なりに語ることができるが、何しろ世の中の全てが国語・数学・理化・社会・英語で理解できると勘違いしていた高校生の時分である。 早計にも私は、理系を選択している学生は押し並べて科学者と呼ばれる人種になるものだと考えていたのだ。 弁護士や検察とは文系学問から専門的に分化した職業であるのに対し、科学者とは理系学問そのものに根差した職業である、という比較構造である。 つまり、「科学者になって何をしたいか」という具体的な対象まで全く思い至らず、理系の流れの行き着く先として呆然と科学者を見ていたのだ。 今でもはっきりと当時の教室の光景を思い出せるほど、明確な劣等感であった…。 とはいえさすがは受験勉強。 そんな劣等感なんかすぐに忘却の彼方に押しやった。 それから月日は経ち、自分の研究テーマを与えられた大学4回生。 研究は新素材開発の一端を担っており、担当准教授と科研費を獲得するために奮闘していたのだが、ふと答えを見つけた気がした。 と言っても何も特別なことではなく、科学研究ひいては社会全体にとって当然である、「有用性が期待されるテーマには投資がされる」という事実である。 そして何が有用か、言い換えれば何が必要とされているかはその時々によって変化するのが常であり、それを予測することは困難である、いや実質的には不可能である。 その時々に社会から必要とされる課題を柔軟に解決するための技術開発こそ、科学者に求められる本質なのだ。 (優れた投資家などはこれから成長が見込まれる分野や企業を上手く見極めているのであろうが、それも多岐に分散させている投資先のいくつかが上手くいっているにすぎない。) 子供の頃に思い描いた科学者という夢、 高校生の時に科学者という職業の抽象性への恐怖を感じたが、 大学生になって雲が晴れた。 ここで純粋科学では少し事情が異なることに言及しておきたい。 必要とされるか否かに関わらず、自然界を相手取り、その真理を追究しようとする人類の単純興味の具現化されたものが純粋科学である。 純粋科学の推進力の第一歩には「有用性」など度外視されるべきである。 では何が社会で必要とされるのか。 ここで、筆者が大学4回生であった2013年と、社会人6年目である2021年を比較してみよう。 全てを比較することなど到底不可能なので、私が科学者を目指すきっかけとなった地球温暖化問題を取り上げてみる。 小学校5年生の時だったか、社会の授業で京都議定書について学んだ。 地球温暖化の原因である温室効果ガスの排出量削減を先進国に課す取り決めである。 自然の中で遊ぶのが大好きだった私は、「京都議定書とはなんと素晴らしいのか!!これで地球温暖化を食い止めることができるに違いない!!」と感動したものだ。 世の中は京都議定書を認知していたはずだが、その実、その実現可能性には懐疑的であったのではなかろうか。 環境適用型技術も数多く世に送り出されたが、社会は無尽蔵に進化を続け、浪費の時代が続いた。 時は進んで2015年、京都議定書の後継であるパリ協定が採択され、先進国のみでなく途上国を含むすべての主要排出国が対象になった。 この時点では私も社会人となる目前であり、就職活動に取り組んでいた。 小学生の時とは違い、パリ協定が世界に与えるインパクトを理解できるようになっていた。 しかし世の中は依然として環境問題対策に腰を据えて取り組んでいたとは言えない。 石油開発企業が就職人気上位に位置していたり、電気自動車や太陽光発電も開発コストが高く社会に普及するのはまだ難しいという記事も散見された。 時を同じくして2015年、国際連合でSDGs(Sustainable Development Goals)が採択された。 京都議定書やパリ協定のように地球温暖化問題だけを対象にしたものではなく、持続可能な開発を目指して「世界が2030年までに取り組むべき17の目標」を定めたものである。 このSDGsというものが、2021年現在非常に普及している。 京都議定書やパリ協定は温室効果ガスの排出削減を主に産業界に課す取り決めであったのに対し、SDGsは気候変動をはじめ貧困・教育・健康・女性活躍など「持続可能な開発」に寄与すると期待されるあらゆる分野から構成されるため、全人類がプレーヤーとなる。 何ら拘束力を有さないため、国連で採択されてからすぐに普及したわけではなかったが、2019年頃から急に耳にするようになった。 今日ではSDGsに関する何かしらに触れない日はない。 どんな形であれ多くの人が自分事だと感じて地球環境問題に取り組むのは素晴らしいことだし、私自身も人並みに取り組んでいるつもりだ。 大衆の力とは強大で、京都議定書・パリ協定では動かなかった大勢の姿勢が、SDGsを合言葉に大きく変化し始めている。 ここ数年で最も大きく情勢が変化したのは石油・天然ガス業界ではないだろうか。 私が生まれた頃には(記憶はないが)石油製品を使用するのが当たり前になっていて、2019年頃までは石油無しの生活は考えられず、社会全体が石油利用をその前提としていた。 それがSDGsが叫ばれ始めた最近、石油業界は完全に悪者に仕立て上げられ、投資が激減している。 確かに太陽光発電、風力発電などが社会インフラとなりつつある現在からすると、もしかすると近い将来には石油を必要としない社会が到来するかもしれない。 しかしこれはなんとも都合のいい話ではないか。 「環境に悪いから、可及的速やかに事業を縮小するように。かといって急にエネルギー源が無くなると困るから、代替エネルギーが確保できるまでは石油に頑張ってもらいたい。」 こんなことを言われて世の為に努力する企業があるだろうか。 そのうち石油業界からのしっぺ返しを食らいそうだ。 話が逸れてしまったが、上でも述べたように科学者に求められる役割は、「その時々に社会から必要とされる課題を解決すること」である。 いつ何が要求されるかわからないからこそ準備をしておくことが重要であるが、これからの将来何が求められるか、今まで以上に予測が難しくなりそうだ。 例として、2015年には就職人気が高かった石油開発企業が、ほんの5年後には環境問題の大きな原因として吊るし上げられている。 こんな急激な変化を誰が予測しただろうか。 良かれと思い石油を生産し、石油・天然ガスが無ければ社会は何も動かないとも思われるほどに栄華を誇った石油・天然ガス業界ですらこの有様である。 昭和から平成時代のようにイケイケどんどんといった風潮は最早なく、令和を生きる人たちは「ほどよく我慢すること」を強いられている。 たとえそれが人々の生活をよくする発明であっても、「いや、それ○○に良くないよね。」と言われればそれまでになってしまった。 純粋科学で言うなれば、「その研究って何の意味があるの??」と一蹴されるようなものである。 「ただやりたい」「おもしろそう」 こんな単純で最も純粋な動機だけで物事を押し進めることができないというのはなんとも窮屈で退屈だ。
GCM1ガスタービンエンジン
今から6年ほど前、私は母親に祖父の家に連れていかれた。母親に仕事のことを聞かれ、社会人一年目だった私が曖昧な返事をしたことがきっかけだった。工学系の大学院卒業後、私は現場で機械に携わる仕事を選んだ。しかしながら仕事内容が想像と異なり、戸惑っていた。そこで心配性の母親が勝手に祖父に相談し、先の経緯となった。母親は昔から過干渉で、今回も再び事を面倒にされたと思い私は腹を立てていた。その日は祖父と母親の三人で食事をすることとなり、祖父が仕事のことを色々と鋭く聞いてきた。まだ仕事経験も浅く、説明下手な私はしどろもどろ答えたように思う。そして祖父は「そんなじゃあまだまだダメだ。一生懸命仕事しなさい。」と厳しい言葉を私にかけた。 祖父は勤勉家かつ寡黙で、家族皆で集まって食事をしていても隅の方で黙々と食べているイメージだった。もともと大手重工メーカーで開発の仕事をしていたらしく、定年間際には別のメーカーで経営の仕事をしていたことぐらいは知っていた。ひょうきんな性格の自分がノリで話すと、理詰め思考の祖父から「適当なことをじいに言うな」と怒られる印象が強かった。なので気軽に話かけることができず、上述した以上のことを長い間知らなかった。 三人で食事した数日後、一人暮らしをしていた私の自宅に祖父から資料が届いた。見てみると、祖父が務めていた会社の社内誌の一部を印刷したものだった。そこには1957年、祖父が二十代のときに携わった「GCM1」というガスタービンエンジン(圧縮空気を燃焼器で燃料を噴射して燃焼させ、発生させた高温・高圧のガスでタービンを回し、回転運動エネルギーを取り出す内燃機関。タービンを回した後、ガスを後方に噴出して推力を得る場合は航空機の動力源として使用される(J79)。タービンを回した後、圧縮空気を得る場合は始動用のエンジンとして使用される(GCM1)。)に関する開発ストーリーが記載されていた。GCM1はF-104戦闘機用の大型J79ガスタービンエンジンの始動用小型ガスタービンエンジンである。一般的にJ79の様な大型航空機用の推力を得るためのガスタービンエンジンは、最初に外部からタービンを回転させる力を借りる必要がある。そこでGCM1はJ79に始動用圧縮空気を供給する。 このGCM1ガスタービンエンジンの開発ストーリーを理解するためには、当時の情勢も理解する必要がある。日本は1945年に太平洋戦争に敗北したのち、GHQの「航空禁止令」により、航空機の研究・設計・製造が全面的に禁止された。その後、朝鮮戦争(1950年)戦闘機の修理需要やサンフランシスコ講和条約(1952年)による航空機産業の部分的な解除で、ようやく国内の航空機産業が少しずつ再開される。つまり、日本の航空機産業は世界の遥か後方にいた。そしてGCM1は戦後もっとも早い時期の何もないところから開発・設計されていたのだ。 GCM1開発ストーリーを読むと1957年の開発開始から1961年の開発終了まで、苦労の連続であったことが伺えた。燃焼器内で燃料をもやしきれない不具合、運転試験の最中に圧力が出ない問題、振動問題、そして始動停止サイクル運転試験時のタービンの不具合等、多くの困難を本当に優秀な方々で乗り越えたことが記載されている。燃焼器の試験中には「ゼロ戦」の堀越二郎氏や本庄季郎氏も観察しに来ていたそうだから驚きだ。終にGCM1は1961年に一旦形となったものの、始動停止サイクル回数はMIL規格(United States Military Standard)をギリギリで通過する200回程度が限界の仕様だったそうだ。当時米国のAiResearch社の同種エンジンが3000回サイクルの実力であったことから、世界との差は歴然としていたことがここからも分かる。始動停止サイクルの限界が200回であった理由は1200℃にも上る燃焼器内部に設置されている燃料を噴射する蒸発器の管の先が赤熱してしまっていたためだ(赤熱が不具合を促す理由:炭素鋼は900℃以上の箇所に赤熱脆性が生じ割れやすくなる。つまり赤熱している箇所は材料が脆くなり、始動停止サイクルを繰り返しながら冷却と加熱を行うと割れにつながると思われる)。しかしながら、開発チームの誰もが解決できないまま、一旦GCM1開発は終了する。 1961年に開発メンバーが解散した後も、祖父は燃焼器の不具合解決に取り組み続けたそうだ。そしてある日、赤熱している蒸発器に空気をいれて冷却する方法を思いつく。そして燃焼器から蒸発器の先の赤熱箇所に目がけて空気が入るように6ミリの孔を開けて試験したところ、とうとう赤熱を止めることができたという。本来、燃焼器は圧縮空気を燃料で燃やして温度を上昇させる機能をもっているため、部分的にも温度を下げて冷やすという発想はなかなかできないものである。実験だから色々気楽に試すことができたと祖父は説明している。結果的にGCM1は初期の頃の10倍の2000回サイクルの始動停止耐久試験にパスしたそうだ。その後GCM1は163台生産され、F-4戦闘機等の始動用エンジンとして半世紀以上に渡ってオーバーホール整備をされながら活躍したそうである。
ミニ四駆アニメ
恥ずかしながら私の座右の銘はミニ四駆アニメのキャラクターのセリフからきている。1990年代半ばに子供達の間で動力付き自動車模型「ミニ四駆」の流行があった。子供の所有欲を駆り立てる特有のデザイン、強化パーツを通した創造性の刺激、そして専用コースでレースを行う競争性など、子供を忙しくさせる仕掛けが満載のコンテンツだった。ブームの絶頂期には漫画化やアニメ化も行われ、その当時6歳だった私もミニ四駆に夢中になった。しかし、ブームの真っ只中に私は父親の仕事の関係でアメリカの田舎に住むことになってしまった。途中まで見ていたミニ四駆アニメから離れることは本当に残念であり、日本の流行から置き去りにされた孤独感は昨日のことの様に思い出せる。 そんな中、救いの手があった。日本にいる祖父母が録画したミニ四駆アニメをアメリカに送り続けてくれたのだ。兄が送られてきたビデオをビデオデッキに入れ、ソファに座ってミニ四駆のアニメを二人でよく見ていた。アメリカ生活の中でたまに触れる懐かしい日本文化は子供ながらに非日常的で強く脳裏に刻まれた。 アニメの内容は、キャラクター間で各々が持つミニ四駆を競争させ、勝者を決めるというシンプルなものである。しかし、エッジの効いたキャラクター同士のミニ四駆レースの展開はとにかく手に汗を握った。主人公は熱血な性格の二人の兄弟で、主人公にふさわしい高い仕様とデザイン性のミニ四駆でスリリングな競争を展開していた。負けることや困難はあるものの、最後の最後は工夫と頑張りで勝利をつかんでいた。子供だった当時の私もアニメの主人公を見習い、、困難な状況でも工夫と頑張りで突き進もうとしていたように思う。 ただし、アニメの中で最も印象に残った言葉は意外にもあるサブキャラクターのセリフだった。そのキャラクターの性格は能天気で、所有しているミニ四駆も仕様が低く、主人公たちとのレースで頻繁に負けていた。印象に残ったセリフはアニメの最終回に登場している。小学4年生のときに旅行で日本に一時帰国しており、最終回は日本の祖父母の家で見たことをはっきりと覚えている。自分がアメリカにいる間に世間のミニ四駆ブームが去ってしまい、不完全燃焼のやり場のない悲しい気持ちが忘れられなかったからだと思う。その日は昼間に近くのレンタルビデオ店で最終回のミニ四駆アニメを借り、窓の外が橙色の夕焼けが染まった頃に最終回を見ていた。 最終回では主人公が強力な敵キャラクターに対して激闘の末の勝利を手にした。一方、そのサブキャラクターは完走したものの、当然のようにレースでは最下位だった。しかし驚くことに、サブキャラクターは完走しただけで喜ぶと同時にポジティブだった。僅差で負けて落ち込んでいる敵キャターは疑問を抱き、なぜ最下位なのに喜んでいられるのか問い詰める。そのサブキャラクターは説明する、「完走したってことは、また次のレースでチャンスがあるってことじゃねぇーか!」。なぜかは分からなかったが、ミニ四駆小僧はこの言葉に心を打たれた。事実、大人になっても時折思い出した。
はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト
私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。 ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。 まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。 そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。 その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。 正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。 ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。 それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。 例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。 そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。 では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。 当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。 話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。 そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。 たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。 ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。 実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。 そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。 仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。 まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。 素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。 また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。 さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。 このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。 夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。 そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)