はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト
私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。 ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。 まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。 そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。 その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。 正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。 ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。 それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。 例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。 そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。 では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。 当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。 話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。 そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。 たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。 ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。 実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。 そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。 仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。 まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。 素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。 また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。 さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。 このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。 夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。 そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)
GCM1ガスタービンエンジン
今から6年ほど前、私は母親に祖父の家に連れていかれた。母親に仕事のことを聞かれ、社会人一年目だった私が曖昧な返事をしたことがきっかけだった。工学系の大学院卒業後、私は現場で機械に携わる仕事を選んだ。しかしながら仕事内容が想像と異なり、戸惑っていた。そこで心配性の母親が勝手に祖父に相談し、先の経緯となった。母親は昔から過干渉で、今回も再び事を面倒にされたと思い私は腹を立てていた。その日は祖父と母親の三人で食事をすることとなり、祖父が仕事のことを色々と鋭く聞いてきた。まだ仕事経験も浅く、説明下手な私はしどろもどろ答えたように思う。そして祖父は「そんなじゃあまだまだダメだ。一生懸命仕事しなさい。」と厳しい言葉を私にかけた。 祖父は勤勉家かつ寡黙で、家族皆で集まって食事をしていても隅の方で黙々と食べているイメージだった。もともと大手重工メーカーで開発の仕事をしていたらしく、定年間際には別のメーカーで経営の仕事をしていたことぐらいは知っていた。ひょうきんな性格の自分がノリで話すと、理詰め思考の祖父から「適当なことをじいに言うな」と怒られる印象が強かった。なので気軽に話かけることができず、上述した以上のことを長い間知らなかった。 三人で食事した数日後、一人暮らしをしていた私の自宅に祖父から資料が届いた。見てみると、祖父が務めていた会社の社内誌の一部を印刷したものだった。そこには1957年、祖父が二十代のときに携わった「GCM1」というガスタービンエンジン(圧縮空気を燃焼器で燃料を噴射して燃焼させ、発生させた高温・高圧のガスでタービンを回し、回転運動エネルギーを取り出す内燃機関。タービンを回した後、ガスを後方に噴出して推力を得る場合は航空機の動力源として使用される(J79)。タービンを回した後、圧縮空気を得る場合は始動用のエンジンとして使用される(GCM1)。)に関する開発ストーリーが記載されていた。GCM1はF-104戦闘機用の大型J79ガスタービンエンジンの始動用小型ガスタービンエンジンである。一般的にJ79の様な大型航空機用の推力を得るためのガスタービンエンジンは、最初に外部からタービンを回転させる力を借りる必要がある。そこでGCM1はJ79に始動用圧縮空気を供給する。 このGCM1ガスタービンエンジンの開発ストーリーを理解するためには、当時の情勢も理解する必要がある。日本は1945年に太平洋戦争に敗北したのち、GHQの「航空禁止令」により、航空機の研究・設計・製造が全面的に禁止された。その後、朝鮮戦争(1950年)戦闘機の修理需要やサンフランシスコ講和条約(1952年)による航空機産業の部分的な解除で、ようやく国内の航空機産業が少しずつ再開される。つまり、日本の航空機産業は世界の遥か後方にいた。そしてGCM1は戦後もっとも早い時期の何もないところから開発・設計されていたのだ。 GCM1開発ストーリーを読むと1957年の開発開始から1961年の開発終了まで、苦労の連続であったことが伺えた。燃焼器内で燃料をもやしきれない不具合、運転試験の最中に圧力が出ない問題、振動問題、そして始動停止サイクル運転試験時のタービンの不具合等、多くの困難を本当に優秀な方々で乗り越えたことが記載されている。燃焼器の試験中には「ゼロ戦」の堀越二郎氏や本庄季郎氏も観察しに来ていたそうだから驚きだ。終にGCM1は1961年に一旦形となったものの、始動停止サイクル回数はMIL規格(United States Military Standard)をギリギリで通過する200回程度が限界の仕様だったそうだ。当時米国のAiResearch社の同種エンジンが3000回サイクルの実力であったことから、世界との差は歴然としていたことがここからも分かる。始動停止サイクルの限界が200回であった理由は1200℃にも上る燃焼器内部に設置されている燃料を噴射する蒸発器の管の先が赤熱してしまっていたためだ(赤熱が不具合を促す理由:炭素鋼は900℃以上の箇所に赤熱脆性が生じ割れやすくなる。つまり赤熱している箇所は材料が脆くなり、始動停止サイクルを繰り返しながら冷却と加熱を行うと割れにつながると思われる)。しかしながら、開発チームの誰もが解決できないまま、一旦GCM1開発は終了する。 1961年に開発メンバーが解散した後も、祖父は燃焼器の不具合解決に取り組み続けたそうだ。そしてある日、赤熱している蒸発器に空気をいれて冷却する方法を思いつく。そして燃焼器から蒸発器の先の赤熱箇所に目がけて空気が入るように6ミリの孔を開けて試験したところ、とうとう赤熱を止めることができたという。本来、燃焼器は圧縮空気を燃料で燃やして温度を上昇させる機能をもっているため、部分的にも温度を下げて冷やすという発想はなかなかできないものである。実験だから色々気楽に試すことができたと祖父は説明している。結果的にGCM1は初期の頃の10倍の2000回サイクルの始動停止耐久試験にパスしたそうだ。その後GCM1は163台生産され、F-4戦闘機等の始動用エンジンとして半世紀以上に渡ってオーバーホール整備をされながら活躍したそうである。
ミニ四駆アニメ
恥ずかしながら私の座右の銘はミニ四駆アニメのキャラクターのセリフからきている。1990年代半ばに子供達の間で動力付き自動車模型「ミニ四駆」の流行があった。子供の所有欲を駆り立てる特有のデザイン、強化パーツを通した創造性の刺激、そして専用コースでレースを行う競争性など、子供を忙しくさせる仕掛けが満載のコンテンツだった。ブームの絶頂期には漫画化やアニメ化も行われ、その当時6歳だった私もミニ四駆に夢中になった。しかし、ブームの真っ只中に私は父親の仕事の関係でアメリカの田舎に住むことになってしまった。途中まで見ていたミニ四駆アニメから離れることは本当に残念であり、日本の流行から置き去りにされた孤独感は昨日のことの様に思い出せる。 そんな中、救いの手があった。日本にいる祖父母が録画したミニ四駆アニメをアメリカに送り続けてくれたのだ。兄が送られてきたビデオをビデオデッキに入れ、ソファに座ってミニ四駆のアニメを二人でよく見ていた。アメリカ生活の中でたまに触れる懐かしい日本文化は子供ながらに非日常的で強く脳裏に刻まれた。 アニメの内容は、キャラクター間で各々が持つミニ四駆を競争させ、勝者を決めるというシンプルなものである。しかし、エッジの効いたキャラクター同士のミニ四駆レースの展開はとにかく手に汗を握った。主人公は熱血な性格の二人の兄弟で、主人公にふさわしい高い仕様とデザイン性のミニ四駆でスリリングな競争を展開していた。負けることや困難はあるものの、最後の最後は工夫と頑張りで勝利をつかんでいた。子供だった当時の私もアニメの主人公を見習い、、困難な状況でも工夫と頑張りで突き進もうとしていたように思う。 ただし、アニメの中で最も印象に残った言葉は意外にもあるサブキャラクターのセリフだった。そのキャラクターの性格は能天気で、所有しているミニ四駆も仕様が低く、主人公たちとのレースで頻繁に負けていた。印象に残ったセリフはアニメの最終回に登場している。小学4年生のときに旅行で日本に一時帰国しており、最終回は日本の祖父母の家で見たことをはっきりと覚えている。自分がアメリカにいる間に世間のミニ四駆ブームが去ってしまい、不完全燃焼のやり場のない悲しい気持ちが忘れられなかったからだと思う。その日は昼間に近くのレンタルビデオ店で最終回のミニ四駆アニメを借り、窓の外が橙色の夕焼けが染まった頃に最終回を見ていた。 最終回では主人公が強力な敵キャラクターに対して激闘の末の勝利を手にした。一方、そのサブキャラクターは完走したものの、当然のようにレースでは最下位だった。しかし驚くことに、サブキャラクターは完走しただけで喜ぶと同時にポジティブだった。僅差で負けて落ち込んでいる敵キャターは疑問を抱き、なぜ最下位なのに喜んでいられるのか問い詰める。そのサブキャラクターは説明する、「完走したってことは、また次のレースでチャンスがあるってことじゃねぇーか!」。なぜかは分からなかったが、ミニ四駆小僧はこの言葉に心を打たれた。事実、大人になっても時折思い出した。
はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト
私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。 ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。 まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。 そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。 その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。 正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。 ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。 それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。 例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。 そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。 では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。 当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。 話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。 そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。 たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。 ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。 実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。 そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。 仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。 まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。 素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。 また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。 さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。 このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。 夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。 そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)
はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト
私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。 ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。 まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。 そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。 その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。 正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。 ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。 それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。 例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。 そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。 では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。 当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。 話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。 そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。 たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。 ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。 実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。 そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。 仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。 まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。 素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。 また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。 さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。 このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。 夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。 そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)
GCM1ガスタービンエンジン
今から6年ほど前、私は母親に祖父の家に連れていかれた。母親に仕事のことを聞かれ、社会人一年目だった私が曖昧な返事をしたことがきっかけだった。工学系の大学院卒業後、私は現場で機械に携わる仕事を選んだ。しかしながら仕事内容が想像と異なり、戸惑っていた。そこで心配性の母親が勝手に祖父に相談し、先の経緯となった。母親は昔から過干渉で、今回も再び事を面倒にされたと思い私は腹を立てていた。その日は祖父と母親の三人で食事をすることとなり、祖父が仕事のことを色々と鋭く聞いてきた。まだ仕事経験も浅く、説明下手な私はしどろもどろ答えたように思う。そして祖父は「そんなじゃあまだまだダメだ。一生懸命仕事しなさい。」と厳しい言葉を私にかけた。 祖父は勤勉家かつ寡黙で、家族皆で集まって食事をしていても隅の方で黙々と食べているイメージだった。もともと大手重工メーカーで開発の仕事をしていたらしく、定年間際には別のメーカーで経営の仕事をしていたことぐらいは知っていた。ひょうきんな性格の自分がノリで話すと、理詰め思考の祖父から「適当なことをじいに言うな」と怒られる印象が強かった。なので気軽に話かけることができず、上述した以上のことを長い間知らなかった。 三人で食事した数日後、一人暮らしをしていた私の自宅に祖父から資料が届いた。見てみると、祖父が務めていた会社の社内誌の一部を印刷したものだった。そこには1957年、祖父が二十代のときに携わった「GCM1」というガスタービンエンジン(圧縮空気を燃焼器で燃料を噴射して燃焼させ、発生させた高温・高圧のガスでタービンを回し、回転運動エネルギーを取り出す内燃機関。タービンを回した後、ガスを後方に噴出して推力を得る場合は航空機の動力源として使用される(J79)。タービンを回した後、圧縮空気を得る場合は始動用のエンジンとして使用される(GCM1)。)に関する開発ストーリーが記載されていた。GCM1はF-104戦闘機用の大型J79ガスタービンエンジンの始動用小型ガスタービンエンジンである。一般的にJ79の様な大型航空機用の推力を得るためのガスタービンエンジンは、最初に外部からタービンを回転させる力を借りる必要がある。そこでGCM1はJ79に始動用圧縮空気を供給する。 このGCM1ガスタービンエンジンの開発ストーリーを理解するためには、当時の情勢も理解する必要がある。日本は1945年に太平洋戦争に敗北したのち、GHQの「航空禁止令」により、航空機の研究・設計・製造が全面的に禁止された。その後、朝鮮戦争(1950年)戦闘機の修理需要やサンフランシスコ講和条約(1952年)による航空機産業の部分的な解除で、ようやく国内の航空機産業が少しずつ再開される。つまり、日本の航空機産業は世界の遥か後方にいた。そしてGCM1は戦後もっとも早い時期の何もないところから開発・設計されていたのだ。 GCM1開発ストーリーを読むと1957年の開発開始から1961年の開発終了まで、苦労の連続であったことが伺えた。燃焼器内で燃料をもやしきれない不具合、運転試験の最中に圧力が出ない問題、振動問題、そして始動停止サイクル運転試験時のタービンの不具合等、多くの困難を本当に優秀な方々で乗り越えたことが記載されている。燃焼器の試験中には「ゼロ戦」の堀越二郎氏や本庄季郎氏も観察しに来ていたそうだから驚きだ。終にGCM1は1961年に一旦形となったものの、始動停止サイクル回数はMIL規格(United States Military Standard)をギリギリで通過する200回程度が限界の仕様だったそうだ。当時米国のAiResearch社の同種エンジンが3000回サイクルの実力であったことから、世界との差は歴然としていたことがここからも分かる。始動停止サイクルの限界が200回であった理由は1200℃にも上る燃焼器内部に設置されている燃料を噴射する蒸発器の管の先が赤熱してしまっていたためだ(赤熱が不具合を促す理由:炭素鋼は900℃以上の箇所に赤熱脆性が生じ割れやすくなる。つまり赤熱している箇所は材料が脆くなり、始動停止サイクルを繰り返しながら冷却と加熱を行うと割れにつながると思われる)。しかしながら、開発チームの誰もが解決できないまま、一旦GCM1開発は終了する。 1961年に開発メンバーが解散した後も、祖父は燃焼器の不具合解決に取り組み続けたそうだ。そしてある日、赤熱している蒸発器に空気をいれて冷却する方法を思いつく。そして燃焼器から蒸発器の先の赤熱箇所に目がけて空気が入るように6ミリの孔を開けて試験したところ、とうとう赤熱を止めることができたという。本来、燃焼器は圧縮空気を燃料で燃やして温度を上昇させる機能をもっているため、部分的にも温度を下げて冷やすという発想はなかなかできないものである。実験だから色々気楽に試すことができたと祖父は説明している。結果的にGCM1は初期の頃の10倍の2000回サイクルの始動停止耐久試験にパスしたそうだ。その後GCM1は163台生産され、F-4戦闘機等の始動用エンジンとして半世紀以上に渡ってオーバーホール整備をされながら活躍したそうである。
ミニ四駆アニメ
恥ずかしながら私の座右の銘はミニ四駆アニメのキャラクターのセリフからきている。1990年代半ばに子供達の間で動力付き自動車模型「ミニ四駆」の流行があった。子供の所有欲を駆り立てる特有のデザイン、強化パーツを通した創造性の刺激、そして専用コースでレースを行う競争性など、子供を忙しくさせる仕掛けが満載のコンテンツだった。ブームの絶頂期には漫画化やアニメ化も行われ、その当時6歳だった私もミニ四駆に夢中になった。しかし、ブームの真っ只中に私は父親の仕事の関係でアメリカの田舎に住むことになってしまった。途中まで見ていたミニ四駆アニメから離れることは本当に残念であり、日本の流行から置き去りにされた孤独感は昨日のことの様に思い出せる。 そんな中、救いの手があった。日本にいる祖父母が録画したミニ四駆アニメをアメリカに送り続けてくれたのだ。兄が送られてきたビデオをビデオデッキに入れ、ソファに座ってミニ四駆のアニメを二人でよく見ていた。アメリカ生活の中でたまに触れる懐かしい日本文化は子供ながらに非日常的で強く脳裏に刻まれた。 アニメの内容は、キャラクター間で各々が持つミニ四駆を競争させ、勝者を決めるというシンプルなものである。しかし、エッジの効いたキャラクター同士のミニ四駆レースの展開はとにかく手に汗を握った。主人公は熱血な性格の二人の兄弟で、主人公にふさわしい高い仕様とデザイン性のミニ四駆でスリリングな競争を展開していた。負けることや困難はあるものの、最後の最後は工夫と頑張りで勝利をつかんでいた。子供だった当時の私もアニメの主人公を見習い、、困難な状況でも工夫と頑張りで突き進もうとしていたように思う。 ただし、アニメの中で最も印象に残った言葉は意外にもあるサブキャラクターのセリフだった。そのキャラクターの性格は能天気で、所有しているミニ四駆も仕様が低く、主人公たちとのレースで頻繁に負けていた。印象に残ったセリフはアニメの最終回に登場している。小学4年生のときに旅行で日本に一時帰国しており、最終回は日本の祖父母の家で見たことをはっきりと覚えている。自分がアメリカにいる間に世間のミニ四駆ブームが去ってしまい、不完全燃焼のやり場のない悲しい気持ちが忘れられなかったからだと思う。その日は昼間に近くのレンタルビデオ店で最終回のミニ四駆アニメを借り、窓の外が橙色の夕焼けが染まった頃に最終回を見ていた。 最終回では主人公が強力な敵キャラクターに対して激闘の末の勝利を手にした。一方、そのサブキャラクターは完走したものの、当然のようにレースでは最下位だった。しかし驚くことに、サブキャラクターは完走しただけで喜ぶと同時にポジティブだった。僅差で負けて落ち込んでいる敵キャターは疑問を抱き、なぜ最下位なのに喜んでいられるのか問い詰める。そのサブキャラクターは説明する、「完走したってことは、また次のレースでチャンスがあるってことじゃねぇーか!」。なぜかは分からなかったが、ミニ四駆小僧はこの言葉に心を打たれた。事実、大人になっても時折思い出した。
はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト
私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。 ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。 まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。 そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。 その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。 正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。 ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。 それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。 例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。 そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。 では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。 当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。 話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。 そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。 たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。 ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。 実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。 そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。 仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。 まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。 素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。 また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。 さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。 このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。 夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。 そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)