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今月のピックアップ

はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト

 私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。  ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。  まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。  そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。  その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。  正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。  ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。  それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。  例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。  そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。  では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。  当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。  話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。  そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。  たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。  ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。  実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。  そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。  仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。  まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。  素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。  また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。  さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。  このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。  夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。  そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)  

無職
投稿日時:2022年03月28日
投稿時の年齢:47
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
東京
文字数:2532

隣の芝生は青い

 私は現在、日本語学校で日本語を教えている。私の担当するクラスでは毎日二人ずつテーマを決めてスピーチをすることになっている。来日してもう二年。それなのにたどたどしい学生もいれば、日本人以上に会話の上手な学生もいる。どうしてこれほどの違いが生まれるのかと、ため息交じりにぶつぶつつぶやくのが私の日課になっていた。  今日は「私の気になる名言」というタイトルでのスピーチだった。原稿は書いて準備すること、スマホでのコピペは認められないこと、原稿を読み上げるのではなく覚えて発表すること。以上が条件だ。今日の発表のトップバッターは●●さんだ。彼女はベトナム出身で、誤解を恐れずに言えば、田舎の出身と思われた。化粧っ気もなく、髪はひっつめの後ろで束ねた形で、失礼だが若い女性の色気といったものは感じられない学生だった。何より不潔そうなのが嫌だった。毎日手入れしているとは思われない髪、油の浮いた顔、それを恥ずかしいと思わない心が嫌だった。学力的にも他の学生には劣っていた。明らかに会話ができない。コミュニケーション能力が一段低いと言われても仕方がない学生だった。 彼女のスピーチが始まった。”私が今日、皆さんにお話しする名言は「隣の芝生は青い」です。この意味は、人が持っているものは自分のものより良く見えるということです。私のうちにはテレビがあります。でも、隣のうちのテレビの方が値段が高そうに見えます。いいな、うらやましい。そんな気持ちを表したのがこの言葉です。しかし、私はちょっと違った考え方をしました。確かに値段が高いテレビはきれいに映るかもしれません。しかし、誰がそれを見るのでしょうか。たった一人で、その高価なテレビを見ても楽しいのでしょうか。ドラマの内容は高価なテレビでは違うのでしょうか。私のうちではテレビを家族6人で見ます。楽しい番組はみんなで笑いながら、悲しい番組は涙を流しながら、共感しながら見ます。  人は誰でも、自分にないものを欲しがります。しかし、自分の持っているものに誇りを持った方がいいです。私は自分のうちのテレビを、みんなで見られることに誇りをもっています。そして、みんなと一緒に誰かの役に立てる事に喜びを見出したいと思っています。”  ●●さんのスピーチは一瞬で終わった。しばらくクラスは静まり返った。そしてその後、クラス中から感動の拍手が沸き上がった。誰も●●さんにこれだけのスピーチができるとは思っていなかったのだ。

専門的・技術的職業従事者
投稿日時:
2022年09月17日
投稿時の年齢:69
奈良
ドラマの時期:
2022年
9月
--日
文字数:1204

美味しいは心のバロメーター

私は大学卒業後、ある会社に入社し社会人としてのスタートを切った。日系の古くからある企業。保守的な文化で、新卒から勤め上げたお堅い上司にペコペコする毎日だった。 さらに慢性的な人手不足で、いつも業務に追われていた。そんな環境下で、入社2ヶ月目あたりから既に疲弊していた。会社に行く時も帰宅時も、翌日のことを考えて憂鬱になるという日々だった。 そんな毎日だったので、昼休みの自由時間は私のホッとできるひと時だった。せっかくのランチタイムに会社の人に会うのが嫌だったので、会社から離れた場所に行き1人で過ごすのが唯一の楽しみだった。 会社から徒歩で10分ほどの場所に、コリアンタウンがあった。ここまで来る社員はなかなかいない。私は昼休みの度に、コリアンタウンに来てのんびりするのが好きだった。 そのコリアンタウンには、絶品のソルロンタンスープを出すお店があった。従業員は全員韓国人。メニューも、そのスープセットしかないというお店だった。 ソルロンタンとは、牛の骨や肉をじっくり煮込んだスープのことである。何時間もかけて煮込むため、スープが真っ白なのだ。注文すると、ソルロンタンスープとキムチやナムル、そして山盛りのご飯が一気に出てくる。本場スタイルの盛り盛り定食である。 毎日の仕事のストレスで心身共に疲弊していた私は、そのスープによって生き延びていたと言えるだろう。 その後いよいよ体を壊してしまい、会社を休職・退職した。今振り返ると、よく踏ん張っていたなと思う。そしてたっぷりの休養期間を経て、心も体も充電され元気になった。 ある日突然、あのソルロンタンスープが恋しくなった。「久々に行ってみたいな。」そう思い、約2年ぶりにお店に行ってみた。

サービス職業従事者
投稿日時:
2022年09月14日
投稿時の年齢:25
東京
ドラマの時期:
2022年
--月
--日
文字数:1194

兄弟ガチャ(その1)

 最近よく耳にする言葉に親ガチャがある。親ガチャがあるなら兄弟ガチャもあるのだろう。今日は、私の弟の話をせねばならない。私にとって気持ちの良い記憶ではないが、これも私の人生であり、残しておかねばならない1ページだと思う。  私には2歳年下の弟がいる。小さい頃は体が弱く、学校は休みがちであったが、頭はよかった。私が並みなら弟は極上の頭といっていいだろう。現在は68歳になっているはずだ。 ある晩、携帯に電話がかかってきた。弟からだった。久しぶりの挨拶やら近況報告が一通り済み、さて何の話かと問いただしてみると、「実は…」と声が真顔になった。 「金が要る。借金があって、払わないと今晩のうちにも取り立てに来られるかもしれない。」 「いったい何の金なのだ。どうして借金までしなければならなくなったのか。」 「それはいえない。」 「いくらなんだ。」 「250。もしかしたらそっちにも取り立てに行くかもしれない。」 「至急振り込んでくれ。口座はメールで送る。」 ここでいったん電話は切られた。  頭の中ではぐるぐると250という数字が渦巻いていた。払えない数字ではない。それで取り立てが免れるのであれば…。もし、私のところに取り立てに来られたら、どうしよう。それより、きれいさっぱりと払った方がいいのではないか。そんな気持ちも頭をよぎった。暗い部屋で私の声だけが響いている。暗闇に包まれて一層不安が増していく。だが、待てよ。これですべてなのか?もしかしたら他にももっと借金があるかもしれない。どうするべきか、判断に迷った。  私の先輩に弁護士がいた。その男に夜中にもかかわらず電話をかけ、相談に乗ってもらった。 「明日、弟さんを連れてきなさい。弁護士が取り立ての現場に直接行くことはない。弁護士が入っているとわかれば、取り立てはやむ。」  早速弟に電話を掛け、弁護士の言葉をそのまま伝えた。すると、意外な言葉が返ってきた。 「自己破産させられる。それで一生が終わってしまう。任意整理ならまだ何とかなる。どうして弁護士に相談したんだ!」  取り立てを免れるようにと相談したのに、逆切れされて面くらったが、「とにかく、明日8時に駅で待っている。必ず来るように。」と伝えて電話を切った。

専門的・技術的職業従事者
投稿日時:
2022年09月10日
投稿時の年齢:69
奈良
ドラマの時期:
1997年
10月
--日
文字数:1217

保護犬メイとの出会い

我が家は大の犬好きだ。物心付いた時から、常に犬が家にいた。だが、私はそこまで犬が好きというわけではなかったのだ。しかし一匹の保護犬と出会ったことで、私の価値観は大きく変わることになる。 ある日、母親が「かわいい保護犬を見つけた!」と言って帰ってきた。 ペットショップで見つけたその犬は、白いトイプードルで年齢は7歳だった。どうやらペットショップのCSR活動の一環として、保護犬の譲渡活動をやっていたらしい。他の犬と同じように、ショーケースに並んでいたようだ。 その時は「そうなんだ。」くらいにしか思っていなかった。しかし母親にとっては、何度も見に行くほど気に入ったらしい。なかなかに母がしつこいので、私も一応見に行くことにした。 その犬は、ペットショップの端の方のケースで大人しく座っていた。成犬になり体が大きいため、ケージが窮屈そうだった。白いけれどあまり手入れされていないようで、汚れがひどかった。特に口の周りが真っ黒になっていた。みすぼらしいという表現が、皮肉にもピッタリだった。(下記写真左) この犬を見た瞬間、なぜか分からないが「救ってあげないと!守ってあげないと!」と強く思った。もちろんペットショップで人気なのは、生まれたばかりの子犬。この犬の前を通っても、素通りする人ばかりだった。 誰にも相手にされなくても、吠えることなく大人しく寝ている。なんて良い子なんだろうと思った。

サービス職業従事者
投稿日時:
2022年09月05日
投稿時の年齢:25
東京
ドラマの時期:
2018年
1月
--日
文字数:1137

他人の釜の飯を食うということ

 大学受験にすべて失敗した。さて、どうするか。母子家庭の我が家に予備校の費用を負担する余裕はない。新聞で、住み込みで新聞配達をすれば、新聞社が奨学金を出してくれるという情報を得た。早速申し込んだ。  住み込み先の居住環境は最悪だった。倒壊寸前の埃の2センチも積もっているような部屋に寝泊まりさせられた。広さは3畳。机がポツンと置かれているだけ。天井は屋根の傾斜そのままに、高いところで2メートル、低いところは腰をかがめねばならない低さだった。雨が降ればナメクジが壁を這う、そんな状況だと言えばわかってもらえるだろうか。当時エアコンなどというしゃれたものは設置されていなかった。  さらに、新聞配達の仕事は配達だけではなかった。朝3時に起きて幹線道路に置かれている新聞塊を10個ほどリヤカーに載せて運ぶ。すぐさま新聞に折り込み広告を挟む作業を開始。自分の分350部が完成した時点で配達に出る。私は免許がなかったので自転車だった。自転車に乗った状態で頭を超えるほどの高さになる新聞をすべて配り終えるのは6時半ごろになった。7時にようやく仕事から解放。7時半から食事。自分の時間となる。  予備校は9時から授業が始まる。本来なら3時まであるはずの授業は12時で切り上げ、販売店に戻らねばならなかった。2時に到着する夕刊の受け入れ作業が待っているからだ。3時から配り始めて6時に終了。7時から晩御飯。しばし休息の後、8時から折りこみ作業が待っていた。一日のチラシの量は多い時で20枚。少ない時でも5,6枚にはなった。それをひとまとめにして、朝、新聞本体に挟みやすくまとめていく作業が待っていたのだ。その作業が9時に終了。それから銭湯に走る。それも毎日は行けず2日に1回のペースだった。

専門的・技術的職業従事者
投稿日時:
2022年08月28日
投稿時の年齢:69
奈良
ドラマの時期:
1970年
4月
--日
文字数:1217

世界一美味しい飲み物

今まで飲んだ中で、最高に美味しいと感じたものはなんだろうか。私には、忘れられない味がある。 「暑い夏の、部活帰りに飲んだカルピスソーダ」だ。 中学生の頃、かなりきつい運動部に入っていた。ありがたいことに、全国大会で毎回入賞するほどの強豪校。練習も規律もそれなりに大変だった。朝練・昼練・放課後練、そして土曜は朝から夜まで練習という日々だった。走って移動しないと先輩に怒られるし、声出しをちゃんとしてないと目を付けられる。今の時代では考えられないが、顧問が怒って暴言を吐くみたいなことも日常茶飯事だった。 特に、夏休みの練習は地獄。授業がないために、週5で1日中部活だった。疲れ果てて、帰りの電車で寝落ちすることもしばしばだった。 そして驚くべきことに、学校の体育館は冷房が効かなかった。よく熱中症患者が出なかったと思う。暑い中で朝から晩まで練習して、家まで1時間かけて帰宅する。それがルーティーンだった。 当然お腹も空く。しかし、学生なのであまりお金がなかった。家には大量のお菓子のストックがあるので、いつもは買い食いを我慢して帰宅していた。 ある日どうしようもなく疲れて、お腹が空いていたことがあった。何か口に入れないと倒れそう。そんな時、駅の自動販売機を見つけた。そこでカルピスソーダを買った。

サービス職業従事者
投稿日時:
2022年08月26日
投稿時の年齢:25
東京
ドラマの時期:
2011年
8月
--日
文字数:827

人生でやりたい100のこと

22歳のとき“女性は100円で食べ飲み放題”という同僚の誘いに乗り、お見合いパーティに参加した。そこで6歳年上の薬剤師の男性と出会ったのだが、所謂ネズミ講をやっている人だった。顔もそこそこかっこよく、2人でご飯に行った時には席を外しているときにお会計が済んでいる。人生経験が豊富で話も面白い。学生時代にはいなかった大人の男性の魅力とはこんなものかと感じていた。スポーツ大会をするから参加しないかと誘われ、行ってみると20人ぐらいが集まっており、結構本格的に試合もできて楽しかった。次は自分の家でホームパーティをするから来ないかと誘われ、行ってみるとお高そうなマンションの最上階で、参加者はまた20人ほど。そこでこの集まりがネズミ講の勧誘イベントであることを知った。 ネズミ講に足を踏み入れるほどお金に頓着がなかったので、私がその後参加することはなかったが、そのホームパーティは居心地が良いとは言えないものの、有意義なものだった。ホームパーティで使うからと、“人生でやりたい100のこと”を考えてきてくれと言われていた。旅行が好きだし行きたい場所はいっぱいある。けれど100個考えるのは割と骨が折れる作業だった。ほとんどが旅行に関することだが、改めて自分の人生を考えるよいきっかけとなった。またその会に参加していた女性が印象的な話をしていた。「自分が綺麗な花になればミツバチや蝶が寄ってくる、自分が腐ってしまえばハエが寄ってくる」彼女の真意としては、自分たちの会に参加し高め合おうというものだったと思うが、妙に納得したのを覚えている。

事務従事者
投稿日時:
2022年08月25日
投稿時の年齢:29
福岡
ドラマの時期:
2015年
--月
--日
文字数:869

セブ島での恐怖体験

綺麗な海に行きたい!ということで、アジアを代表するビーチリゾートであるセブ島へ行くことに。航空券・ホテルの予約が完了し、旅先での日程を立てようとしていたのですが、調べれば調べるほど、セブは治安が悪いという口コミがあり、楽しさ7割不安3割という心境となっていました。必ず経由するマニラ空港(ニノイ・アキノ空港)で、スーツケースのチャック部分をナイフで切られて荷物を盗まれたという体験談もあったので、特に空港はビクビクして過ごしました。結果として、激しいスコールでマニラからセブ行きの飛行機が遅延したこと以外トラブルはありませんでした。 そして次なる関門は空港からホテルのタクシーです。前もっていくらで行けるか確認しておかないと、すごい金額をふっかけられることもあるとの事で、ある程度の相場を確認した上で乗車する必要があります。無事相場の範囲内では乗車できたのですが、帰りのホテルから空港までのタクシー代とはかなり差があったので、到着したばかりの観光客は良いカモなのでしょう。移動はほとんどタクシーを使用したのですが、セブでの滞在時間が長くなるにつれ、私たちも慣れた雰囲気が出てきたのか、ほとんどふっかけられなかった印象です。 予期しないトラブルが起きてしまったのが2日目のことです。現地の日本人が船を出して様々な離島に連れて行ってくれるツアーに参加するため、タクシーで集合場所へ向かったときのことです。友人が旅行に向け新しく変えたばかりのiPhoneを車内に忘れてしまったのです。セブではiPhoneを売れば何カ月分の給料に相当するらしく、手元に戻ってくる確率は限りなく低いようでした。実際ツアーに参加していた他の日本人の方も前日にiPhoneを盗まれ、連絡がついて、いくらでもお金を渡すから…と伝えたものの、それからは音信不通になってしまったと言われていました。私たちの場合は幸いホテルから乗車していたので、ホテルスタッフがタクシーのナンバーをメモした紙を渡してくれていました。集合場所の近くにも大きなホテルがあったので、お願いしてそのタクシーを呼び戻してもらうことができました。ドライバーの方がiPhoneを持ってきてくれたのですが、なぜか野次馬が集合。お金を渡さなければ返すなと仲介を始めたのです。日本円で5千円ほど支払ったと思います。iPhoneが戻ってくる方がよいと考え、そこまではよかったのですが、女2人だったのでなめられたのでしょう、次は野次馬たちが仲介料として金銭を要求してきたのです。大きい金額のお札しかなく、近くの売店でも両替ができず…と時間をかけているときに、なんとか隙をみて逃げ出すことができました。 他にも何度も断っているのに換金所に連れて行かれそうになったり(帰ってきてTVで見ましたがお金を渡す際にくすねる手法のようです)、タクシーの停車中に物乞いの子どもたちが車道にも関わらず寄って来てノックされたり、荒い運転をする車に轢かれそうになったり…。

事務従事者
投稿日時:
2022年08月23日
投稿時の年齢:29
福岡
ドラマの時期:
2018年
8月
--日
文字数:1437

人生の分岐点

人との出会い、関わり方によって人生は大きく変わると思います。誰しももしあの人に出会っていなければ…という経験はあるのではないでしょうか。私には大きな分岐点が2度ありました。1度目は高校3年生の時。漠然と大学に進学したいなとは考えていましたが、特に目標があるわけでもないため、志望校もなかなか決まりませんでした。3年の時の担任の先生がとても熱心な方で、さらに年齢的に最後の担任クラスということもあり、より力が入ってしました。先生が私の興味がありそうな大学を提案してくださり、無事志望校が決定。しかも推薦入試で合格を決めることができたので、一足先に受験から解放されました。その先生が受け持つクラスに入らなければ、人生が変わってしまっていただろうなと思います。 2度目は大学3年生の時。私が通っていた大学は4年生から研究室配属があるのですが、このときも私は悩んでいました。実家から通える場所に大学があったのですが、別のキャンパスはもっと近距離にあり、友人が通っている大学とも近いため、そのキャンパスにある研究室に入ろうかと考えていました。転機となったのは1年生が入学後に行く1泊2日の研修のお世話係になったことです。夜にあった教授たちの酒盛りに参加させてもらい、そこで別のキャンパスの研究室に入ることを考えている旨を話しました。別のキャンパスということは学科も形式上変わるので、せっかくこの学科を選んで入学したのだから、このままいて欲しいということ。そして様々な研究室で行っている魅力的な研究について詳しく教えていただきました。結局キャンパスを変えることなく、興味を持って入った研究室のメンバーがとても最高で、大学4年生は特に思い出深い楽しい日々を送ることができました。また卒業研究で共同研究を行っていた病院に就職するなど、もし別のキャンパスに移っていたら、今の人生は絶対に歩んでいませんでした。

事務従事者
投稿日時:
2022年08月22日
投稿時の年齢:29
福岡
ドラマの時期:
2010年
--月
--日
文字数:891

橋の上の捨て猫

 朝の学校への行きかえりにいつも通る橋がある。コンクリート造りで灰色がかったその橋は、下をのぞけば10m程度の高さがあり、下にはアスファルト舗装の道路が走っていた。 その橋の真ん中で、小さいが、耳に押し込んでくるほどの声量で鳴いている動物がいる。猫だ! 小さいころから私は動物を飼うのが好きだった。犬も、猫も、飼っていた。バッタやトンボも親しみやすく、よくつかまえていた。だが、自分で世話をしたかというと、そうではない。いつも家族が世話をしてくれていた。私はただかわいがるだけでよかった。  橋の上の猫は、私が近づくと、思いっきりの声で鳴いて、私にすがりついてきた。私も無意識に猫を懐に抱いて、橋の欄干の上に置いた。猫は体を震わせ、必死に鳴いている。その時、ふと思いついたことがある。このまま下に落とせばどうなるだろう…私は猫に手をかけた。

専門的・技術的職業従事者
投稿日時:
2022年08月21日
投稿時の年齢:69
奈良
ドラマの時期:
1962年
6月
--日
文字数:511

セブンが団地にやってきた

「セブン」とはウルトラセブンのことです。本放送が終わった昭和43年(1968年)、ウルトラセブンはM78星雲に「帰還」したのですが、実はお忍びで日本に戻り、様々なイベントに参加しているという噂を聞きました。ある日、私が住んでいた団地にも来るというポスターを見つけました。当時小学生だった私は喜びが爆発し、当日を待ちわびました。そして当日。ウルトラセブンはやってきました。但し、空からではなく、イベントの楽屋から。たちまち記念写真で長蛇の列。ウルトラセブンは、最初は片手で子供たちを持ち上げ「さすが」と思いましたが、最後の方になると疲れて、肩で息をして辛そう。 僕たちは、疲れたウルトラセブンの後ろに回り込み、アタマのてっぺんにあるアイスラッガーを掴んで取ろうとしました。ウルトラセブンは、「コラーッ」と僕たちを一喝。本当は、「コラーッ」ではなく、「ジュワッ!」とって言ってもらいたかった。いかかがでしょうか。。

事務従事者
投稿日時:
2022年08月21日
投稿時の年齢:63
東京
ドラマの時期:
1970年
--月
--日
文字数:834

辞める勇気

母が学生時代にやっていたこともあり、中学生になったらテニス部に入る!と活きこんでいた私だったが、入学後気づけば吹奏楽部に入ってしまっていた。小学生の頃にもピアノを習っていたが、友達と遊ぶ方が楽しく、よくサボっており、音楽を聴くのは好きだが、奏でる方にはあまり興味がなかったのだろう。結局1学期間で吹奏楽部からテニス部に転部した。吹奏楽部に入ってしまったのは、学校の構造上仕方がない部分もあったように思う。1年生が教室から昇降口に行くためには音楽室の前を通る必要があった。登下校を一緒にしていた友人が初日の勧誘で吹奏楽部に興味を持ち、私も1日くらいならとついて行った。これがいけなかった。次の日も昇降口に向かう途中で吹奏楽部の先輩からの「今日も来るよね?」といった圧力を感じ、屈してしまったのだ。吹奏楽部の3年生は部活こそきちんとしていたが見た目はやんちゃで、入学したての1年生にとっては少し怖い存在だった。そしてそのまま入部してしまったのだ。 楽器こそまだだったが、木管楽器だったため、楽器のメンテナンスグッズは買ってもらっていた。両親に申し訳ない。吹奏楽部も、もちろんテニス部だって新チームで始動している。様々な葛藤の中時間だけが過ぎた。

事務従事者
投稿日時:
2022年08月20日
投稿時の年齢:29
福岡
ドラマの時期:
2005年
--月
--日
文字数:873

母と祖母、そして父

私の家は祖母、両親、私たち兄弟の3世帯で暮らしていた。家事は嫁がするものという考えの祖母と、悪い人ではないが自分の時間を大切にする父だったため、母はフルタイムで働いているにも関わらず負担が大きかった。朝も父たちの弁当を作りながら、祖母の朝と昼のご飯を準備する。仕事から帰ればまた夜ご飯。母が苦労しているのを見ているため、私たち兄弟も祖母には寄り付かなくなっていた。祖母は友人が少なく、近所では“大奥”と呼ばれていたので、話し相手は必然と父の兄弟になる。祖母視点の意見という名の悪口を親戚に流されるため、母にとってはそれもストレスのようだった。病気をほとんどしたことがなかった祖母だったが、急に体調を崩しみるみるうちに弱っていった。入院しても死期を待つしかないと言われ、祖母は家で余生を送ることを選択した。休みの融通が付けやすい叔父が手伝いに来ていたのだが、母が何かを感じ取って仕事を休んだ日に祖母は他界した。叔父の知らせを聞いて駆け付けた叔母たちにも見守られ、幸せな最期だったと思う。最期のことばは母への感謝だったそうだ。確執は少なからず残っているものの、母も喜んでいた。

事務従事者
投稿日時:
2022年08月20日
投稿時の年齢:29
福岡
ドラマの時期:
2021年
1月
18日
文字数:602

慣れによる大きな落とし穴

平成から令和へと変わる2019年限定で即位式のためGW周辺の祝日が増え、超大型連休になりましたよね。祝日が休みの私は大歓喜!旅行友達と2人でカリフォルニアのディズニーランドへ行く計画を立てました。国内外問わず月に1回程旅行をしていた私は、今までの旅行の中でも1番長距離移動なこの旅行にも慣れたもの。いつも通り様々なサイトを比較し、1番良いと思われるプランで予約を行いました。初めて使うサイトだったにも関わらず、サクサクッと予約を完了させました。滞在先でのプランの計画も立て、あとは楽しい時を迎えるだけ…のはずだったのですが、思わぬ落とし穴が待ち受けていたのです。わかりやすく説明するため、私の名前と響きが似ている元AKB48の北原里英さんの名前をお借りしたいと思います。“きたりえ”というあだ名で呼ばれることも多く、アドレスなどもそれに因んだものを使用していました。そのためアルファベットでの登録の際、予測変換を用いた結果、“Kitarie Rie”と登録してしまっていることに全く気付かなかったのです。飛行機のチェックインの際にそのことが判明し、自分でも自覚できる程手を震わせながら、泣く泣くその場でキャンセル&購入。帰路も予約サイトのカスタマーセンターに日本にいる母を通して連絡を取ろうとしましたが、GWのため受け付けてもらえませんでした。航空会社にも母が連絡をしてくれたのですが、後1文字一致していたら変更できたとのこと。予約していた帰りの飛行機もキャンセルを行い、新しく航空券をとりました。ちなみに行きの飛行機はその場で購入したので友人と一緒に行けましたが、安さを重視した結果、帰りの飛行機は航空会社も違うものだったので、チェックイン後の2時間を含め友人とは別々の時間を過ごすことになってしまいました。

事務従事者
投稿日時:
2022年08月18日
投稿時の年齢:29
福岡
ドラマの時期:
2019年
4月
28日
文字数:885

優しい歯医者さんとのひみつ

小学生の頃、私は歯医者に通っていた。生え変わったばかりの歯がガタガタとズレており、歯並びを治すために矯正をしていたからだ。 私は歯医者さんに行くのがとても楽しみだった。なぜなら、先生がとても好きだったからだ。いつも優しく出迎えてくれるし、私のしょうもない話を一生懸命聞いてくれる。 家では叱られてばかりだが、歯医者さんはいつも私のことを褒めてくれた。 施術は、着々と進んでいた。ワイヤー矯正の治療が終わり、透明なマウスピースを装着するという段階まで来ていた。私は、このマウスピースが好きだった。自分だけの歯型で作られた、特別なものだったから。普通の子供は着けるのを嫌がると思うが、私はいつも意気揚々と装着して通学していた。 ある日、事件が起きる。歯医者さんに行く前に、お母さんと寄り道をした。 ウェンディーズに、ナゲットを食べに行ったと思う。おそらく学校帰りで、お腹が空いていたのだろう。 そして、楽しみにしていた歯医者さんにやって来た。施術台に座って、マウスピースを外そうとした。しかし、マウスピースが無いのである。私はその瞬間、「しまった!大変だ!」と思った。 なんと、ナゲットを食べる時にトレーの上に乗せて、そのままウェンディーズの大きなゴミ箱に捨ててしまったのである!歯医者さんに来るまで、気付かなかったのだ。 「どうしようどうしよう、お母さんに怒られる。」そんな風にとても焦った。 慌てている私に歯医者さんが、「どうしたの?」と声をかけてくれた。仕方なく、正直に全てを話した。お母さんに怒られないか心配だ、と。 すると、「じゃあ、一緒に探しに行こう。お母さんに内緒にするから。」と言ってくれた。 そして、歯医者さんと歯科衛生士さんと私の3人でウェンディーズに行って、ゴミ箱を漁った。 ファストフードの強烈な臭いが充満する中、歯医者さんは、嫌な顔を全くせず一生懸命探してくれた。探すにあたって、医療用のゴム手袋が大活躍したのを覚えている。 15分ぐらいは探しただろうか。歯医者さんが「あった!」と私のマウスピースを見つけてくれた。「助かった。」と思った。 無事に、一緒にクリニックに帰った。歯医者さんはマウスピースを綺麗に消毒してくれた。そして約束通り、この事件のことはお母さんに内緒にしてくれたのだ。

サービス職業従事者
投稿日時:
2022年08月15日
投稿時の年齢:25
東京
ドラマの時期:
2006年
--月
--日
文字数:1189

やんちゃ坊主の末っ子「あみくん」

思い出すと震えて、冷や汗が出る経験をしたことがあるだろうか。私にはある。 小学校4年生の時、我が家に犬がやってきた。家族からは、「あみくん」と呼ばれていた。エアデールテリアという種類で、成犬になると35kgにもなる大型犬だ。 やんちゃな性格で、いつも物を壊したり、暴れていた。今となっては可愛かったなと思うが。 そんなあみくんのお散歩に、姉と母と3人で行くのが毎日の日課であった。お散歩コースは、大通り沿い。途中で、歩道橋を渡る道のりだった。 ある夏の暑い日、皆で散歩に出かけた。あみくんは、その日も色んなものに興味津々。いつも通りはしゃぎまくり、道行く人の注目を浴びていた。帰路に着くために歩道橋を渡り、階段を降りようとしていた。 突然、あみくんが階段を駆け降り出した。リードを持っていたのは姉。ぼーっとしている性格である。その時も何か別のことを考えていたらしい。 なんと、あみくんを繋いでいるリードを離してしまった!あみくんは駆け降りている。車がビュンビュン走る、大通り目がけて。

サービス職業従事者
投稿日時:
2022年08月06日
投稿時の年齢:25
東京
ドラマの時期:
2007年
8月
--日
文字数:782

やかんのお湯が教えてくれた思いやりと優しさ

 高校1年生の8月、汗が吹き出る猛暑のフィリピンに降り立った。なぜ私がフィリピンに行くことになったのか。それは、在籍していた高校がフィリピンにある姉妹校への短期留学生を募集していたからだ。留学中は、現地の生徒に混じって数週間ほど授業を受け、異文化を肌で触れることになる。異国への興味や好奇心から応募してみたところ、無事にフィリピン行きのチケットを手に入れた。  ちなみに留学前は「フィリピン」と聞くと、貧しい・暗いという発展途上国のイメージがあった。社会科の時間にビデオで見た、ストリートチルドレンやゴミの山の印象が強かったからだと思う。インフラも整っていないだろうという偏見からか、留学することは内心不安な部分も大きかった。 だが、その不安のほとんどは、ほどなく払拭されることになる。これはお世話になったホームステイ先での生活に初っ端から溶け込めたからだ。実は、留学中の生徒の安全は高校側で考慮されており、現地の滞在先は姉妹校に通うフィリピン人生徒の家となっていた。つまり、フィリピン滞在中はホームステイ先から学校に通い、衣食住もホストファミリーと共に過ごす生活となる。 空港に到着後、私を含めた留学生数人は、車で市街地の裏通りに連れて行かれた。そしてホストファミリーの家があると思しき住宅街を突き進んだ。住宅の多くはグレーを基調としており、かなり密集している様子だ。旅の疲れもあってか、ホームステイ先の家も第一印象はやや無機質に感じられた。  ところが一転、家の外観からは想像もつかないとても陽気なホストファミリーが私たちを温かく迎え入れてくれた。7人の大家族で、小さな家に皆でぎゅうぎゅうと楽しく賑やかに暮らしていた。思えば、滞在中はフィリピンの家庭料理やスナックをこれでもかというくらい振る舞ってくれたり、フィリピンの伝統的なゲームを教えてくれたり、日本について積極的に質問してくれた。初日から日本ではあり得ないほどの熱烈な歓迎を受け、異文化交流の出だしは完璧そのものだった。  だが、そんな浮き立つ気持ちをよそに、払拭されない一つの懸念が頭の片隅にこびりついていた。それがお風呂の問題だ。この留学プログラムに以前参加した姉の話によると、フィリピンはシャワーがなくお湯も出ないため、冷たい水で体を洗うことになったそうだ。留学のチケットは、応募者の中から面接や小論文によって振るいに落とされた末に手に入れたもの。留学が決まった瞬間は期待に胸を膨らませていた反面、「2週間も水浴びをしなければいけないのか・・・」と憂鬱な気分が混じっていたことを覚えている。 そしてあの忘れもしない出来事は、滞在初日の夜にやってきた。歓迎会の終盤にカードゲームやおしゃべりを楽しんでいると、いよいよお風呂に入って寝床につくムードに。不安な気持ちが先走り、先にこそっと風呂場を確認することにした。風呂場は三階にあったので、足早に階段を駆け上がる。ドアを開いて風呂場を覗いてみると、見渡す必要もない狭い空間が視野を埋めた。 一人の大人がやっと入れるほどの、まるで電話ボックスのような小さなスペースを、薄暗い灰色の壁と、劣化が進んだ白いタイルの床が覆っている。牢獄のような小窓が申し訳程度に付いているものの、あとは壁から蛇口が一つだけぽつりと突き出ているのみ。なお、蛇口には温度調整機能が付いていないことに気づく。ただひねって温度不明の水を出すという単純な作りのようだ。そんな簡素な場所に、大きな赤いバケツと青い椅子が頼りなく置いてある。これが噂に聞いていたフィリピン式バスルーム。原始的な有様を目の前に、私はただ呆然と突っ立ってしまっていた。  後々聞いた話だが、フィリピンは一年中暑い気候なので、体を冷やすために軽く水浴びをするくらいがちょうどいいそうだ。実家のお風呂といえば、私にとっては温かい湯船につかることができる至福のリラックスタイムの場。留学中はそれが冷水を浴びる苦痛の場所に変わってしまったことを意味しているようだった。先ほどの歓迎会で高揚していた気分はどこかへ飛んでいき、旅の疲れが再び身体にどっと押し寄せる。  お風呂の一番手はどうやらホストシスターのようだ。自分の番をビクビクしながら待ち構えている私とは打って変わって、なんともないようなそぶりで、鼻歌を歌いながらお風呂を済ませてしまった。これこそが異文化交流か。心細さと諦めの境地のはざまで、学校の留学プログラムの狙い通りの体験が出来ていることを、妙に冷静な視点で分析していた。そしてついに、私がお風呂に入る番がやってきた。緊張からか、支度の足取りが重く、タオルを持っている感覚まで鈍くなっていた。  「さあ、意を決して入るか・・・」と覚悟を決めたときだった。何やらホストブラザーがお風呂場を行ったり来たりしている様子が目に入る。しかもその手には小さなバケツ。「何をしているのだろうか?」と気になって彼について行ってみた。 すると、衝撃の現場を目撃する。なんと一階のキッチンのやかんでお湯を沸かし、そのお湯を小さなバケツに注ぎ、三階にあるお風呂場まで運んでいた。手にしている小さなバケツ一杯分にも満たない小型のやかんで、何度も何度もお湯を沸かし、階段を何往復もしてお風呂場の大きなバケツに移している。 「何をしているの?!」私はびっくりし、すっかり親しくなったホストシスターに尋ねた。すると彼女は、「日本人はお湯で体を洗うと聞いていたから、あなたたちのためにお湯を準備しているのよ。」と照れくさそうに笑いながら教えてくれた。  私は頭を殴られたような衝撃を受けた。わざわざ私たち日本人留学生のために、どうにかしてお湯を用意しようと考えてくれたこと。そして、体を洗うことができるほどのお湯を準備するという、大変な作業を私たちには黙ってやってくれていたこと。そんな驚きと感謝で、しばらくは唖然としてしまった。びっくりしている私たちを見て、ホストシスターは笑いながら「早く早く!」と私をお風呂場に押し込んだ。

サービス職業従事者
投稿日時:
2022年07月25日
投稿時の年齢:25
東京
ドラマの時期:
2012年
8月
--日
文字数:3167

祖父との最期

「後悔の無いように生きたい」、「一日一日を大切に生きたい」、誰しも少しは思うところがあるだろう。人生の終盤にて痛感することも多いセリフであるが、私は比較的人生の序盤に痛感することとなった。母方の祖父にとって私は初孫であり、家が近かかったこともあり、幼い頃からとても可愛がってもらったいた。休みのたびに毎週色んなところへ連れてもらった思い出がある。祖父がいることは日常であり、当たり前の光景であった。 そんな祖父であるが、私が小学生の頃に大腸ガンを患い、それほど余命も長くないだろうとの診断を受けた。とはいえ、抗がん剤治療を行うことで快方に向かっていた。20年、30年は無理でも、数年は問題ないだろうとの見立てであった。週に一回ほど入院先の病院にも定期的にお見舞いに行っており、比較的元気な姿がそこにはいつもあった。一時の辛そうな頃に比べると非常に元気そうで、毎週良くも悪くも変わりない様子であった。 お見舞いは毎週日曜だったが、その週はたまたま運動会で疲れていたこともあり、直前でお見舞いに行くことをやめた。「また来週行けばいいだろう」、ルーティンとなっていたお見舞いについてそう思ってしまったのだ。 その翌日、祖父は急逝した。日常から急に祖父がいなくなってしまったのだ。 余命わずかと申告されていれば、ちょっと疲れていてもお見舞いに行っただろうか。最期に交わした言葉は何だっただろうか。なんとなくのやり取りしかしていなかったのではないだろうか。自責とも言えぬやるせない感情が渦巻いていた。

専門的・技術的職業従事者
投稿日時:
2022年07月23日
投稿時の年齢:31
東京
ドラマの時期:
2004年
6月
--日
文字数:743

父のあの世への旅立ちを笑って送り出した思い

私もすっかり中年になり、考えてみれば今まで生きてきた年月より、これから生きられる年月の方が短くなってしまいました。そんなことを思うと22年前に亡くなった父親のことを思い出します。 私が高校3年のとき両親は離婚して、兄弟は母親のもとで暮らしていました。一人になった父はというと、その後千葉県の田舎の方へ行って生活していたのですが、もともと体が弱かったせいもあり入退院を繰り返していて、私も何度か病院に呼び出されました。私が長男だからです。何度か行った病院では「退院できたら長男として引き取ってください」と言われていて、考え抜いた末面倒を見ることにしました。その打ち合わせのために千葉の病院へ行く日の朝、私が行くことを告げられた父は体調が急変し危篤状態になったそうです。 これは想像なのですが、プライドが高かった父は捨てたも同然の私に面倒を見られるのが嫌だったのだと思います。わざわざ千葉まで出向きやることもなく帰ってきました。 それから数か月経ったある日の夕方、帰りの車を運転していたところに千葉の病院から電話が掛かってきて「いまお父さんが危険な状態です。あっちょっと待ってください・・・今死亡が確認されました」と言われ、一瞬事態が理解できませんでしたが父が死んだのです。 急だったものの翌日に妹たちと千葉へ向かい、様々な手続きをしながらほとんど誰も来ないであろう簡単な通夜の準備をしました。通夜の手配は父が千葉で交友のあった方が手配してくれたので、大変助かりました。 通夜の夜にいたのは私と妹2人、そして千葉に住んでいた父の兄と鎌倉に住んでいた父の姉の5人だけでした。それ以前から入退院を繰り返していたことから、いつかはこんな日が来ることを皆考えていたと思います。 その夜は一切しんみりすることはなく、叔父や叔母も父の若いころの思い出話を笑いながら話してくれて、私たちも笑いながらそれを聞いていました。それも大いに飲みながらです。不謹慎かもしれませんが楽しい夜でしたし、きっと父も喜んでくれたと思っています。 「通夜」とは一晩中明かりを絶やさないため誰かが起きていなければならないものですが、大酒飲んで笑って話しているうち、私も妹たちも叔父も叔母も爆睡してしまいました。 起きたとき「しまった!」と思ったのですが、そこは簡単には消えない蝋燭や線香が用意されていて葬儀屋さんには感謝です。無事に終わったとは言い難いかもしれませんが、通夜を終え翌日には荼毘にふし、骨となった父を引き取ったのです。

事務従事者
投稿日時:
2022年04月01日
投稿時の年齢:52
北海道
ドラマの時期:
2000年
4月
--日
文字数:1271

中国での生活と目の前の拳銃

 普通に日本に住んでいる人は、拳銃を生で見る機会はないだろう。  だが、私は一度だけ見た事がある。それも、銃口は目の前1センチくらいの超近距離。その時の事を思い出してみよう。  それは、今から二十数年前、私が中国の北京に留学していた時だった。  当時の中国は、今の中国と比べて物価も安く、日本円で30円もあればラーメンが食べられたし、数人で近所の食堂に行っても150円もあれば、そこそこ良い食事が出来た時代だった。  だが、留学といっても基本的に無駄遣いは厳禁。私は、あまり余裕のない学生だったため、普段の食事はそれなりに質素にしていた。  とはいえ、ときには気晴らしも必要。週末になると、周りにいた日本人や韓国人留学生と共に食事に出かけた。  当時、よく行ったのは「五道口」と呼ばれるところだ。  そこは、外国人留学生が多く集まり、韓国人街もあったため、頻繁に焼肉を食べに行った。  交通手段だが、たいていは友達と一緒にタクシーに乗り込んだ。所要時間は、私たちが住んでいた宿舎から30分ほどだ。 そこで焼肉を食べ、お酒を飲み、かなり酔った状態で帰るのだが、遅くなりすぎるとタクシーが捕まらない。  では、どうするかというと、白タクがいるのでそれに乗る。  ちなみに、白タクとは国から許可を受けていない不法タクシーの事である。一般の中国人も普通に使うので、金額交渉さえちゃんと行い、遠回りされないように気をつけていればほぼ問題はない。  その時も、そのつもりで乗ったのだが、いつの間にか寝てしまった。  とはいえ、一緒に乗った友達もいたので、通常なら寝てても問題はない。  でも、その時は「コンコンコンコン」という音で起こされた。  「うるさいなぁ」と感じながら目を開けると、タクシーの窓ガラス越しの目の前に、銃口が見えた。

無職
投稿日時:
2022年04月01日
投稿時の年齢:47
東京
ドラマの時期:
1999年
--月
--日
文字数:1067
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今月のピックアップ

はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト

 私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。  ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。  まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。  そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。  その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。  正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。  ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。  それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。  例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。  そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。  では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。  当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。  話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。  そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。  たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。  ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。  実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。  そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。  仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。  まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。  素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。  また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。  さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。  このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。  夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。  そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)  

無職
投稿時の年齢: 47
東京
投稿日時:
2022年03月28日
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:2532

隣の芝生は青い

 私は現在、日本語学校で日本語を教えている。私の担当するクラスでは毎日二人ずつテーマを決めてスピーチをすることになっている。来日してもう二年。それなのにたどたどしい学生もいれば、日本人以上に会話の上手な学生もいる。どうしてこれほどの違いが生まれるのかと、ため息交じりにぶつぶつつぶやくのが私の日課になっていた。  今日は「私の気になる名言」というタイトルでのスピーチだった。原稿は書いて準備すること、スマホでのコピペは認められないこと、原稿を読み上げるのではなく覚えて発表すること。以上が条件だ。今日の発表のトップバッターは●●さんだ。彼女はベトナム出身で、誤解を恐れずに言えば、田舎の出身と思われた。化粧っ気もなく、髪はひっつめの後ろで束ねた形で、失礼だが若い女性の色気といったものは感じられない学生だった。何より不潔そうなのが嫌だった。毎日手入れしているとは思われない髪、油の浮いた顔、それを恥ずかしいと思わない心が嫌だった。学力的にも他の学生には劣っていた。明らかに会話ができない。コミュニケーション能力が一段低いと言われても仕方がない学生だった。 彼女のスピーチが始まった。”私が今日、皆さんにお話しする名言は「隣の芝生は青い」です。この意味は、人が持っているものは自分のものより良く見えるということです。私のうちにはテレビがあります。でも、隣のうちのテレビの方が値段が高そうに見えます。いいな、うらやましい。そんな気持ちを表したのがこの言葉です。しかし、私はちょっと違った考え方をしました。確かに値段が高いテレビはきれいに映るかもしれません。しかし、誰がそれを見るのでしょうか。たった一人で、その高価なテレビを見ても楽しいのでしょうか。ドラマの内容は高価なテレビでは違うのでしょうか。私のうちではテレビを家族6人で見ます。楽しい番組はみんなで笑いながら、悲しい番組は涙を流しながら、共感しながら見ます。  人は誰でも、自分にないものを欲しがります。しかし、自分の持っているものに誇りを持った方がいいです。私は自分のうちのテレビを、みんなで見られることに誇りをもっています。そして、みんなと一緒に誰かの役に立てる事に喜びを見出したいと思っています。”  ●●さんのスピーチは一瞬で終わった。しばらくクラスは静まり返った。そしてその後、クラス中から感動の拍手が沸き上がった。誰も●●さんにこれだけのスピーチができるとは思っていなかったのだ。

専門的・技術的職業従事者
投稿時の年齢: 69
奈良
投稿日時: 2022年09月17日
ドラマの時期:
2022年
9月
--日
文字数:1204

美味しいは心のバロメーター

私は大学卒業後、ある会社に入社し社会人としてのスタートを切った。日系の古くからある企業。保守的な文化で、新卒から勤め上げたお堅い上司にペコペコする毎日だった。 さらに慢性的な人手不足で、いつも業務に追われていた。そんな環境下で、入社2ヶ月目あたりから既に疲弊していた。会社に行く時も帰宅時も、翌日のことを考えて憂鬱になるという日々だった。 そんな毎日だったので、昼休みの自由時間は私のホッとできるひと時だった。せっかくのランチタイムに会社の人に会うのが嫌だったので、会社から離れた場所に行き1人で過ごすのが唯一の楽しみだった。 会社から徒歩で10分ほどの場所に、コリアンタウンがあった。ここまで来る社員はなかなかいない。私は昼休みの度に、コリアンタウンに来てのんびりするのが好きだった。 そのコリアンタウンには、絶品のソルロンタンスープを出すお店があった。従業員は全員韓国人。メニューも、そのスープセットしかないというお店だった。 ソルロンタンとは、牛の骨や肉をじっくり煮込んだスープのことである。何時間もかけて煮込むため、スープが真っ白なのだ。注文すると、ソルロンタンスープとキムチやナムル、そして山盛りのご飯が一気に出てくる。本場スタイルの盛り盛り定食である。 毎日の仕事のストレスで心身共に疲弊していた私は、そのスープによって生き延びていたと言えるだろう。 その後いよいよ体を壊してしまい、会社を休職・退職した。今振り返ると、よく踏ん張っていたなと思う。そしてたっぷりの休養期間を経て、心も体も充電され元気になった。 ある日突然、あのソルロンタンスープが恋しくなった。「久々に行ってみたいな。」そう思い、約2年ぶりにお店に行ってみた。

サービス職業従事者
投稿時の年齢: 25
東京
投稿日時: 2022年09月14日
ドラマの時期:
2022年
--月
--日
文字数:1194

兄弟ガチャ(その1)

 最近よく耳にする言葉に親ガチャがある。親ガチャがあるなら兄弟ガチャもあるのだろう。今日は、私の弟の話をせねばならない。私にとって気持ちの良い記憶ではないが、これも私の人生であり、残しておかねばならない1ページだと思う。  私には2歳年下の弟がいる。小さい頃は体が弱く、学校は休みがちであったが、頭はよかった。私が並みなら弟は極上の頭といっていいだろう。現在は68歳になっているはずだ。 ある晩、携帯に電話がかかってきた。弟からだった。久しぶりの挨拶やら近況報告が一通り済み、さて何の話かと問いただしてみると、「実は…」と声が真顔になった。 「金が要る。借金があって、払わないと今晩のうちにも取り立てに来られるかもしれない。」 「いったい何の金なのだ。どうして借金までしなければならなくなったのか。」 「それはいえない。」 「いくらなんだ。」 「250。もしかしたらそっちにも取り立てに行くかもしれない。」 「至急振り込んでくれ。口座はメールで送る。」 ここでいったん電話は切られた。  頭の中ではぐるぐると250という数字が渦巻いていた。払えない数字ではない。それで取り立てが免れるのであれば…。もし、私のところに取り立てに来られたら、どうしよう。それより、きれいさっぱりと払った方がいいのではないか。そんな気持ちも頭をよぎった。暗い部屋で私の声だけが響いている。暗闇に包まれて一層不安が増していく。だが、待てよ。これですべてなのか?もしかしたら他にももっと借金があるかもしれない。どうするべきか、判断に迷った。  私の先輩に弁護士がいた。その男に夜中にもかかわらず電話をかけ、相談に乗ってもらった。 「明日、弟さんを連れてきなさい。弁護士が取り立ての現場に直接行くことはない。弁護士が入っているとわかれば、取り立てはやむ。」  早速弟に電話を掛け、弁護士の言葉をそのまま伝えた。すると、意外な言葉が返ってきた。 「自己破産させられる。それで一生が終わってしまう。任意整理ならまだ何とかなる。どうして弁護士に相談したんだ!」  取り立てを免れるようにと相談したのに、逆切れされて面くらったが、「とにかく、明日8時に駅で待っている。必ず来るように。」と伝えて電話を切った。

専門的・技術的職業従事者
投稿時の年齢: 69
奈良
投稿日時: 2022年09月10日
ドラマの時期:
1997年
10月
--日
文字数:1217

保護犬メイとの出会い

我が家は大の犬好きだ。物心付いた時から、常に犬が家にいた。だが、私はそこまで犬が好きというわけではなかったのだ。しかし一匹の保護犬と出会ったことで、私の価値観は大きく変わることになる。 ある日、母親が「かわいい保護犬を見つけた!」と言って帰ってきた。 ペットショップで見つけたその犬は、白いトイプードルで年齢は7歳だった。どうやらペットショップのCSR活動の一環として、保護犬の譲渡活動をやっていたらしい。他の犬と同じように、ショーケースに並んでいたようだ。 その時は「そうなんだ。」くらいにしか思っていなかった。しかし母親にとっては、何度も見に行くほど気に入ったらしい。なかなかに母がしつこいので、私も一応見に行くことにした。 その犬は、ペットショップの端の方のケースで大人しく座っていた。成犬になり体が大きいため、ケージが窮屈そうだった。白いけれどあまり手入れされていないようで、汚れがひどかった。特に口の周りが真っ黒になっていた。みすぼらしいという表現が、皮肉にもピッタリだった。(下記写真左) この犬を見た瞬間、なぜか分からないが「救ってあげないと!守ってあげないと!」と強く思った。もちろんペットショップで人気なのは、生まれたばかりの子犬。この犬の前を通っても、素通りする人ばかりだった。 誰にも相手にされなくても、吠えることなく大人しく寝ている。なんて良い子なんだろうと思った。

サービス職業従事者
投稿時の年齢: 25
東京
投稿日時: 2022年09月05日
ドラマの時期:
2018年
1月
--日
文字数:1137

他人の釜の飯を食うということ

 大学受験にすべて失敗した。さて、どうするか。母子家庭の我が家に予備校の費用を負担する余裕はない。新聞で、住み込みで新聞配達をすれば、新聞社が奨学金を出してくれるという情報を得た。早速申し込んだ。  住み込み先の居住環境は最悪だった。倒壊寸前の埃の2センチも積もっているような部屋に寝泊まりさせられた。広さは3畳。机がポツンと置かれているだけ。天井は屋根の傾斜そのままに、高いところで2メートル、低いところは腰をかがめねばならない低さだった。雨が降ればナメクジが壁を這う、そんな状況だと言えばわかってもらえるだろうか。当時エアコンなどというしゃれたものは設置されていなかった。  さらに、新聞配達の仕事は配達だけではなかった。朝3時に起きて幹線道路に置かれている新聞塊を10個ほどリヤカーに載せて運ぶ。すぐさま新聞に折り込み広告を挟む作業を開始。自分の分350部が完成した時点で配達に出る。私は免許がなかったので自転車だった。自転車に乗った状態で頭を超えるほどの高さになる新聞をすべて配り終えるのは6時半ごろになった。7時にようやく仕事から解放。7時半から食事。自分の時間となる。  予備校は9時から授業が始まる。本来なら3時まであるはずの授業は12時で切り上げ、販売店に戻らねばならなかった。2時に到着する夕刊の受け入れ作業が待っているからだ。3時から配り始めて6時に終了。7時から晩御飯。しばし休息の後、8時から折りこみ作業が待っていた。一日のチラシの量は多い時で20枚。少ない時でも5,6枚にはなった。それをひとまとめにして、朝、新聞本体に挟みやすくまとめていく作業が待っていたのだ。その作業が9時に終了。それから銭湯に走る。それも毎日は行けず2日に1回のペースだった。

専門的・技術的職業従事者
投稿時の年齢: 69
奈良
投稿日時: 2022年08月28日
ドラマの時期:
1970年
4月
--日
文字数:1217

世界一美味しい飲み物

今まで飲んだ中で、最高に美味しいと感じたものはなんだろうか。私には、忘れられない味がある。 「暑い夏の、部活帰りに飲んだカルピスソーダ」だ。 中学生の頃、かなりきつい運動部に入っていた。ありがたいことに、全国大会で毎回入賞するほどの強豪校。練習も規律もそれなりに大変だった。朝練・昼練・放課後練、そして土曜は朝から夜まで練習という日々だった。走って移動しないと先輩に怒られるし、声出しをちゃんとしてないと目を付けられる。今の時代では考えられないが、顧問が怒って暴言を吐くみたいなことも日常茶飯事だった。 特に、夏休みの練習は地獄。授業がないために、週5で1日中部活だった。疲れ果てて、帰りの電車で寝落ちすることもしばしばだった。 そして驚くべきことに、学校の体育館は冷房が効かなかった。よく熱中症患者が出なかったと思う。暑い中で朝から晩まで練習して、家まで1時間かけて帰宅する。それがルーティーンだった。 当然お腹も空く。しかし、学生なのであまりお金がなかった。家には大量のお菓子のストックがあるので、いつもは買い食いを我慢して帰宅していた。 ある日どうしようもなく疲れて、お腹が空いていたことがあった。何か口に入れないと倒れそう。そんな時、駅の自動販売機を見つけた。そこでカルピスソーダを買った。

サービス職業従事者
投稿時の年齢: 25
東京
投稿日時: 2022年08月26日
ドラマの時期:
2011年
8月
--日
文字数:827

人生でやりたい100のこと

22歳のとき“女性は100円で食べ飲み放題”という同僚の誘いに乗り、お見合いパーティに参加した。そこで6歳年上の薬剤師の男性と出会ったのだが、所謂ネズミ講をやっている人だった。顔もそこそこかっこよく、2人でご飯に行った時には席を外しているときにお会計が済んでいる。人生経験が豊富で話も面白い。学生時代にはいなかった大人の男性の魅力とはこんなものかと感じていた。スポーツ大会をするから参加しないかと誘われ、行ってみると20人ぐらいが集まっており、結構本格的に試合もできて楽しかった。次は自分の家でホームパーティをするから来ないかと誘われ、行ってみるとお高そうなマンションの最上階で、参加者はまた20人ほど。そこでこの集まりがネズミ講の勧誘イベントであることを知った。 ネズミ講に足を踏み入れるほどお金に頓着がなかったので、私がその後参加することはなかったが、そのホームパーティは居心地が良いとは言えないものの、有意義なものだった。ホームパーティで使うからと、“人生でやりたい100のこと”を考えてきてくれと言われていた。旅行が好きだし行きたい場所はいっぱいある。けれど100個考えるのは割と骨が折れる作業だった。ほとんどが旅行に関することだが、改めて自分の人生を考えるよいきっかけとなった。またその会に参加していた女性が印象的な話をしていた。「自分が綺麗な花になればミツバチや蝶が寄ってくる、自分が腐ってしまえばハエが寄ってくる」彼女の真意としては、自分たちの会に参加し高め合おうというものだったと思うが、妙に納得したのを覚えている。

事務従事者
投稿時の年齢: 29
福岡
投稿日時: 2022年08月25日
ドラマの時期:
2015年
--月
--日
文字数:869

セブ島での恐怖体験

綺麗な海に行きたい!ということで、アジアを代表するビーチリゾートであるセブ島へ行くことに。航空券・ホテルの予約が完了し、旅先での日程を立てようとしていたのですが、調べれば調べるほど、セブは治安が悪いという口コミがあり、楽しさ7割不安3割という心境となっていました。必ず経由するマニラ空港(ニノイ・アキノ空港)で、スーツケースのチャック部分をナイフで切られて荷物を盗まれたという体験談もあったので、特に空港はビクビクして過ごしました。結果として、激しいスコールでマニラからセブ行きの飛行機が遅延したこと以外トラブルはありませんでした。 そして次なる関門は空港からホテルのタクシーです。前もっていくらで行けるか確認しておかないと、すごい金額をふっかけられることもあるとの事で、ある程度の相場を確認した上で乗車する必要があります。無事相場の範囲内では乗車できたのですが、帰りのホテルから空港までのタクシー代とはかなり差があったので、到着したばかりの観光客は良いカモなのでしょう。移動はほとんどタクシーを使用したのですが、セブでの滞在時間が長くなるにつれ、私たちも慣れた雰囲気が出てきたのか、ほとんどふっかけられなかった印象です。 予期しないトラブルが起きてしまったのが2日目のことです。現地の日本人が船を出して様々な離島に連れて行ってくれるツアーに参加するため、タクシーで集合場所へ向かったときのことです。友人が旅行に向け新しく変えたばかりのiPhoneを車内に忘れてしまったのです。セブではiPhoneを売れば何カ月分の給料に相当するらしく、手元に戻ってくる確率は限りなく低いようでした。実際ツアーに参加していた他の日本人の方も前日にiPhoneを盗まれ、連絡がついて、いくらでもお金を渡すから…と伝えたものの、それからは音信不通になってしまったと言われていました。私たちの場合は幸いホテルから乗車していたので、ホテルスタッフがタクシーのナンバーをメモした紙を渡してくれていました。集合場所の近くにも大きなホテルがあったので、お願いしてそのタクシーを呼び戻してもらうことができました。ドライバーの方がiPhoneを持ってきてくれたのですが、なぜか野次馬が集合。お金を渡さなければ返すなと仲介を始めたのです。日本円で5千円ほど支払ったと思います。iPhoneが戻ってくる方がよいと考え、そこまではよかったのですが、女2人だったのでなめられたのでしょう、次は野次馬たちが仲介料として金銭を要求してきたのです。大きい金額のお札しかなく、近くの売店でも両替ができず…と時間をかけているときに、なんとか隙をみて逃げ出すことができました。 他にも何度も断っているのに換金所に連れて行かれそうになったり(帰ってきてTVで見ましたがお金を渡す際にくすねる手法のようです)、タクシーの停車中に物乞いの子どもたちが車道にも関わらず寄って来てノックされたり、荒い運転をする車に轢かれそうになったり…。

事務従事者
投稿時の年齢: 29
福岡
投稿日時: 2022年08月23日
ドラマの時期:
2018年
8月
--日
文字数:1437

人生の分岐点

人との出会い、関わり方によって人生は大きく変わると思います。誰しももしあの人に出会っていなければ…という経験はあるのではないでしょうか。私には大きな分岐点が2度ありました。1度目は高校3年生の時。漠然と大学に進学したいなとは考えていましたが、特に目標があるわけでもないため、志望校もなかなか決まりませんでした。3年の時の担任の先生がとても熱心な方で、さらに年齢的に最後の担任クラスということもあり、より力が入ってしました。先生が私の興味がありそうな大学を提案してくださり、無事志望校が決定。しかも推薦入試で合格を決めることができたので、一足先に受験から解放されました。その先生が受け持つクラスに入らなければ、人生が変わってしまっていただろうなと思います。 2度目は大学3年生の時。私が通っていた大学は4年生から研究室配属があるのですが、このときも私は悩んでいました。実家から通える場所に大学があったのですが、別のキャンパスはもっと近距離にあり、友人が通っている大学とも近いため、そのキャンパスにある研究室に入ろうかと考えていました。転機となったのは1年生が入学後に行く1泊2日の研修のお世話係になったことです。夜にあった教授たちの酒盛りに参加させてもらい、そこで別のキャンパスの研究室に入ることを考えている旨を話しました。別のキャンパスということは学科も形式上変わるので、せっかくこの学科を選んで入学したのだから、このままいて欲しいということ。そして様々な研究室で行っている魅力的な研究について詳しく教えていただきました。結局キャンパスを変えることなく、興味を持って入った研究室のメンバーがとても最高で、大学4年生は特に思い出深い楽しい日々を送ることができました。また卒業研究で共同研究を行っていた病院に就職するなど、もし別のキャンパスに移っていたら、今の人生は絶対に歩んでいませんでした。

事務従事者
投稿時の年齢: 29
福岡
投稿日時: 2022年08月22日
ドラマの時期:
2010年
--月
--日
文字数:891

橋の上の捨て猫

 朝の学校への行きかえりにいつも通る橋がある。コンクリート造りで灰色がかったその橋は、下をのぞけば10m程度の高さがあり、下にはアスファルト舗装の道路が走っていた。 その橋の真ん中で、小さいが、耳に押し込んでくるほどの声量で鳴いている動物がいる。猫だ! 小さいころから私は動物を飼うのが好きだった。犬も、猫も、飼っていた。バッタやトンボも親しみやすく、よくつかまえていた。だが、自分で世話をしたかというと、そうではない。いつも家族が世話をしてくれていた。私はただかわいがるだけでよかった。  橋の上の猫は、私が近づくと、思いっきりの声で鳴いて、私にすがりついてきた。私も無意識に猫を懐に抱いて、橋の欄干の上に置いた。猫は体を震わせ、必死に鳴いている。その時、ふと思いついたことがある。このまま下に落とせばどうなるだろう…私は猫に手をかけた。

専門的・技術的職業従事者
投稿時の年齢: 69
奈良
投稿日時: 2022年08月21日
ドラマの時期:
1962年
6月
--日
文字数:511

セブンが団地にやってきた

「セブン」とはウルトラセブンのことです。本放送が終わった昭和43年(1968年)、ウルトラセブンはM78星雲に「帰還」したのですが、実はお忍びで日本に戻り、様々なイベントに参加しているという噂を聞きました。ある日、私が住んでいた団地にも来るというポスターを見つけました。当時小学生だった私は喜びが爆発し、当日を待ちわびました。そして当日。ウルトラセブンはやってきました。但し、空からではなく、イベントの楽屋から。たちまち記念写真で長蛇の列。ウルトラセブンは、最初は片手で子供たちを持ち上げ「さすが」と思いましたが、最後の方になると疲れて、肩で息をして辛そう。 僕たちは、疲れたウルトラセブンの後ろに回り込み、アタマのてっぺんにあるアイスラッガーを掴んで取ろうとしました。ウルトラセブンは、「コラーッ」と僕たちを一喝。本当は、「コラーッ」ではなく、「ジュワッ!」とって言ってもらいたかった。いかかがでしょうか。。

事務従事者
投稿時の年齢: 63
東京
投稿日時: 2022年08月21日
ドラマの時期:
1970年
--月
--日
文字数:834

辞める勇気

母が学生時代にやっていたこともあり、中学生になったらテニス部に入る!と活きこんでいた私だったが、入学後気づけば吹奏楽部に入ってしまっていた。小学生の頃にもピアノを習っていたが、友達と遊ぶ方が楽しく、よくサボっており、音楽を聴くのは好きだが、奏でる方にはあまり興味がなかったのだろう。結局1学期間で吹奏楽部からテニス部に転部した。吹奏楽部に入ってしまったのは、学校の構造上仕方がない部分もあったように思う。1年生が教室から昇降口に行くためには音楽室の前を通る必要があった。登下校を一緒にしていた友人が初日の勧誘で吹奏楽部に興味を持ち、私も1日くらいならとついて行った。これがいけなかった。次の日も昇降口に向かう途中で吹奏楽部の先輩からの「今日も来るよね?」といった圧力を感じ、屈してしまったのだ。吹奏楽部の3年生は部活こそきちんとしていたが見た目はやんちゃで、入学したての1年生にとっては少し怖い存在だった。そしてそのまま入部してしまったのだ。 楽器こそまだだったが、木管楽器だったため、楽器のメンテナンスグッズは買ってもらっていた。両親に申し訳ない。吹奏楽部も、もちろんテニス部だって新チームで始動している。様々な葛藤の中時間だけが過ぎた。

事務従事者
投稿時の年齢: 29
福岡
投稿日時: 2022年08月20日
ドラマの時期:
2005年
--月
--日
文字数:873

母と祖母、そして父

私の家は祖母、両親、私たち兄弟の3世帯で暮らしていた。家事は嫁がするものという考えの祖母と、悪い人ではないが自分の時間を大切にする父だったため、母はフルタイムで働いているにも関わらず負担が大きかった。朝も父たちの弁当を作りながら、祖母の朝と昼のご飯を準備する。仕事から帰ればまた夜ご飯。母が苦労しているのを見ているため、私たち兄弟も祖母には寄り付かなくなっていた。祖母は友人が少なく、近所では“大奥”と呼ばれていたので、話し相手は必然と父の兄弟になる。祖母視点の意見という名の悪口を親戚に流されるため、母にとってはそれもストレスのようだった。病気をほとんどしたことがなかった祖母だったが、急に体調を崩しみるみるうちに弱っていった。入院しても死期を待つしかないと言われ、祖母は家で余生を送ることを選択した。休みの融通が付けやすい叔父が手伝いに来ていたのだが、母が何かを感じ取って仕事を休んだ日に祖母は他界した。叔父の知らせを聞いて駆け付けた叔母たちにも見守られ、幸せな最期だったと思う。最期のことばは母への感謝だったそうだ。確執は少なからず残っているものの、母も喜んでいた。

事務従事者
投稿時の年齢: 29
福岡
投稿日時: 2022年08月20日
ドラマの時期:
2021年
1月
18日
文字数:602

慣れによる大きな落とし穴

平成から令和へと変わる2019年限定で即位式のためGW周辺の祝日が増え、超大型連休になりましたよね。祝日が休みの私は大歓喜!旅行友達と2人でカリフォルニアのディズニーランドへ行く計画を立てました。国内外問わず月に1回程旅行をしていた私は、今までの旅行の中でも1番長距離移動なこの旅行にも慣れたもの。いつも通り様々なサイトを比較し、1番良いと思われるプランで予約を行いました。初めて使うサイトだったにも関わらず、サクサクッと予約を完了させました。滞在先でのプランの計画も立て、あとは楽しい時を迎えるだけ…のはずだったのですが、思わぬ落とし穴が待ち受けていたのです。わかりやすく説明するため、私の名前と響きが似ている元AKB48の北原里英さんの名前をお借りしたいと思います。“きたりえ”というあだ名で呼ばれることも多く、アドレスなどもそれに因んだものを使用していました。そのためアルファベットでの登録の際、予測変換を用いた結果、“Kitarie Rie”と登録してしまっていることに全く気付かなかったのです。飛行機のチェックインの際にそのことが判明し、自分でも自覚できる程手を震わせながら、泣く泣くその場でキャンセル&購入。帰路も予約サイトのカスタマーセンターに日本にいる母を通して連絡を取ろうとしましたが、GWのため受け付けてもらえませんでした。航空会社にも母が連絡をしてくれたのですが、後1文字一致していたら変更できたとのこと。予約していた帰りの飛行機もキャンセルを行い、新しく航空券をとりました。ちなみに行きの飛行機はその場で購入したので友人と一緒に行けましたが、安さを重視した結果、帰りの飛行機は航空会社も違うものだったので、チェックイン後の2時間を含め友人とは別々の時間を過ごすことになってしまいました。

事務従事者
投稿時の年齢: 29
福岡
投稿日時: 2022年08月18日
ドラマの時期:
2019年
4月
28日
文字数:885

優しい歯医者さんとのひみつ

小学生の頃、私は歯医者に通っていた。生え変わったばかりの歯がガタガタとズレており、歯並びを治すために矯正をしていたからだ。 私は歯医者さんに行くのがとても楽しみだった。なぜなら、先生がとても好きだったからだ。いつも優しく出迎えてくれるし、私のしょうもない話を一生懸命聞いてくれる。 家では叱られてばかりだが、歯医者さんはいつも私のことを褒めてくれた。 施術は、着々と進んでいた。ワイヤー矯正の治療が終わり、透明なマウスピースを装着するという段階まで来ていた。私は、このマウスピースが好きだった。自分だけの歯型で作られた、特別なものだったから。普通の子供は着けるのを嫌がると思うが、私はいつも意気揚々と装着して通学していた。 ある日、事件が起きる。歯医者さんに行く前に、お母さんと寄り道をした。 ウェンディーズに、ナゲットを食べに行ったと思う。おそらく学校帰りで、お腹が空いていたのだろう。 そして、楽しみにしていた歯医者さんにやって来た。施術台に座って、マウスピースを外そうとした。しかし、マウスピースが無いのである。私はその瞬間、「しまった!大変だ!」と思った。 なんと、ナゲットを食べる時にトレーの上に乗せて、そのままウェンディーズの大きなゴミ箱に捨ててしまったのである!歯医者さんに来るまで、気付かなかったのだ。 「どうしようどうしよう、お母さんに怒られる。」そんな風にとても焦った。 慌てている私に歯医者さんが、「どうしたの?」と声をかけてくれた。仕方なく、正直に全てを話した。お母さんに怒られないか心配だ、と。 すると、「じゃあ、一緒に探しに行こう。お母さんに内緒にするから。」と言ってくれた。 そして、歯医者さんと歯科衛生士さんと私の3人でウェンディーズに行って、ゴミ箱を漁った。 ファストフードの強烈な臭いが充満する中、歯医者さんは、嫌な顔を全くせず一生懸命探してくれた。探すにあたって、医療用のゴム手袋が大活躍したのを覚えている。 15分ぐらいは探しただろうか。歯医者さんが「あった!」と私のマウスピースを見つけてくれた。「助かった。」と思った。 無事に、一緒にクリニックに帰った。歯医者さんはマウスピースを綺麗に消毒してくれた。そして約束通り、この事件のことはお母さんに内緒にしてくれたのだ。

サービス職業従事者
投稿時の年齢: 25
東京
投稿日時: 2022年08月15日
ドラマの時期:
2006年
--月
--日
文字数:1189

やんちゃ坊主の末っ子「あみくん」

思い出すと震えて、冷や汗が出る経験をしたことがあるだろうか。私にはある。 小学校4年生の時、我が家に犬がやってきた。家族からは、「あみくん」と呼ばれていた。エアデールテリアという種類で、成犬になると35kgにもなる大型犬だ。 やんちゃな性格で、いつも物を壊したり、暴れていた。今となっては可愛かったなと思うが。 そんなあみくんのお散歩に、姉と母と3人で行くのが毎日の日課であった。お散歩コースは、大通り沿い。途中で、歩道橋を渡る道のりだった。 ある夏の暑い日、皆で散歩に出かけた。あみくんは、その日も色んなものに興味津々。いつも通りはしゃぎまくり、道行く人の注目を浴びていた。帰路に着くために歩道橋を渡り、階段を降りようとしていた。 突然、あみくんが階段を駆け降り出した。リードを持っていたのは姉。ぼーっとしている性格である。その時も何か別のことを考えていたらしい。 なんと、あみくんを繋いでいるリードを離してしまった!あみくんは駆け降りている。車がビュンビュン走る、大通り目がけて。

サービス職業従事者
投稿時の年齢: 25
東京
投稿日時: 2022年08月06日
ドラマの時期:
2007年
8月
--日
文字数:782

やかんのお湯が教えてくれた思いやりと優しさ

 高校1年生の8月、汗が吹き出る猛暑のフィリピンに降り立った。なぜ私がフィリピンに行くことになったのか。それは、在籍していた高校がフィリピンにある姉妹校への短期留学生を募集していたからだ。留学中は、現地の生徒に混じって数週間ほど授業を受け、異文化を肌で触れることになる。異国への興味や好奇心から応募してみたところ、無事にフィリピン行きのチケットを手に入れた。  ちなみに留学前は「フィリピン」と聞くと、貧しい・暗いという発展途上国のイメージがあった。社会科の時間にビデオで見た、ストリートチルドレンやゴミの山の印象が強かったからだと思う。インフラも整っていないだろうという偏見からか、留学することは内心不安な部分も大きかった。 だが、その不安のほとんどは、ほどなく払拭されることになる。これはお世話になったホームステイ先での生活に初っ端から溶け込めたからだ。実は、留学中の生徒の安全は高校側で考慮されており、現地の滞在先は姉妹校に通うフィリピン人生徒の家となっていた。つまり、フィリピン滞在中はホームステイ先から学校に通い、衣食住もホストファミリーと共に過ごす生活となる。 空港に到着後、私を含めた留学生数人は、車で市街地の裏通りに連れて行かれた。そしてホストファミリーの家があると思しき住宅街を突き進んだ。住宅の多くはグレーを基調としており、かなり密集している様子だ。旅の疲れもあってか、ホームステイ先の家も第一印象はやや無機質に感じられた。  ところが一転、家の外観からは想像もつかないとても陽気なホストファミリーが私たちを温かく迎え入れてくれた。7人の大家族で、小さな家に皆でぎゅうぎゅうと楽しく賑やかに暮らしていた。思えば、滞在中はフィリピンの家庭料理やスナックをこれでもかというくらい振る舞ってくれたり、フィリピンの伝統的なゲームを教えてくれたり、日本について積極的に質問してくれた。初日から日本ではあり得ないほどの熱烈な歓迎を受け、異文化交流の出だしは完璧そのものだった。  だが、そんな浮き立つ気持ちをよそに、払拭されない一つの懸念が頭の片隅にこびりついていた。それがお風呂の問題だ。この留学プログラムに以前参加した姉の話によると、フィリピンはシャワーがなくお湯も出ないため、冷たい水で体を洗うことになったそうだ。留学のチケットは、応募者の中から面接や小論文によって振るいに落とされた末に手に入れたもの。留学が決まった瞬間は期待に胸を膨らませていた反面、「2週間も水浴びをしなければいけないのか・・・」と憂鬱な気分が混じっていたことを覚えている。 そしてあの忘れもしない出来事は、滞在初日の夜にやってきた。歓迎会の終盤にカードゲームやおしゃべりを楽しんでいると、いよいよお風呂に入って寝床につくムードに。不安な気持ちが先走り、先にこそっと風呂場を確認することにした。風呂場は三階にあったので、足早に階段を駆け上がる。ドアを開いて風呂場を覗いてみると、見渡す必要もない狭い空間が視野を埋めた。 一人の大人がやっと入れるほどの、まるで電話ボックスのような小さなスペースを、薄暗い灰色の壁と、劣化が進んだ白いタイルの床が覆っている。牢獄のような小窓が申し訳程度に付いているものの、あとは壁から蛇口が一つだけぽつりと突き出ているのみ。なお、蛇口には温度調整機能が付いていないことに気づく。ただひねって温度不明の水を出すという単純な作りのようだ。そんな簡素な場所に、大きな赤いバケツと青い椅子が頼りなく置いてある。これが噂に聞いていたフィリピン式バスルーム。原始的な有様を目の前に、私はただ呆然と突っ立ってしまっていた。  後々聞いた話だが、フィリピンは一年中暑い気候なので、体を冷やすために軽く水浴びをするくらいがちょうどいいそうだ。実家のお風呂といえば、私にとっては温かい湯船につかることができる至福のリラックスタイムの場。留学中はそれが冷水を浴びる苦痛の場所に変わってしまったことを意味しているようだった。先ほどの歓迎会で高揚していた気分はどこかへ飛んでいき、旅の疲れが再び身体にどっと押し寄せる。  お風呂の一番手はどうやらホストシスターのようだ。自分の番をビクビクしながら待ち構えている私とは打って変わって、なんともないようなそぶりで、鼻歌を歌いながらお風呂を済ませてしまった。これこそが異文化交流か。心細さと諦めの境地のはざまで、学校の留学プログラムの狙い通りの体験が出来ていることを、妙に冷静な視点で分析していた。そしてついに、私がお風呂に入る番がやってきた。緊張からか、支度の足取りが重く、タオルを持っている感覚まで鈍くなっていた。  「さあ、意を決して入るか・・・」と覚悟を決めたときだった。何やらホストブラザーがお風呂場を行ったり来たりしている様子が目に入る。しかもその手には小さなバケツ。「何をしているのだろうか?」と気になって彼について行ってみた。 すると、衝撃の現場を目撃する。なんと一階のキッチンのやかんでお湯を沸かし、そのお湯を小さなバケツに注ぎ、三階にあるお風呂場まで運んでいた。手にしている小さなバケツ一杯分にも満たない小型のやかんで、何度も何度もお湯を沸かし、階段を何往復もしてお風呂場の大きなバケツに移している。 「何をしているの?!」私はびっくりし、すっかり親しくなったホストシスターに尋ねた。すると彼女は、「日本人はお湯で体を洗うと聞いていたから、あなたたちのためにお湯を準備しているのよ。」と照れくさそうに笑いながら教えてくれた。  私は頭を殴られたような衝撃を受けた。わざわざ私たち日本人留学生のために、どうにかしてお湯を用意しようと考えてくれたこと。そして、体を洗うことができるほどのお湯を準備するという、大変な作業を私たちには黙ってやってくれていたこと。そんな驚きと感謝で、しばらくは唖然としてしまった。びっくりしている私たちを見て、ホストシスターは笑いながら「早く早く!」と私をお風呂場に押し込んだ。

サービス職業従事者
投稿時の年齢: 25
東京
投稿日時: 2022年07月25日
ドラマの時期:
2012年
8月
--日
文字数:3167

祖父との最期

「後悔の無いように生きたい」、「一日一日を大切に生きたい」、誰しも少しは思うところがあるだろう。人生の終盤にて痛感することも多いセリフであるが、私は比較的人生の序盤に痛感することとなった。母方の祖父にとって私は初孫であり、家が近かかったこともあり、幼い頃からとても可愛がってもらったいた。休みのたびに毎週色んなところへ連れてもらった思い出がある。祖父がいることは日常であり、当たり前の光景であった。 そんな祖父であるが、私が小学生の頃に大腸ガンを患い、それほど余命も長くないだろうとの診断を受けた。とはいえ、抗がん剤治療を行うことで快方に向かっていた。20年、30年は無理でも、数年は問題ないだろうとの見立てであった。週に一回ほど入院先の病院にも定期的にお見舞いに行っており、比較的元気な姿がそこにはいつもあった。一時の辛そうな頃に比べると非常に元気そうで、毎週良くも悪くも変わりない様子であった。 お見舞いは毎週日曜だったが、その週はたまたま運動会で疲れていたこともあり、直前でお見舞いに行くことをやめた。「また来週行けばいいだろう」、ルーティンとなっていたお見舞いについてそう思ってしまったのだ。 その翌日、祖父は急逝した。日常から急に祖父がいなくなってしまったのだ。 余命わずかと申告されていれば、ちょっと疲れていてもお見舞いに行っただろうか。最期に交わした言葉は何だっただろうか。なんとなくのやり取りしかしていなかったのではないだろうか。自責とも言えぬやるせない感情が渦巻いていた。

専門的・技術的職業従事者
投稿時の年齢: 31
東京
投稿日時: 2022年07月23日
ドラマの時期:
2004年
6月
--日
文字数:743

父のあの世への旅立ちを笑って送り出した思い

私もすっかり中年になり、考えてみれば今まで生きてきた年月より、これから生きられる年月の方が短くなってしまいました。そんなことを思うと22年前に亡くなった父親のことを思い出します。 私が高校3年のとき両親は離婚して、兄弟は母親のもとで暮らしていました。一人になった父はというと、その後千葉県の田舎の方へ行って生活していたのですが、もともと体が弱かったせいもあり入退院を繰り返していて、私も何度か病院に呼び出されました。私が長男だからです。何度か行った病院では「退院できたら長男として引き取ってください」と言われていて、考え抜いた末面倒を見ることにしました。その打ち合わせのために千葉の病院へ行く日の朝、私が行くことを告げられた父は体調が急変し危篤状態になったそうです。 これは想像なのですが、プライドが高かった父は捨てたも同然の私に面倒を見られるのが嫌だったのだと思います。わざわざ千葉まで出向きやることもなく帰ってきました。 それから数か月経ったある日の夕方、帰りの車を運転していたところに千葉の病院から電話が掛かってきて「いまお父さんが危険な状態です。あっちょっと待ってください・・・今死亡が確認されました」と言われ、一瞬事態が理解できませんでしたが父が死んだのです。 急だったものの翌日に妹たちと千葉へ向かい、様々な手続きをしながらほとんど誰も来ないであろう簡単な通夜の準備をしました。通夜の手配は父が千葉で交友のあった方が手配してくれたので、大変助かりました。 通夜の夜にいたのは私と妹2人、そして千葉に住んでいた父の兄と鎌倉に住んでいた父の姉の5人だけでした。それ以前から入退院を繰り返していたことから、いつかはこんな日が来ることを皆考えていたと思います。 その夜は一切しんみりすることはなく、叔父や叔母も父の若いころの思い出話を笑いながら話してくれて、私たちも笑いながらそれを聞いていました。それも大いに飲みながらです。不謹慎かもしれませんが楽しい夜でしたし、きっと父も喜んでくれたと思っています。 「通夜」とは一晩中明かりを絶やさないため誰かが起きていなければならないものですが、大酒飲んで笑って話しているうち、私も妹たちも叔父も叔母も爆睡してしまいました。 起きたとき「しまった!」と思ったのですが、そこは簡単には消えない蝋燭や線香が用意されていて葬儀屋さんには感謝です。無事に終わったとは言い難いかもしれませんが、通夜を終え翌日には荼毘にふし、骨となった父を引き取ったのです。

事務従事者
投稿時の年齢: 52
北海道
投稿日時: 2022年04月01日
ドラマの時期:
2000年
4月
--日
文字数:1271

中国での生活と目の前の拳銃

 普通に日本に住んでいる人は、拳銃を生で見る機会はないだろう。  だが、私は一度だけ見た事がある。それも、銃口は目の前1センチくらいの超近距離。その時の事を思い出してみよう。  それは、今から二十数年前、私が中国の北京に留学していた時だった。  当時の中国は、今の中国と比べて物価も安く、日本円で30円もあればラーメンが食べられたし、数人で近所の食堂に行っても150円もあれば、そこそこ良い食事が出来た時代だった。  だが、留学といっても基本的に無駄遣いは厳禁。私は、あまり余裕のない学生だったため、普段の食事はそれなりに質素にしていた。  とはいえ、ときには気晴らしも必要。週末になると、周りにいた日本人や韓国人留学生と共に食事に出かけた。  当時、よく行ったのは「五道口」と呼ばれるところだ。  そこは、外国人留学生が多く集まり、韓国人街もあったため、頻繁に焼肉を食べに行った。  交通手段だが、たいていは友達と一緒にタクシーに乗り込んだ。所要時間は、私たちが住んでいた宿舎から30分ほどだ。 そこで焼肉を食べ、お酒を飲み、かなり酔った状態で帰るのだが、遅くなりすぎるとタクシーが捕まらない。  では、どうするかというと、白タクがいるのでそれに乗る。  ちなみに、白タクとは国から許可を受けていない不法タクシーの事である。一般の中国人も普通に使うので、金額交渉さえちゃんと行い、遠回りされないように気をつけていればほぼ問題はない。  その時も、そのつもりで乗ったのだが、いつの間にか寝てしまった。  とはいえ、一緒に乗った友達もいたので、通常なら寝てても問題はない。  でも、その時は「コンコンコンコン」という音で起こされた。  「うるさいなぁ」と感じながら目を開けると、タクシーの窓ガラス越しの目の前に、銃口が見えた。

無職
投稿時の年齢: 47
東京
投稿日時: 2022年04月01日
ドラマの時期:
1999年
--月
--日
文字数:1067