はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト
私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。 ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。 まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。 そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。 その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。 正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。 ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。 それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。 例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。 そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。 では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。 当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。 話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。 そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。 たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。 ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。 実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。 そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。 仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。 まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。 素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。 また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。 さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。 このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。 夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。 そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)
侮りがたし、幼き賢者よ
近所の小さな公園は、陽当たりがよくて、その周囲にめぐらされている植え込みが寒風を受け止めるので、天気のいい冬の寒い日などは、小春日和とでもいいたくなるほどの陽だまりになります。散歩の相棒(愛犬)と一緒に出かけるのですが、気分転換には絶好の“ほんわか“スポットなのです。ソフトボールの内野がギリギリで収まるくらいの小さなグランドに、鉄棒、平均台、滑り台などの遊具が置かれています。相棒とわたしは、そこを何週かして、時間にして15分くらいだと思いますが、気が済んだら日陰の帰り道をいそぐのがほぼ日課になっております。去年のちょうど今頃、正月休みが明けて少しして、いつも通りに相棒と公園に着いてみると、低鉄棒で逆上がりの練習をしている男の子がいました。幼稚園か、小学一年生かといった年恰好の子で、何度も地面を蹴っては見るものの、脚がうまく鉄棒の向こう側にいってはくれませんでした。『違う、コツは腕のほうだ。地面を強く蹴ったら、鉄棒をグイっと自分のほうに寄せるんだ』老婆心ながら、そんなアドバイスをしようかと思っておりましたが、ここはグっとこらえて、彼の様子を見守りました。せっかく一人で努力してるんですから。手柄の横取りになんてできません。彼の額にはうっすらと汗、頬は赤くなっていて、どれだけ頑張っているかがわかりました。しばらくすると、クルリと、ついに一回転。多少強引でしたが、見事に回りました。コツを掴んだのでしょう、その後はスムーズな逆上がりができていました。思わず近づいて、彼に声をかけてみたくなり『すごいね、どうやったらできたの?』と、たずねてみました。帰ってきた答えは、『うん、何度も、何度も、頑張ってやって、そうしたらできたの』でした。意外でした。
親父の曲がった指
父は、運送会社を経営していた。自宅の庭は車庫であり、オート三輪が6台ほど留まっているのが当たり前の景色だった。車庫には2本のドラム缶があって、片方は新しいエンジンオイル、もう片方はオイル交換した後の廃油入れだった。荷台に荷物を固定するためのロープが常にうず高く積まれていた。オイルと排ガスの匂いが、父の仕事場のにおいだった。 父の会社を継いだのは、28歳になってからだった。留学して、好きな仕事に就いて数年。それらを全て捨てて、継いだ。義務や定めと言うよりは、それが浮世の義理、人の道だと思っていた。最初は、嫌で仕方なかった。跡継ぎとは言え、現場仕事の定石は、まず現場からだ。当然、助手、運転手と、仕事を覚えていった。『遅いぞ』『荷物を丁寧に扱え』、当たり前だがお客様は神様だ、理不尽な文句には笑顔。『ありがとう』『ご苦労様』労いの言葉には感謝。大人にさせてもらった。それでも、仕事は嫌いだった。やがて、管理者の立場になって、子供の頃から訊けずにいた父の曲がった指のことを訊いた。『親父の人差し指、なんでが曲がってるんだ?』
チャーリー・パーカーの衝撃
私にはどうしても好きでたまらないミュージシャンが2名います。 一人目は言わずと知れたロックバンドのクイーン。 そしてもう一人が、ジャズ界最大の巨人の一人でありモダンジャズのスタイルを決定づけたと言っても過言ではない大天才、アルトサックス奏者のチャーリー・パーカー(1920~1955)です。 クイーンの音楽がとても親しみやすいのとは対象的に、パーカーの音楽は録音された年代が古いこともあり、批評家や演奏家の間での評価は非常に高く後世へ影響力も強いのにもかかわらず、普通に音楽が好きな人達にあまり受け入れられているとは言えません。 ですが、私にとって彼の演奏を聴く体験は人生が変わる程の衝撃であり、決して外すことができない「ドラマ」であるため、ここに書くことにしました。 私がパーカーの音楽を最初に聴いたのは、まだ中学生の頃だったと思います。 父が所持していた「チャーリー・パーカー・オン・ダイアル・コンプリート」(以下「オン・ダイアル」と略)という6枚のLPレコードで、パーカーの全盛期である1940年代の演奏を記録した大名盤なのですが、はっきり言ってその時の印象は最悪でした。 まず音質がボロボロで何をやっているのか全然わからない上に、1曲2~3分の短い演奏ばかり、さらに同じ曲の別テイクが延々と繰り返されて、全部聴くのは地獄のようでした。 その後、大学でジャズのビッグバンドに入ると、先輩達にすすめられて改めてパーカーのレコードやCDを聴くようになりました。 当時よく聴いていた「ウイズ・ストリングス」「ナウズ・ザ・タイム」といったアルバムは、先述の「オン・ダイアル」と比較すると録音された年代が新しくて、音質が良く聴きやすいのが特徴です。 特に「ウイズ・ストリングス」はサックスの音色と弦楽器の響きが美しくお気に入りでしたが、その年代はパーカーの絶頂期がすでに過ぎていたとも言われています。 さらに時が過ぎ、私は大学を中退して音大に入りなおし、厳しいレッスンを受けながら毎日嫌というほど色々な楽器(特に管楽器)の音を聴き続けることになるのですが、そういう生活を続けていると超一流の演奏家と普通の学生の音の違いがわかるようになってきますし、壁の向こう側で鳴っている音でも誰が出しているのかなんとなくわかるようになってきます。 そして、あるとき気まぐれで、CD化された「オン・ダイアル」を買って改めて聴いてみたのですが、そこで初めて、絶頂期のパーカーがあり得ないようなもの凄い音で演奏していたことに気づいたのでした。 人間離れした音の圧力でありながらなんともいえない艶やかな響きがあり、もしこれが生演奏であれば、最初の一音だけでその場の空気が変わることは間違いありません。 また、即興演奏というのはジャズの重要な要素の一つですが、延々と繰り返される別テイクでも彼は決して同じことはしていないと、その時はっきりわかりました。 楽曲の中に隠れている和音やビートを自在に引き出し、その中で自由に飛翔する力は神業です。 小節を埋めるために惰性で出したような音は一切存在せず、全ての音が意味を持っています。 全てのテイクが小さな作曲であり、それぞれが完成された作品になっていると言えるでしょう。 そして、繰り返しパーカーのCDを聴き続けていると、何故人間にこんな凄いことができるのかと考えるようになりました。 私が知っている限りでは、超一流のクラシック音楽の管楽器奏者でも、これ程の凄い音とテクニックの持ち主はただの一人も存在しません。 想像もつかないような量の練習の成果でもあるでしょうが、ここまでの凄さになるとそれだけの問題ではないように思えます。
好きなことをして生きるということ
好きなことを仕事にする、誰もが望み憧れることでしょう。 もし実現できればこれ以上幸せなことはありません。 私は音楽が好きなので、若い頃は音楽家になりたいと思っていましたが、これはかなわない夢でした。 中学生の頃からブラスバンドで担当していたクラリネットで音楽の大学に進み、更には大学院の修士課程まで行きましたが、6年間でコンクールの類は一切通らず、挙げ句には定職にも就けないという挫折を味わい、お世話になった先生達を失望させてしまいました。 今でもこの頃のことを思い出すと恥ずかしく、申し訳ない気持ちになります。 それでは何故私の夢はかなわなかったのでしょうか? これにはいくつかの理由があると考えています。 一つには努力、根性が足りなかったことです。 楽器の演奏家というのは、ある意味スポーツのアスリートに似ています。 どれだけ頭の中に良い音楽のイメージを持っていたとしても、それを実際に音にするのは肉体の力です。 プロの演奏家になりたいのであれば、一日も休まずに己の身体を鍛え続ける必要があり、これがいわゆる基礎練習なのですが、私はこれが嫌いでした。 もう一つは、クラシックというジャンルの音楽に理解と愛情が足りなかったことです。 ロックやジャズと比べてクラシック音楽が決定的に違うのは、演奏家は作曲家が書いた曲を演奏するということであり、自分がこう演奏したいという望みよりも、作曲家の意図を優先しなければいけません。 また、特に時代の古いクラシック音楽には、100年以上も演奏され続ける間に積み重ねられたスタイル(様式)のようなものがあり、この作曲家のこの音符はこういう風に演奏する、というようなものが演奏家の間では暗黙の了解事になっています。 私にはこれらのことが全く理解できていませんでした。 そもそも「音楽家になりたいと思っていた」と最初に書きましたが、当時の私はその意味が十分にわかっていなかったのでしょう。 先生達は、生徒が職業としてクラシック音楽で生きていくことを前提に指導をして下さいます。 ですが私は、本当に好きな音楽はジャズやロックだけれどもそれらの音楽は学校で学べないから、楽器やジャンルはなんでも良いから音楽の学校へ行ければ、という程度に考えていました。 そんな甘い考え方では、好きなことで生きていくのは無理なんですね。
クイーン来日公演
私は音楽が大好きです、その中でも特に好きなのがロックバンドのクイーンです。中学生になってからはほぼ毎日彼らの音楽をカセットテープで聴いて、ギターでコピーしてきました。そして高校1年が終わる頃の冬に、そのクイーンが日本にやって来るというニュースが飛び込んで来ました。 クイーンの来日公演は1982年にもあったのですが、この時は諸事情あり行くことができませんでした。しかし、今度は違います。私は大喜びで親しい友人達に声をかけまくりましたが、残念なことに誰も行くとは言ってくれません。 これには理由があり、この来日公演の少し前に発表されたThe Worksというアルバムが友人達の間では不評であったのに加え、ボーカルのフレディマー・キュリーはスタジオ録音では滅茶苦茶上手いがライブでは高音域に無理がある、と当時から言われていたのです。 私は仕方なく一人で行くことを考えていましたが、中学時代私とは違うバンドでベースを弾いていた違う高校に通うM君が、一緒に行きたいと伝えてきました。M君は運動神経が良くバレーボール部なんかに入っているのにバンドもやっているという、運動音痴でネクラな私からすると苦手なタイプであり、仲も良くないと勝手に思っていたので、私はあろうことかその誘いを一回断ってしまいました。しかし、これは両親に滅茶苦茶怒られて、渋々謝って一緒に行くことにしました。 そして1985年5月8日、高校2年の春に念願のライブの日がやってきました。来なかった薄情な友人達の予想を見事に裏切り(?)、その演奏はとても素晴らしいものでした。これにも当然理由があります。 この時期のクイーンはアイデアの面ではある種の行き詰まり状態にあったと思いますが(個人の主観です)、演奏の面では完全に円熟期に入っていたのです。少なくとも私はそう思っています。特にドラムのロジャー・テイラーの成長が著しく、初期の演奏と比較してドラムがタイトになった分バンド全体のサウンドが引き締まっていました。フレディのボーカルは確かに高音域を一部下げて歌っていましたが、実際に生で聴くとそれ以上に豊かで艶やかで、完璧なバンド演奏の上で美しく響いていたことを今でもはっきりと思い出せます。映画ボヘミアンラプソディの中でハイライトになっている伝説のライブエイドの演奏が1985年の7月13日ですので、この時の来日公演でもいかにクオリティーの高い演奏をしていたかが想像ができると思います。 また、クイーンの演奏に感激するのと同時に、M君のことを勝手にこんな人だと決めつけて避けていた自分を大いに恥じました。一緒に茨城の田舎から東京まで行ってみると彼はとても細かいことに気がつく優しい人で、高校生が深夜に一人で東京から帰ってくるのは危ないから無理にでも誘ってくれたことがよくわかりましたし、何よりも素晴らしい音楽が目の前で繰り広げられていることをしっかり感じ取っている姿を見ると、この人は自分と何も変わらない、同じ人間なのだということがはっきりわかったのです。帰りの電車では、二人で中学時代の話など楽しく盛り上がりました。
私の信じている事
私のなかに30余年の間熟成された英雄像があります その英雄の名前は、“ゴルビー”ことソビエト連邦最初で最後の大統領「ミハイル・ゴルバチョフ」です。 残念ながら、ロシアのウクライナ侵攻の終息を見ることなく、2022年8月30日亡くなりました。 世界中の誰もがこの名を知っている、歴史上欠くことのできない人物です。彼の功績はあまりにも大きい。 国内にあってはグラスノスチ(情報公開)・ペレストロイカを推進し、帝政ロシアの圧政に抑圧されていた国民に自由をもたらし、対外的にも新思考外交により、当時のアメリカ合衆国ブッシュ大統領との間で交わした冷戦終結宣言に至ります。(マルタ会談)。 さらに、その流れは東欧諸国に波及し、ベルリンの壁の崩壊につながります。 そして、1990年、冷戦の終結・中距離核戦力全廃条約調印・ペレストロイカによる共産圏の民主化に対してノーベル平和賞が贈られました。当時のゴルビー人気は世界中を席巻しました。 しかし、西欧諸国で絶大な人気を博したゴルビーの国内での評価はよくありません。就任当初を除いて在任中から不人気であり続けました。「偉大で強い古き良き時代(スターリン・ブレジネフ時代のこと)であったソ連を崩壊させた」、「アメリカに魂を売った売国奴」と揶揄されています。さらに、飲酒制限政策を展開したことにより、酒好きのロシア人からさらなる反感を買ってしまいました。 彼に対する評価は様々です。それは情報を発信する側の主観でいかようにも報道されます。時には英雄にもなり時には野心家にもなり、また敗北者にもなります。
企業の社会的責任とは?
最近、といってもここ数年、気になっていることがあります。 私が住む街には工業団地がいくつかあります。その中には全国区の企業も何社か入っています。これらの企業は街の財政に寄与するとともに雇用の創出をもたらしてくれています。 いわば、私たちにとってありがたい企業です。 私はその中の一つの工業団地を毎日の散歩コースとしています。そこにはそれこそ誰もが知る大手企業の工場があります。 ふと気が付くと、その建物は汚れが目立ちそれを改修するでもなく、さらに正面玄関のキャッチコピーを掲げた社名看板も水洗いするだけでもきれいになるだろうなと思う程、手が加えられていません。極めつけは、道路側の植栽が荒れ放題で道路に進出しているほどです。 思わず、どうしたんだろう?と。 工場は普通に稼働しています。閉鎖されている様子はありません。 工場で働く人たちがこの現状を知らない訳がありません。 工場長は何をしているんだろう? 本社はこの事に気が付いているのだろうか? 業績が思わしくなく、それどころではないのかな? 何故?この状態に危機感を感じていないのだろうか?と。
私の自慢話
私の自慢話をひとつ。 一緒に暮らしている孫がひとりいます。現在、大学2年生の男の子です。長男夫婦の子です。 ひとりっ子の孫は両親が忙しかったことから、いわゆる「ジジババ頼み」で成長しました。 小さい頃は買い物に連れていったり、近くの公園に遊びに行ったり、自転車に乗れるようになるまではつきっきりでした。小学校へあがると日曜日のたびに二人で自転車ででかけました。ふきのとうを採ったり、たけのこを掘ったり、季節を満喫していました。夏休みの宿題の自由研究・読書感想文は教えながらいつの間にか私の宿題に移行していました。 中学・高校は部活の送迎・応援にあけくれました。 私が自分の子どもにできなかった事を今、している。させてもらっている。そんな風でした。 ですから、どちらかというと友達感覚です。 今でも、わからない事があるとすぐメールしてくるし、なんでも話しをしてきます。
仕組まれた「天使の微笑(ほほえみ)」
70歳男性です。まだまだしっかり働きたいのですが、妻の要請により在宅を余儀なくされ、それでもようやく最近、週3日という条件付きで働きに出ています。今、水を得た魚のように泳いでいます。 子供は4人ですが、長男は結婚して家にいて、娘二人は結婚して隣り街に住んでいます。次男はそろそろ結婚かというところです。それぞれに子供が一人ずつで大学2年生、小学1年生、3歳の3人の孫がいます。 2年前の事です。 当時、11か月の男の子にはまっていました。。娘はまだ育休期間で退屈しているのか1週間に1度は彼を連れて来ます。チャイルドシートに乗せられるようになってからもう半年にはなります。だんだん情が移ってきて、帰ったその時から来週が待ち遠しいといった状況です。 「あばたもえくぼ」といいますが何をしてても可愛いと思います。一週間ごとに何か次のステップに進んでいる。それが楽しみです。少し前、やっとハイハイまがいの動きをしていたかと思ったら、翌週、ハイハイとまでいかなくて胴体が床から離れずバタフライの泳法を駆使したハイハイにこぎつけ、次の週には完ぺきなハイハイをしていました。冷静になれば当たり前のことですが、あたかも特殊な技でもマスターしたような騒ぎでギャラリーは勝手に盛り上がっています。 この年齢にして異性を意識しているのか女性に関心があると見えて私と妻がいると私をしかとして妻のほうに愛嬌を振りまいています。妻はそれを誇らしく鼻高々にしています。しかしいつも抱っこして寝かせるのは私の役目です。あくびをしたり、ぼんやりしてくるといつも抱っこします。極力胸と胸を合わせ、私の肩の上に孫の顔を載せるような態勢でゆっくり揺らしながら、トントンをしていると必ず動きが止まって肩の上の顔がもたれかかるような感触になります。時には30分くらい抱っこしている時もありますが、基本的に寝るまでは降ろさないつもりで寝かしつけます。そういった恩を感じること無く私と妻との選択を迫られると必ず妻のほうに軍配が上がります。今回はつかまり立ちから手を添えながらの歩行までクリアーしています。
「これで帰って」と、出された巨峰の苦い味
私と田中さんが出会ったのは小学校の時でした。田中さんが6年生、私が5年生でした。運動会で男子のマスゲームで組体操をした時、二人組のペアを組みました。彼は野球少年でスポーツ万能でした。私は勉強ばかりしている運動音痴でした。案の定、私のせいで一つ一つの技が決まりません。それでも、彼は優しく、丁寧に教えてくれました。そんな事があって、私は彼を中学卒業まで兄貴のように慕っていました。しかし、高校からは別々の道を歩み、社会人になってからもしばらく会う事もありませんでした。 30年くらい経ちました。大人になってから初めて会う事がありました。会うなり当時にタイムスリップし嬉しさがこみ上げてきました。居酒屋に行き、カラオケに行き、深夜の車の中で、延々と語り合いました。それをきっかけに忙しい時間を調整して時折会って、家族の事、仕事の事を伝えあいました。 楽しい出来事がより楽しく、悲しく辛い事が緩和されて、明日への活力となりました。 そんなある日、彼ががんに侵されている事、完治は厳しい事を耳にしました。 家で療養していると聞いて、いつものように仕事帰りに顔を出しました。喜んでくれました。元気そうでした。私は何も知らない風を装いました。時間を忘れて話をしました。その時、彼のお母さんが、病気の彼にあまり無理はさせたくないと、ちらちら出てきては、「もうそろそろ…」と私を帰るように促しますが彼はそれを遮ります。私を帰したくない思いが伝わりました。これで帰ってと言わんばかりに大きな巨峰を持ってきてくれて二人で食べました。お暇するしかありませんでした。
私とシロアリとの果てしない戦いは?
6年前の夏のことです。築30年の我が家に初めて羽アリが発生し、シロアリの存在が確認されました。 これは一大事だと、慌てて、シロアリ駆除業者に依頼し、現調をお願いしました。立て続けに3社が現調に来て、床下収納庫を取り外し床下に潜りシロアリの発生状況を調査してくれました。 いずれもシロアリが1か所の基礎下から這い上がり土台を経由して上に向かっているとの見立てでした。 このまま業者に任せればよかったのですが、この目で確認したいという衝動にかられ、それが高じてこの手で退治しようというとんでもない決断をしてしまいました。 ちょうど定年退職し、次の仕事まで間があり暇をもてあましておりましたので、格好のレクリエーションになりました。 まず、戦う前の下準備です。 床下のスペースは狭く、這うことすらできません。ほふく前進あるのみです。向きを変えることもできません。前進したら帰りはそのままあとずさりです。ですから、つなぎの服が必要です 床下は薄暗く、虫の死骸、木材のきれっぱし、コンクリートのかけら、新聞紙・チラシなどの紙類、それらが埃まみれの状態で散在しています。ですから、防塵マスク・ヘッドライト・ゴーグル・被り帽子を揃えました。 さらに、重要なのは掃除機です。床下のコンクリート土間上をまず掃除し、最も大事な仕事である「シロアリの掃除機による吸引」です。 いよいよ、つなぎを着て床下に潜入です。床下収納庫を外し中に入ります。そこには初めての世界が広がっていました。そこから、体をどのように曲げたり伸ばしたりしてよいのか見当がつきません。長い間の生活習慣で床に這いつくばるという行為に抵抗感があります。しかも、床下は束石があったり木の桟が縦横に高さを変えながら配置されていて通過するための難所がいくつかあります。シロアリにたどり着く前に断念しそうです。 しかしながら、腹ばいになって動くコツもだんだん習得し上方をのぞきたいときには体を半回転し仰向けになります。「胃のレントゲン撮影時こういう動きを求められるな」と思いながら、床下での活動に見合った動きができるようになりました。 シロアリは目前でした。 事前の情報通り、潜入か所から数メートルのところにある立ち上がり配管に蟻道と呼ばれるシロアリの通り道がありました。それはうまくルートを作りながら土台から造作材へと続いていました。 その蟻道をつついてみました。 いました。いました。おびただしい数のシロアリがいました。光に弱いと見えて、蟻道を破壊して姿が露呈するとたちまち隠れようとして右往左往します。それを掃除機で吸い取ります。視界にある蟻道をすべて破壊し出てきたシロアリを掃除機にて吸い取りさらに、隠れたであろう土台上及び土間のコンクリートの隙間に駆除剤を振り撒きました。 一日の作業は終わりました。 といっても、1回の稼働時間は10分程度です。帽子・メガネ・防塵マスク・首にタオル・つなぎ服のいでたちで暑さと酸素不足で苦しくなってきます。床下で呼吸困難になったら帰還できません。そんなリスクを背負いながら必死に闘っています。 ふと、シロアリと格闘している自分を想像しました。どんな顔をして掃除機で吸っているんだろう?どんな目をして駆除スプレーをかけているんだろう? 次の日、またどこかに蟻道を作っているだろうかと興味津々で床下に潜りました。案の定、昨日とは異なるルートで蟻道が構築されていました。そして、その中をせっせとアリたちは群れを成して行進しています。私が破壊したものを一晩で築き上げていることに敬意を表するとともにこの戦いは長期戦になると覚悟しました。 何回か繰り返しているうちにありの侵入箇所は1か所であることに気が付きました。 木造の家屋で床下は防湿コンクリートといって土のままだと湿気が上がってくるのを防ぐために土間にコンクリートを流しています。構造的なものではないので、ただ均してあるだけの粗末なものです。その中に様々な種類の配管が立ち上がっていてその1か所に土が見えるほどの隙間がありました。 彼らはそこから侵入していたのです。 ならば、そこを塞ぐことによって進入路を断つことができると考えました。この戦いを通して賢くなった私は 「ここを塞いでも、また他の穴を見つけて入ってくるに違いない」 「ならば、先回りしてコンクリートを見渡し,そういった隙間をことごとく塞げば、絶対に封じ込める」と確信しました。 「言うは易く行うは難し」とはよく言ったものです。 這いつくばっての作業は困難を極めました。大きい隙間はモルタルで、小さい隙間はコーキングで。これらは通常の環境では簡単な作業です。しかしここは床下の狭いスペースです。 モルタルを載せた板をもっていく事さえ至難の業です。悪戦苦闘の末、見たところ隙間はすべて塞ぎました。 「これで、もう入れないだろう!」と勝ち誇った気分でした。
「居士」欲しかった父
父が亡くなって15年、私も70歳となりました。当時、父の姉(叔母)が放った一言により、亡き父の生涯が私の中で生き生きと蘇ってくることを禁じえませんでした。 私は菩提寺である寺院のご僧侶に戒名をお願いに行きました。申込書に父の職業・役職等必要事項を記載し、戒名を戴きました。 父は教師として勤め上げ、退職後も後進の指導に余念がなく充実した人生を歩んでいました。 ただ、教頭でもなく、校長でもなく平の教諭でした。 それゆえか、いただいた戒名には「○○信士」とありました。 家に戻り、親族にその「戒名」を差し出すと、叔母が、悲しそうにこういうのです。 『「居士」欲しかったろうに…』 それは、あたかも名声を追うことなく教育にささげた父の生涯を否定するようでした。
コスモスと桜
今は10月。ようやく秋らしい気配が漂い始めた。幹線道路を車で走っていると、田んぼの跡に赤、白、ピンクと色とりどりの秋桜のたゆとう姿がのんびりとした田舎を想起させてくれる。秋桜の花言葉は「乙女の真実」「謙虚」「調和」だ。華奢な茎のわりに大きな花が風に吹かれてユラユラと揺れる姿は、いかにも健気で、可憐な少女のような趣を感じさせてくれる。 私の父は昭和32年11月12日に29歳で亡くなった。交通事故だった。そのころ私は5歳ではっきりとは覚えてはいないが、市バスとバイクの事故だったこと、大正橋辺りでの事故だったこと、長い時間かかってようやく病院にたどり着いたということ、を母から聞いて覚えている。ベッドに横たわる父は、鼻のあたりにぬぐい切れない血のりがたまっていて、全身むき出しの腹部は縦に裂かれて、そのところどころにガムテープのようなものが張られていた。ベッドに横たわる父親の足元で母が泣いている。私は悲しくなかったが、母が泣いてるから泣かないといけないんじゃないかと思っていた。 母は、後から ・父が「痛い痛い」といって死んでいったこと ・事故の相手の名前も住所も聞かなかったこと ・そして、聞かなくてよかったと後から思ったこと を、よく話していた。
セブンが社宅にやってきた
「エッ!、嘘でしょ」 社員から聞いて驚きました。なんと、あのウルトラセブンが社宅にやってくるのです。来てくれる日はなんと真夏のお昼。土曜日なのが幸いですが、なんで真夏のお昼なのでしょう。それにしてもセブンとの再会。実に20年ぶり。大変感慨深いものです。因みに再会したのは30年前のことになります。待ちに待った日、私はまだよちよち歩きの長男を連れて「さあ行こう」。勇んで行ってみたものの、セブンがいません。長男には「M78星雲から飛んでくるから」と言いましたが、考えてみれば長男はセブンを知りません。これが思わぬ事態に。さて、セブンはいずこ、、、、。 セブンは社宅ではなく、近くのガス会社さんに来ていました。「なんでガス会社さん?」 そんな疑問を抱きつつ、とにかく「急げ!」。よちよち歩きの長男に我慢できず、抱っこしてガス会社さんに行きました。さあ、ウルトラセブンは来ているか???
アルバイトと仕事は違います
大学生は、学費・生活費・娯楽費を賄うため、アルバイトをします。アルバイトの種類は時代ともに変化していきますが、動機はいつも同じです。最近は、親御さんたちのお給料が上がらぬ背景があるせいか、アルバイトを二つ掛け持ちして、やっとの思いで過ごしている学生もおります。すごく偉いですよね。私なんか、アルバイトはしなかったので、アタマが下がります。学生時代の私は、働くことが嫌いでした。アルバイトは短期間で数回程度しかやっていません。例えば、本当は長期なのに引っ越しのアルバイトが1日、また今でいうインターンシップ的な証券会社のアルバイトが1日、通信教育の赤ペン添削が「目が疲れて」1日、「これなら楽だ」と思った家庭教師も、自分が苦手科目を指導することになり、「自信がない」ので1日。続きません。裕福だった? とんでもない。金欠で昼食を抜いてフラフラになり、最後は電車で席を譲られる始末。「嘘だ」と思うかもしれませんが、本当です。さて、こんな私、、、会社員が勤まるのか。
学生さんの直感は正しい
就活。毎年リクルートスーツに身を固め、企業戦士としての第一関門を迎えるとき。これは、今も昔も変わりません。数十年前の私も同じでした。当時は、今みたいにシステマティックではなかった就活ですが、根本は同じです。つまり、会社側と学生が相対して、採用するかどうかを決める。当時は正に終身雇用の時代でしたから、面接を二、三回受けて自分の職業人生が決まります。これは終身雇用が減る兆しのある今日でも同じです。私は、大学の経営学のゼミで企業経営について研究していました。私の仮説ですが、私がオジサンになる頃(20世紀末以降)、日本企業は峠を越えて、下り坂になるのではないかと思いました。理由は、途上国の台頭他です。 ちなみに、当時の就活は会社説明会がほとんどなく、いきなり面接。私は面接で初めて会社の人と相対すると、「この会社で働きたくない」と直感的に思いました。いわゆる「ザ・昭和」。酒・たばこ・マージャン・ゴルフ。古い体質な見えました。昭和の戦士との対面で心が折れました。それでやる気を無くしました。やる気の無い私は落ちました。どの会社でも。
倒されても、前へ
大学ラグビーのシーズンが始まります。私は、若い頃ラグビーには夢中で、毎年ワクワクしております。大学ラグビーの雄といえば、早稲田大学と明治大学です。この二校は対照的なラグビーをします。早稲田大学は、バックスに足の早い選手を集めて、華麗なパス回し、相手の防御陣の隙を突いてトライを狙います。一方の明治大学は、重量フォワードがグングン前に出て、相手の防御陣を粉砕してトライを狙います。観戦していると、早稲田大学のほうが華やかでカッコいい。素早いパス回しでスピーディーに展開していきます。一方で、明治大学はお相撲さんみたいな大男たちが団子になってグイグイ押してゆく。あたかも、押し相撲を見ているようです。 実は私は、明治大学のラグビーが好きです。いつしか『前へ』出る精神に、自分の在り方を考えるようになりました。『前へ』は、創設者・北島忠治監督の教えです。この教えを一世紀近く守ってきました。(因みに北島さんは、相撲部出身です。ラグビーはやったことがないそうです)
昭和39年-高度成長と古き良き時代の狭間で
昭和39年というと、前の東京オリンピックが行われた年です。アジアで開催された初めてのオリンピック。若い人にとっては、歴史の教科書の1頁かもしれませんが、当時を知る人には、「あの懐かしい時代」「日本が最高に良かった時代」と思うのではないでしょうか。今でも覚えています。東京の代々木・千駄ヶ谷に建てられた国立競技場、そして屋内競技場。 あの建物は、有名な建築家の手による作品です。しかし、大都市・東京とはいえ、当時は今のような高層ビルは無く、高いビルと言っても新宿西口の百貨店です。あの頃の子供たちは、日曜日に屋上に行ってミニ遊園地で遊び、そしてお昼はお子様ランチ。今思うと、本当に些細なことですが、当時は最高の娯楽でした。しかし、電車に乗って新宿駅から一駅、二駅も過ぎると、そこは木造平屋の小さい家、アパートばかり。背が高い建物はというと、お風呂屋さんの煙突くらい。もちろん、道も狭くて車同士がすれ違う道は住宅街にはありませんでした。やはり、まだ国全体でどこか貧しさを引きずっている日々だったと思います。
不器用なおばあちゃんの優しさ
私には、生まれた時から一緒に住んでいるおばあちゃんがいた。父方の母親にあたる人だ。おばあちゃんは、エネルギーに満ち溢れているタイプだった。70歳にして、旅行に行くのが趣味。しかもヨーロッパなどではなく、ペルーやエジプトなどなかなか旅行先に選ばないようなところに行くのが好きだった。料理も手芸も上手で、美味しいもの好き。年齢の割にジャンキーなものが好きで、たこ焼きやカップラーメンをよく買ってきていた。 私はそんなおばあちゃんが大好きだった。私には姉がいるのだが、姉は習い事をたくさんしていた。そのため、いつも家に居るのは私とおばあちゃん。2人でお留守番をしてアニメを見たり、ごろごろしたりしていた。お母さんに内緒で、美味しいものをこっそりもらえるのもとても嬉しかった。 そんな私も中学生になった。中学生くらいになると反抗期を迎える。一般的には親に反抗するようになるが、私の両親は厳しかったので到底できない。そのため、一緒に住んでいるおばあちゃんに反抗するようになった。今考えれば、心の底から甘えることのできる唯一の存在だったのだろう。反抗しても許されると思っているから、反抗できたのだなと思う。 今まで話していたのに私がいきなり無視するようになったり、おばあちゃんが共有スペースに居ると避けるようになった。今考えれば、最悪の行為である。(おばあちゃん、本当にごめんね。) そんな私に対して、どう接すればいいのか分からなかったのだろう。エネルギッシュな性格だが、その反面繊細な部分もあるおばあちゃん。そのうち、話しかけてこなくなった。
晴天の霹靂
私が塾を始めてからちょうど7年目の3月。春を迎えてこれから新入生の受け入れ態勢を整えようという時だった。いつもと違って学生が来ない。おかしい。何か変だぞ。と思っている間に時間は過ぎて授業開始の時刻が来た。しかし、誰も来ない。待てど暮らせど一人も来ない。 自宅で玄関の扉に張り紙をして塾を初めて以来、こんなことはなかった。しかし思い当たる節はあった。 塾は弟と二人で分業態勢で授業をこなしていた。私は英語以外の4科目。弟は英語。週に1回の授業だが弟を信頼していた。だがそれが間違いの元だった。当時大学生だった弟は部活動やらなにやら忙しそうにしていた。塾のある日だけは帰宅して、きちんと教えてくれているものだと思っていたが、違った。授業開始の時間に遅れること30分。平然と帰ってきて何の準備もせず授業を始めていたのだ。たまたま私が家にいて弟の遅刻が発覚した。学生の立場にすればたまったものではないだろう。遅刻はするわ、月謝だけはきちんと取られるわ、なんの対応もせず放置していたのだから。 もう一つ、思い当たることは、私の側にもあった。前年、資格試験の一次に合格して、今年こそと気合を入れていた。自分の勉強に熱を入れすぎて、塾の準備や対応に手抜かりがあったかもしれないということだ。 学生の数は大きく減ってしまった。回復する見込みはない。さて、どうする?今日にも生活費はいる。新聞の求人欄を探すと、堂島の中華料理屋で皿洗いのバイトを募集していた。通うのに1時間ぐらいかかる。朝8時から2時までの6時間。迷わず応募した。 次の日から洗い場で皿洗いのバイトが始まった。調理師は気性が荒い。みんな徒弟制度のような関係で、皿洗いなどは眼中にないようだった。有線でもんた&ブラザーズのダンシングオールナイトを聞きながら、教えられるままに黙々と仕込みを続けた。11時から営業開始。客が入ってくると、ホールはもちろんのこと、調理場も戦場と化した。次々と運ばれてくる皿。それをシンクに放り込んで洗剤で洗うのだが、時折、皿が割れていることがある。洗剤で真っ白になっているお湯の中に手を突っ込んで、嫌というほど手を切った。そんな毎日が2年続いた。
はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト
私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。 ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。 まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。 そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。 その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。 正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。 ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。 それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。 例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。 そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。 では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。 当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。 話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。 そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。 たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。 ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。 実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。 そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。 仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。 まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。 素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。 また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。 さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。 このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。 夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。 そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)
侮りがたし、幼き賢者よ
近所の小さな公園は、陽当たりがよくて、その周囲にめぐらされている植え込みが寒風を受け止めるので、天気のいい冬の寒い日などは、小春日和とでもいいたくなるほどの陽だまりになります。散歩の相棒(愛犬)と一緒に出かけるのですが、気分転換には絶好の“ほんわか“スポットなのです。ソフトボールの内野がギリギリで収まるくらいの小さなグランドに、鉄棒、平均台、滑り台などの遊具が置かれています。相棒とわたしは、そこを何週かして、時間にして15分くらいだと思いますが、気が済んだら日陰の帰り道をいそぐのがほぼ日課になっております。去年のちょうど今頃、正月休みが明けて少しして、いつも通りに相棒と公園に着いてみると、低鉄棒で逆上がりの練習をしている男の子がいました。幼稚園か、小学一年生かといった年恰好の子で、何度も地面を蹴っては見るものの、脚がうまく鉄棒の向こう側にいってはくれませんでした。『違う、コツは腕のほうだ。地面を強く蹴ったら、鉄棒をグイっと自分のほうに寄せるんだ』老婆心ながら、そんなアドバイスをしようかと思っておりましたが、ここはグっとこらえて、彼の様子を見守りました。せっかく一人で努力してるんですから。手柄の横取りになんてできません。彼の額にはうっすらと汗、頬は赤くなっていて、どれだけ頑張っているかがわかりました。しばらくすると、クルリと、ついに一回転。多少強引でしたが、見事に回りました。コツを掴んだのでしょう、その後はスムーズな逆上がりができていました。思わず近づいて、彼に声をかけてみたくなり『すごいね、どうやったらできたの?』と、たずねてみました。帰ってきた答えは、『うん、何度も、何度も、頑張ってやって、そうしたらできたの』でした。意外でした。
親父の曲がった指
父は、運送会社を経営していた。自宅の庭は車庫であり、オート三輪が6台ほど留まっているのが当たり前の景色だった。車庫には2本のドラム缶があって、片方は新しいエンジンオイル、もう片方はオイル交換した後の廃油入れだった。荷台に荷物を固定するためのロープが常にうず高く積まれていた。オイルと排ガスの匂いが、父の仕事場のにおいだった。 父の会社を継いだのは、28歳になってからだった。留学して、好きな仕事に就いて数年。それらを全て捨てて、継いだ。義務や定めと言うよりは、それが浮世の義理、人の道だと思っていた。最初は、嫌で仕方なかった。跡継ぎとは言え、現場仕事の定石は、まず現場からだ。当然、助手、運転手と、仕事を覚えていった。『遅いぞ』『荷物を丁寧に扱え』、当たり前だがお客様は神様だ、理不尽な文句には笑顔。『ありがとう』『ご苦労様』労いの言葉には感謝。大人にさせてもらった。それでも、仕事は嫌いだった。やがて、管理者の立場になって、子供の頃から訊けずにいた父の曲がった指のことを訊いた。『親父の人差し指、なんでが曲がってるんだ?』
チャーリー・パーカーの衝撃
私にはどうしても好きでたまらないミュージシャンが2名います。 一人目は言わずと知れたロックバンドのクイーン。 そしてもう一人が、ジャズ界最大の巨人の一人でありモダンジャズのスタイルを決定づけたと言っても過言ではない大天才、アルトサックス奏者のチャーリー・パーカー(1920~1955)です。 クイーンの音楽がとても親しみやすいのとは対象的に、パーカーの音楽は録音された年代が古いこともあり、批評家や演奏家の間での評価は非常に高く後世へ影響力も強いのにもかかわらず、普通に音楽が好きな人達にあまり受け入れられているとは言えません。 ですが、私にとって彼の演奏を聴く体験は人生が変わる程の衝撃であり、決して外すことができない「ドラマ」であるため、ここに書くことにしました。 私がパーカーの音楽を最初に聴いたのは、まだ中学生の頃だったと思います。 父が所持していた「チャーリー・パーカー・オン・ダイアル・コンプリート」(以下「オン・ダイアル」と略)という6枚のLPレコードで、パーカーの全盛期である1940年代の演奏を記録した大名盤なのですが、はっきり言ってその時の印象は最悪でした。 まず音質がボロボロで何をやっているのか全然わからない上に、1曲2~3分の短い演奏ばかり、さらに同じ曲の別テイクが延々と繰り返されて、全部聴くのは地獄のようでした。 その後、大学でジャズのビッグバンドに入ると、先輩達にすすめられて改めてパーカーのレコードやCDを聴くようになりました。 当時よく聴いていた「ウイズ・ストリングス」「ナウズ・ザ・タイム」といったアルバムは、先述の「オン・ダイアル」と比較すると録音された年代が新しくて、音質が良く聴きやすいのが特徴です。 特に「ウイズ・ストリングス」はサックスの音色と弦楽器の響きが美しくお気に入りでしたが、その年代はパーカーの絶頂期がすでに過ぎていたとも言われています。 さらに時が過ぎ、私は大学を中退して音大に入りなおし、厳しいレッスンを受けながら毎日嫌というほど色々な楽器(特に管楽器)の音を聴き続けることになるのですが、そういう生活を続けていると超一流の演奏家と普通の学生の音の違いがわかるようになってきますし、壁の向こう側で鳴っている音でも誰が出しているのかなんとなくわかるようになってきます。 そして、あるとき気まぐれで、CD化された「オン・ダイアル」を買って改めて聴いてみたのですが、そこで初めて、絶頂期のパーカーがあり得ないようなもの凄い音で演奏していたことに気づいたのでした。 人間離れした音の圧力でありながらなんともいえない艶やかな響きがあり、もしこれが生演奏であれば、最初の一音だけでその場の空気が変わることは間違いありません。 また、即興演奏というのはジャズの重要な要素の一つですが、延々と繰り返される別テイクでも彼は決して同じことはしていないと、その時はっきりわかりました。 楽曲の中に隠れている和音やビートを自在に引き出し、その中で自由に飛翔する力は神業です。 小節を埋めるために惰性で出したような音は一切存在せず、全ての音が意味を持っています。 全てのテイクが小さな作曲であり、それぞれが完成された作品になっていると言えるでしょう。 そして、繰り返しパーカーのCDを聴き続けていると、何故人間にこんな凄いことができるのかと考えるようになりました。 私が知っている限りでは、超一流のクラシック音楽の管楽器奏者でも、これ程の凄い音とテクニックの持ち主はただの一人も存在しません。 想像もつかないような量の練習の成果でもあるでしょうが、ここまでの凄さになるとそれだけの問題ではないように思えます。
好きなことをして生きるということ
好きなことを仕事にする、誰もが望み憧れることでしょう。 もし実現できればこれ以上幸せなことはありません。 私は音楽が好きなので、若い頃は音楽家になりたいと思っていましたが、これはかなわない夢でした。 中学生の頃からブラスバンドで担当していたクラリネットで音楽の大学に進み、更には大学院の修士課程まで行きましたが、6年間でコンクールの類は一切通らず、挙げ句には定職にも就けないという挫折を味わい、お世話になった先生達を失望させてしまいました。 今でもこの頃のことを思い出すと恥ずかしく、申し訳ない気持ちになります。 それでは何故私の夢はかなわなかったのでしょうか? これにはいくつかの理由があると考えています。 一つには努力、根性が足りなかったことです。 楽器の演奏家というのは、ある意味スポーツのアスリートに似ています。 どれだけ頭の中に良い音楽のイメージを持っていたとしても、それを実際に音にするのは肉体の力です。 プロの演奏家になりたいのであれば、一日も休まずに己の身体を鍛え続ける必要があり、これがいわゆる基礎練習なのですが、私はこれが嫌いでした。 もう一つは、クラシックというジャンルの音楽に理解と愛情が足りなかったことです。 ロックやジャズと比べてクラシック音楽が決定的に違うのは、演奏家は作曲家が書いた曲を演奏するということであり、自分がこう演奏したいという望みよりも、作曲家の意図を優先しなければいけません。 また、特に時代の古いクラシック音楽には、100年以上も演奏され続ける間に積み重ねられたスタイル(様式)のようなものがあり、この作曲家のこの音符はこういう風に演奏する、というようなものが演奏家の間では暗黙の了解事になっています。 私にはこれらのことが全く理解できていませんでした。 そもそも「音楽家になりたいと思っていた」と最初に書きましたが、当時の私はその意味が十分にわかっていなかったのでしょう。 先生達は、生徒が職業としてクラシック音楽で生きていくことを前提に指導をして下さいます。 ですが私は、本当に好きな音楽はジャズやロックだけれどもそれらの音楽は学校で学べないから、楽器やジャンルはなんでも良いから音楽の学校へ行ければ、という程度に考えていました。 そんな甘い考え方では、好きなことで生きていくのは無理なんですね。
クイーン来日公演
私は音楽が大好きです、その中でも特に好きなのがロックバンドのクイーンです。中学生になってからはほぼ毎日彼らの音楽をカセットテープで聴いて、ギターでコピーしてきました。そして高校1年が終わる頃の冬に、そのクイーンが日本にやって来るというニュースが飛び込んで来ました。 クイーンの来日公演は1982年にもあったのですが、この時は諸事情あり行くことができませんでした。しかし、今度は違います。私は大喜びで親しい友人達に声をかけまくりましたが、残念なことに誰も行くとは言ってくれません。 これには理由があり、この来日公演の少し前に発表されたThe Worksというアルバムが友人達の間では不評であったのに加え、ボーカルのフレディマー・キュリーはスタジオ録音では滅茶苦茶上手いがライブでは高音域に無理がある、と当時から言われていたのです。 私は仕方なく一人で行くことを考えていましたが、中学時代私とは違うバンドでベースを弾いていた違う高校に通うM君が、一緒に行きたいと伝えてきました。M君は運動神経が良くバレーボール部なんかに入っているのにバンドもやっているという、運動音痴でネクラな私からすると苦手なタイプであり、仲も良くないと勝手に思っていたので、私はあろうことかその誘いを一回断ってしまいました。しかし、これは両親に滅茶苦茶怒られて、渋々謝って一緒に行くことにしました。 そして1985年5月8日、高校2年の春に念願のライブの日がやってきました。来なかった薄情な友人達の予想を見事に裏切り(?)、その演奏はとても素晴らしいものでした。これにも当然理由があります。 この時期のクイーンはアイデアの面ではある種の行き詰まり状態にあったと思いますが(個人の主観です)、演奏の面では完全に円熟期に入っていたのです。少なくとも私はそう思っています。特にドラムのロジャー・テイラーの成長が著しく、初期の演奏と比較してドラムがタイトになった分バンド全体のサウンドが引き締まっていました。フレディのボーカルは確かに高音域を一部下げて歌っていましたが、実際に生で聴くとそれ以上に豊かで艶やかで、完璧なバンド演奏の上で美しく響いていたことを今でもはっきりと思い出せます。映画ボヘミアンラプソディの中でハイライトになっている伝説のライブエイドの演奏が1985年の7月13日ですので、この時の来日公演でもいかにクオリティーの高い演奏をしていたかが想像ができると思います。 また、クイーンの演奏に感激するのと同時に、M君のことを勝手にこんな人だと決めつけて避けていた自分を大いに恥じました。一緒に茨城の田舎から東京まで行ってみると彼はとても細かいことに気がつく優しい人で、高校生が深夜に一人で東京から帰ってくるのは危ないから無理にでも誘ってくれたことがよくわかりましたし、何よりも素晴らしい音楽が目の前で繰り広げられていることをしっかり感じ取っている姿を見ると、この人は自分と何も変わらない、同じ人間なのだということがはっきりわかったのです。帰りの電車では、二人で中学時代の話など楽しく盛り上がりました。
私の信じている事
私のなかに30余年の間熟成された英雄像があります その英雄の名前は、“ゴルビー”ことソビエト連邦最初で最後の大統領「ミハイル・ゴルバチョフ」です。 残念ながら、ロシアのウクライナ侵攻の終息を見ることなく、2022年8月30日亡くなりました。 世界中の誰もがこの名を知っている、歴史上欠くことのできない人物です。彼の功績はあまりにも大きい。 国内にあってはグラスノスチ(情報公開)・ペレストロイカを推進し、帝政ロシアの圧政に抑圧されていた国民に自由をもたらし、対外的にも新思考外交により、当時のアメリカ合衆国ブッシュ大統領との間で交わした冷戦終結宣言に至ります。(マルタ会談)。 さらに、その流れは東欧諸国に波及し、ベルリンの壁の崩壊につながります。 そして、1990年、冷戦の終結・中距離核戦力全廃条約調印・ペレストロイカによる共産圏の民主化に対してノーベル平和賞が贈られました。当時のゴルビー人気は世界中を席巻しました。 しかし、西欧諸国で絶大な人気を博したゴルビーの国内での評価はよくありません。就任当初を除いて在任中から不人気であり続けました。「偉大で強い古き良き時代(スターリン・ブレジネフ時代のこと)であったソ連を崩壊させた」、「アメリカに魂を売った売国奴」と揶揄されています。さらに、飲酒制限政策を展開したことにより、酒好きのロシア人からさらなる反感を買ってしまいました。 彼に対する評価は様々です。それは情報を発信する側の主観でいかようにも報道されます。時には英雄にもなり時には野心家にもなり、また敗北者にもなります。
企業の社会的責任とは?
最近、といってもここ数年、気になっていることがあります。 私が住む街には工業団地がいくつかあります。その中には全国区の企業も何社か入っています。これらの企業は街の財政に寄与するとともに雇用の創出をもたらしてくれています。 いわば、私たちにとってありがたい企業です。 私はその中の一つの工業団地を毎日の散歩コースとしています。そこにはそれこそ誰もが知る大手企業の工場があります。 ふと気が付くと、その建物は汚れが目立ちそれを改修するでもなく、さらに正面玄関のキャッチコピーを掲げた社名看板も水洗いするだけでもきれいになるだろうなと思う程、手が加えられていません。極めつけは、道路側の植栽が荒れ放題で道路に進出しているほどです。 思わず、どうしたんだろう?と。 工場は普通に稼働しています。閉鎖されている様子はありません。 工場で働く人たちがこの現状を知らない訳がありません。 工場長は何をしているんだろう? 本社はこの事に気が付いているのだろうか? 業績が思わしくなく、それどころではないのかな? 何故?この状態に危機感を感じていないのだろうか?と。
私の自慢話
私の自慢話をひとつ。 一緒に暮らしている孫がひとりいます。現在、大学2年生の男の子です。長男夫婦の子です。 ひとりっ子の孫は両親が忙しかったことから、いわゆる「ジジババ頼み」で成長しました。 小さい頃は買い物に連れていったり、近くの公園に遊びに行ったり、自転車に乗れるようになるまではつきっきりでした。小学校へあがると日曜日のたびに二人で自転車ででかけました。ふきのとうを採ったり、たけのこを掘ったり、季節を満喫していました。夏休みの宿題の自由研究・読書感想文は教えながらいつの間にか私の宿題に移行していました。 中学・高校は部活の送迎・応援にあけくれました。 私が自分の子どもにできなかった事を今、している。させてもらっている。そんな風でした。 ですから、どちらかというと友達感覚です。 今でも、わからない事があるとすぐメールしてくるし、なんでも話しをしてきます。
仕組まれた「天使の微笑(ほほえみ)」
70歳男性です。まだまだしっかり働きたいのですが、妻の要請により在宅を余儀なくされ、それでもようやく最近、週3日という条件付きで働きに出ています。今、水を得た魚のように泳いでいます。 子供は4人ですが、長男は結婚して家にいて、娘二人は結婚して隣り街に住んでいます。次男はそろそろ結婚かというところです。それぞれに子供が一人ずつで大学2年生、小学1年生、3歳の3人の孫がいます。 2年前の事です。 当時、11か月の男の子にはまっていました。。娘はまだ育休期間で退屈しているのか1週間に1度は彼を連れて来ます。チャイルドシートに乗せられるようになってからもう半年にはなります。だんだん情が移ってきて、帰ったその時から来週が待ち遠しいといった状況です。 「あばたもえくぼ」といいますが何をしてても可愛いと思います。一週間ごとに何か次のステップに進んでいる。それが楽しみです。少し前、やっとハイハイまがいの動きをしていたかと思ったら、翌週、ハイハイとまでいかなくて胴体が床から離れずバタフライの泳法を駆使したハイハイにこぎつけ、次の週には完ぺきなハイハイをしていました。冷静になれば当たり前のことですが、あたかも特殊な技でもマスターしたような騒ぎでギャラリーは勝手に盛り上がっています。 この年齢にして異性を意識しているのか女性に関心があると見えて私と妻がいると私をしかとして妻のほうに愛嬌を振りまいています。妻はそれを誇らしく鼻高々にしています。しかしいつも抱っこして寝かせるのは私の役目です。あくびをしたり、ぼんやりしてくるといつも抱っこします。極力胸と胸を合わせ、私の肩の上に孫の顔を載せるような態勢でゆっくり揺らしながら、トントンをしていると必ず動きが止まって肩の上の顔がもたれかかるような感触になります。時には30分くらい抱っこしている時もありますが、基本的に寝るまでは降ろさないつもりで寝かしつけます。そういった恩を感じること無く私と妻との選択を迫られると必ず妻のほうに軍配が上がります。今回はつかまり立ちから手を添えながらの歩行までクリアーしています。
「これで帰って」と、出された巨峰の苦い味
私と田中さんが出会ったのは小学校の時でした。田中さんが6年生、私が5年生でした。運動会で男子のマスゲームで組体操をした時、二人組のペアを組みました。彼は野球少年でスポーツ万能でした。私は勉強ばかりしている運動音痴でした。案の定、私のせいで一つ一つの技が決まりません。それでも、彼は優しく、丁寧に教えてくれました。そんな事があって、私は彼を中学卒業まで兄貴のように慕っていました。しかし、高校からは別々の道を歩み、社会人になってからもしばらく会う事もありませんでした。 30年くらい経ちました。大人になってから初めて会う事がありました。会うなり当時にタイムスリップし嬉しさがこみ上げてきました。居酒屋に行き、カラオケに行き、深夜の車の中で、延々と語り合いました。それをきっかけに忙しい時間を調整して時折会って、家族の事、仕事の事を伝えあいました。 楽しい出来事がより楽しく、悲しく辛い事が緩和されて、明日への活力となりました。 そんなある日、彼ががんに侵されている事、完治は厳しい事を耳にしました。 家で療養していると聞いて、いつものように仕事帰りに顔を出しました。喜んでくれました。元気そうでした。私は何も知らない風を装いました。時間を忘れて話をしました。その時、彼のお母さんが、病気の彼にあまり無理はさせたくないと、ちらちら出てきては、「もうそろそろ…」と私を帰るように促しますが彼はそれを遮ります。私を帰したくない思いが伝わりました。これで帰ってと言わんばかりに大きな巨峰を持ってきてくれて二人で食べました。お暇するしかありませんでした。
私とシロアリとの果てしない戦いは?
6年前の夏のことです。築30年の我が家に初めて羽アリが発生し、シロアリの存在が確認されました。 これは一大事だと、慌てて、シロアリ駆除業者に依頼し、現調をお願いしました。立て続けに3社が現調に来て、床下収納庫を取り外し床下に潜りシロアリの発生状況を調査してくれました。 いずれもシロアリが1か所の基礎下から這い上がり土台を経由して上に向かっているとの見立てでした。 このまま業者に任せればよかったのですが、この目で確認したいという衝動にかられ、それが高じてこの手で退治しようというとんでもない決断をしてしまいました。 ちょうど定年退職し、次の仕事まで間があり暇をもてあましておりましたので、格好のレクリエーションになりました。 まず、戦う前の下準備です。 床下のスペースは狭く、這うことすらできません。ほふく前進あるのみです。向きを変えることもできません。前進したら帰りはそのままあとずさりです。ですから、つなぎの服が必要です 床下は薄暗く、虫の死骸、木材のきれっぱし、コンクリートのかけら、新聞紙・チラシなどの紙類、それらが埃まみれの状態で散在しています。ですから、防塵マスク・ヘッドライト・ゴーグル・被り帽子を揃えました。 さらに、重要なのは掃除機です。床下のコンクリート土間上をまず掃除し、最も大事な仕事である「シロアリの掃除機による吸引」です。 いよいよ、つなぎを着て床下に潜入です。床下収納庫を外し中に入ります。そこには初めての世界が広がっていました。そこから、体をどのように曲げたり伸ばしたりしてよいのか見当がつきません。長い間の生活習慣で床に這いつくばるという行為に抵抗感があります。しかも、床下は束石があったり木の桟が縦横に高さを変えながら配置されていて通過するための難所がいくつかあります。シロアリにたどり着く前に断念しそうです。 しかしながら、腹ばいになって動くコツもだんだん習得し上方をのぞきたいときには体を半回転し仰向けになります。「胃のレントゲン撮影時こういう動きを求められるな」と思いながら、床下での活動に見合った動きができるようになりました。 シロアリは目前でした。 事前の情報通り、潜入か所から数メートルのところにある立ち上がり配管に蟻道と呼ばれるシロアリの通り道がありました。それはうまくルートを作りながら土台から造作材へと続いていました。 その蟻道をつついてみました。 いました。いました。おびただしい数のシロアリがいました。光に弱いと見えて、蟻道を破壊して姿が露呈するとたちまち隠れようとして右往左往します。それを掃除機で吸い取ります。視界にある蟻道をすべて破壊し出てきたシロアリを掃除機にて吸い取りさらに、隠れたであろう土台上及び土間のコンクリートの隙間に駆除剤を振り撒きました。 一日の作業は終わりました。 といっても、1回の稼働時間は10分程度です。帽子・メガネ・防塵マスク・首にタオル・つなぎ服のいでたちで暑さと酸素不足で苦しくなってきます。床下で呼吸困難になったら帰還できません。そんなリスクを背負いながら必死に闘っています。 ふと、シロアリと格闘している自分を想像しました。どんな顔をして掃除機で吸っているんだろう?どんな目をして駆除スプレーをかけているんだろう? 次の日、またどこかに蟻道を作っているだろうかと興味津々で床下に潜りました。案の定、昨日とは異なるルートで蟻道が構築されていました。そして、その中をせっせとアリたちは群れを成して行進しています。私が破壊したものを一晩で築き上げていることに敬意を表するとともにこの戦いは長期戦になると覚悟しました。 何回か繰り返しているうちにありの侵入箇所は1か所であることに気が付きました。 木造の家屋で床下は防湿コンクリートといって土のままだと湿気が上がってくるのを防ぐために土間にコンクリートを流しています。構造的なものではないので、ただ均してあるだけの粗末なものです。その中に様々な種類の配管が立ち上がっていてその1か所に土が見えるほどの隙間がありました。 彼らはそこから侵入していたのです。 ならば、そこを塞ぐことによって進入路を断つことができると考えました。この戦いを通して賢くなった私は 「ここを塞いでも、また他の穴を見つけて入ってくるに違いない」 「ならば、先回りしてコンクリートを見渡し,そういった隙間をことごとく塞げば、絶対に封じ込める」と確信しました。 「言うは易く行うは難し」とはよく言ったものです。 這いつくばっての作業は困難を極めました。大きい隙間はモルタルで、小さい隙間はコーキングで。これらは通常の環境では簡単な作業です。しかしここは床下の狭いスペースです。 モルタルを載せた板をもっていく事さえ至難の業です。悪戦苦闘の末、見たところ隙間はすべて塞ぎました。 「これで、もう入れないだろう!」と勝ち誇った気分でした。
「居士」欲しかった父
父が亡くなって15年、私も70歳となりました。当時、父の姉(叔母)が放った一言により、亡き父の生涯が私の中で生き生きと蘇ってくることを禁じえませんでした。 私は菩提寺である寺院のご僧侶に戒名をお願いに行きました。申込書に父の職業・役職等必要事項を記載し、戒名を戴きました。 父は教師として勤め上げ、退職後も後進の指導に余念がなく充実した人生を歩んでいました。 ただ、教頭でもなく、校長でもなく平の教諭でした。 それゆえか、いただいた戒名には「○○信士」とありました。 家に戻り、親族にその「戒名」を差し出すと、叔母が、悲しそうにこういうのです。 『「居士」欲しかったろうに…』 それは、あたかも名声を追うことなく教育にささげた父の生涯を否定するようでした。
コスモスと桜
今は10月。ようやく秋らしい気配が漂い始めた。幹線道路を車で走っていると、田んぼの跡に赤、白、ピンクと色とりどりの秋桜のたゆとう姿がのんびりとした田舎を想起させてくれる。秋桜の花言葉は「乙女の真実」「謙虚」「調和」だ。華奢な茎のわりに大きな花が風に吹かれてユラユラと揺れる姿は、いかにも健気で、可憐な少女のような趣を感じさせてくれる。 私の父は昭和32年11月12日に29歳で亡くなった。交通事故だった。そのころ私は5歳ではっきりとは覚えてはいないが、市バスとバイクの事故だったこと、大正橋辺りでの事故だったこと、長い時間かかってようやく病院にたどり着いたということ、を母から聞いて覚えている。ベッドに横たわる父は、鼻のあたりにぬぐい切れない血のりがたまっていて、全身むき出しの腹部は縦に裂かれて、そのところどころにガムテープのようなものが張られていた。ベッドに横たわる父親の足元で母が泣いている。私は悲しくなかったが、母が泣いてるから泣かないといけないんじゃないかと思っていた。 母は、後から ・父が「痛い痛い」といって死んでいったこと ・事故の相手の名前も住所も聞かなかったこと ・そして、聞かなくてよかったと後から思ったこと を、よく話していた。
セブンが社宅にやってきた
「エッ!、嘘でしょ」 社員から聞いて驚きました。なんと、あのウルトラセブンが社宅にやってくるのです。来てくれる日はなんと真夏のお昼。土曜日なのが幸いですが、なんで真夏のお昼なのでしょう。それにしてもセブンとの再会。実に20年ぶり。大変感慨深いものです。因みに再会したのは30年前のことになります。待ちに待った日、私はまだよちよち歩きの長男を連れて「さあ行こう」。勇んで行ってみたものの、セブンがいません。長男には「M78星雲から飛んでくるから」と言いましたが、考えてみれば長男はセブンを知りません。これが思わぬ事態に。さて、セブンはいずこ、、、、。 セブンは社宅ではなく、近くのガス会社さんに来ていました。「なんでガス会社さん?」 そんな疑問を抱きつつ、とにかく「急げ!」。よちよち歩きの長男に我慢できず、抱っこしてガス会社さんに行きました。さあ、ウルトラセブンは来ているか???
アルバイトと仕事は違います
大学生は、学費・生活費・娯楽費を賄うため、アルバイトをします。アルバイトの種類は時代ともに変化していきますが、動機はいつも同じです。最近は、親御さんたちのお給料が上がらぬ背景があるせいか、アルバイトを二つ掛け持ちして、やっとの思いで過ごしている学生もおります。すごく偉いですよね。私なんか、アルバイトはしなかったので、アタマが下がります。学生時代の私は、働くことが嫌いでした。アルバイトは短期間で数回程度しかやっていません。例えば、本当は長期なのに引っ越しのアルバイトが1日、また今でいうインターンシップ的な証券会社のアルバイトが1日、通信教育の赤ペン添削が「目が疲れて」1日、「これなら楽だ」と思った家庭教師も、自分が苦手科目を指導することになり、「自信がない」ので1日。続きません。裕福だった? とんでもない。金欠で昼食を抜いてフラフラになり、最後は電車で席を譲られる始末。「嘘だ」と思うかもしれませんが、本当です。さて、こんな私、、、会社員が勤まるのか。
学生さんの直感は正しい
就活。毎年リクルートスーツに身を固め、企業戦士としての第一関門を迎えるとき。これは、今も昔も変わりません。数十年前の私も同じでした。当時は、今みたいにシステマティックではなかった就活ですが、根本は同じです。つまり、会社側と学生が相対して、採用するかどうかを決める。当時は正に終身雇用の時代でしたから、面接を二、三回受けて自分の職業人生が決まります。これは終身雇用が減る兆しのある今日でも同じです。私は、大学の経営学のゼミで企業経営について研究していました。私の仮説ですが、私がオジサンになる頃(20世紀末以降)、日本企業は峠を越えて、下り坂になるのではないかと思いました。理由は、途上国の台頭他です。 ちなみに、当時の就活は会社説明会がほとんどなく、いきなり面接。私は面接で初めて会社の人と相対すると、「この会社で働きたくない」と直感的に思いました。いわゆる「ザ・昭和」。酒・たばこ・マージャン・ゴルフ。古い体質な見えました。昭和の戦士との対面で心が折れました。それでやる気を無くしました。やる気の無い私は落ちました。どの会社でも。
倒されても、前へ
大学ラグビーのシーズンが始まります。私は、若い頃ラグビーには夢中で、毎年ワクワクしております。大学ラグビーの雄といえば、早稲田大学と明治大学です。この二校は対照的なラグビーをします。早稲田大学は、バックスに足の早い選手を集めて、華麗なパス回し、相手の防御陣の隙を突いてトライを狙います。一方の明治大学は、重量フォワードがグングン前に出て、相手の防御陣を粉砕してトライを狙います。観戦していると、早稲田大学のほうが華やかでカッコいい。素早いパス回しでスピーディーに展開していきます。一方で、明治大学はお相撲さんみたいな大男たちが団子になってグイグイ押してゆく。あたかも、押し相撲を見ているようです。 実は私は、明治大学のラグビーが好きです。いつしか『前へ』出る精神に、自分の在り方を考えるようになりました。『前へ』は、創設者・北島忠治監督の教えです。この教えを一世紀近く守ってきました。(因みに北島さんは、相撲部出身です。ラグビーはやったことがないそうです)
昭和39年-高度成長と古き良き時代の狭間で
昭和39年というと、前の東京オリンピックが行われた年です。アジアで開催された初めてのオリンピック。若い人にとっては、歴史の教科書の1頁かもしれませんが、当時を知る人には、「あの懐かしい時代」「日本が最高に良かった時代」と思うのではないでしょうか。今でも覚えています。東京の代々木・千駄ヶ谷に建てられた国立競技場、そして屋内競技場。 あの建物は、有名な建築家の手による作品です。しかし、大都市・東京とはいえ、当時は今のような高層ビルは無く、高いビルと言っても新宿西口の百貨店です。あの頃の子供たちは、日曜日に屋上に行ってミニ遊園地で遊び、そしてお昼はお子様ランチ。今思うと、本当に些細なことですが、当時は最高の娯楽でした。しかし、電車に乗って新宿駅から一駅、二駅も過ぎると、そこは木造平屋の小さい家、アパートばかり。背が高い建物はというと、お風呂屋さんの煙突くらい。もちろん、道も狭くて車同士がすれ違う道は住宅街にはありませんでした。やはり、まだ国全体でどこか貧しさを引きずっている日々だったと思います。
不器用なおばあちゃんの優しさ
私には、生まれた時から一緒に住んでいるおばあちゃんがいた。父方の母親にあたる人だ。おばあちゃんは、エネルギーに満ち溢れているタイプだった。70歳にして、旅行に行くのが趣味。しかもヨーロッパなどではなく、ペルーやエジプトなどなかなか旅行先に選ばないようなところに行くのが好きだった。料理も手芸も上手で、美味しいもの好き。年齢の割にジャンキーなものが好きで、たこ焼きやカップラーメンをよく買ってきていた。 私はそんなおばあちゃんが大好きだった。私には姉がいるのだが、姉は習い事をたくさんしていた。そのため、いつも家に居るのは私とおばあちゃん。2人でお留守番をしてアニメを見たり、ごろごろしたりしていた。お母さんに内緒で、美味しいものをこっそりもらえるのもとても嬉しかった。 そんな私も中学生になった。中学生くらいになると反抗期を迎える。一般的には親に反抗するようになるが、私の両親は厳しかったので到底できない。そのため、一緒に住んでいるおばあちゃんに反抗するようになった。今考えれば、心の底から甘えることのできる唯一の存在だったのだろう。反抗しても許されると思っているから、反抗できたのだなと思う。 今まで話していたのに私がいきなり無視するようになったり、おばあちゃんが共有スペースに居ると避けるようになった。今考えれば、最悪の行為である。(おばあちゃん、本当にごめんね。) そんな私に対して、どう接すればいいのか分からなかったのだろう。エネルギッシュな性格だが、その反面繊細な部分もあるおばあちゃん。そのうち、話しかけてこなくなった。
晴天の霹靂
私が塾を始めてからちょうど7年目の3月。春を迎えてこれから新入生の受け入れ態勢を整えようという時だった。いつもと違って学生が来ない。おかしい。何か変だぞ。と思っている間に時間は過ぎて授業開始の時刻が来た。しかし、誰も来ない。待てど暮らせど一人も来ない。 自宅で玄関の扉に張り紙をして塾を初めて以来、こんなことはなかった。しかし思い当たる節はあった。 塾は弟と二人で分業態勢で授業をこなしていた。私は英語以外の4科目。弟は英語。週に1回の授業だが弟を信頼していた。だがそれが間違いの元だった。当時大学生だった弟は部活動やらなにやら忙しそうにしていた。塾のある日だけは帰宅して、きちんと教えてくれているものだと思っていたが、違った。授業開始の時間に遅れること30分。平然と帰ってきて何の準備もせず授業を始めていたのだ。たまたま私が家にいて弟の遅刻が発覚した。学生の立場にすればたまったものではないだろう。遅刻はするわ、月謝だけはきちんと取られるわ、なんの対応もせず放置していたのだから。 もう一つ、思い当たることは、私の側にもあった。前年、資格試験の一次に合格して、今年こそと気合を入れていた。自分の勉強に熱を入れすぎて、塾の準備や対応に手抜かりがあったかもしれないということだ。 学生の数は大きく減ってしまった。回復する見込みはない。さて、どうする?今日にも生活費はいる。新聞の求人欄を探すと、堂島の中華料理屋で皿洗いのバイトを募集していた。通うのに1時間ぐらいかかる。朝8時から2時までの6時間。迷わず応募した。 次の日から洗い場で皿洗いのバイトが始まった。調理師は気性が荒い。みんな徒弟制度のような関係で、皿洗いなどは眼中にないようだった。有線でもんた&ブラザーズのダンシングオールナイトを聞きながら、教えられるままに黙々と仕込みを続けた。11時から営業開始。客が入ってくると、ホールはもちろんのこと、調理場も戦場と化した。次々と運ばれてくる皿。それをシンクに放り込んで洗剤で洗うのだが、時折、皿が割れていることがある。洗剤で真っ白になっているお湯の中に手を突っ込んで、嫌というほど手を切った。そんな毎日が2年続いた。