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今月のピックアップ

はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト

 私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。  ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。  まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。  そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。  その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。  正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。  ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。  それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。  例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。  そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。  では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。  当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。  話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。  そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。  たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。  ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。  実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。  そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。  仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。  まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。  素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。  また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。  さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。  このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。  夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。  そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)  

無職
投稿日時:2022年03月28日
投稿時の年齢:47
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
東京
文字数:2532

会計事務所は税金を安くしてくれるところという誤解

今も法人の経理として働いている私の仕事上の原点は20代のころから働き始めた会計事務所時代です。あまり深く考えず知り合いのつてで入職したのですが、「手に職」といえる知識を得られたことを思うと当時の上司や同僚には感謝しています。 色々な経験を積んだ会計事務所時代ですが、そこで見た中小企業主や個人事業主の、少なくとも「税金」に対する考え方には驚くばかりでした。基本的に税金は「払いたくないもの」なんです。個人事業主といっても業種は様々で、第一次産業の農業・漁業や開業医・飲食店・建設業など多岐にわたります。その中でも小規模な事業者になるほど確定申告の時期に「そんな税金払えないし払いたくない」などと、およそ法律を守ろうとする気のない発言を連発します。 第一次産業の方に至っては「税金やすくするのにあんたらに金払ってんだろうが!」と言われます。 この傾向は零細法人でも同じで、ある会社の社長さんは「あいつら(税務署のこと)、こっちが倒産しそうでヒイヒイ言っているときには何の手助けもしねーで、ちょっと儲かったら税金くれって何なんだ!」と言われていましたが、実際その通りです。 勤め人をしていると分からない苦労と、国に対する不信感が「税金」という一点で見えやすくなるものなのです。 少なくとも私が知っている範囲で言うならば、会計事務所選びは納税者目線で考えてくれるところに依頼すべきです。私も心掛けていましたが、節税という名のギリギリの勝負をしていたのも、苦労している納税者のためを思ってのことでした。

事務従事者
投稿日時:
2022年03月30日
投稿時の年齢:52
北海道
ドラマの時期:
1998年
--月
--日
文字数:812

子供が一人で行う役所の手続き

 中学を卒業して15歳で岩手県から一人で三重県に就職したが、働きはじめて社長に「役所」に行って「国保」の手続きをしてこいと言われた。  もちろん、当時の私は、最初何言われたか分からなかった。  「国保」とは国民健康保険の事だ。  私が就職した会社は有限会社だったせいなのか、社会保険ではなく国民健康保険だったと思う。  とはいえ、当時は「国保」でも1割負担で通院出来たので国民健康保険でも社会保険でも大した問題ではなかった。  社長から、「役所で手続きしてこい」と言われた時の事はうっすらとしか覚えていないが、役所での事は良く覚えている。  突然だが、当時の私は身長が低く幼かった。  なので、役所に入っても窓口が高く、話を聞くために窓口の向こうから係の人がこっちまで来てくれた。  社長に言われた必要な物は持って行った。  国保の手続き上問題はなかったと思うが、子供にしか見えない子が役所に一人で訪れて、国民健康保険加入の手続きをしたいと言った時、なんとも言えない顔をされた気がする。又はそんな雰囲気になった感じがする。  あと、うっすらとだが、アメをくれたのは覚えている。

無職
投稿日時:
2022年03月30日
投稿時の年齢:47
東京
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:677

ふとした瞬間に見られる育ちの良し悪し

歴史の浅い土地で生まれ育った私は、俗に言う「良家」という存在とは無縁で大人になりました。今の世の中に身分というものは存在していませんが、ごく一部の上流階級では今でも家の格式なるものがあると噂されています。 良家ではないとしても、育ちのよい人というものはいるもので、あるときそんな人とすれ違い驚いたことがあります。 もう10年も前になりますが、私は仲の良い友人夫婦と鎌倉旅行へ行きました。鎌倉には昔から親戚が住んでいて縁がなかったわけではないのですが、その時初めての鎌倉でした。 憧れの江ノ電へ乗り江の島などを楽しんだ初日を終え、2日目のランチである蕎麦割烹を訪れたときちょっとした「驚き」に遭遇しました。 食事を終え建物の玄関へ向かうと、靴を入れている場所の前に上品そうな老齢のご婦人がスツールに腰かけていました。靴を取り出したかったので「すいません、その下から靴を出したいのですが」と声を掛けました。 すると上品そうなご婦人が少し驚いた表情をして「ごめんあそばせ」と言ってそこを避けてくれました。 生まれて初めての「ごめんあそばせ」です。この言葉が現実に使われていることに少し感動を覚えました。普段から使っている言葉ではないと咄嗟には出ないものです。人によってはどうでも良いような瞬間でしょうが、自分に足りないものが見えたような気がしました。

事務従事者
投稿日時:
2022年03月29日
投稿時の年齢:52
北海道
ドラマの時期:
2012年
2月
--日
文字数:693

カーコンプレッサー製造現場で経験した苦い失敗と成功体験

 幼少期より私は機械に触れることが多かった。農家だった実家はトラクターや稲刈り機、チェーンソー、草刈機などの農機器が沢山あり、壊れたら自分で修理をし、また使うの繰り返し。その影響もあり、工業高校へ進路を決めた。そこには沢山の工作機械があり、「ものづくり」の楽しさを肌で感じながら工業系の専門科目を学んだ。卒業後は、某自動車部品をつくる会社へ就職。カーコンプレッサー用部品の製造に改善班の一員として携わり、実に7年間勤めた。現在は物流クレーンをメンテナンスする仕事をしているが、最初の自動車部品製造会社での数々の体験が印象に残っており、今となっては多くのことを学ばせてもらったと感じる。  ちなみに、カーコンプレッサーとは名前の通り、自動車に載っているコンプレッサー(空気圧縮機)のことだ。コンプレッサーが生み出す圧縮空気のエネルギーを利用することで、空気の加熱あるいは冷却を行い、車の冷暖房(エアコン)機能を担う。実は日本で車にエアコンが標準装備されるようになったのは、1970年後半〜1980年代と歴史は浅い。しかし、今となっては必需品で、使ったことがない人はいないだろう。では、車内環境を快適に保つこのカーコンプレッサーのどの部品の製造に携わっていたのか説明していく。  私が配属された工場では、カーコンプレッサーのハウジングという部品を製造していた。ハウジングとは、コンプレッサーの外枠のアルミ素材で作られた筐体部品のことを指す。  工場は国内でも屈指の規模。24時間体制で稼働しており、1日に約1200台のハウジングを製造していた。もちろん製造量だけでなく、安定した品質を維持するため、様々な取り組みもされていた。  たとえばコンプレッサーのような機械は1/100ミリ、部位によっては1/1000ミリ単位の精度の加工が求められる。しかし、筐体はアルミ製のため、熱による膨張や凝縮の影響が大きく出てしまう。対策として、加工ズレが生じないように、機械とアルミの温度をこまめに管理した。  また、ハウジングの細部を形作る切削加工のあとは、アルミの粉(切粉)も残留する。そこで、刃物の回転速度や送り速度を計算し、切粉が除去されるように設定する。こういった創意工夫を重ねることで、ようやくハウジングという部品の品質は保たれるのだ。  ところで、一般的に工場と聞くと、上述したような制御を行えば、あとは大量の機械が自動で製品の加工を行なっていくように想像するだろう。もちろん、そういった側面もある。が、製品の仕様変更、工場設備の変更、機械の老朽化、そして変動する人員体制に対応しつつ、品質や製造を納期通りに保つことが、現場ではとにかく大変だった。  ちなみに私は工場全体の改善班の一員として携わっていたのだが、特に機械の老朽化への対応には気を引き締めていた。これはなぜか?簡単にいえば、工場設備は日に日に変化するのだ。例を挙げると、たとえば包丁を毎日使用すると、刃が摩耗し、切れ味が落ちる。このような現象は工場機械のあらゆるところで起きる。包丁が摩耗して、野菜や肉が切れなくなるように、工場の機械も老朽化に伴い加工精度が落ちていく。結果的に製品の不良につながる。 もちろん、過去の経験を頼りに、問題を早めに対処できるケースもあるが、全てではない。仕様変更に応じた状況の変化や、初めて壊れる箇所など、無数に問題はでてくる。それが大量の機器を運用し、複雑な製品を製造する上での難しいポイントだ。  機械の老朽化には最善の注意が必要なことは、わたしもこの身を持って経験した。入社して3数年目のころ、新しいコンプレッサー製品の品質検査の担当に就いた。そんなある日、後工程で組み付け不可というクレームが起きた。理由は筐体に致命的なキズが入っていたためで、私が見落としてしまったのた。キズの原因は、検査する前段階の加工の際、製品が置かれる基準台に老朽化による傾きが生じていたことだ。  幸い、車に取り付ける前で大惨事は防げた。が、クレームが出る前に製造された製品すべてを廃棄するとなると、損失は数百万円を軽く超えた。そのため、在庫品数千台を一つずつ確認することになった。 決して仕事の手を抜いていたわけではない。品質検査チェック項目を適宜見ながら行った。私の言い分として、その新しいコンプレッサー製品は今までとは異なった構造で、クレームの出た部位は既存の検査項目に入っていなかったのだ。つまり、今回の基準台の老朽化に伴う傾きの誤差は、これまで重視されない箇所だった。さらに、出たキズも目を凝らさないとわからない所で「正直こんなの分からないよ」と言いたい気持ちだった。  そうは思いつつも、工場長や各部署の上役が集まりだした。あれこれと発生状況の調査やなぜ見逃したのか事情聴取され、事態は大きくなった。「下手したら減給、あるいは解雇か」そんなこと思いながら血の気がひいていた。その後は、毎日のように工場長がラインに訪れては、「人的な問題はなかったのか」と張りつきながらの確認が行われた。さらに品質検査動作の確認や作業手順の間違いの有無など、1週間にわたり、各所で念入りな調査も入った。 不幸中の幸いか、今回は私の人的問題というよりは、品質検査チェックシステムに根本的な問題があったと判断された。さらにキズがついた製品に関しては、各部署の経験豊富な上役が連携をとり、「後工程の修正でなんとかなるのはないか?」と工夫をひねり出し、なんとか難を免れられた。  のちに思い返すと、品質検査の本質が理解できていなかったように思う。新しいコンプレッサー製品の製造となると、重視すべき箇所も変わりうる。当然、それを想定して検査チェック項目の追加を上司に提言しなければならなかった。さらに、そのチェック項目箇所の追加に応じて、これまで対応する必要がなかった老朽化に伴う機械の誤差を、他部署も含めて確認すべきだった。こういった日々の改善を重ねながらノウハウを蓄積することで、生産ラインは次の課題に対応するレベルへと成長していくのだろう。 そして何より、自分の意識にも問題があった。品質検査の担当は、品質を守る最後の砦であるが、どこか品質に関して、「問題なんて出ないだろう」と、疎かに考えていた自分がいたことに気づいた。だからチェック項目のみの確認という、受動的な仕事しかできていなかったのだろう。表現は難しいが、「問題は必ず起きる。それを探し出す。」という攻めの心理こそ、検査では重要に感じた。 思い返すと、このあたりから「ここの老朽化は今でこそ重要ではないが、もしココの誤差が拡大したら、話は変わるのではないか?」といった、観察力や疑問を重ねる探求心も湧いてきたと記憶している。

サービス職業従事者
投稿日時:
2022年03月28日
投稿時の年齢:27
愛知
ドラマの時期:
2016年
--月
--日
文字数:4349

新しい場所、15歳で社会に出た環境での現実逃避

 知らない場所、知らない人、知らないルール。  今の自分から思えば「なにも感じる事すら出来ない」、そんな子供だったから、あの環境に順応する事が出来たのではないだろうか。  現実世界で現実逃避していた中学時代。  でも、社会に出てからも、その現実逃避はもう少し続いた。     会社は、今でいう派遣会社、三重県の車メーカ―工場に派遣される人たち。  当時は「派遣工」とか「外注」とかいわれていた。  住んだ場所は、雇ってもらった派遣会社の社宅、社宅といってもマンションの1階にある3DKの普通の部屋、そこには、既に当時30歳前後の菅野さん(男性仮名)が住んでいた。  菅野さんは、会社ではリーダー的な人で、何もしらない私になにかと世話をしてくれた優しい人。  繰り返しだが、当時本当に私は人に何かをしてもらって感謝するとか、あまり考えない子供だった。  朝食を作ってもらっても、夕食を作ってもらっても「もうしわけない」とかすら感じなかった。  又、菅野さんは仲間が多く、頻繁にバーベキューなど行っており、私もつれて行かれたが、「楽しい」、「美味しい」など、たいした反応もしなかったので、今思えば本当に面白味のない、かわいげのない、そっけない子供に見えた事だろう。

無職
投稿日時:
2022年03月28日
投稿時の年齢:47
東京
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:935

「人は信じてはいけない」と教えてくれた初恋の人

全ての人が初恋を経験するわけではないことに驚きを感じますが、私の知っている範疇では誰もが遅かれ早かれ初恋を経験しています。 私の初恋は幼稚園の年長さんの頃で、人と比べ早かったのかどうか比較したこともありません。もうかなり昔のことなので初恋の子の名前も顔すらも思い出せませんが、これはトラウマが記憶を消している・・・かもしれません。幼稚園には3年間通いました。思い出してみても覚えている記憶と言えば、尿意を我慢できずにお漏らしした記憶や、金魚の絵を描いてその出来栄えが人と違い過ぎるが故の嘲笑など、楽しかった記憶はありません。 そんな幼稚園時代の最後の年に好きになった子がいました。成人式を迎えるころまでは覚えていたような気がしますが、今ではまるで思い出せません。 幼稚園の同じクラスには下の名前が私と同じ男の子がいて、今は仮に私とその子を「太郎くん」としておきます。 ある日の帰りの時間になって初恋の子が泣いていて、担任のオバサンが事情を聞いている風な感じでした。心配しながらその様子を見ていたのですが、担任のオバサンが「太郎くんが帽子を引っ張ったせいで首が苦しくなったようです」と言ったので、幼稚園児だった私は「あの太郎がやりやがった」と、妙な正義感が沸き上がった・・・ような気がします。 そしてオバサンが初恋の子に犯人が誰かを聞くと、その子は私を指さしました。 そこからの記憶は残っておりません。 これが生まれて初めての「濡れ衣」というやつです。よりによって好きだった子が私を犯人にするとは、幼稚園児には回避のしようがないシチュエーションです。 その後、初恋の子は私とは別の小学校へ行きどうなったかは知りません。私が人から「ちょっと変かも」と思われるきっかけは”あれ”だったのかもしれません。

事務従事者
投稿日時:
2022年03月27日
投稿時の年齢:52
北海道
ドラマの時期:
1975年
--月
--日
文字数:910

反省からの気づき

誰しも「仕事を辞めたい」「この上司嫌い」など思ったことがあると思います。 私もその中の一人でした。 というのも、私の上司は自ら言った発言に対して責任を持たず、都合が悪くなると「そんな指示出していない」などその場から逃げるのです。 今回は、このような中で気付いたこと、感じたことを書きます。私は、高校卒業後某自動車製造メーカーに就職しました。 製造業なので、昼夜の仕事で2直24時間体制での仕事。新入社員の時から、その上司はパワハラする傾向で、無責任という噂が出回っていました。 5年経ち、最悪にもその上司と同じ直に。その日その日によって機嫌は変わり、威圧的な態度で仕事を押し付けてきて、到底上司とは思えない身振りでした。 そして、事件は起きました。 私は改善活動のリーダーを任され、生産率を向上させるために加工タイムの短縮の改善を行なっていた時のことです。 不運にも一つ不良を作ってしまいました。正直言うと改善には失敗がつきもので、しょうがない部分もあります。 ところがその上司は「なにやってんだ!ふざけんな」と一言・・・だけで終わらず蹴りを入れられ、同じ作業してもらうと、上司もやはり不良を作り・・しかしその上司が作った不良は暗闇に消え、私が作った不良だけ会社に報告されました。 暴力と隠蔽で、私は憤りを感じ、次の日重役が集まる全体の会議で私はその上司に対して「あなたを上司とは思いません」と一言。言ってやったぜ。ざまぁみろと思いましたが、同時にその上司の面子を潰してしまいました。 その帰り、車を運転しているとサイドミラー同士がぶつかるという事故を起こし、家では下の階の人が火事を起こすという事件が立て続けに起こり、ここまで不運が起きると、自身の行動を振り返ることに。 重役のいる会議であそこまで言う必要があったのか。もっと他の方法があったのでは。など考えさせられました。 結論、言いすぎたと感じ、謝罪することに。上司もここまで言われたのは初めてだったらしく、改心できたと言っていました。

サービス職業従事者
投稿日時:
2022年03月27日
投稿時の年齢:27
愛知
ドラマの時期:
2018年
--月
--日
文字数:1090

最後のプレゼント

私は、祖父母・両親・妹の6人家族。 その中でも、私はじいちゃんが一番大嫌いで、子供の頃はよく喧嘩していた。 今は社会人になり、振り返ると幼稚で嫉妬していたとつくづく思う。 私の実家は、お風呂を薪で沸かしたり、野菜やお米を育てている。 じいちゃんとの事件は幼稚園の頃・・・妹が産まれ、妹にぞっこん。 妹ばかり可愛がる姿に腹を立てていた。 私が先に見ていたテレビでも、妹が来たらチャンネルを急に変えられ、怒ると「年上なんだから譲りなさい」と毎回のようにじいちゃんから言われる。 普通だったら親から言われるようなことも、じいちゃんから言われ、鬱陶しく感じるように。 しかし、高校生になると私の良き理解者になり、好きになっていた。 それは、私のいろんな姿を小さい頃から見せていたからこそだ。 就職が決まり実家を離れることに、社会人になっても週に一回はじいちゃんに電話、近況を報告していた。そして、電話時の毎回の決め台詞「お前の結婚式まで俺は生きるぞ」 そんな中、仕事では上手くいかず、上司から罵倒され、ほんとに嫌になっていた。 仕事が嫌いで、楽しくなくて、やる気なんて微塵も起きなかった。 そして、2019年8月訃報が届いた。じいちゃんが亡くなったのだ。 仕事が上手くいかない中での訃報、悲しみに暮れた・・・ お葬式も終わり、普段の生活に戻った時、母からある話を聞かせてもらった。 じいちゃんが亡くなる前、薪割りをしている時のことだ。 朝から夕方まで、手にはマメができてもなお、ずっと薪割りをしている。 母が「そんな辛い作業、どうしてずっとできるの?」と聞いたそうだ。 すると、じいちゃんは一言「好きだから」 その5文字に感動し勇気をもらい、これはプレゼントだと思った。

サービス職業従事者
投稿日時:
2022年03月27日
投稿時の年齢:27
愛知
ドラマの時期:
2019年
8月
--日
文字数:922

社会経験を積んできたからこそ分かる学歴の大事さ

私は不幸とまでは感じていないものの育った家庭が不和で、学業で大事な高校在学時にいよいよ家庭は行き詰まり、私が高校3年のときに両親は離婚しました。 それまで何となく「大学に行く」ことが当たり前だと思っていたのですが、共通一次試験は受けたものの、2次試験へ行く費用すらありませんでした。私と妹2人を引き取った母の暮らしは厳しいものがあり、「働かない浪人生」でいることは許されませんでした。 ホテルでボーイとして働き、次の受験シーズンのころには諦めの心境と、それでも見栄をはってしまう下らない意地との狭間で揺れ動き、ホテルでの社員登用のお誘いも断って無職になりました。それから職を変えながら平成3年から税理士事務所で働きはじめ、今でも自分のアピールポイントである経理・税務の知識を身につけました。 あれから30年以上過ぎ、それなりに難しい仕事をこなしていても、大学進学を諦めたからこそ思えることがあります。よくネットなどで「学歴」について論争しているのを目にします。否定派からは「会社の新人が※※大学を卒業したのに仕事が出来ない」といった、ごく一部の事例で全てを否定するような視野の狭い意見が多いのですが、私から見れば呆れてしまうばかりです。 低い位置からスタートし何とかここまで辿り着いた私から言わせると、今の日本では高卒だとかなり不利なスタート地点から社会人生活を始めることは事実で、学歴を一部の事例で否定することは僻みに他なりません。 高い位置からスタート出来たら、下では経験できないことも多く、同じだけ努力しても身につくスキルには大きな差が出てしまいます。 下から這い上がってきたからこそ確信している現実です。別に悔やんでもいませんし、成り行きに身を任せてしまった結果なので、単なる真実を言っているに過ぎません。

事務従事者
投稿日時:
2022年03月26日
投稿時の年齢:52
北海道
ドラマの時期:
2015年
--月
--日
文字数:901

君がいてくれたから

数年前から恋人との同棲を開始しました。 当時、私はメンタルの調子を崩しておりうつのような状態で苦しみながら日々を送っていました。心が苦しく、悲しみに苛まれながら日々を過ごしていたところで彼から同棲を切り出されました。同棲を開始してからも、メンタルの調子が安定せずに相手に迷惑をかけてしまう日々が続いてしまっていました。 食事がろくに取れなかったせいでメンタルの調子もなかなか回復せず、ADHDなどの発達障害の診断を受けてしまったことからますます心を色々な人から閉ざしてしまっていました。 同棲相手に対してもそれは同じでした。 やることがないから、などと我儘を言ってしまって迷惑をかけたり、部屋をひっちゃかめっちゃかにして掃除もできなかったりと、相手に迷惑をかけてしまう日々が続いていました。 また、メンタルの起伏も異常なまでに激しくなってしまい、相手に怒鳴り散らしたり、泣き喚いたりなどパニックのような症状が止まらなかったり。 その度に罪悪感に苛まれてしまい、また泣き喚くをくり返す…そんな日々を繰り返してしまっていました。 それでも同棲相手は諦めることなく私を励ましながら、日々の生活を過ごして、乗り越えていってくれました。 その結果、私もうつは少しずつ回復していき、現在は毎日それなりに調子を取り戻していけました。

専門的・技術的職業従事者
投稿日時:
2022年03月26日
投稿時の年齢:26
埼玉
ドラマの時期:
2020年
10月
--日
文字数:663

ありがとうを忘れない。

「めっちゃコミュ力あるね」今となってはみんなから言われる。 私は、小学校の全校生徒21人、中学校34人。大分の小さい田舎町で育ち、生徒のほとんどは保育園からの幼馴染や顔見知りばかり。 この学校以外の人とは喋ったことはなく、コミュニケーション力の「コ」の字もなかった。私は田舎町を出たいのと、車好きだった為、愛知へ就職。 思い切って田舎を出たものの、知らない土地での生活、知らない人との会社生活で毎日がストレスだった。 そんな中、「バレーしてみない?」同じ会社のおばちゃんが声をかけてくれた。 私は中学、高校とバレーボールしていた為、気分転換で行ってみることに。 練習場へ行くと最初は人見知りを発動していたが、とても楽しく毎週練習に参加していくうち、自然に馴染めるようになってきた。 そんな時、一緒の練習に参加していた私と同年代くらいの人が「もっと若いチームで練習しない?」と誘われ、参加。 そこにはたくさん同年代の人がいて、人との会話が楽しくなり、人見知りも改善された。 今となっては、積極的に声をかけることでたくさんの友達ができ、仕事でも活かされている。

サービス職業従事者
投稿日時:
2022年03月26日
投稿時の年齢:27
愛知
ドラマの時期:
2014年
10月
8日
文字数:652

思い出の家

2年前のある日。私は御葬式に参列していました。 亡くなったのは売主様。 久しぶりにお会いした息子様達にお悔やみの言葉を伝え、 最後の言葉を棺に向かってかけることができました。 この売主様との出会いは、家族愛に溢れたとても暖かい気持ちを私に与えてくれました。 売主様と初めてお会いしたのは約5年前。 亡くなった御主人様名義の財産として誰が家を相続するのか、 という相談を受けたのが最初でした。 お子様は2人いらっしゃるので、全財産の半分を売主様(お母様)。 残りの半分をお子様が分けることになります。 特に揉める話ではなかったのですが、困ったことがありました。 家の価値がとても高く、家以外の財産がなかったのです。 この場合、家に住む売主様(お母様)が家を相続し、 その代わりにお子様2人に現金を渡すことなります。 しかし、家の資産価値が高いためお子様に渡せる現金が ありません。 (※例えば家の価値が1,000万ならお子様2人には500万となりますが、 5,000万円なら2,500万を現金で渡す必要があります。) 売主様が一旦全て相続しても良いのですが、 そうすると売主様が亡くなった時の相続税が 莫大になります。 残る手立ては一つ、思い出の家を売却しお金に換えるしかありません。 後日、家を売る覚悟ができました、と売主様から連絡がありました。

管理的業務従事者
投稿日時:
2022年03月25日
投稿時の年齢:40
愛知
ドラマの時期:
2020年
--月
--日
文字数:1265

家を買うことと家に住みつづけること

私が不動産会社の支店長だった時、ある御客様が「家を買いたい」と来店されました。収入や資金の準備は十分。銀行の担当者も全く問題ないと言っており、御夫婦も安心して家探しをしていました。 新築戸建をベースに色々な物件を内覧し見学をしている中、ふと御夫婦からよく出る言葉が気になりました。 「子供がきたら」という言葉です。 「子供ができたら」ではなく。 来店時、御夫婦にお子様はいらっしゃいませんでした。 将来の話かと思っていましたが、 内覧が終わり商談スペースで話を聞くと 「養子」を受けられるとのことでした。 私は初めて養子を受けられる御客様に出会いましたが、 既に縁組はできており後は手続きの進行待ちという状態でした。 私は御夫婦に尋ねました。「お子様の教育計画はどのようにお考えですか?」 ファイナンシャルの言葉には、人生の三大出費という言葉があります。 「住宅費用」「老後費用」そして「教育費」です。 例えばお子様1人が文系大学を卒業した場合、トータル教育費は約1,800万円かかります。 6年制の理系だと2,000万円を超えます。 御夫婦はしっかりとした教育環境を与えてあげたいという希望があり、 一旦家探しは止めて資金計画(シュミレーション)を行いました。 その結果、いま家を購入すると大学入学時点で貯金がマイナスになり、 破産することが分かりました。 マイホームを夢見ていた御夫婦でしたが、 なくなく人生プランを変更することになりました。 家を購入する夢よりも、十分な教育環境を整えるという もう一つの夢を優先することにしました。

管理的業務従事者
投稿日時:
2022年03月25日
投稿時の年齢:40
愛知
ドラマの時期:
2020年
--月
--日
文字数:884

中卒で社会に出るという環境

 今、だいたいの子供は当たり前に高校に入学し、大学に進学しているように思われる。  私の時代は、今ほど進学率が高かったわけではないが、言うほど低いわけではなかった。  当時、中学一学年が300人程度、その中で高校に進学せずに、中卒で働き始める子供は10人未満だったろうか。  だいたいの理由は、勉強が嫌いか(教育)、家が貧乏(貧困)の2種類なので、中卒で働く子供は「普通」では無い存在だったのかもしれない。  この、色々な事情があろうこの10人未満の中に私もいたのであった。  私は小学生の時には、すでに勉強が嫌いで授業をまともに聞いていられなかった。  勉強が面白く感じなかった事は今でも鮮明に思えている。  そのまま、勉強が嫌いなまま中学にあがったが、もちろん成績が上がるわけでも無く、運動も得意ではない、そうなると周りにもバカにされる。学校も休みがちになり、そのまま登校拒否。  そのまま3年になり、ダメもとで受けた底辺の高校にも落ちた。  そんな状況でも、当時は特に何も考えてはいなかったように思う。  今になって思えば、学級主任の先生は、毎日電話くれたり、夜に連れ出してくれたりしたものだ。(進路も心配してくれて、調理の専門学校を紹介してくれた。)  でも、そんな他人の親切すら感じる事も出来ない悲しい子供だった事に、今ではただ恥じるのみである。  ようするに、考える事すら放棄した子供だった。

無職
投稿日時:
2022年03月24日
投稿時の年齢:47
東京
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:1250

薄々ダメだと気付いていた先へ転職して思うこと

もう50歳を超えてから過去を振り返ると、人生の分岐点と言えることがいくつも存在しているものです。今も会社員として働いていますが、ふとした瞬間「あの時、別の選択をしていたら今頃どんな人生を歩んでいただろうか」と思うことがあります。 30歳の私が下した、上手くいかないことを感じていた転職についてです。「うちに来ないか?」とクライアントから誘われる話は珍しい話ではありませんが、そのタイミングが職場に感じるちょっとした不満とシンクロすることで、正常な判断力が失われることがあります。 今思えば転職が目的ではなく手段になってしまった瞬間です。当時私が住んでいた地方都市で働いていた職場は、少なくともその街の相場より高い給料だったのですが、心は「ここを辞めて都会に行く」ことで支配されてしまい、ついに踏み切りました。 見て見ぬふりをしていたことですが、転職した会社は絵にかいたような「自転車操業」で、未来への展望も考えられぬまま3年と持たず破綻しました。大袈裟かもしれませんが、気持ちの中は「すべて失った」ような喪失感を抱え、再び地元へ帰り一度は仕事に就いたものの、なぜかしら帰った地元の居心地は最悪でした。 恐らく3年前に自分で下した判断の誤りを勝手に恥じていた結果です。ほどなく出稼ぎに行き、一度挑戦した都会へ戻ってきました。

事務従事者
投稿日時:
2022年03月23日
投稿時の年齢:52
北海道
ドラマの時期:
2007年
10月
25日
文字数:786

長男の成長

今年、長男が小学校の卒業を迎えました。 この12年間は私達夫婦は長男の成長と共に過ごした人生でした。これからも続いていく人生の軌跡ですが、小学校卒業という一つの節目を無事に迎えることができました。初めての育児で初めての教育。思えば手探りの12年間でした。長男が3歳くらいになるまでは、私達夫婦共に平均睡眠時間が2時間くらいしかなく、とても大変だったのを覚えています。一日中泣いているイメージしか今はありません。。。言葉の話し始めも遅く、歩き始めも一人よりも遅い。とてもマイペースな子供だったと記憶しています。それが保育園に入る直前。急激に成長を始めました。絵やバスケ、音楽。色々な事に興味を持つようになり、私達夫婦のどちらにも似ていない感性を持っていました。 私が親として伝えられる事柄の一つに、「勉強との向き合い方」がありました。「勉強は何のためにするのか」それは、将来やりたいことが見つかり、それを仕事にしたいと思った時。それがどんなジャンルであっても実現するためだと伝え続けました。 ゲームクリエイターになりたいのなら、作るための基礎知識として算数が必要。色々な人と相談しながら作るのだから、国語と英語は必要。そして沢山の人が面白い!と思うゲームを作るためには、難しいことを面白おかしく表現する方法が必要。 長男が小学一年生になった時から、ずっと勉強との向き合い方を伝え続けていました。

管理的業務従事者
投稿日時:
2022年03月23日
投稿時の年齢:40
愛知
ドラマの時期:
2022年
--月
--日
文字数:880

優秀な兄との関係

私は兄と二人兄弟。兄は4つ上です。 中学生までの私の人生は、兄と比較される人生でした。 兄は超がつく天才。しかもスポーツも万能。 私は全てが平均、という絵に描いたような引き立て役でした。 小学校も中学校も、私は名前で呼ばれることよりも「〇〇の弟」と言われることが多く、「〇〇の弟なのに」というフレーズを聞くことに慣れてしまう。そんな環境でした。 自慢の兄ではありましたがそういう環境もあって素直になれず、優しくしてくれる兄が嫌いでした。そんな中、私と兄の関係が大きく変わる出来事がありました。 それは、私が高校に入学したタイミングです。兄は超進学校。私は中くらいの高校に進学しましたが、「〇〇の弟」というキャッチフレーズから解放された私はとても嬉しく感じていたのを覚えています。そんな中、高校の制度を利用しオーストラリアへ交換留学に行きました。 オーストラリアでは語学学習がメインでしたが、どちらかというと文化の違いを知ることが目的となっていました。当時はまだ観光できたエアーズロックを観光したりする中、一人のイスラム人高校生と仲良くなりました。この人は日本語が少し話せるので、すぐに意気投合。留学期間中、一緒に行動することが多く色々なことを教えてもらいました。 そのイスラム人が、私の兄への考え方を変えてくれました。 キッカケは、その人のイスラム教に関する考え方を知った時です。 イスラム教にはラマダンという、断食の期間があります。後から知ったことですが、断食といっても絶食といういうわけではなく質素な暮らしを心掛けなさいというイメージが近いようです。この期間中に、このイスラム人高校生はバクバクとカレーを食べていたのです。 「今食べていいの?断食は?」 当然の質問を私はしましたが、イスラム人高校生はカレーを食べながらこう返しました。 「イスラム教の考え方は『生き方のベース』みたいなもの。ブレない軸だから断食を守るとか守らないとかはあまり重要じゃない」 今思うと、ただカレーを食べたかっただけのような気もしましたが、当時兄の悩みが解放されたばかりの私には、兄への考え方が変わるキッカケになりました。

管理的業務従事者
投稿日時:
2022年03月22日
投稿時の年齢:40
愛知
ドラマの時期:
1997年
--月
--日
文字数:1248

実家への想い

私は不動産の仕事をしています。 家を売って欲しいという依頼を受け、提案をするのが仕事ですが、売主様に必ずする質問があります。 「この家を売ることには、御家族は賛成されていますか?」 所有者が売ると決めていれば売ることができるのが不動産。しかし私はあえてこの質問をするようにしています。 それは、私が不動産の仕事を始めて最初の頃に経験した、忘れられない経験があるからです。不動産を始めてすぐに、実家を売って欲しいという相談をいただく機会がありました。 依頼者は成人した息子様がお二人。産まれてた時からずっとこの家に住んでいたが、もう子育てが終わったので夫婦で小さいマンションに引越ししたいという依頼でした。 家を確認し査定額の提案を行い、家の販売をスタート。立地が良かったということもありすぐに買い手は見つかりました。 購入者の資金も用意でき、順調に契約は完了。売主様が「そろそろ引越しの準備をしないとね」と言っていた時。思いもよらぬことが起きました。 息子様お二人が、とてもお怒りになって家に来られました。 「なんでこの家を売ったんだ!」 家の残置物確認を売主様と行っていた時に息子様が来られ、そう仰っていました。 もうこんな大きな家は必要ないこと、小さなマンションに住んだ方が都合が良いことを売主様は説明されていましたが、息子様達は御納得いかない御様子。 暫く沈黙の時間が続いたあと、息子様の一人が言いました。 「俺たちにとっては大事な実家だったんですよ。」 私はこの瞬間、自分の実家を思い出しました。 もし自分の実家がなくなり、御両親が新しい場所に住んだとして、そこは私にとっての実家になるのだろうか。「両親がいる場所が実家」という考え方もありますが、そんな簡単に割り切れるものではありません。 何故なら、思い出は全て「その家」にあるからです。 私は売主様の御要望に応えるということには成功しましたが、売主様の御家族全員を幸せにする提案という意味では、大失敗をしていました。 その後、契約通りに家は売却。後味の悪さを感じながらも、御夫婦はマンションを購入し引越しをされました。

管理的業務従事者
投稿日時:
2022年03月21日
投稿時の年齢:40
愛知
ドラマの時期:
2013年
--月
--日
文字数:1171

人生を変えた海外旅行

就職活動も終わり卒業論文以外の単位を取り終えた私は、卒業までを東南アジアに旅行へいくことを決めていました。社会人になり忙しくなる前に海外で生活してみたいと思うようになっていたわけですが、「運よく人生の目標が見つかる、なんてことがあればいいな」という甘い気持ちもこめていました。 就職氷河期に内定をいただいてはいましたが、あと半年で社会人になるということに漫然とした不安があり、何か行動しておきたいという気持ちに押され一人旅をスタートしました。最初の国、ラオスについた私は慣れないタイ語を使い、首都のヴィエンチャンに向かいました。そこで私が感じたのは、ただただその日を一生懸命に生きる人々の姿でした。必死に生きているわけではなく、その日をただ楽しみ、一生懸命に働き、笑っていきるラオスの人々。私が知っている日本の社会人からは一度も感じたこともない人生を謳歌している人達の生き方でした。 その後、東南アジアをベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマーと陸路で旅行を続けていきましたが、どの国にも共通しているのが「毎日を一生懸命に生きる」という生き方でした。特に私が大きな衝撃を感じた経験が、お金に対する考え方の違いです。 当時の私は、お金はある方が当然良くて貯金は多い方が当然良いと思っていました。20年近く経った今もそう思っています。しかし、彼らはお金よりも人の繋がりを大事にしていました。他の観光客とは違い全くお金を持っていなさそうな貧乏学生の私に、食事や宿を提供していくれる人もいました。地元の人に呼ばれ、タイ語も英語も分からないのに楽しそうに話しかけてくれる人達に、「こんな風に生きていける国もあるんだ!」と思うようになりました。 そう、私が旅行をスタートする前に感じていた「運よく人生の目標が見つかる、なんてことがあればいいな」という甘い考えが成就した旅行になったのです! 日本に帰ってからもこんな気持ちを大事にしていきたい、そう思っていた時に事件が起きました。 2001年9月11日アメリカで同時多発テロ事件が起きました。 当時、帰国する便の手配をしている最中にミャンマーでTV放送があり、この事件を知りました。沢山の人が亡くなったという報道にミャンマーの人も悲しみ、何かできることがないのかと話す人もいました。 当時の私は事件の大きさに実感がなく、ただ遠くの国で大変な事件があったという気持ちでいました。そしてそのまま、日本へ帰国する飛行機に乗りました。

管理的業務従事者
投稿日時:
2022年03月20日
投稿時の年齢:40
愛知
ドラマの時期:
2001年
9月
--日
文字数:1467

初めてのバイオリン。

私がバイオリンを始めたのは24歳のとき。大人になってから始めた習い事だ。 幼い頃からクラシック音楽が大好きだった私は、いつしか自分でも楽器を奏でてみたいと思うようになった。ピアノを習ってみたいと思ってはいたが、少々厳しい家だったこともあり、両親には言い出せずにいた。 習い事ができないなら、吹奏楽部に入りたい!そう思っていたのだが、部活で帰宅が遅くなり、勉強ができなくなるという理由で親に反対され、憧れていた吹奏楽部への入部は叶わなかった。 社会人になってしばらくした頃、ふと子供のときに楽器に憧れていたことを思い出した。働き出した今なら、誰の目を気にすることもなく、自分のお金で習い事をすることができるではないか。そう気付いた私は、楽器を習ってみたいという幼き日の自分の夢を叶えることにした。 そのときに私が選んだ楽器が、バイオリンだった。学校の授業以外で初めて手にした、私だけの楽器。「勉強で忙しいから」「親が厳しいから」「お金がないから」。そんな理由で諦めていた夢を、とうとう自分の手で叶えることができたのだ。 買ったばかりのバイオリンケースを背負って、地下鉄に乗ったときのことは、今でも鮮明に覚えている。初めてランドセルを背負ったときのような、誇らしいような照れ臭いような気持ちになった。あのときの嬉しかった気持ちは、今でも忘れられない。 この日から、私のバイオリン修行が始まった。 仕事終わりに片道40分かけて、レッスンに通った。自宅では、指の動きや譜読みの練習も欠かせない。仕事に疲れていて、大変なこともあるけれど、楽しくて充実した時間だ。 楽譜を読みながら、左手で指板を抑え、右手で弓を弾く。感覚を研ぎ澄ませて、音と指先に集中する時間は、心地よい緊張感に包まれる。バイオリンに集中していると、心が癒され、頭がクリアになっていく。全身の細胞が喜んでいるようで、あぁ私はやっぱり音楽が好きなんだなぁと、改めて感じることができるのだ。 仕事に追われる、代わり映えのない毎日に、バイオリンは彩りを与えてくれた。あの時バイオリンを始める決断をして、本当によかったと思う。 引っ越しを機に、レッスンはやめてしまったけれど、今でもバイオリンは私の大切な相棒だ。

主婦
投稿日時:
2022年03月13日
投稿時の年齢:31
福岡
ドラマの時期:
2015年
10月
--日
文字数:1430
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今月のピックアップ

はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト

 私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。  ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。  まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。  そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。  その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。  正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。  ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。  それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。  例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。  そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。  では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。  当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。  話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。  そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。  たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。  ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。  実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。  そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。  仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。  まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。  素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。  また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。  さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。  このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。  夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。  そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)  

無職
投稿時の年齢: 47
東京
投稿日時:
2022年03月28日
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:2532

会計事務所は税金を安くしてくれるところという誤解

今も法人の経理として働いている私の仕事上の原点は20代のころから働き始めた会計事務所時代です。あまり深く考えず知り合いのつてで入職したのですが、「手に職」といえる知識を得られたことを思うと当時の上司や同僚には感謝しています。 色々な経験を積んだ会計事務所時代ですが、そこで見た中小企業主や個人事業主の、少なくとも「税金」に対する考え方には驚くばかりでした。基本的に税金は「払いたくないもの」なんです。個人事業主といっても業種は様々で、第一次産業の農業・漁業や開業医・飲食店・建設業など多岐にわたります。その中でも小規模な事業者になるほど確定申告の時期に「そんな税金払えないし払いたくない」などと、およそ法律を守ろうとする気のない発言を連発します。 第一次産業の方に至っては「税金やすくするのにあんたらに金払ってんだろうが!」と言われます。 この傾向は零細法人でも同じで、ある会社の社長さんは「あいつら(税務署のこと)、こっちが倒産しそうでヒイヒイ言っているときには何の手助けもしねーで、ちょっと儲かったら税金くれって何なんだ!」と言われていましたが、実際その通りです。 勤め人をしていると分からない苦労と、国に対する不信感が「税金」という一点で見えやすくなるものなのです。 少なくとも私が知っている範囲で言うならば、会計事務所選びは納税者目線で考えてくれるところに依頼すべきです。私も心掛けていましたが、節税という名のギリギリの勝負をしていたのも、苦労している納税者のためを思ってのことでした。

事務従事者
投稿時の年齢: 52
北海道
投稿日時: 2022年03月30日
ドラマの時期:
1998年
--月
--日
文字数:812

子供が一人で行う役所の手続き

 中学を卒業して15歳で岩手県から一人で三重県に就職したが、働きはじめて社長に「役所」に行って「国保」の手続きをしてこいと言われた。  もちろん、当時の私は、最初何言われたか分からなかった。  「国保」とは国民健康保険の事だ。  私が就職した会社は有限会社だったせいなのか、社会保険ではなく国民健康保険だったと思う。  とはいえ、当時は「国保」でも1割負担で通院出来たので国民健康保険でも社会保険でも大した問題ではなかった。  社長から、「役所で手続きしてこい」と言われた時の事はうっすらとしか覚えていないが、役所での事は良く覚えている。  突然だが、当時の私は身長が低く幼かった。  なので、役所に入っても窓口が高く、話を聞くために窓口の向こうから係の人がこっちまで来てくれた。  社長に言われた必要な物は持って行った。  国保の手続き上問題はなかったと思うが、子供にしか見えない子が役所に一人で訪れて、国民健康保険加入の手続きをしたいと言った時、なんとも言えない顔をされた気がする。又はそんな雰囲気になった感じがする。  あと、うっすらとだが、アメをくれたのは覚えている。

無職
投稿時の年齢: 47
東京
投稿日時: 2022年03月30日
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:677

ふとした瞬間に見られる育ちの良し悪し

歴史の浅い土地で生まれ育った私は、俗に言う「良家」という存在とは無縁で大人になりました。今の世の中に身分というものは存在していませんが、ごく一部の上流階級では今でも家の格式なるものがあると噂されています。 良家ではないとしても、育ちのよい人というものはいるもので、あるときそんな人とすれ違い驚いたことがあります。 もう10年も前になりますが、私は仲の良い友人夫婦と鎌倉旅行へ行きました。鎌倉には昔から親戚が住んでいて縁がなかったわけではないのですが、その時初めての鎌倉でした。 憧れの江ノ電へ乗り江の島などを楽しんだ初日を終え、2日目のランチである蕎麦割烹を訪れたときちょっとした「驚き」に遭遇しました。 食事を終え建物の玄関へ向かうと、靴を入れている場所の前に上品そうな老齢のご婦人がスツールに腰かけていました。靴を取り出したかったので「すいません、その下から靴を出したいのですが」と声を掛けました。 すると上品そうなご婦人が少し驚いた表情をして「ごめんあそばせ」と言ってそこを避けてくれました。 生まれて初めての「ごめんあそばせ」です。この言葉が現実に使われていることに少し感動を覚えました。普段から使っている言葉ではないと咄嗟には出ないものです。人によってはどうでも良いような瞬間でしょうが、自分に足りないものが見えたような気がしました。

事務従事者
投稿時の年齢: 52
北海道
投稿日時: 2022年03月29日
ドラマの時期:
2012年
2月
--日
文字数:693

カーコンプレッサー製造現場で経験した苦い失敗と成功体験

 幼少期より私は機械に触れることが多かった。農家だった実家はトラクターや稲刈り機、チェーンソー、草刈機などの農機器が沢山あり、壊れたら自分で修理をし、また使うの繰り返し。その影響もあり、工業高校へ進路を決めた。そこには沢山の工作機械があり、「ものづくり」の楽しさを肌で感じながら工業系の専門科目を学んだ。卒業後は、某自動車部品をつくる会社へ就職。カーコンプレッサー用部品の製造に改善班の一員として携わり、実に7年間勤めた。現在は物流クレーンをメンテナンスする仕事をしているが、最初の自動車部品製造会社での数々の体験が印象に残っており、今となっては多くのことを学ばせてもらったと感じる。  ちなみに、カーコンプレッサーとは名前の通り、自動車に載っているコンプレッサー(空気圧縮機)のことだ。コンプレッサーが生み出す圧縮空気のエネルギーを利用することで、空気の加熱あるいは冷却を行い、車の冷暖房(エアコン)機能を担う。実は日本で車にエアコンが標準装備されるようになったのは、1970年後半〜1980年代と歴史は浅い。しかし、今となっては必需品で、使ったことがない人はいないだろう。では、車内環境を快適に保つこのカーコンプレッサーのどの部品の製造に携わっていたのか説明していく。  私が配属された工場では、カーコンプレッサーのハウジングという部品を製造していた。ハウジングとは、コンプレッサーの外枠のアルミ素材で作られた筐体部品のことを指す。  工場は国内でも屈指の規模。24時間体制で稼働しており、1日に約1200台のハウジングを製造していた。もちろん製造量だけでなく、安定した品質を維持するため、様々な取り組みもされていた。  たとえばコンプレッサーのような機械は1/100ミリ、部位によっては1/1000ミリ単位の精度の加工が求められる。しかし、筐体はアルミ製のため、熱による膨張や凝縮の影響が大きく出てしまう。対策として、加工ズレが生じないように、機械とアルミの温度をこまめに管理した。  また、ハウジングの細部を形作る切削加工のあとは、アルミの粉(切粉)も残留する。そこで、刃物の回転速度や送り速度を計算し、切粉が除去されるように設定する。こういった創意工夫を重ねることで、ようやくハウジングという部品の品質は保たれるのだ。  ところで、一般的に工場と聞くと、上述したような制御を行えば、あとは大量の機械が自動で製品の加工を行なっていくように想像するだろう。もちろん、そういった側面もある。が、製品の仕様変更、工場設備の変更、機械の老朽化、そして変動する人員体制に対応しつつ、品質や製造を納期通りに保つことが、現場ではとにかく大変だった。  ちなみに私は工場全体の改善班の一員として携わっていたのだが、特に機械の老朽化への対応には気を引き締めていた。これはなぜか?簡単にいえば、工場設備は日に日に変化するのだ。例を挙げると、たとえば包丁を毎日使用すると、刃が摩耗し、切れ味が落ちる。このような現象は工場機械のあらゆるところで起きる。包丁が摩耗して、野菜や肉が切れなくなるように、工場の機械も老朽化に伴い加工精度が落ちていく。結果的に製品の不良につながる。 もちろん、過去の経験を頼りに、問題を早めに対処できるケースもあるが、全てではない。仕様変更に応じた状況の変化や、初めて壊れる箇所など、無数に問題はでてくる。それが大量の機器を運用し、複雑な製品を製造する上での難しいポイントだ。  機械の老朽化には最善の注意が必要なことは、わたしもこの身を持って経験した。入社して3数年目のころ、新しいコンプレッサー製品の品質検査の担当に就いた。そんなある日、後工程で組み付け不可というクレームが起きた。理由は筐体に致命的なキズが入っていたためで、私が見落としてしまったのた。キズの原因は、検査する前段階の加工の際、製品が置かれる基準台に老朽化による傾きが生じていたことだ。  幸い、車に取り付ける前で大惨事は防げた。が、クレームが出る前に製造された製品すべてを廃棄するとなると、損失は数百万円を軽く超えた。そのため、在庫品数千台を一つずつ確認することになった。 決して仕事の手を抜いていたわけではない。品質検査チェック項目を適宜見ながら行った。私の言い分として、その新しいコンプレッサー製品は今までとは異なった構造で、クレームの出た部位は既存の検査項目に入っていなかったのだ。つまり、今回の基準台の老朽化に伴う傾きの誤差は、これまで重視されない箇所だった。さらに、出たキズも目を凝らさないとわからない所で「正直こんなの分からないよ」と言いたい気持ちだった。  そうは思いつつも、工場長や各部署の上役が集まりだした。あれこれと発生状況の調査やなぜ見逃したのか事情聴取され、事態は大きくなった。「下手したら減給、あるいは解雇か」そんなこと思いながら血の気がひいていた。その後は、毎日のように工場長がラインに訪れては、「人的な問題はなかったのか」と張りつきながらの確認が行われた。さらに品質検査動作の確認や作業手順の間違いの有無など、1週間にわたり、各所で念入りな調査も入った。 不幸中の幸いか、今回は私の人的問題というよりは、品質検査チェックシステムに根本的な問題があったと判断された。さらにキズがついた製品に関しては、各部署の経験豊富な上役が連携をとり、「後工程の修正でなんとかなるのはないか?」と工夫をひねり出し、なんとか難を免れられた。  のちに思い返すと、品質検査の本質が理解できていなかったように思う。新しいコンプレッサー製品の製造となると、重視すべき箇所も変わりうる。当然、それを想定して検査チェック項目の追加を上司に提言しなければならなかった。さらに、そのチェック項目箇所の追加に応じて、これまで対応する必要がなかった老朽化に伴う機械の誤差を、他部署も含めて確認すべきだった。こういった日々の改善を重ねながらノウハウを蓄積することで、生産ラインは次の課題に対応するレベルへと成長していくのだろう。 そして何より、自分の意識にも問題があった。品質検査の担当は、品質を守る最後の砦であるが、どこか品質に関して、「問題なんて出ないだろう」と、疎かに考えていた自分がいたことに気づいた。だからチェック項目のみの確認という、受動的な仕事しかできていなかったのだろう。表現は難しいが、「問題は必ず起きる。それを探し出す。」という攻めの心理こそ、検査では重要に感じた。 思い返すと、このあたりから「ここの老朽化は今でこそ重要ではないが、もしココの誤差が拡大したら、話は変わるのではないか?」といった、観察力や疑問を重ねる探求心も湧いてきたと記憶している。

サービス職業従事者
投稿時の年齢: 27
愛知
投稿日時: 2022年03月28日
ドラマの時期:
2016年
--月
--日
文字数:4349

新しい場所、15歳で社会に出た環境での現実逃避

 知らない場所、知らない人、知らないルール。  今の自分から思えば「なにも感じる事すら出来ない」、そんな子供だったから、あの環境に順応する事が出来たのではないだろうか。  現実世界で現実逃避していた中学時代。  でも、社会に出てからも、その現実逃避はもう少し続いた。     会社は、今でいう派遣会社、三重県の車メーカ―工場に派遣される人たち。  当時は「派遣工」とか「外注」とかいわれていた。  住んだ場所は、雇ってもらった派遣会社の社宅、社宅といってもマンションの1階にある3DKの普通の部屋、そこには、既に当時30歳前後の菅野さん(男性仮名)が住んでいた。  菅野さんは、会社ではリーダー的な人で、何もしらない私になにかと世話をしてくれた優しい人。  繰り返しだが、当時本当に私は人に何かをしてもらって感謝するとか、あまり考えない子供だった。  朝食を作ってもらっても、夕食を作ってもらっても「もうしわけない」とかすら感じなかった。  又、菅野さんは仲間が多く、頻繁にバーベキューなど行っており、私もつれて行かれたが、「楽しい」、「美味しい」など、たいした反応もしなかったので、今思えば本当に面白味のない、かわいげのない、そっけない子供に見えた事だろう。

無職
投稿時の年齢: 47
東京
投稿日時: 2022年03月28日
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:935

「人は信じてはいけない」と教えてくれた初恋の人

全ての人が初恋を経験するわけではないことに驚きを感じますが、私の知っている範疇では誰もが遅かれ早かれ初恋を経験しています。 私の初恋は幼稚園の年長さんの頃で、人と比べ早かったのかどうか比較したこともありません。もうかなり昔のことなので初恋の子の名前も顔すらも思い出せませんが、これはトラウマが記憶を消している・・・かもしれません。幼稚園には3年間通いました。思い出してみても覚えている記憶と言えば、尿意を我慢できずにお漏らしした記憶や、金魚の絵を描いてその出来栄えが人と違い過ぎるが故の嘲笑など、楽しかった記憶はありません。 そんな幼稚園時代の最後の年に好きになった子がいました。成人式を迎えるころまでは覚えていたような気がしますが、今ではまるで思い出せません。 幼稚園の同じクラスには下の名前が私と同じ男の子がいて、今は仮に私とその子を「太郎くん」としておきます。 ある日の帰りの時間になって初恋の子が泣いていて、担任のオバサンが事情を聞いている風な感じでした。心配しながらその様子を見ていたのですが、担任のオバサンが「太郎くんが帽子を引っ張ったせいで首が苦しくなったようです」と言ったので、幼稚園児だった私は「あの太郎がやりやがった」と、妙な正義感が沸き上がった・・・ような気がします。 そしてオバサンが初恋の子に犯人が誰かを聞くと、その子は私を指さしました。 そこからの記憶は残っておりません。 これが生まれて初めての「濡れ衣」というやつです。よりによって好きだった子が私を犯人にするとは、幼稚園児には回避のしようがないシチュエーションです。 その後、初恋の子は私とは別の小学校へ行きどうなったかは知りません。私が人から「ちょっと変かも」と思われるきっかけは”あれ”だったのかもしれません。

事務従事者
投稿時の年齢: 52
北海道
投稿日時: 2022年03月27日
ドラマの時期:
1975年
--月
--日
文字数:910

反省からの気づき

誰しも「仕事を辞めたい」「この上司嫌い」など思ったことがあると思います。 私もその中の一人でした。 というのも、私の上司は自ら言った発言に対して責任を持たず、都合が悪くなると「そんな指示出していない」などその場から逃げるのです。 今回は、このような中で気付いたこと、感じたことを書きます。私は、高校卒業後某自動車製造メーカーに就職しました。 製造業なので、昼夜の仕事で2直24時間体制での仕事。新入社員の時から、その上司はパワハラする傾向で、無責任という噂が出回っていました。 5年経ち、最悪にもその上司と同じ直に。その日その日によって機嫌は変わり、威圧的な態度で仕事を押し付けてきて、到底上司とは思えない身振りでした。 そして、事件は起きました。 私は改善活動のリーダーを任され、生産率を向上させるために加工タイムの短縮の改善を行なっていた時のことです。 不運にも一つ不良を作ってしまいました。正直言うと改善には失敗がつきもので、しょうがない部分もあります。 ところがその上司は「なにやってんだ!ふざけんな」と一言・・・だけで終わらず蹴りを入れられ、同じ作業してもらうと、上司もやはり不良を作り・・しかしその上司が作った不良は暗闇に消え、私が作った不良だけ会社に報告されました。 暴力と隠蔽で、私は憤りを感じ、次の日重役が集まる全体の会議で私はその上司に対して「あなたを上司とは思いません」と一言。言ってやったぜ。ざまぁみろと思いましたが、同時にその上司の面子を潰してしまいました。 その帰り、車を運転しているとサイドミラー同士がぶつかるという事故を起こし、家では下の階の人が火事を起こすという事件が立て続けに起こり、ここまで不運が起きると、自身の行動を振り返ることに。 重役のいる会議であそこまで言う必要があったのか。もっと他の方法があったのでは。など考えさせられました。 結論、言いすぎたと感じ、謝罪することに。上司もここまで言われたのは初めてだったらしく、改心できたと言っていました。

サービス職業従事者
投稿時の年齢: 27
愛知
投稿日時: 2022年03月27日
ドラマの時期:
2018年
--月
--日
文字数:1090

最後のプレゼント

私は、祖父母・両親・妹の6人家族。 その中でも、私はじいちゃんが一番大嫌いで、子供の頃はよく喧嘩していた。 今は社会人になり、振り返ると幼稚で嫉妬していたとつくづく思う。 私の実家は、お風呂を薪で沸かしたり、野菜やお米を育てている。 じいちゃんとの事件は幼稚園の頃・・・妹が産まれ、妹にぞっこん。 妹ばかり可愛がる姿に腹を立てていた。 私が先に見ていたテレビでも、妹が来たらチャンネルを急に変えられ、怒ると「年上なんだから譲りなさい」と毎回のようにじいちゃんから言われる。 普通だったら親から言われるようなことも、じいちゃんから言われ、鬱陶しく感じるように。 しかし、高校生になると私の良き理解者になり、好きになっていた。 それは、私のいろんな姿を小さい頃から見せていたからこそだ。 就職が決まり実家を離れることに、社会人になっても週に一回はじいちゃんに電話、近況を報告していた。そして、電話時の毎回の決め台詞「お前の結婚式まで俺は生きるぞ」 そんな中、仕事では上手くいかず、上司から罵倒され、ほんとに嫌になっていた。 仕事が嫌いで、楽しくなくて、やる気なんて微塵も起きなかった。 そして、2019年8月訃報が届いた。じいちゃんが亡くなったのだ。 仕事が上手くいかない中での訃報、悲しみに暮れた・・・ お葬式も終わり、普段の生活に戻った時、母からある話を聞かせてもらった。 じいちゃんが亡くなる前、薪割りをしている時のことだ。 朝から夕方まで、手にはマメができてもなお、ずっと薪割りをしている。 母が「そんな辛い作業、どうしてずっとできるの?」と聞いたそうだ。 すると、じいちゃんは一言「好きだから」 その5文字に感動し勇気をもらい、これはプレゼントだと思った。

サービス職業従事者
投稿時の年齢: 27
愛知
投稿日時: 2022年03月27日
ドラマの時期:
2019年
8月
--日
文字数:922

社会経験を積んできたからこそ分かる学歴の大事さ

私は不幸とまでは感じていないものの育った家庭が不和で、学業で大事な高校在学時にいよいよ家庭は行き詰まり、私が高校3年のときに両親は離婚しました。 それまで何となく「大学に行く」ことが当たり前だと思っていたのですが、共通一次試験は受けたものの、2次試験へ行く費用すらありませんでした。私と妹2人を引き取った母の暮らしは厳しいものがあり、「働かない浪人生」でいることは許されませんでした。 ホテルでボーイとして働き、次の受験シーズンのころには諦めの心境と、それでも見栄をはってしまう下らない意地との狭間で揺れ動き、ホテルでの社員登用のお誘いも断って無職になりました。それから職を変えながら平成3年から税理士事務所で働きはじめ、今でも自分のアピールポイントである経理・税務の知識を身につけました。 あれから30年以上過ぎ、それなりに難しい仕事をこなしていても、大学進学を諦めたからこそ思えることがあります。よくネットなどで「学歴」について論争しているのを目にします。否定派からは「会社の新人が※※大学を卒業したのに仕事が出来ない」といった、ごく一部の事例で全てを否定するような視野の狭い意見が多いのですが、私から見れば呆れてしまうばかりです。 低い位置からスタートし何とかここまで辿り着いた私から言わせると、今の日本では高卒だとかなり不利なスタート地点から社会人生活を始めることは事実で、学歴を一部の事例で否定することは僻みに他なりません。 高い位置からスタート出来たら、下では経験できないことも多く、同じだけ努力しても身につくスキルには大きな差が出てしまいます。 下から這い上がってきたからこそ確信している現実です。別に悔やんでもいませんし、成り行きに身を任せてしまった結果なので、単なる真実を言っているに過ぎません。

事務従事者
投稿時の年齢: 52
北海道
投稿日時: 2022年03月26日
ドラマの時期:
2015年
--月
--日
文字数:901

君がいてくれたから

数年前から恋人との同棲を開始しました。 当時、私はメンタルの調子を崩しておりうつのような状態で苦しみながら日々を送っていました。心が苦しく、悲しみに苛まれながら日々を過ごしていたところで彼から同棲を切り出されました。同棲を開始してからも、メンタルの調子が安定せずに相手に迷惑をかけてしまう日々が続いてしまっていました。 食事がろくに取れなかったせいでメンタルの調子もなかなか回復せず、ADHDなどの発達障害の診断を受けてしまったことからますます心を色々な人から閉ざしてしまっていました。 同棲相手に対してもそれは同じでした。 やることがないから、などと我儘を言ってしまって迷惑をかけたり、部屋をひっちゃかめっちゃかにして掃除もできなかったりと、相手に迷惑をかけてしまう日々が続いていました。 また、メンタルの起伏も異常なまでに激しくなってしまい、相手に怒鳴り散らしたり、泣き喚いたりなどパニックのような症状が止まらなかったり。 その度に罪悪感に苛まれてしまい、また泣き喚くをくり返す…そんな日々を繰り返してしまっていました。 それでも同棲相手は諦めることなく私を励ましながら、日々の生活を過ごして、乗り越えていってくれました。 その結果、私もうつは少しずつ回復していき、現在は毎日それなりに調子を取り戻していけました。

専門的・技術的職業従事者
投稿時の年齢: 26
埼玉
投稿日時: 2022年03月26日
ドラマの時期:
2020年
10月
--日
文字数:663

ありがとうを忘れない。

「めっちゃコミュ力あるね」今となってはみんなから言われる。 私は、小学校の全校生徒21人、中学校34人。大分の小さい田舎町で育ち、生徒のほとんどは保育園からの幼馴染や顔見知りばかり。 この学校以外の人とは喋ったことはなく、コミュニケーション力の「コ」の字もなかった。私は田舎町を出たいのと、車好きだった為、愛知へ就職。 思い切って田舎を出たものの、知らない土地での生活、知らない人との会社生活で毎日がストレスだった。 そんな中、「バレーしてみない?」同じ会社のおばちゃんが声をかけてくれた。 私は中学、高校とバレーボールしていた為、気分転換で行ってみることに。 練習場へ行くと最初は人見知りを発動していたが、とても楽しく毎週練習に参加していくうち、自然に馴染めるようになってきた。 そんな時、一緒の練習に参加していた私と同年代くらいの人が「もっと若いチームで練習しない?」と誘われ、参加。 そこにはたくさん同年代の人がいて、人との会話が楽しくなり、人見知りも改善された。 今となっては、積極的に声をかけることでたくさんの友達ができ、仕事でも活かされている。

サービス職業従事者
投稿時の年齢: 27
愛知
投稿日時: 2022年03月26日
ドラマの時期:
2014年
10月
8日
文字数:652

思い出の家

2年前のある日。私は御葬式に参列していました。 亡くなったのは売主様。 久しぶりにお会いした息子様達にお悔やみの言葉を伝え、 最後の言葉を棺に向かってかけることができました。 この売主様との出会いは、家族愛に溢れたとても暖かい気持ちを私に与えてくれました。 売主様と初めてお会いしたのは約5年前。 亡くなった御主人様名義の財産として誰が家を相続するのか、 という相談を受けたのが最初でした。 お子様は2人いらっしゃるので、全財産の半分を売主様(お母様)。 残りの半分をお子様が分けることになります。 特に揉める話ではなかったのですが、困ったことがありました。 家の価値がとても高く、家以外の財産がなかったのです。 この場合、家に住む売主様(お母様)が家を相続し、 その代わりにお子様2人に現金を渡すことなります。 しかし、家の資産価値が高いためお子様に渡せる現金が ありません。 (※例えば家の価値が1,000万ならお子様2人には500万となりますが、 5,000万円なら2,500万を現金で渡す必要があります。) 売主様が一旦全て相続しても良いのですが、 そうすると売主様が亡くなった時の相続税が 莫大になります。 残る手立ては一つ、思い出の家を売却しお金に換えるしかありません。 後日、家を売る覚悟ができました、と売主様から連絡がありました。

管理的業務従事者
投稿時の年齢: 40
愛知
投稿日時: 2022年03月25日
ドラマの時期:
2020年
--月
--日
文字数:1265

家を買うことと家に住みつづけること

私が不動産会社の支店長だった時、ある御客様が「家を買いたい」と来店されました。収入や資金の準備は十分。銀行の担当者も全く問題ないと言っており、御夫婦も安心して家探しをしていました。 新築戸建をベースに色々な物件を内覧し見学をしている中、ふと御夫婦からよく出る言葉が気になりました。 「子供がきたら」という言葉です。 「子供ができたら」ではなく。 来店時、御夫婦にお子様はいらっしゃいませんでした。 将来の話かと思っていましたが、 内覧が終わり商談スペースで話を聞くと 「養子」を受けられるとのことでした。 私は初めて養子を受けられる御客様に出会いましたが、 既に縁組はできており後は手続きの進行待ちという状態でした。 私は御夫婦に尋ねました。「お子様の教育計画はどのようにお考えですか?」 ファイナンシャルの言葉には、人生の三大出費という言葉があります。 「住宅費用」「老後費用」そして「教育費」です。 例えばお子様1人が文系大学を卒業した場合、トータル教育費は約1,800万円かかります。 6年制の理系だと2,000万円を超えます。 御夫婦はしっかりとした教育環境を与えてあげたいという希望があり、 一旦家探しは止めて資金計画(シュミレーション)を行いました。 その結果、いま家を購入すると大学入学時点で貯金がマイナスになり、 破産することが分かりました。 マイホームを夢見ていた御夫婦でしたが、 なくなく人生プランを変更することになりました。 家を購入する夢よりも、十分な教育環境を整えるという もう一つの夢を優先することにしました。

管理的業務従事者
投稿時の年齢: 40
愛知
投稿日時: 2022年03月25日
ドラマの時期:
2020年
--月
--日
文字数:884

中卒で社会に出るという環境

 今、だいたいの子供は当たり前に高校に入学し、大学に進学しているように思われる。  私の時代は、今ほど進学率が高かったわけではないが、言うほど低いわけではなかった。  当時、中学一学年が300人程度、その中で高校に進学せずに、中卒で働き始める子供は10人未満だったろうか。  だいたいの理由は、勉強が嫌いか(教育)、家が貧乏(貧困)の2種類なので、中卒で働く子供は「普通」では無い存在だったのかもしれない。  この、色々な事情があろうこの10人未満の中に私もいたのであった。  私は小学生の時には、すでに勉強が嫌いで授業をまともに聞いていられなかった。  勉強が面白く感じなかった事は今でも鮮明に思えている。  そのまま、勉強が嫌いなまま中学にあがったが、もちろん成績が上がるわけでも無く、運動も得意ではない、そうなると周りにもバカにされる。学校も休みがちになり、そのまま登校拒否。  そのまま3年になり、ダメもとで受けた底辺の高校にも落ちた。  そんな状況でも、当時は特に何も考えてはいなかったように思う。  今になって思えば、学級主任の先生は、毎日電話くれたり、夜に連れ出してくれたりしたものだ。(進路も心配してくれて、調理の専門学校を紹介してくれた。)  でも、そんな他人の親切すら感じる事も出来ない悲しい子供だった事に、今ではただ恥じるのみである。  ようするに、考える事すら放棄した子供だった。

無職
投稿時の年齢: 47
東京
投稿日時: 2022年03月24日
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:1250

薄々ダメだと気付いていた先へ転職して思うこと

もう50歳を超えてから過去を振り返ると、人生の分岐点と言えることがいくつも存在しているものです。今も会社員として働いていますが、ふとした瞬間「あの時、別の選択をしていたら今頃どんな人生を歩んでいただろうか」と思うことがあります。 30歳の私が下した、上手くいかないことを感じていた転職についてです。「うちに来ないか?」とクライアントから誘われる話は珍しい話ではありませんが、そのタイミングが職場に感じるちょっとした不満とシンクロすることで、正常な判断力が失われることがあります。 今思えば転職が目的ではなく手段になってしまった瞬間です。当時私が住んでいた地方都市で働いていた職場は、少なくともその街の相場より高い給料だったのですが、心は「ここを辞めて都会に行く」ことで支配されてしまい、ついに踏み切りました。 見て見ぬふりをしていたことですが、転職した会社は絵にかいたような「自転車操業」で、未来への展望も考えられぬまま3年と持たず破綻しました。大袈裟かもしれませんが、気持ちの中は「すべて失った」ような喪失感を抱え、再び地元へ帰り一度は仕事に就いたものの、なぜかしら帰った地元の居心地は最悪でした。 恐らく3年前に自分で下した判断の誤りを勝手に恥じていた結果です。ほどなく出稼ぎに行き、一度挑戦した都会へ戻ってきました。

事務従事者
投稿時の年齢: 52
北海道
投稿日時: 2022年03月23日
ドラマの時期:
2007年
10月
25日
文字数:786

長男の成長

今年、長男が小学校の卒業を迎えました。 この12年間は私達夫婦は長男の成長と共に過ごした人生でした。これからも続いていく人生の軌跡ですが、小学校卒業という一つの節目を無事に迎えることができました。初めての育児で初めての教育。思えば手探りの12年間でした。長男が3歳くらいになるまでは、私達夫婦共に平均睡眠時間が2時間くらいしかなく、とても大変だったのを覚えています。一日中泣いているイメージしか今はありません。。。言葉の話し始めも遅く、歩き始めも一人よりも遅い。とてもマイペースな子供だったと記憶しています。それが保育園に入る直前。急激に成長を始めました。絵やバスケ、音楽。色々な事に興味を持つようになり、私達夫婦のどちらにも似ていない感性を持っていました。 私が親として伝えられる事柄の一つに、「勉強との向き合い方」がありました。「勉強は何のためにするのか」それは、将来やりたいことが見つかり、それを仕事にしたいと思った時。それがどんなジャンルであっても実現するためだと伝え続けました。 ゲームクリエイターになりたいのなら、作るための基礎知識として算数が必要。色々な人と相談しながら作るのだから、国語と英語は必要。そして沢山の人が面白い!と思うゲームを作るためには、難しいことを面白おかしく表現する方法が必要。 長男が小学一年生になった時から、ずっと勉強との向き合い方を伝え続けていました。

管理的業務従事者
投稿時の年齢: 40
愛知
投稿日時: 2022年03月23日
ドラマの時期:
2022年
--月
--日
文字数:880

優秀な兄との関係

私は兄と二人兄弟。兄は4つ上です。 中学生までの私の人生は、兄と比較される人生でした。 兄は超がつく天才。しかもスポーツも万能。 私は全てが平均、という絵に描いたような引き立て役でした。 小学校も中学校も、私は名前で呼ばれることよりも「〇〇の弟」と言われることが多く、「〇〇の弟なのに」というフレーズを聞くことに慣れてしまう。そんな環境でした。 自慢の兄ではありましたがそういう環境もあって素直になれず、優しくしてくれる兄が嫌いでした。そんな中、私と兄の関係が大きく変わる出来事がありました。 それは、私が高校に入学したタイミングです。兄は超進学校。私は中くらいの高校に進学しましたが、「〇〇の弟」というキャッチフレーズから解放された私はとても嬉しく感じていたのを覚えています。そんな中、高校の制度を利用しオーストラリアへ交換留学に行きました。 オーストラリアでは語学学習がメインでしたが、どちらかというと文化の違いを知ることが目的となっていました。当時はまだ観光できたエアーズロックを観光したりする中、一人のイスラム人高校生と仲良くなりました。この人は日本語が少し話せるので、すぐに意気投合。留学期間中、一緒に行動することが多く色々なことを教えてもらいました。 そのイスラム人が、私の兄への考え方を変えてくれました。 キッカケは、その人のイスラム教に関する考え方を知った時です。 イスラム教にはラマダンという、断食の期間があります。後から知ったことですが、断食といっても絶食といういうわけではなく質素な暮らしを心掛けなさいというイメージが近いようです。この期間中に、このイスラム人高校生はバクバクとカレーを食べていたのです。 「今食べていいの?断食は?」 当然の質問を私はしましたが、イスラム人高校生はカレーを食べながらこう返しました。 「イスラム教の考え方は『生き方のベース』みたいなもの。ブレない軸だから断食を守るとか守らないとかはあまり重要じゃない」 今思うと、ただカレーを食べたかっただけのような気もしましたが、当時兄の悩みが解放されたばかりの私には、兄への考え方が変わるキッカケになりました。

管理的業務従事者
投稿時の年齢: 40
愛知
投稿日時: 2022年03月22日
ドラマの時期:
1997年
--月
--日
文字数:1248

実家への想い

私は不動産の仕事をしています。 家を売って欲しいという依頼を受け、提案をするのが仕事ですが、売主様に必ずする質問があります。 「この家を売ることには、御家族は賛成されていますか?」 所有者が売ると決めていれば売ることができるのが不動産。しかし私はあえてこの質問をするようにしています。 それは、私が不動産の仕事を始めて最初の頃に経験した、忘れられない経験があるからです。不動産を始めてすぐに、実家を売って欲しいという相談をいただく機会がありました。 依頼者は成人した息子様がお二人。産まれてた時からずっとこの家に住んでいたが、もう子育てが終わったので夫婦で小さいマンションに引越ししたいという依頼でした。 家を確認し査定額の提案を行い、家の販売をスタート。立地が良かったということもありすぐに買い手は見つかりました。 購入者の資金も用意でき、順調に契約は完了。売主様が「そろそろ引越しの準備をしないとね」と言っていた時。思いもよらぬことが起きました。 息子様お二人が、とてもお怒りになって家に来られました。 「なんでこの家を売ったんだ!」 家の残置物確認を売主様と行っていた時に息子様が来られ、そう仰っていました。 もうこんな大きな家は必要ないこと、小さなマンションに住んだ方が都合が良いことを売主様は説明されていましたが、息子様達は御納得いかない御様子。 暫く沈黙の時間が続いたあと、息子様の一人が言いました。 「俺たちにとっては大事な実家だったんですよ。」 私はこの瞬間、自分の実家を思い出しました。 もし自分の実家がなくなり、御両親が新しい場所に住んだとして、そこは私にとっての実家になるのだろうか。「両親がいる場所が実家」という考え方もありますが、そんな簡単に割り切れるものではありません。 何故なら、思い出は全て「その家」にあるからです。 私は売主様の御要望に応えるということには成功しましたが、売主様の御家族全員を幸せにする提案という意味では、大失敗をしていました。 その後、契約通りに家は売却。後味の悪さを感じながらも、御夫婦はマンションを購入し引越しをされました。

管理的業務従事者
投稿時の年齢: 40
愛知
投稿日時: 2022年03月21日
ドラマの時期:
2013年
--月
--日
文字数:1171

人生を変えた海外旅行

就職活動も終わり卒業論文以外の単位を取り終えた私は、卒業までを東南アジアに旅行へいくことを決めていました。社会人になり忙しくなる前に海外で生活してみたいと思うようになっていたわけですが、「運よく人生の目標が見つかる、なんてことがあればいいな」という甘い気持ちもこめていました。 就職氷河期に内定をいただいてはいましたが、あと半年で社会人になるということに漫然とした不安があり、何か行動しておきたいという気持ちに押され一人旅をスタートしました。最初の国、ラオスについた私は慣れないタイ語を使い、首都のヴィエンチャンに向かいました。そこで私が感じたのは、ただただその日を一生懸命に生きる人々の姿でした。必死に生きているわけではなく、その日をただ楽しみ、一生懸命に働き、笑っていきるラオスの人々。私が知っている日本の社会人からは一度も感じたこともない人生を謳歌している人達の生き方でした。 その後、東南アジアをベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマーと陸路で旅行を続けていきましたが、どの国にも共通しているのが「毎日を一生懸命に生きる」という生き方でした。特に私が大きな衝撃を感じた経験が、お金に対する考え方の違いです。 当時の私は、お金はある方が当然良くて貯金は多い方が当然良いと思っていました。20年近く経った今もそう思っています。しかし、彼らはお金よりも人の繋がりを大事にしていました。他の観光客とは違い全くお金を持っていなさそうな貧乏学生の私に、食事や宿を提供していくれる人もいました。地元の人に呼ばれ、タイ語も英語も分からないのに楽しそうに話しかけてくれる人達に、「こんな風に生きていける国もあるんだ!」と思うようになりました。 そう、私が旅行をスタートする前に感じていた「運よく人生の目標が見つかる、なんてことがあればいいな」という甘い考えが成就した旅行になったのです! 日本に帰ってからもこんな気持ちを大事にしていきたい、そう思っていた時に事件が起きました。 2001年9月11日アメリカで同時多発テロ事件が起きました。 当時、帰国する便の手配をしている最中にミャンマーでTV放送があり、この事件を知りました。沢山の人が亡くなったという報道にミャンマーの人も悲しみ、何かできることがないのかと話す人もいました。 当時の私は事件の大きさに実感がなく、ただ遠くの国で大変な事件があったという気持ちでいました。そしてそのまま、日本へ帰国する飛行機に乗りました。

管理的業務従事者
投稿時の年齢: 40
愛知
投稿日時: 2022年03月20日
ドラマの時期:
2001年
9月
--日
文字数:1467

初めてのバイオリン。

私がバイオリンを始めたのは24歳のとき。大人になってから始めた習い事だ。 幼い頃からクラシック音楽が大好きだった私は、いつしか自分でも楽器を奏でてみたいと思うようになった。ピアノを習ってみたいと思ってはいたが、少々厳しい家だったこともあり、両親には言い出せずにいた。 習い事ができないなら、吹奏楽部に入りたい!そう思っていたのだが、部活で帰宅が遅くなり、勉強ができなくなるという理由で親に反対され、憧れていた吹奏楽部への入部は叶わなかった。 社会人になってしばらくした頃、ふと子供のときに楽器に憧れていたことを思い出した。働き出した今なら、誰の目を気にすることもなく、自分のお金で習い事をすることができるではないか。そう気付いた私は、楽器を習ってみたいという幼き日の自分の夢を叶えることにした。 そのときに私が選んだ楽器が、バイオリンだった。学校の授業以外で初めて手にした、私だけの楽器。「勉強で忙しいから」「親が厳しいから」「お金がないから」。そんな理由で諦めていた夢を、とうとう自分の手で叶えることができたのだ。 買ったばかりのバイオリンケースを背負って、地下鉄に乗ったときのことは、今でも鮮明に覚えている。初めてランドセルを背負ったときのような、誇らしいような照れ臭いような気持ちになった。あのときの嬉しかった気持ちは、今でも忘れられない。 この日から、私のバイオリン修行が始まった。 仕事終わりに片道40分かけて、レッスンに通った。自宅では、指の動きや譜読みの練習も欠かせない。仕事に疲れていて、大変なこともあるけれど、楽しくて充実した時間だ。 楽譜を読みながら、左手で指板を抑え、右手で弓を弾く。感覚を研ぎ澄ませて、音と指先に集中する時間は、心地よい緊張感に包まれる。バイオリンに集中していると、心が癒され、頭がクリアになっていく。全身の細胞が喜んでいるようで、あぁ私はやっぱり音楽が好きなんだなぁと、改めて感じることができるのだ。 仕事に追われる、代わり映えのない毎日に、バイオリンは彩りを与えてくれた。あの時バイオリンを始める決断をして、本当によかったと思う。 引っ越しを機に、レッスンはやめてしまったけれど、今でもバイオリンは私の大切な相棒だ。

主婦
投稿時の年齢: 31
福岡
投稿日時: 2022年03月13日
ドラマの時期:
2015年
10月
--日
文字数:1430