はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト
私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。 ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。 まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。 そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。 その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。 正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。 ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。 それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。 例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。 そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。 では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。 当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。 話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。 そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。 たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。 ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。 実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。 そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。 仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。 まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。 素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。 また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。 さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。 このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。 夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。 そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)
優しい歯医者さんとのひみつ
小学生の頃、私は歯医者に通っていた。生え変わったばかりの歯がガタガタとズレており、歯並びを治すために矯正をしていたからだ。 私は歯医者さんに行くのがとても楽しみだった。なぜなら、先生がとても好きだったからだ。いつも優しく出迎えてくれるし、私のしょうもない話を一生懸命聞いてくれる。 家では叱られてばかりだが、歯医者さんはいつも私のことを褒めてくれた。 施術は、着々と進んでいた。ワイヤー矯正の治療が終わり、透明なマウスピースを装着するという段階まで来ていた。私は、このマウスピースが好きだった。自分だけの歯型で作られた、特別なものだったから。普通の子供は着けるのを嫌がると思うが、私はいつも意気揚々と装着して通学していた。 ある日、事件が起きる。歯医者さんに行く前に、お母さんと寄り道をした。 ウェンディーズに、ナゲットを食べに行ったと思う。おそらく学校帰りで、お腹が空いていたのだろう。 そして、楽しみにしていた歯医者さんにやって来た。施術台に座って、マウスピースを外そうとした。しかし、マウスピースが無いのである。私はその瞬間、「しまった!大変だ!」と思った。 なんと、ナゲットを食べる時にトレーの上に乗せて、そのままウェンディーズの大きなゴミ箱に捨ててしまったのである!歯医者さんに来るまで、気付かなかったのだ。 「どうしようどうしよう、お母さんに怒られる。」そんな風にとても焦った。 慌てている私に歯医者さんが、「どうしたの?」と声をかけてくれた。仕方なく、正直に全てを話した。お母さんに怒られないか心配だ、と。 すると、「じゃあ、一緒に探しに行こう。お母さんに内緒にするから。」と言ってくれた。 そして、歯医者さんと歯科衛生士さんと私の3人でウェンディーズに行って、ゴミ箱を漁った。 ファストフードの強烈な臭いが充満する中、歯医者さんは、嫌な顔を全くせず一生懸命探してくれた。探すにあたって、医療用のゴム手袋が大活躍したのを覚えている。 15分ぐらいは探しただろうか。歯医者さんが「あった!」と私のマウスピースを見つけてくれた。「助かった。」と思った。 無事に、一緒にクリニックに帰った。歯医者さんはマウスピースを綺麗に消毒してくれた。そして約束通り、この事件のことはお母さんに内緒にしてくれたのだ。
やんちゃ坊主の末っ子「あみくん」
思い出すと震えて、冷や汗が出る経験をしたことがあるだろうか。私にはある。 小学校4年生の時、我が家に犬がやってきた。家族からは、「あみくん」と呼ばれていた。エアデールテリアという種類で、成犬になると35kgにもなる大型犬だ。 やんちゃな性格で、いつも物を壊したり、暴れていた。今となっては可愛かったなと思うが。 そんなあみくんのお散歩に、姉と母と3人で行くのが毎日の日課であった。お散歩コースは、大通り沿い。途中で、歩道橋を渡る道のりだった。 ある夏の暑い日、皆で散歩に出かけた。あみくんは、その日も色んなものに興味津々。いつも通りはしゃぎまくり、道行く人の注目を浴びていた。帰路に着くために歩道橋を渡り、階段を降りようとしていた。 突然、あみくんが階段を駆け降り出した。リードを持っていたのは姉。ぼーっとしている性格である。その時も何か別のことを考えていたらしい。 なんと、あみくんを繋いでいるリードを離してしまった!あみくんは駆け降りている。車がビュンビュン走る、大通り目がけて。
やかんのお湯が教えてくれた思いやりと優しさ
高校1年生の8月、汗が吹き出る猛暑のフィリピンに降り立った。なぜ私がフィリピンに行くことになったのか。それは、在籍していた高校がフィリピンにある姉妹校への短期留学生を募集していたからだ。留学中は、現地の生徒に混じって数週間ほど授業を受け、異文化を肌で触れることになる。異国への興味や好奇心から応募してみたところ、無事にフィリピン行きのチケットを手に入れた。 ちなみに留学前は「フィリピン」と聞くと、貧しい・暗いという発展途上国のイメージがあった。社会科の時間にビデオで見た、ストリートチルドレンやゴミの山の印象が強かったからだと思う。インフラも整っていないだろうという偏見からか、留学することは内心不安な部分も大きかった。 だが、その不安のほとんどは、ほどなく払拭されることになる。これはお世話になったホームステイ先での生活に初っ端から溶け込めたからだ。実は、留学中の生徒の安全は高校側で考慮されており、現地の滞在先は姉妹校に通うフィリピン人生徒の家となっていた。つまり、フィリピン滞在中はホームステイ先から学校に通い、衣食住もホストファミリーと共に過ごす生活となる。 空港に到着後、私を含めた留学生数人は、車で市街地の裏通りに連れて行かれた。そしてホストファミリーの家があると思しき住宅街を突き進んだ。住宅の多くはグレーを基調としており、かなり密集している様子だ。旅の疲れもあってか、ホームステイ先の家も第一印象はやや無機質に感じられた。 ところが一転、家の外観からは想像もつかないとても陽気なホストファミリーが私たちを温かく迎え入れてくれた。7人の大家族で、小さな家に皆でぎゅうぎゅうと楽しく賑やかに暮らしていた。思えば、滞在中はフィリピンの家庭料理やスナックをこれでもかというくらい振る舞ってくれたり、フィリピンの伝統的なゲームを教えてくれたり、日本について積極的に質問してくれた。初日から日本ではあり得ないほどの熱烈な歓迎を受け、異文化交流の出だしは完璧そのものだった。 だが、そんな浮き立つ気持ちをよそに、払拭されない一つの懸念が頭の片隅にこびりついていた。それがお風呂の問題だ。この留学プログラムに以前参加した姉の話によると、フィリピンはシャワーがなくお湯も出ないため、冷たい水で体を洗うことになったそうだ。留学のチケットは、応募者の中から面接や小論文によって振るいに落とされた末に手に入れたもの。留学が決まった瞬間は期待に胸を膨らませていた反面、「2週間も水浴びをしなければいけないのか・・・」と憂鬱な気分が混じっていたことを覚えている。 そしてあの忘れもしない出来事は、滞在初日の夜にやってきた。歓迎会の終盤にカードゲームやおしゃべりを楽しんでいると、いよいよお風呂に入って寝床につくムードに。不安な気持ちが先走り、先にこそっと風呂場を確認することにした。風呂場は三階にあったので、足早に階段を駆け上がる。ドアを開いて風呂場を覗いてみると、見渡す必要もない狭い空間が視野を埋めた。 一人の大人がやっと入れるほどの、まるで電話ボックスのような小さなスペースを、薄暗い灰色の壁と、劣化が進んだ白いタイルの床が覆っている。牢獄のような小窓が申し訳程度に付いているものの、あとは壁から蛇口が一つだけぽつりと突き出ているのみ。なお、蛇口には温度調整機能が付いていないことに気づく。ただひねって温度不明の水を出すという単純な作りのようだ。そんな簡素な場所に、大きな赤いバケツと青い椅子が頼りなく置いてある。これが噂に聞いていたフィリピン式バスルーム。原始的な有様を目の前に、私はただ呆然と突っ立ってしまっていた。 後々聞いた話だが、フィリピンは一年中暑い気候なので、体を冷やすために軽く水浴びをするくらいがちょうどいいそうだ。実家のお風呂といえば、私にとっては温かい湯船につかることができる至福のリラックスタイムの場。留学中はそれが冷水を浴びる苦痛の場所に変わってしまったことを意味しているようだった。先ほどの歓迎会で高揚していた気分はどこかへ飛んでいき、旅の疲れが再び身体にどっと押し寄せる。 お風呂の一番手はどうやらホストシスターのようだ。自分の番をビクビクしながら待ち構えている私とは打って変わって、なんともないようなそぶりで、鼻歌を歌いながらお風呂を済ませてしまった。これこそが異文化交流か。心細さと諦めの境地のはざまで、学校の留学プログラムの狙い通りの体験が出来ていることを、妙に冷静な視点で分析していた。そしてついに、私がお風呂に入る番がやってきた。緊張からか、支度の足取りが重く、タオルを持っている感覚まで鈍くなっていた。 「さあ、意を決して入るか・・・」と覚悟を決めたときだった。何やらホストブラザーがお風呂場を行ったり来たりしている様子が目に入る。しかもその手には小さなバケツ。「何をしているのだろうか?」と気になって彼について行ってみた。 すると、衝撃の現場を目撃する。なんと一階のキッチンのやかんでお湯を沸かし、そのお湯を小さなバケツに注ぎ、三階にあるお風呂場まで運んでいた。手にしている小さなバケツ一杯分にも満たない小型のやかんで、何度も何度もお湯を沸かし、階段を何往復もしてお風呂場の大きなバケツに移している。 「何をしているの?!」私はびっくりし、すっかり親しくなったホストシスターに尋ねた。すると彼女は、「日本人はお湯で体を洗うと聞いていたから、あなたたちのためにお湯を準備しているのよ。」と照れくさそうに笑いながら教えてくれた。 私は頭を殴られたような衝撃を受けた。わざわざ私たち日本人留学生のために、どうにかしてお湯を用意しようと考えてくれたこと。そして、体を洗うことができるほどのお湯を準備するという、大変な作業を私たちには黙ってやってくれていたこと。そんな驚きと感謝で、しばらくは唖然としてしまった。びっくりしている私たちを見て、ホストシスターは笑いながら「早く早く!」と私をお風呂場に押し込んだ。
祖父との最期
「後悔の無いように生きたい」、「一日一日を大切に生きたい」、誰しも少しは思うところがあるだろう。人生の終盤にて痛感することも多いセリフであるが、私は比較的人生の序盤に痛感することとなった。母方の祖父にとって私は初孫であり、家が近かかったこともあり、幼い頃からとても可愛がってもらったいた。休みのたびに毎週色んなところへ連れてもらった思い出がある。祖父がいることは日常であり、当たり前の光景であった。 そんな祖父であるが、私が小学生の頃に大腸ガンを患い、それほど余命も長くないだろうとの診断を受けた。とはいえ、抗がん剤治療を行うことで快方に向かっていた。20年、30年は無理でも、数年は問題ないだろうとの見立てであった。週に一回ほど入院先の病院にも定期的にお見舞いに行っており、比較的元気な姿がそこにはいつもあった。一時の辛そうな頃に比べると非常に元気そうで、毎週良くも悪くも変わりない様子であった。 お見舞いは毎週日曜だったが、その週はたまたま運動会で疲れていたこともあり、直前でお見舞いに行くことをやめた。「また来週行けばいいだろう」、ルーティンとなっていたお見舞いについてそう思ってしまったのだ。 その翌日、祖父は急逝した。日常から急に祖父がいなくなってしまったのだ。 余命わずかと申告されていれば、ちょっと疲れていてもお見舞いに行っただろうか。最期に交わした言葉は何だっただろうか。なんとなくのやり取りしかしていなかったのではないだろうか。自責とも言えぬやるせない感情が渦巻いていた。
父のあの世への旅立ちを笑って送り出した思い
私もすっかり中年になり、考えてみれば今まで生きてきた年月より、これから生きられる年月の方が短くなってしまいました。そんなことを思うと22年前に亡くなった父親のことを思い出します。 私が高校3年のとき両親は離婚して、兄弟は母親のもとで暮らしていました。一人になった父はというと、その後千葉県の田舎の方へ行って生活していたのですが、もともと体が弱かったせいもあり入退院を繰り返していて、私も何度か病院に呼び出されました。私が長男だからです。何度か行った病院では「退院できたら長男として引き取ってください」と言われていて、考え抜いた末面倒を見ることにしました。その打ち合わせのために千葉の病院へ行く日の朝、私が行くことを告げられた父は体調が急変し危篤状態になったそうです。 これは想像なのですが、プライドが高かった父は捨てたも同然の私に面倒を見られるのが嫌だったのだと思います。わざわざ千葉まで出向きやることもなく帰ってきました。 それから数か月経ったある日の夕方、帰りの車を運転していたところに千葉の病院から電話が掛かってきて「いまお父さんが危険な状態です。あっちょっと待ってください・・・今死亡が確認されました」と言われ、一瞬事態が理解できませんでしたが父が死んだのです。 急だったものの翌日に妹たちと千葉へ向かい、様々な手続きをしながらほとんど誰も来ないであろう簡単な通夜の準備をしました。通夜の手配は父が千葉で交友のあった方が手配してくれたので、大変助かりました。 通夜の夜にいたのは私と妹2人、そして千葉に住んでいた父の兄と鎌倉に住んでいた父の姉の5人だけでした。それ以前から入退院を繰り返していたことから、いつかはこんな日が来ることを皆考えていたと思います。 その夜は一切しんみりすることはなく、叔父や叔母も父の若いころの思い出話を笑いながら話してくれて、私たちも笑いながらそれを聞いていました。それも大いに飲みながらです。不謹慎かもしれませんが楽しい夜でしたし、きっと父も喜んでくれたと思っています。 「通夜」とは一晩中明かりを絶やさないため誰かが起きていなければならないものですが、大酒飲んで笑って話しているうち、私も妹たちも叔父も叔母も爆睡してしまいました。 起きたとき「しまった!」と思ったのですが、そこは簡単には消えない蝋燭や線香が用意されていて葬儀屋さんには感謝です。無事に終わったとは言い難いかもしれませんが、通夜を終え翌日には荼毘にふし、骨となった父を引き取ったのです。
中国での生活と目の前の拳銃
普通に日本に住んでいる人は、拳銃を生で見る機会はないだろう。 だが、私は一度だけ見た事がある。それも、銃口は目の前1センチくらいの超近距離。その時の事を思い出してみよう。 それは、今から二十数年前、私が中国の北京に留学していた時だった。 当時の中国は、今の中国と比べて物価も安く、日本円で30円もあればラーメンが食べられたし、数人で近所の食堂に行っても150円もあれば、そこそこ良い食事が出来た時代だった。 だが、留学といっても基本的に無駄遣いは厳禁。私は、あまり余裕のない学生だったため、普段の食事はそれなりに質素にしていた。 とはいえ、ときには気晴らしも必要。週末になると、周りにいた日本人や韓国人留学生と共に食事に出かけた。 当時、よく行ったのは「五道口」と呼ばれるところだ。 そこは、外国人留学生が多く集まり、韓国人街もあったため、頻繁に焼肉を食べに行った。 交通手段だが、たいていは友達と一緒にタクシーに乗り込んだ。所要時間は、私たちが住んでいた宿舎から30分ほどだ。 そこで焼肉を食べ、お酒を飲み、かなり酔った状態で帰るのだが、遅くなりすぎるとタクシーが捕まらない。 では、どうするかというと、白タクがいるのでそれに乗る。 ちなみに、白タクとは国から許可を受けていない不法タクシーの事である。一般の中国人も普通に使うので、金額交渉さえちゃんと行い、遠回りされないように気をつけていればほぼ問題はない。 その時も、そのつもりで乗ったのだが、いつの間にか寝てしまった。 とはいえ、一緒に乗った友達もいたので、通常なら寝てても問題はない。 でも、その時は「コンコンコンコン」という音で起こされた。 「うるさいなぁ」と感じながら目を開けると、タクシーの窓ガラス越しの目の前に、銃口が見えた。
会計事務所は税金を安くしてくれるところという誤解
今も法人の経理として働いている私の仕事上の原点は20代のころから働き始めた会計事務所時代です。あまり深く考えず知り合いのつてで入職したのですが、「手に職」といえる知識を得られたことを思うと当時の上司や同僚には感謝しています。 色々な経験を積んだ会計事務所時代ですが、そこで見た中小企業主や個人事業主の、少なくとも「税金」に対する考え方には驚くばかりでした。基本的に税金は「払いたくないもの」なんです。個人事業主といっても業種は様々で、第一次産業の農業・漁業や開業医・飲食店・建設業など多岐にわたります。その中でも小規模な事業者になるほど確定申告の時期に「そんな税金払えないし払いたくない」などと、およそ法律を守ろうとする気のない発言を連発します。 第一次産業の方に至っては「税金やすくするのにあんたらに金払ってんだろうが!」と言われます。 この傾向は零細法人でも同じで、ある会社の社長さんは「あいつら(税務署のこと)、こっちが倒産しそうでヒイヒイ言っているときには何の手助けもしねーで、ちょっと儲かったら税金くれって何なんだ!」と言われていましたが、実際その通りです。 勤め人をしていると分からない苦労と、国に対する不信感が「税金」という一点で見えやすくなるものなのです。 少なくとも私が知っている範囲で言うならば、会計事務所選びは納税者目線で考えてくれるところに依頼すべきです。私も心掛けていましたが、節税という名のギリギリの勝負をしていたのも、苦労している納税者のためを思ってのことでした。
子供が一人で行う役所の手続き
中学を卒業して15歳で岩手県から一人で三重県に就職したが、働きはじめて社長に「役所」に行って「国保」の手続きをしてこいと言われた。 もちろん、当時の私は、最初何言われたか分からなかった。 「国保」とは国民健康保険の事だ。 私が就職した会社は有限会社だったせいなのか、社会保険ではなく国民健康保険だったと思う。 とはいえ、当時は「国保」でも1割負担で通院出来たので国民健康保険でも社会保険でも大した問題ではなかった。 社長から、「役所で手続きしてこい」と言われた時の事はうっすらとしか覚えていないが、役所での事は良く覚えている。 突然だが、当時の私は身長が低く幼かった。 なので、役所に入っても窓口が高く、話を聞くために窓口の向こうから係の人がこっちまで来てくれた。 社長に言われた必要な物は持って行った。 国保の手続き上問題はなかったと思うが、子供にしか見えない子が役所に一人で訪れて、国民健康保険加入の手続きをしたいと言った時、なんとも言えない顔をされた気がする。又はそんな雰囲気になった感じがする。 あと、うっすらとだが、アメをくれたのは覚えている。
ふとした瞬間に見られる育ちの良し悪し
歴史の浅い土地で生まれ育った私は、俗に言う「良家」という存在とは無縁で大人になりました。今の世の中に身分というものは存在していませんが、ごく一部の上流階級では今でも家の格式なるものがあると噂されています。 良家ではないとしても、育ちのよい人というものはいるもので、あるときそんな人とすれ違い驚いたことがあります。 もう10年も前になりますが、私は仲の良い友人夫婦と鎌倉旅行へ行きました。鎌倉には昔から親戚が住んでいて縁がなかったわけではないのですが、その時初めての鎌倉でした。 憧れの江ノ電へ乗り江の島などを楽しんだ初日を終え、2日目のランチである蕎麦割烹を訪れたときちょっとした「驚き」に遭遇しました。 食事を終え建物の玄関へ向かうと、靴を入れている場所の前に上品そうな老齢のご婦人がスツールに腰かけていました。靴を取り出したかったので「すいません、その下から靴を出したいのですが」と声を掛けました。 すると上品そうなご婦人が少し驚いた表情をして「ごめんあそばせ」と言ってそこを避けてくれました。 生まれて初めての「ごめんあそばせ」です。この言葉が現実に使われていることに少し感動を覚えました。普段から使っている言葉ではないと咄嗟には出ないものです。人によってはどうでも良いような瞬間でしょうが、自分に足りないものが見えたような気がしました。
カーコンプレッサー製造現場で経験した苦い失敗と成功体験
幼少期より私は機械に触れることが多かった。農家だった実家はトラクターや稲刈り機、チェーンソー、草刈機などの農機器が沢山あり、壊れたら自分で修理をし、また使うの繰り返し。その影響もあり、工業高校へ進路を決めた。そこには沢山の工作機械があり、「ものづくり」の楽しさを肌で感じながら工業系の専門科目を学んだ。卒業後は、某自動車部品をつくる会社へ就職。カーコンプレッサー用部品の製造に改善班の一員として携わり、実に7年間勤めた。現在は物流クレーンをメンテナンスする仕事をしているが、最初の自動車部品製造会社での数々の体験が印象に残っており、今となっては多くのことを学ばせてもらったと感じる。 ちなみに、カーコンプレッサーとは名前の通り、自動車に載っているコンプレッサー(空気圧縮機)のことだ。コンプレッサーが生み出す圧縮空気のエネルギーを利用することで、空気の加熱あるいは冷却を行い、車の冷暖房(エアコン)機能を担う。実は日本で車にエアコンが標準装備されるようになったのは、1970年後半〜1980年代と歴史は浅い。しかし、今となっては必需品で、使ったことがない人はいないだろう。では、車内環境を快適に保つこのカーコンプレッサーのどの部品の製造に携わっていたのか説明していく。 私が配属された工場では、カーコンプレッサーのハウジングという部品を製造していた。ハウジングとは、コンプレッサーの外枠のアルミ素材で作られた筐体部品のことを指す。 工場は国内でも屈指の規模。24時間体制で稼働しており、1日に約1200台のハウジングを製造していた。もちろん製造量だけでなく、安定した品質を維持するため、様々な取り組みもされていた。 たとえばコンプレッサーのような機械は1/100ミリ、部位によっては1/1000ミリ単位の精度の加工が求められる。しかし、筐体はアルミ製のため、熱による膨張や凝縮の影響が大きく出てしまう。対策として、加工ズレが生じないように、機械とアルミの温度をこまめに管理した。 また、ハウジングの細部を形作る切削加工のあとは、アルミの粉(切粉)も残留する。そこで、刃物の回転速度や送り速度を計算し、切粉が除去されるように設定する。こういった創意工夫を重ねることで、ようやくハウジングという部品の品質は保たれるのだ。 ところで、一般的に工場と聞くと、上述したような制御を行えば、あとは大量の機械が自動で製品の加工を行なっていくように想像するだろう。もちろん、そういった側面もある。が、製品の仕様変更、工場設備の変更、機械の老朽化、そして変動する人員体制に対応しつつ、品質や製造を納期通りに保つことが、現場ではとにかく大変だった。 ちなみに私は工場全体の改善班の一員として携わっていたのだが、特に機械の老朽化への対応には気を引き締めていた。これはなぜか?簡単にいえば、工場設備は日に日に変化するのだ。例を挙げると、たとえば包丁を毎日使用すると、刃が摩耗し、切れ味が落ちる。このような現象は工場機械のあらゆるところで起きる。包丁が摩耗して、野菜や肉が切れなくなるように、工場の機械も老朽化に伴い加工精度が落ちていく。結果的に製品の不良につながる。 もちろん、過去の経験を頼りに、問題を早めに対処できるケースもあるが、全てではない。仕様変更に応じた状況の変化や、初めて壊れる箇所など、無数に問題はでてくる。それが大量の機器を運用し、複雑な製品を製造する上での難しいポイントだ。 機械の老朽化には最善の注意が必要なことは、わたしもこの身を持って経験した。入社して3数年目のころ、新しいコンプレッサー製品の品質検査の担当に就いた。そんなある日、後工程で組み付け不可というクレームが起きた。理由は筐体に致命的なキズが入っていたためで、私が見落としてしまったのた。キズの原因は、検査する前段階の加工の際、製品が置かれる基準台に老朽化による傾きが生じていたことだ。 幸い、車に取り付ける前で大惨事は防げた。が、クレームが出る前に製造された製品すべてを廃棄するとなると、損失は数百万円を軽く超えた。そのため、在庫品数千台を一つずつ確認することになった。 決して仕事の手を抜いていたわけではない。品質検査チェック項目を適宜見ながら行った。私の言い分として、その新しいコンプレッサー製品は今までとは異なった構造で、クレームの出た部位は既存の検査項目に入っていなかったのだ。つまり、今回の基準台の老朽化に伴う傾きの誤差は、これまで重視されない箇所だった。さらに、出たキズも目を凝らさないとわからない所で「正直こんなの分からないよ」と言いたい気持ちだった。 そうは思いつつも、工場長や各部署の上役が集まりだした。あれこれと発生状況の調査やなぜ見逃したのか事情聴取され、事態は大きくなった。「下手したら減給、あるいは解雇か」そんなこと思いながら血の気がひいていた。その後は、毎日のように工場長がラインに訪れては、「人的な問題はなかったのか」と張りつきながらの確認が行われた。さらに品質検査動作の確認や作業手順の間違いの有無など、1週間にわたり、各所で念入りな調査も入った。 不幸中の幸いか、今回は私の人的問題というよりは、品質検査チェックシステムに根本的な問題があったと判断された。さらにキズがついた製品に関しては、各部署の経験豊富な上役が連携をとり、「後工程の修正でなんとかなるのはないか?」と工夫をひねり出し、なんとか難を免れられた。 のちに思い返すと、品質検査の本質が理解できていなかったように思う。新しいコンプレッサー製品の製造となると、重視すべき箇所も変わりうる。当然、それを想定して検査チェック項目の追加を上司に提言しなければならなかった。さらに、そのチェック項目箇所の追加に応じて、これまで対応する必要がなかった老朽化に伴う機械の誤差を、他部署も含めて確認すべきだった。こういった日々の改善を重ねながらノウハウを蓄積することで、生産ラインは次の課題に対応するレベルへと成長していくのだろう。 そして何より、自分の意識にも問題があった。品質検査の担当は、品質を守る最後の砦であるが、どこか品質に関して、「問題なんて出ないだろう」と、疎かに考えていた自分がいたことに気づいた。だからチェック項目のみの確認という、受動的な仕事しかできていなかったのだろう。表現は難しいが、「問題は必ず起きる。それを探し出す。」という攻めの心理こそ、検査では重要に感じた。 思い返すと、このあたりから「ここの老朽化は今でこそ重要ではないが、もしココの誤差が拡大したら、話は変わるのではないか?」といった、観察力や疑問を重ねる探求心も湧いてきたと記憶している。
新しい場所、15歳で社会に出た環境での現実逃避
知らない場所、知らない人、知らないルール。 今の自分から思えば「なにも感じる事すら出来ない」、そんな子供だったから、あの環境に順応する事が出来たのではないだろうか。 現実世界で現実逃避していた中学時代。 でも、社会に出てからも、その現実逃避はもう少し続いた。 会社は、今でいう派遣会社、三重県の車メーカ―工場に派遣される人たち。 当時は「派遣工」とか「外注」とかいわれていた。 住んだ場所は、雇ってもらった派遣会社の社宅、社宅といってもマンションの1階にある3DKの普通の部屋、そこには、既に当時30歳前後の菅野さん(男性仮名)が住んでいた。 菅野さんは、会社ではリーダー的な人で、何もしらない私になにかと世話をしてくれた優しい人。 繰り返しだが、当時本当に私は人に何かをしてもらって感謝するとか、あまり考えない子供だった。 朝食を作ってもらっても、夕食を作ってもらっても「もうしわけない」とかすら感じなかった。 又、菅野さんは仲間が多く、頻繁にバーベキューなど行っており、私もつれて行かれたが、「楽しい」、「美味しい」など、たいした反応もしなかったので、今思えば本当に面白味のない、かわいげのない、そっけない子供に見えた事だろう。
「人は信じてはいけない」と教えてくれた初恋の人
全ての人が初恋を経験するわけではないことに驚きを感じますが、私の知っている範疇では誰もが遅かれ早かれ初恋を経験しています。 私の初恋は幼稚園の年長さんの頃で、人と比べ早かったのかどうか比較したこともありません。もうかなり昔のことなので初恋の子の名前も顔すらも思い出せませんが、これはトラウマが記憶を消している・・・かもしれません。幼稚園には3年間通いました。思い出してみても覚えている記憶と言えば、尿意を我慢できずにお漏らしした記憶や、金魚の絵を描いてその出来栄えが人と違い過ぎるが故の嘲笑など、楽しかった記憶はありません。 そんな幼稚園時代の最後の年に好きになった子がいました。成人式を迎えるころまでは覚えていたような気がしますが、今ではまるで思い出せません。 幼稚園の同じクラスには下の名前が私と同じ男の子がいて、今は仮に私とその子を「太郎くん」としておきます。 ある日の帰りの時間になって初恋の子が泣いていて、担任のオバサンが事情を聞いている風な感じでした。心配しながらその様子を見ていたのですが、担任のオバサンが「太郎くんが帽子を引っ張ったせいで首が苦しくなったようです」と言ったので、幼稚園児だった私は「あの太郎がやりやがった」と、妙な正義感が沸き上がった・・・ような気がします。 そしてオバサンが初恋の子に犯人が誰かを聞くと、その子は私を指さしました。 そこからの記憶は残っておりません。 これが生まれて初めての「濡れ衣」というやつです。よりによって好きだった子が私を犯人にするとは、幼稚園児には回避のしようがないシチュエーションです。 その後、初恋の子は私とは別の小学校へ行きどうなったかは知りません。私が人から「ちょっと変かも」と思われるきっかけは”あれ”だったのかもしれません。
反省からの気づき
誰しも「仕事を辞めたい」「この上司嫌い」など思ったことがあると思います。 私もその中の一人でした。 というのも、私の上司は自ら言った発言に対して責任を持たず、都合が悪くなると「そんな指示出していない」などその場から逃げるのです。 今回は、このような中で気付いたこと、感じたことを書きます。私は、高校卒業後某自動車製造メーカーに就職しました。 製造業なので、昼夜の仕事で2直24時間体制での仕事。新入社員の時から、その上司はパワハラする傾向で、無責任という噂が出回っていました。 5年経ち、最悪にもその上司と同じ直に。その日その日によって機嫌は変わり、威圧的な態度で仕事を押し付けてきて、到底上司とは思えない身振りでした。 そして、事件は起きました。 私は改善活動のリーダーを任され、生産率を向上させるために加工タイムの短縮の改善を行なっていた時のことです。 不運にも一つ不良を作ってしまいました。正直言うと改善には失敗がつきもので、しょうがない部分もあります。 ところがその上司は「なにやってんだ!ふざけんな」と一言・・・だけで終わらず蹴りを入れられ、同じ作業してもらうと、上司もやはり不良を作り・・しかしその上司が作った不良は暗闇に消え、私が作った不良だけ会社に報告されました。 暴力と隠蔽で、私は憤りを感じ、次の日重役が集まる全体の会議で私はその上司に対して「あなたを上司とは思いません」と一言。言ってやったぜ。ざまぁみろと思いましたが、同時にその上司の面子を潰してしまいました。 その帰り、車を運転しているとサイドミラー同士がぶつかるという事故を起こし、家では下の階の人が火事を起こすという事件が立て続けに起こり、ここまで不運が起きると、自身の行動を振り返ることに。 重役のいる会議であそこまで言う必要があったのか。もっと他の方法があったのでは。など考えさせられました。 結論、言いすぎたと感じ、謝罪することに。上司もここまで言われたのは初めてだったらしく、改心できたと言っていました。
最後のプレゼント
私は、祖父母・両親・妹の6人家族。 その中でも、私はじいちゃんが一番大嫌いで、子供の頃はよく喧嘩していた。 今は社会人になり、振り返ると幼稚で嫉妬していたとつくづく思う。 私の実家は、お風呂を薪で沸かしたり、野菜やお米を育てている。 じいちゃんとの事件は幼稚園の頃・・・妹が産まれ、妹にぞっこん。 妹ばかり可愛がる姿に腹を立てていた。 私が先に見ていたテレビでも、妹が来たらチャンネルを急に変えられ、怒ると「年上なんだから譲りなさい」と毎回のようにじいちゃんから言われる。 普通だったら親から言われるようなことも、じいちゃんから言われ、鬱陶しく感じるように。 しかし、高校生になると私の良き理解者になり、好きになっていた。 それは、私のいろんな姿を小さい頃から見せていたからこそだ。 就職が決まり実家を離れることに、社会人になっても週に一回はじいちゃんに電話、近況を報告していた。そして、電話時の毎回の決め台詞「お前の結婚式まで俺は生きるぞ」 そんな中、仕事では上手くいかず、上司から罵倒され、ほんとに嫌になっていた。 仕事が嫌いで、楽しくなくて、やる気なんて微塵も起きなかった。 そして、2019年8月訃報が届いた。じいちゃんが亡くなったのだ。 仕事が上手くいかない中での訃報、悲しみに暮れた・・・ お葬式も終わり、普段の生活に戻った時、母からある話を聞かせてもらった。 じいちゃんが亡くなる前、薪割りをしている時のことだ。 朝から夕方まで、手にはマメができてもなお、ずっと薪割りをしている。 母が「そんな辛い作業、どうしてずっとできるの?」と聞いたそうだ。 すると、じいちゃんは一言「好きだから」 その5文字に感動し勇気をもらい、これはプレゼントだと思った。
社会経験を積んできたからこそ分かる学歴の大事さ
私は不幸とまでは感じていないものの育った家庭が不和で、学業で大事な高校在学時にいよいよ家庭は行き詰まり、私が高校3年のときに両親は離婚しました。 それまで何となく「大学に行く」ことが当たり前だと思っていたのですが、共通一次試験は受けたものの、2次試験へ行く費用すらありませんでした。私と妹2人を引き取った母の暮らしは厳しいものがあり、「働かない浪人生」でいることは許されませんでした。 ホテルでボーイとして働き、次の受験シーズンのころには諦めの心境と、それでも見栄をはってしまう下らない意地との狭間で揺れ動き、ホテルでの社員登用のお誘いも断って無職になりました。それから職を変えながら平成3年から税理士事務所で働きはじめ、今でも自分のアピールポイントである経理・税務の知識を身につけました。 あれから30年以上過ぎ、それなりに難しい仕事をこなしていても、大学進学を諦めたからこそ思えることがあります。よくネットなどで「学歴」について論争しているのを目にします。否定派からは「会社の新人が※※大学を卒業したのに仕事が出来ない」といった、ごく一部の事例で全てを否定するような視野の狭い意見が多いのですが、私から見れば呆れてしまうばかりです。 低い位置からスタートし何とかここまで辿り着いた私から言わせると、今の日本では高卒だとかなり不利なスタート地点から社会人生活を始めることは事実で、学歴を一部の事例で否定することは僻みに他なりません。 高い位置からスタート出来たら、下では経験できないことも多く、同じだけ努力しても身につくスキルには大きな差が出てしまいます。 下から這い上がってきたからこそ確信している現実です。別に悔やんでもいませんし、成り行きに身を任せてしまった結果なので、単なる真実を言っているに過ぎません。
君がいてくれたから
数年前から恋人との同棲を開始しました。 当時、私はメンタルの調子を崩しておりうつのような状態で苦しみながら日々を送っていました。心が苦しく、悲しみに苛まれながら日々を過ごしていたところで彼から同棲を切り出されました。同棲を開始してからも、メンタルの調子が安定せずに相手に迷惑をかけてしまう日々が続いてしまっていました。 食事がろくに取れなかったせいでメンタルの調子もなかなか回復せず、ADHDなどの発達障害の診断を受けてしまったことからますます心を色々な人から閉ざしてしまっていました。 同棲相手に対してもそれは同じでした。 やることがないから、などと我儘を言ってしまって迷惑をかけたり、部屋をひっちゃかめっちゃかにして掃除もできなかったりと、相手に迷惑をかけてしまう日々が続いていました。 また、メンタルの起伏も異常なまでに激しくなってしまい、相手に怒鳴り散らしたり、泣き喚いたりなどパニックのような症状が止まらなかったり。 その度に罪悪感に苛まれてしまい、また泣き喚くをくり返す…そんな日々を繰り返してしまっていました。 それでも同棲相手は諦めることなく私を励ましながら、日々の生活を過ごして、乗り越えていってくれました。 その結果、私もうつは少しずつ回復していき、現在は毎日それなりに調子を取り戻していけました。
ありがとうを忘れない。
「めっちゃコミュ力あるね」今となってはみんなから言われる。 私は、小学校の全校生徒21人、中学校34人。大分の小さい田舎町で育ち、生徒のほとんどは保育園からの幼馴染や顔見知りばかり。 この学校以外の人とは喋ったことはなく、コミュニケーション力の「コ」の字もなかった。私は田舎町を出たいのと、車好きだった為、愛知へ就職。 思い切って田舎を出たものの、知らない土地での生活、知らない人との会社生活で毎日がストレスだった。 そんな中、「バレーしてみない?」同じ会社のおばちゃんが声をかけてくれた。 私は中学、高校とバレーボールしていた為、気分転換で行ってみることに。 練習場へ行くと最初は人見知りを発動していたが、とても楽しく毎週練習に参加していくうち、自然に馴染めるようになってきた。 そんな時、一緒の練習に参加していた私と同年代くらいの人が「もっと若いチームで練習しない?」と誘われ、参加。 そこにはたくさん同年代の人がいて、人との会話が楽しくなり、人見知りも改善された。 今となっては、積極的に声をかけることでたくさんの友達ができ、仕事でも活かされている。
思い出の家
2年前のある日。私は御葬式に参列していました。 亡くなったのは売主様。 久しぶりにお会いした息子様達にお悔やみの言葉を伝え、 最後の言葉を棺に向かってかけることができました。 この売主様との出会いは、家族愛に溢れたとても暖かい気持ちを私に与えてくれました。 売主様と初めてお会いしたのは約5年前。 亡くなった御主人様名義の財産として誰が家を相続するのか、 という相談を受けたのが最初でした。 お子様は2人いらっしゃるので、全財産の半分を売主様(お母様)。 残りの半分をお子様が分けることになります。 特に揉める話ではなかったのですが、困ったことがありました。 家の価値がとても高く、家以外の財産がなかったのです。 この場合、家に住む売主様(お母様)が家を相続し、 その代わりにお子様2人に現金を渡すことなります。 しかし、家の資産価値が高いためお子様に渡せる現金が ありません。 (※例えば家の価値が1,000万ならお子様2人には500万となりますが、 5,000万円なら2,500万を現金で渡す必要があります。) 売主様が一旦全て相続しても良いのですが、 そうすると売主様が亡くなった時の相続税が 莫大になります。 残る手立ては一つ、思い出の家を売却しお金に換えるしかありません。 後日、家を売る覚悟ができました、と売主様から連絡がありました。
家を買うことと家に住みつづけること
私が不動産会社の支店長だった時、ある御客様が「家を買いたい」と来店されました。収入や資金の準備は十分。銀行の担当者も全く問題ないと言っており、御夫婦も安心して家探しをしていました。 新築戸建をベースに色々な物件を内覧し見学をしている中、ふと御夫婦からよく出る言葉が気になりました。 「子供がきたら」という言葉です。 「子供ができたら」ではなく。 来店時、御夫婦にお子様はいらっしゃいませんでした。 将来の話かと思っていましたが、 内覧が終わり商談スペースで話を聞くと 「養子」を受けられるとのことでした。 私は初めて養子を受けられる御客様に出会いましたが、 既に縁組はできており後は手続きの進行待ちという状態でした。 私は御夫婦に尋ねました。「お子様の教育計画はどのようにお考えですか?」 ファイナンシャルの言葉には、人生の三大出費という言葉があります。 「住宅費用」「老後費用」そして「教育費」です。 例えばお子様1人が文系大学を卒業した場合、トータル教育費は約1,800万円かかります。 6年制の理系だと2,000万円を超えます。 御夫婦はしっかりとした教育環境を与えてあげたいという希望があり、 一旦家探しは止めて資金計画(シュミレーション)を行いました。 その結果、いま家を購入すると大学入学時点で貯金がマイナスになり、 破産することが分かりました。 マイホームを夢見ていた御夫婦でしたが、 なくなく人生プランを変更することになりました。 家を購入する夢よりも、十分な教育環境を整えるという もう一つの夢を優先することにしました。
中卒で社会に出るという環境
今、だいたいの子供は当たり前に高校に入学し、大学に進学しているように思われる。 私の時代は、今ほど進学率が高かったわけではないが、言うほど低いわけではなかった。 当時、中学一学年が300人程度、その中で高校に進学せずに、中卒で働き始める子供は10人未満だったろうか。 だいたいの理由は、勉強が嫌いか(教育)、家が貧乏(貧困)の2種類なので、中卒で働く子供は「普通」では無い存在だったのかもしれない。 この、色々な事情があろうこの10人未満の中に私もいたのであった。 私は小学生の時には、すでに勉強が嫌いで授業をまともに聞いていられなかった。 勉強が面白く感じなかった事は今でも鮮明に思えている。 そのまま、勉強が嫌いなまま中学にあがったが、もちろん成績が上がるわけでも無く、運動も得意ではない、そうなると周りにもバカにされる。学校も休みがちになり、そのまま登校拒否。 そのまま3年になり、ダメもとで受けた底辺の高校にも落ちた。 そんな状況でも、当時は特に何も考えてはいなかったように思う。 今になって思えば、学級主任の先生は、毎日電話くれたり、夜に連れ出してくれたりしたものだ。(進路も心配してくれて、調理の専門学校を紹介してくれた。) でも、そんな他人の親切すら感じる事も出来ない悲しい子供だった事に、今ではただ恥じるのみである。 ようするに、考える事すら放棄した子供だった。
はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト
私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。 ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。 まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。 そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。 その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。 正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。 ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。 それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。 例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。 そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。 では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。 当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。 話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。 そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。 たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。 ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。 実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。 そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。 仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。 まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。 素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。 また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。 さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。 このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。 夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。 そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)
優しい歯医者さんとのひみつ
小学生の頃、私は歯医者に通っていた。生え変わったばかりの歯がガタガタとズレており、歯並びを治すために矯正をしていたからだ。 私は歯医者さんに行くのがとても楽しみだった。なぜなら、先生がとても好きだったからだ。いつも優しく出迎えてくれるし、私のしょうもない話を一生懸命聞いてくれる。 家では叱られてばかりだが、歯医者さんはいつも私のことを褒めてくれた。 施術は、着々と進んでいた。ワイヤー矯正の治療が終わり、透明なマウスピースを装着するという段階まで来ていた。私は、このマウスピースが好きだった。自分だけの歯型で作られた、特別なものだったから。普通の子供は着けるのを嫌がると思うが、私はいつも意気揚々と装着して通学していた。 ある日、事件が起きる。歯医者さんに行く前に、お母さんと寄り道をした。 ウェンディーズに、ナゲットを食べに行ったと思う。おそらく学校帰りで、お腹が空いていたのだろう。 そして、楽しみにしていた歯医者さんにやって来た。施術台に座って、マウスピースを外そうとした。しかし、マウスピースが無いのである。私はその瞬間、「しまった!大変だ!」と思った。 なんと、ナゲットを食べる時にトレーの上に乗せて、そのままウェンディーズの大きなゴミ箱に捨ててしまったのである!歯医者さんに来るまで、気付かなかったのだ。 「どうしようどうしよう、お母さんに怒られる。」そんな風にとても焦った。 慌てている私に歯医者さんが、「どうしたの?」と声をかけてくれた。仕方なく、正直に全てを話した。お母さんに怒られないか心配だ、と。 すると、「じゃあ、一緒に探しに行こう。お母さんに内緒にするから。」と言ってくれた。 そして、歯医者さんと歯科衛生士さんと私の3人でウェンディーズに行って、ゴミ箱を漁った。 ファストフードの強烈な臭いが充満する中、歯医者さんは、嫌な顔を全くせず一生懸命探してくれた。探すにあたって、医療用のゴム手袋が大活躍したのを覚えている。 15分ぐらいは探しただろうか。歯医者さんが「あった!」と私のマウスピースを見つけてくれた。「助かった。」と思った。 無事に、一緒にクリニックに帰った。歯医者さんはマウスピースを綺麗に消毒してくれた。そして約束通り、この事件のことはお母さんに内緒にしてくれたのだ。
やんちゃ坊主の末っ子「あみくん」
思い出すと震えて、冷や汗が出る経験をしたことがあるだろうか。私にはある。 小学校4年生の時、我が家に犬がやってきた。家族からは、「あみくん」と呼ばれていた。エアデールテリアという種類で、成犬になると35kgにもなる大型犬だ。 やんちゃな性格で、いつも物を壊したり、暴れていた。今となっては可愛かったなと思うが。 そんなあみくんのお散歩に、姉と母と3人で行くのが毎日の日課であった。お散歩コースは、大通り沿い。途中で、歩道橋を渡る道のりだった。 ある夏の暑い日、皆で散歩に出かけた。あみくんは、その日も色んなものに興味津々。いつも通りはしゃぎまくり、道行く人の注目を浴びていた。帰路に着くために歩道橋を渡り、階段を降りようとしていた。 突然、あみくんが階段を駆け降り出した。リードを持っていたのは姉。ぼーっとしている性格である。その時も何か別のことを考えていたらしい。 なんと、あみくんを繋いでいるリードを離してしまった!あみくんは駆け降りている。車がビュンビュン走る、大通り目がけて。
やかんのお湯が教えてくれた思いやりと優しさ
高校1年生の8月、汗が吹き出る猛暑のフィリピンに降り立った。なぜ私がフィリピンに行くことになったのか。それは、在籍していた高校がフィリピンにある姉妹校への短期留学生を募集していたからだ。留学中は、現地の生徒に混じって数週間ほど授業を受け、異文化を肌で触れることになる。異国への興味や好奇心から応募してみたところ、無事にフィリピン行きのチケットを手に入れた。 ちなみに留学前は「フィリピン」と聞くと、貧しい・暗いという発展途上国のイメージがあった。社会科の時間にビデオで見た、ストリートチルドレンやゴミの山の印象が強かったからだと思う。インフラも整っていないだろうという偏見からか、留学することは内心不安な部分も大きかった。 だが、その不安のほとんどは、ほどなく払拭されることになる。これはお世話になったホームステイ先での生活に初っ端から溶け込めたからだ。実は、留学中の生徒の安全は高校側で考慮されており、現地の滞在先は姉妹校に通うフィリピン人生徒の家となっていた。つまり、フィリピン滞在中はホームステイ先から学校に通い、衣食住もホストファミリーと共に過ごす生活となる。 空港に到着後、私を含めた留学生数人は、車で市街地の裏通りに連れて行かれた。そしてホストファミリーの家があると思しき住宅街を突き進んだ。住宅の多くはグレーを基調としており、かなり密集している様子だ。旅の疲れもあってか、ホームステイ先の家も第一印象はやや無機質に感じられた。 ところが一転、家の外観からは想像もつかないとても陽気なホストファミリーが私たちを温かく迎え入れてくれた。7人の大家族で、小さな家に皆でぎゅうぎゅうと楽しく賑やかに暮らしていた。思えば、滞在中はフィリピンの家庭料理やスナックをこれでもかというくらい振る舞ってくれたり、フィリピンの伝統的なゲームを教えてくれたり、日本について積極的に質問してくれた。初日から日本ではあり得ないほどの熱烈な歓迎を受け、異文化交流の出だしは完璧そのものだった。 だが、そんな浮き立つ気持ちをよそに、払拭されない一つの懸念が頭の片隅にこびりついていた。それがお風呂の問題だ。この留学プログラムに以前参加した姉の話によると、フィリピンはシャワーがなくお湯も出ないため、冷たい水で体を洗うことになったそうだ。留学のチケットは、応募者の中から面接や小論文によって振るいに落とされた末に手に入れたもの。留学が決まった瞬間は期待に胸を膨らませていた反面、「2週間も水浴びをしなければいけないのか・・・」と憂鬱な気分が混じっていたことを覚えている。 そしてあの忘れもしない出来事は、滞在初日の夜にやってきた。歓迎会の終盤にカードゲームやおしゃべりを楽しんでいると、いよいよお風呂に入って寝床につくムードに。不安な気持ちが先走り、先にこそっと風呂場を確認することにした。風呂場は三階にあったので、足早に階段を駆け上がる。ドアを開いて風呂場を覗いてみると、見渡す必要もない狭い空間が視野を埋めた。 一人の大人がやっと入れるほどの、まるで電話ボックスのような小さなスペースを、薄暗い灰色の壁と、劣化が進んだ白いタイルの床が覆っている。牢獄のような小窓が申し訳程度に付いているものの、あとは壁から蛇口が一つだけぽつりと突き出ているのみ。なお、蛇口には温度調整機能が付いていないことに気づく。ただひねって温度不明の水を出すという単純な作りのようだ。そんな簡素な場所に、大きな赤いバケツと青い椅子が頼りなく置いてある。これが噂に聞いていたフィリピン式バスルーム。原始的な有様を目の前に、私はただ呆然と突っ立ってしまっていた。 後々聞いた話だが、フィリピンは一年中暑い気候なので、体を冷やすために軽く水浴びをするくらいがちょうどいいそうだ。実家のお風呂といえば、私にとっては温かい湯船につかることができる至福のリラックスタイムの場。留学中はそれが冷水を浴びる苦痛の場所に変わってしまったことを意味しているようだった。先ほどの歓迎会で高揚していた気分はどこかへ飛んでいき、旅の疲れが再び身体にどっと押し寄せる。 お風呂の一番手はどうやらホストシスターのようだ。自分の番をビクビクしながら待ち構えている私とは打って変わって、なんともないようなそぶりで、鼻歌を歌いながらお風呂を済ませてしまった。これこそが異文化交流か。心細さと諦めの境地のはざまで、学校の留学プログラムの狙い通りの体験が出来ていることを、妙に冷静な視点で分析していた。そしてついに、私がお風呂に入る番がやってきた。緊張からか、支度の足取りが重く、タオルを持っている感覚まで鈍くなっていた。 「さあ、意を決して入るか・・・」と覚悟を決めたときだった。何やらホストブラザーがお風呂場を行ったり来たりしている様子が目に入る。しかもその手には小さなバケツ。「何をしているのだろうか?」と気になって彼について行ってみた。 すると、衝撃の現場を目撃する。なんと一階のキッチンのやかんでお湯を沸かし、そのお湯を小さなバケツに注ぎ、三階にあるお風呂場まで運んでいた。手にしている小さなバケツ一杯分にも満たない小型のやかんで、何度も何度もお湯を沸かし、階段を何往復もしてお風呂場の大きなバケツに移している。 「何をしているの?!」私はびっくりし、すっかり親しくなったホストシスターに尋ねた。すると彼女は、「日本人はお湯で体を洗うと聞いていたから、あなたたちのためにお湯を準備しているのよ。」と照れくさそうに笑いながら教えてくれた。 私は頭を殴られたような衝撃を受けた。わざわざ私たち日本人留学生のために、どうにかしてお湯を用意しようと考えてくれたこと。そして、体を洗うことができるほどのお湯を準備するという、大変な作業を私たちには黙ってやってくれていたこと。そんな驚きと感謝で、しばらくは唖然としてしまった。びっくりしている私たちを見て、ホストシスターは笑いながら「早く早く!」と私をお風呂場に押し込んだ。
祖父との最期
「後悔の無いように生きたい」、「一日一日を大切に生きたい」、誰しも少しは思うところがあるだろう。人生の終盤にて痛感することも多いセリフであるが、私は比較的人生の序盤に痛感することとなった。母方の祖父にとって私は初孫であり、家が近かかったこともあり、幼い頃からとても可愛がってもらったいた。休みのたびに毎週色んなところへ連れてもらった思い出がある。祖父がいることは日常であり、当たり前の光景であった。 そんな祖父であるが、私が小学生の頃に大腸ガンを患い、それほど余命も長くないだろうとの診断を受けた。とはいえ、抗がん剤治療を行うことで快方に向かっていた。20年、30年は無理でも、数年は問題ないだろうとの見立てであった。週に一回ほど入院先の病院にも定期的にお見舞いに行っており、比較的元気な姿がそこにはいつもあった。一時の辛そうな頃に比べると非常に元気そうで、毎週良くも悪くも変わりない様子であった。 お見舞いは毎週日曜だったが、その週はたまたま運動会で疲れていたこともあり、直前でお見舞いに行くことをやめた。「また来週行けばいいだろう」、ルーティンとなっていたお見舞いについてそう思ってしまったのだ。 その翌日、祖父は急逝した。日常から急に祖父がいなくなってしまったのだ。 余命わずかと申告されていれば、ちょっと疲れていてもお見舞いに行っただろうか。最期に交わした言葉は何だっただろうか。なんとなくのやり取りしかしていなかったのではないだろうか。自責とも言えぬやるせない感情が渦巻いていた。
父のあの世への旅立ちを笑って送り出した思い
私もすっかり中年になり、考えてみれば今まで生きてきた年月より、これから生きられる年月の方が短くなってしまいました。そんなことを思うと22年前に亡くなった父親のことを思い出します。 私が高校3年のとき両親は離婚して、兄弟は母親のもとで暮らしていました。一人になった父はというと、その後千葉県の田舎の方へ行って生活していたのですが、もともと体が弱かったせいもあり入退院を繰り返していて、私も何度か病院に呼び出されました。私が長男だからです。何度か行った病院では「退院できたら長男として引き取ってください」と言われていて、考え抜いた末面倒を見ることにしました。その打ち合わせのために千葉の病院へ行く日の朝、私が行くことを告げられた父は体調が急変し危篤状態になったそうです。 これは想像なのですが、プライドが高かった父は捨てたも同然の私に面倒を見られるのが嫌だったのだと思います。わざわざ千葉まで出向きやることもなく帰ってきました。 それから数か月経ったある日の夕方、帰りの車を運転していたところに千葉の病院から電話が掛かってきて「いまお父さんが危険な状態です。あっちょっと待ってください・・・今死亡が確認されました」と言われ、一瞬事態が理解できませんでしたが父が死んだのです。 急だったものの翌日に妹たちと千葉へ向かい、様々な手続きをしながらほとんど誰も来ないであろう簡単な通夜の準備をしました。通夜の手配は父が千葉で交友のあった方が手配してくれたので、大変助かりました。 通夜の夜にいたのは私と妹2人、そして千葉に住んでいた父の兄と鎌倉に住んでいた父の姉の5人だけでした。それ以前から入退院を繰り返していたことから、いつかはこんな日が来ることを皆考えていたと思います。 その夜は一切しんみりすることはなく、叔父や叔母も父の若いころの思い出話を笑いながら話してくれて、私たちも笑いながらそれを聞いていました。それも大いに飲みながらです。不謹慎かもしれませんが楽しい夜でしたし、きっと父も喜んでくれたと思っています。 「通夜」とは一晩中明かりを絶やさないため誰かが起きていなければならないものですが、大酒飲んで笑って話しているうち、私も妹たちも叔父も叔母も爆睡してしまいました。 起きたとき「しまった!」と思ったのですが、そこは簡単には消えない蝋燭や線香が用意されていて葬儀屋さんには感謝です。無事に終わったとは言い難いかもしれませんが、通夜を終え翌日には荼毘にふし、骨となった父を引き取ったのです。
中国での生活と目の前の拳銃
普通に日本に住んでいる人は、拳銃を生で見る機会はないだろう。 だが、私は一度だけ見た事がある。それも、銃口は目の前1センチくらいの超近距離。その時の事を思い出してみよう。 それは、今から二十数年前、私が中国の北京に留学していた時だった。 当時の中国は、今の中国と比べて物価も安く、日本円で30円もあればラーメンが食べられたし、数人で近所の食堂に行っても150円もあれば、そこそこ良い食事が出来た時代だった。 だが、留学といっても基本的に無駄遣いは厳禁。私は、あまり余裕のない学生だったため、普段の食事はそれなりに質素にしていた。 とはいえ、ときには気晴らしも必要。週末になると、周りにいた日本人や韓国人留学生と共に食事に出かけた。 当時、よく行ったのは「五道口」と呼ばれるところだ。 そこは、外国人留学生が多く集まり、韓国人街もあったため、頻繁に焼肉を食べに行った。 交通手段だが、たいていは友達と一緒にタクシーに乗り込んだ。所要時間は、私たちが住んでいた宿舎から30分ほどだ。 そこで焼肉を食べ、お酒を飲み、かなり酔った状態で帰るのだが、遅くなりすぎるとタクシーが捕まらない。 では、どうするかというと、白タクがいるのでそれに乗る。 ちなみに、白タクとは国から許可を受けていない不法タクシーの事である。一般の中国人も普通に使うので、金額交渉さえちゃんと行い、遠回りされないように気をつけていればほぼ問題はない。 その時も、そのつもりで乗ったのだが、いつの間にか寝てしまった。 とはいえ、一緒に乗った友達もいたので、通常なら寝てても問題はない。 でも、その時は「コンコンコンコン」という音で起こされた。 「うるさいなぁ」と感じながら目を開けると、タクシーの窓ガラス越しの目の前に、銃口が見えた。
会計事務所は税金を安くしてくれるところという誤解
今も法人の経理として働いている私の仕事上の原点は20代のころから働き始めた会計事務所時代です。あまり深く考えず知り合いのつてで入職したのですが、「手に職」といえる知識を得られたことを思うと当時の上司や同僚には感謝しています。 色々な経験を積んだ会計事務所時代ですが、そこで見た中小企業主や個人事業主の、少なくとも「税金」に対する考え方には驚くばかりでした。基本的に税金は「払いたくないもの」なんです。個人事業主といっても業種は様々で、第一次産業の農業・漁業や開業医・飲食店・建設業など多岐にわたります。その中でも小規模な事業者になるほど確定申告の時期に「そんな税金払えないし払いたくない」などと、およそ法律を守ろうとする気のない発言を連発します。 第一次産業の方に至っては「税金やすくするのにあんたらに金払ってんだろうが!」と言われます。 この傾向は零細法人でも同じで、ある会社の社長さんは「あいつら(税務署のこと)、こっちが倒産しそうでヒイヒイ言っているときには何の手助けもしねーで、ちょっと儲かったら税金くれって何なんだ!」と言われていましたが、実際その通りです。 勤め人をしていると分からない苦労と、国に対する不信感が「税金」という一点で見えやすくなるものなのです。 少なくとも私が知っている範囲で言うならば、会計事務所選びは納税者目線で考えてくれるところに依頼すべきです。私も心掛けていましたが、節税という名のギリギリの勝負をしていたのも、苦労している納税者のためを思ってのことでした。
子供が一人で行う役所の手続き
中学を卒業して15歳で岩手県から一人で三重県に就職したが、働きはじめて社長に「役所」に行って「国保」の手続きをしてこいと言われた。 もちろん、当時の私は、最初何言われたか分からなかった。 「国保」とは国民健康保険の事だ。 私が就職した会社は有限会社だったせいなのか、社会保険ではなく国民健康保険だったと思う。 とはいえ、当時は「国保」でも1割負担で通院出来たので国民健康保険でも社会保険でも大した問題ではなかった。 社長から、「役所で手続きしてこい」と言われた時の事はうっすらとしか覚えていないが、役所での事は良く覚えている。 突然だが、当時の私は身長が低く幼かった。 なので、役所に入っても窓口が高く、話を聞くために窓口の向こうから係の人がこっちまで来てくれた。 社長に言われた必要な物は持って行った。 国保の手続き上問題はなかったと思うが、子供にしか見えない子が役所に一人で訪れて、国民健康保険加入の手続きをしたいと言った時、なんとも言えない顔をされた気がする。又はそんな雰囲気になった感じがする。 あと、うっすらとだが、アメをくれたのは覚えている。
ふとした瞬間に見られる育ちの良し悪し
歴史の浅い土地で生まれ育った私は、俗に言う「良家」という存在とは無縁で大人になりました。今の世の中に身分というものは存在していませんが、ごく一部の上流階級では今でも家の格式なるものがあると噂されています。 良家ではないとしても、育ちのよい人というものはいるもので、あるときそんな人とすれ違い驚いたことがあります。 もう10年も前になりますが、私は仲の良い友人夫婦と鎌倉旅行へ行きました。鎌倉には昔から親戚が住んでいて縁がなかったわけではないのですが、その時初めての鎌倉でした。 憧れの江ノ電へ乗り江の島などを楽しんだ初日を終え、2日目のランチである蕎麦割烹を訪れたときちょっとした「驚き」に遭遇しました。 食事を終え建物の玄関へ向かうと、靴を入れている場所の前に上品そうな老齢のご婦人がスツールに腰かけていました。靴を取り出したかったので「すいません、その下から靴を出したいのですが」と声を掛けました。 すると上品そうなご婦人が少し驚いた表情をして「ごめんあそばせ」と言ってそこを避けてくれました。 生まれて初めての「ごめんあそばせ」です。この言葉が現実に使われていることに少し感動を覚えました。普段から使っている言葉ではないと咄嗟には出ないものです。人によってはどうでも良いような瞬間でしょうが、自分に足りないものが見えたような気がしました。
カーコンプレッサー製造現場で経験した苦い失敗と成功体験
幼少期より私は機械に触れることが多かった。農家だった実家はトラクターや稲刈り機、チェーンソー、草刈機などの農機器が沢山あり、壊れたら自分で修理をし、また使うの繰り返し。その影響もあり、工業高校へ進路を決めた。そこには沢山の工作機械があり、「ものづくり」の楽しさを肌で感じながら工業系の専門科目を学んだ。卒業後は、某自動車部品をつくる会社へ就職。カーコンプレッサー用部品の製造に改善班の一員として携わり、実に7年間勤めた。現在は物流クレーンをメンテナンスする仕事をしているが、最初の自動車部品製造会社での数々の体験が印象に残っており、今となっては多くのことを学ばせてもらったと感じる。 ちなみに、カーコンプレッサーとは名前の通り、自動車に載っているコンプレッサー(空気圧縮機)のことだ。コンプレッサーが生み出す圧縮空気のエネルギーを利用することで、空気の加熱あるいは冷却を行い、車の冷暖房(エアコン)機能を担う。実は日本で車にエアコンが標準装備されるようになったのは、1970年後半〜1980年代と歴史は浅い。しかし、今となっては必需品で、使ったことがない人はいないだろう。では、車内環境を快適に保つこのカーコンプレッサーのどの部品の製造に携わっていたのか説明していく。 私が配属された工場では、カーコンプレッサーのハウジングという部品を製造していた。ハウジングとは、コンプレッサーの外枠のアルミ素材で作られた筐体部品のことを指す。 工場は国内でも屈指の規模。24時間体制で稼働しており、1日に約1200台のハウジングを製造していた。もちろん製造量だけでなく、安定した品質を維持するため、様々な取り組みもされていた。 たとえばコンプレッサーのような機械は1/100ミリ、部位によっては1/1000ミリ単位の精度の加工が求められる。しかし、筐体はアルミ製のため、熱による膨張や凝縮の影響が大きく出てしまう。対策として、加工ズレが生じないように、機械とアルミの温度をこまめに管理した。 また、ハウジングの細部を形作る切削加工のあとは、アルミの粉(切粉)も残留する。そこで、刃物の回転速度や送り速度を計算し、切粉が除去されるように設定する。こういった創意工夫を重ねることで、ようやくハウジングという部品の品質は保たれるのだ。 ところで、一般的に工場と聞くと、上述したような制御を行えば、あとは大量の機械が自動で製品の加工を行なっていくように想像するだろう。もちろん、そういった側面もある。が、製品の仕様変更、工場設備の変更、機械の老朽化、そして変動する人員体制に対応しつつ、品質や製造を納期通りに保つことが、現場ではとにかく大変だった。 ちなみに私は工場全体の改善班の一員として携わっていたのだが、特に機械の老朽化への対応には気を引き締めていた。これはなぜか?簡単にいえば、工場設備は日に日に変化するのだ。例を挙げると、たとえば包丁を毎日使用すると、刃が摩耗し、切れ味が落ちる。このような現象は工場機械のあらゆるところで起きる。包丁が摩耗して、野菜や肉が切れなくなるように、工場の機械も老朽化に伴い加工精度が落ちていく。結果的に製品の不良につながる。 もちろん、過去の経験を頼りに、問題を早めに対処できるケースもあるが、全てではない。仕様変更に応じた状況の変化や、初めて壊れる箇所など、無数に問題はでてくる。それが大量の機器を運用し、複雑な製品を製造する上での難しいポイントだ。 機械の老朽化には最善の注意が必要なことは、わたしもこの身を持って経験した。入社して3数年目のころ、新しいコンプレッサー製品の品質検査の担当に就いた。そんなある日、後工程で組み付け不可というクレームが起きた。理由は筐体に致命的なキズが入っていたためで、私が見落としてしまったのた。キズの原因は、検査する前段階の加工の際、製品が置かれる基準台に老朽化による傾きが生じていたことだ。 幸い、車に取り付ける前で大惨事は防げた。が、クレームが出る前に製造された製品すべてを廃棄するとなると、損失は数百万円を軽く超えた。そのため、在庫品数千台を一つずつ確認することになった。 決して仕事の手を抜いていたわけではない。品質検査チェック項目を適宜見ながら行った。私の言い分として、その新しいコンプレッサー製品は今までとは異なった構造で、クレームの出た部位は既存の検査項目に入っていなかったのだ。つまり、今回の基準台の老朽化に伴う傾きの誤差は、これまで重視されない箇所だった。さらに、出たキズも目を凝らさないとわからない所で「正直こんなの分からないよ」と言いたい気持ちだった。 そうは思いつつも、工場長や各部署の上役が集まりだした。あれこれと発生状況の調査やなぜ見逃したのか事情聴取され、事態は大きくなった。「下手したら減給、あるいは解雇か」そんなこと思いながら血の気がひいていた。その後は、毎日のように工場長がラインに訪れては、「人的な問題はなかったのか」と張りつきながらの確認が行われた。さらに品質検査動作の確認や作業手順の間違いの有無など、1週間にわたり、各所で念入りな調査も入った。 不幸中の幸いか、今回は私の人的問題というよりは、品質検査チェックシステムに根本的な問題があったと判断された。さらにキズがついた製品に関しては、各部署の経験豊富な上役が連携をとり、「後工程の修正でなんとかなるのはないか?」と工夫をひねり出し、なんとか難を免れられた。 のちに思い返すと、品質検査の本質が理解できていなかったように思う。新しいコンプレッサー製品の製造となると、重視すべき箇所も変わりうる。当然、それを想定して検査チェック項目の追加を上司に提言しなければならなかった。さらに、そのチェック項目箇所の追加に応じて、これまで対応する必要がなかった老朽化に伴う機械の誤差を、他部署も含めて確認すべきだった。こういった日々の改善を重ねながらノウハウを蓄積することで、生産ラインは次の課題に対応するレベルへと成長していくのだろう。 そして何より、自分の意識にも問題があった。品質検査の担当は、品質を守る最後の砦であるが、どこか品質に関して、「問題なんて出ないだろう」と、疎かに考えていた自分がいたことに気づいた。だからチェック項目のみの確認という、受動的な仕事しかできていなかったのだろう。表現は難しいが、「問題は必ず起きる。それを探し出す。」という攻めの心理こそ、検査では重要に感じた。 思い返すと、このあたりから「ここの老朽化は今でこそ重要ではないが、もしココの誤差が拡大したら、話は変わるのではないか?」といった、観察力や疑問を重ねる探求心も湧いてきたと記憶している。
新しい場所、15歳で社会に出た環境での現実逃避
知らない場所、知らない人、知らないルール。 今の自分から思えば「なにも感じる事すら出来ない」、そんな子供だったから、あの環境に順応する事が出来たのではないだろうか。 現実世界で現実逃避していた中学時代。 でも、社会に出てからも、その現実逃避はもう少し続いた。 会社は、今でいう派遣会社、三重県の車メーカ―工場に派遣される人たち。 当時は「派遣工」とか「外注」とかいわれていた。 住んだ場所は、雇ってもらった派遣会社の社宅、社宅といってもマンションの1階にある3DKの普通の部屋、そこには、既に当時30歳前後の菅野さん(男性仮名)が住んでいた。 菅野さんは、会社ではリーダー的な人で、何もしらない私になにかと世話をしてくれた優しい人。 繰り返しだが、当時本当に私は人に何かをしてもらって感謝するとか、あまり考えない子供だった。 朝食を作ってもらっても、夕食を作ってもらっても「もうしわけない」とかすら感じなかった。 又、菅野さんは仲間が多く、頻繁にバーベキューなど行っており、私もつれて行かれたが、「楽しい」、「美味しい」など、たいした反応もしなかったので、今思えば本当に面白味のない、かわいげのない、そっけない子供に見えた事だろう。
「人は信じてはいけない」と教えてくれた初恋の人
全ての人が初恋を経験するわけではないことに驚きを感じますが、私の知っている範疇では誰もが遅かれ早かれ初恋を経験しています。 私の初恋は幼稚園の年長さんの頃で、人と比べ早かったのかどうか比較したこともありません。もうかなり昔のことなので初恋の子の名前も顔すらも思い出せませんが、これはトラウマが記憶を消している・・・かもしれません。幼稚園には3年間通いました。思い出してみても覚えている記憶と言えば、尿意を我慢できずにお漏らしした記憶や、金魚の絵を描いてその出来栄えが人と違い過ぎるが故の嘲笑など、楽しかった記憶はありません。 そんな幼稚園時代の最後の年に好きになった子がいました。成人式を迎えるころまでは覚えていたような気がしますが、今ではまるで思い出せません。 幼稚園の同じクラスには下の名前が私と同じ男の子がいて、今は仮に私とその子を「太郎くん」としておきます。 ある日の帰りの時間になって初恋の子が泣いていて、担任のオバサンが事情を聞いている風な感じでした。心配しながらその様子を見ていたのですが、担任のオバサンが「太郎くんが帽子を引っ張ったせいで首が苦しくなったようです」と言ったので、幼稚園児だった私は「あの太郎がやりやがった」と、妙な正義感が沸き上がった・・・ような気がします。 そしてオバサンが初恋の子に犯人が誰かを聞くと、その子は私を指さしました。 そこからの記憶は残っておりません。 これが生まれて初めての「濡れ衣」というやつです。よりによって好きだった子が私を犯人にするとは、幼稚園児には回避のしようがないシチュエーションです。 その後、初恋の子は私とは別の小学校へ行きどうなったかは知りません。私が人から「ちょっと変かも」と思われるきっかけは”あれ”だったのかもしれません。
反省からの気づき
誰しも「仕事を辞めたい」「この上司嫌い」など思ったことがあると思います。 私もその中の一人でした。 というのも、私の上司は自ら言った発言に対して責任を持たず、都合が悪くなると「そんな指示出していない」などその場から逃げるのです。 今回は、このような中で気付いたこと、感じたことを書きます。私は、高校卒業後某自動車製造メーカーに就職しました。 製造業なので、昼夜の仕事で2直24時間体制での仕事。新入社員の時から、その上司はパワハラする傾向で、無責任という噂が出回っていました。 5年経ち、最悪にもその上司と同じ直に。その日その日によって機嫌は変わり、威圧的な態度で仕事を押し付けてきて、到底上司とは思えない身振りでした。 そして、事件は起きました。 私は改善活動のリーダーを任され、生産率を向上させるために加工タイムの短縮の改善を行なっていた時のことです。 不運にも一つ不良を作ってしまいました。正直言うと改善には失敗がつきもので、しょうがない部分もあります。 ところがその上司は「なにやってんだ!ふざけんな」と一言・・・だけで終わらず蹴りを入れられ、同じ作業してもらうと、上司もやはり不良を作り・・しかしその上司が作った不良は暗闇に消え、私が作った不良だけ会社に報告されました。 暴力と隠蔽で、私は憤りを感じ、次の日重役が集まる全体の会議で私はその上司に対して「あなたを上司とは思いません」と一言。言ってやったぜ。ざまぁみろと思いましたが、同時にその上司の面子を潰してしまいました。 その帰り、車を運転しているとサイドミラー同士がぶつかるという事故を起こし、家では下の階の人が火事を起こすという事件が立て続けに起こり、ここまで不運が起きると、自身の行動を振り返ることに。 重役のいる会議であそこまで言う必要があったのか。もっと他の方法があったのでは。など考えさせられました。 結論、言いすぎたと感じ、謝罪することに。上司もここまで言われたのは初めてだったらしく、改心できたと言っていました。
最後のプレゼント
私は、祖父母・両親・妹の6人家族。 その中でも、私はじいちゃんが一番大嫌いで、子供の頃はよく喧嘩していた。 今は社会人になり、振り返ると幼稚で嫉妬していたとつくづく思う。 私の実家は、お風呂を薪で沸かしたり、野菜やお米を育てている。 じいちゃんとの事件は幼稚園の頃・・・妹が産まれ、妹にぞっこん。 妹ばかり可愛がる姿に腹を立てていた。 私が先に見ていたテレビでも、妹が来たらチャンネルを急に変えられ、怒ると「年上なんだから譲りなさい」と毎回のようにじいちゃんから言われる。 普通だったら親から言われるようなことも、じいちゃんから言われ、鬱陶しく感じるように。 しかし、高校生になると私の良き理解者になり、好きになっていた。 それは、私のいろんな姿を小さい頃から見せていたからこそだ。 就職が決まり実家を離れることに、社会人になっても週に一回はじいちゃんに電話、近況を報告していた。そして、電話時の毎回の決め台詞「お前の結婚式まで俺は生きるぞ」 そんな中、仕事では上手くいかず、上司から罵倒され、ほんとに嫌になっていた。 仕事が嫌いで、楽しくなくて、やる気なんて微塵も起きなかった。 そして、2019年8月訃報が届いた。じいちゃんが亡くなったのだ。 仕事が上手くいかない中での訃報、悲しみに暮れた・・・ お葬式も終わり、普段の生活に戻った時、母からある話を聞かせてもらった。 じいちゃんが亡くなる前、薪割りをしている時のことだ。 朝から夕方まで、手にはマメができてもなお、ずっと薪割りをしている。 母が「そんな辛い作業、どうしてずっとできるの?」と聞いたそうだ。 すると、じいちゃんは一言「好きだから」 その5文字に感動し勇気をもらい、これはプレゼントだと思った。
社会経験を積んできたからこそ分かる学歴の大事さ
私は不幸とまでは感じていないものの育った家庭が不和で、学業で大事な高校在学時にいよいよ家庭は行き詰まり、私が高校3年のときに両親は離婚しました。 それまで何となく「大学に行く」ことが当たり前だと思っていたのですが、共通一次試験は受けたものの、2次試験へ行く費用すらありませんでした。私と妹2人を引き取った母の暮らしは厳しいものがあり、「働かない浪人生」でいることは許されませんでした。 ホテルでボーイとして働き、次の受験シーズンのころには諦めの心境と、それでも見栄をはってしまう下らない意地との狭間で揺れ動き、ホテルでの社員登用のお誘いも断って無職になりました。それから職を変えながら平成3年から税理士事務所で働きはじめ、今でも自分のアピールポイントである経理・税務の知識を身につけました。 あれから30年以上過ぎ、それなりに難しい仕事をこなしていても、大学進学を諦めたからこそ思えることがあります。よくネットなどで「学歴」について論争しているのを目にします。否定派からは「会社の新人が※※大学を卒業したのに仕事が出来ない」といった、ごく一部の事例で全てを否定するような視野の狭い意見が多いのですが、私から見れば呆れてしまうばかりです。 低い位置からスタートし何とかここまで辿り着いた私から言わせると、今の日本では高卒だとかなり不利なスタート地点から社会人生活を始めることは事実で、学歴を一部の事例で否定することは僻みに他なりません。 高い位置からスタート出来たら、下では経験できないことも多く、同じだけ努力しても身につくスキルには大きな差が出てしまいます。 下から這い上がってきたからこそ確信している現実です。別に悔やんでもいませんし、成り行きに身を任せてしまった結果なので、単なる真実を言っているに過ぎません。
君がいてくれたから
数年前から恋人との同棲を開始しました。 当時、私はメンタルの調子を崩しておりうつのような状態で苦しみながら日々を送っていました。心が苦しく、悲しみに苛まれながら日々を過ごしていたところで彼から同棲を切り出されました。同棲を開始してからも、メンタルの調子が安定せずに相手に迷惑をかけてしまう日々が続いてしまっていました。 食事がろくに取れなかったせいでメンタルの調子もなかなか回復せず、ADHDなどの発達障害の診断を受けてしまったことからますます心を色々な人から閉ざしてしまっていました。 同棲相手に対してもそれは同じでした。 やることがないから、などと我儘を言ってしまって迷惑をかけたり、部屋をひっちゃかめっちゃかにして掃除もできなかったりと、相手に迷惑をかけてしまう日々が続いていました。 また、メンタルの起伏も異常なまでに激しくなってしまい、相手に怒鳴り散らしたり、泣き喚いたりなどパニックのような症状が止まらなかったり。 その度に罪悪感に苛まれてしまい、また泣き喚くをくり返す…そんな日々を繰り返してしまっていました。 それでも同棲相手は諦めることなく私を励ましながら、日々の生活を過ごして、乗り越えていってくれました。 その結果、私もうつは少しずつ回復していき、現在は毎日それなりに調子を取り戻していけました。
ありがとうを忘れない。
「めっちゃコミュ力あるね」今となってはみんなから言われる。 私は、小学校の全校生徒21人、中学校34人。大分の小さい田舎町で育ち、生徒のほとんどは保育園からの幼馴染や顔見知りばかり。 この学校以外の人とは喋ったことはなく、コミュニケーション力の「コ」の字もなかった。私は田舎町を出たいのと、車好きだった為、愛知へ就職。 思い切って田舎を出たものの、知らない土地での生活、知らない人との会社生活で毎日がストレスだった。 そんな中、「バレーしてみない?」同じ会社のおばちゃんが声をかけてくれた。 私は中学、高校とバレーボールしていた為、気分転換で行ってみることに。 練習場へ行くと最初は人見知りを発動していたが、とても楽しく毎週練習に参加していくうち、自然に馴染めるようになってきた。 そんな時、一緒の練習に参加していた私と同年代くらいの人が「もっと若いチームで練習しない?」と誘われ、参加。 そこにはたくさん同年代の人がいて、人との会話が楽しくなり、人見知りも改善された。 今となっては、積極的に声をかけることでたくさんの友達ができ、仕事でも活かされている。
思い出の家
2年前のある日。私は御葬式に参列していました。 亡くなったのは売主様。 久しぶりにお会いした息子様達にお悔やみの言葉を伝え、 最後の言葉を棺に向かってかけることができました。 この売主様との出会いは、家族愛に溢れたとても暖かい気持ちを私に与えてくれました。 売主様と初めてお会いしたのは約5年前。 亡くなった御主人様名義の財産として誰が家を相続するのか、 という相談を受けたのが最初でした。 お子様は2人いらっしゃるので、全財産の半分を売主様(お母様)。 残りの半分をお子様が分けることになります。 特に揉める話ではなかったのですが、困ったことがありました。 家の価値がとても高く、家以外の財産がなかったのです。 この場合、家に住む売主様(お母様)が家を相続し、 その代わりにお子様2人に現金を渡すことなります。 しかし、家の資産価値が高いためお子様に渡せる現金が ありません。 (※例えば家の価値が1,000万ならお子様2人には500万となりますが、 5,000万円なら2,500万を現金で渡す必要があります。) 売主様が一旦全て相続しても良いのですが、 そうすると売主様が亡くなった時の相続税が 莫大になります。 残る手立ては一つ、思い出の家を売却しお金に換えるしかありません。 後日、家を売る覚悟ができました、と売主様から連絡がありました。
家を買うことと家に住みつづけること
私が不動産会社の支店長だった時、ある御客様が「家を買いたい」と来店されました。収入や資金の準備は十分。銀行の担当者も全く問題ないと言っており、御夫婦も安心して家探しをしていました。 新築戸建をベースに色々な物件を内覧し見学をしている中、ふと御夫婦からよく出る言葉が気になりました。 「子供がきたら」という言葉です。 「子供ができたら」ではなく。 来店時、御夫婦にお子様はいらっしゃいませんでした。 将来の話かと思っていましたが、 内覧が終わり商談スペースで話を聞くと 「養子」を受けられるとのことでした。 私は初めて養子を受けられる御客様に出会いましたが、 既に縁組はできており後は手続きの進行待ちという状態でした。 私は御夫婦に尋ねました。「お子様の教育計画はどのようにお考えですか?」 ファイナンシャルの言葉には、人生の三大出費という言葉があります。 「住宅費用」「老後費用」そして「教育費」です。 例えばお子様1人が文系大学を卒業した場合、トータル教育費は約1,800万円かかります。 6年制の理系だと2,000万円を超えます。 御夫婦はしっかりとした教育環境を与えてあげたいという希望があり、 一旦家探しは止めて資金計画(シュミレーション)を行いました。 その結果、いま家を購入すると大学入学時点で貯金がマイナスになり、 破産することが分かりました。 マイホームを夢見ていた御夫婦でしたが、 なくなく人生プランを変更することになりました。 家を購入する夢よりも、十分な教育環境を整えるという もう一つの夢を優先することにしました。
中卒で社会に出るという環境
今、だいたいの子供は当たり前に高校に入学し、大学に進学しているように思われる。 私の時代は、今ほど進学率が高かったわけではないが、言うほど低いわけではなかった。 当時、中学一学年が300人程度、その中で高校に進学せずに、中卒で働き始める子供は10人未満だったろうか。 だいたいの理由は、勉強が嫌いか(教育)、家が貧乏(貧困)の2種類なので、中卒で働く子供は「普通」では無い存在だったのかもしれない。 この、色々な事情があろうこの10人未満の中に私もいたのであった。 私は小学生の時には、すでに勉強が嫌いで授業をまともに聞いていられなかった。 勉強が面白く感じなかった事は今でも鮮明に思えている。 そのまま、勉強が嫌いなまま中学にあがったが、もちろん成績が上がるわけでも無く、運動も得意ではない、そうなると周りにもバカにされる。学校も休みがちになり、そのまま登校拒否。 そのまま3年になり、ダメもとで受けた底辺の高校にも落ちた。 そんな状況でも、当時は特に何も考えてはいなかったように思う。 今になって思えば、学級主任の先生は、毎日電話くれたり、夜に連れ出してくれたりしたものだ。(進路も心配してくれて、調理の専門学校を紹介してくれた。) でも、そんな他人の親切すら感じる事も出来ない悲しい子供だった事に、今ではただ恥じるのみである。 ようするに、考える事すら放棄した子供だった。