義父との最初で最後の共同生活
私は今でも大事にしている想い出があります。大事な大事な想い出です。
この話は3年前の2020年のことです。私は結婚を機に住宅ローンで購入した1軒家で、妻と2人で暮らしていました。子供はいませんでしたが、夫婦で何の不自由もない幸せな日々を過ごしていました。
妻には高齢の父親がいて、少し離れた妻の実家で1人暮らしをしていました。
私にとっては義理の父です。定年をむかえていた義父は、少ない年金で大好きな日本酒を飲みながら、つつましい暮らしをしているようでした。
義父の健康状態といえば、日本酒の影響で少し膵臓を悪くしていたようです。ですが言葉もハッキリしゃべっていましたし、食事や家事なども当時は1人でこなしていたようでした。
そんな義父とは年末に1度だけ、年越しを一緒に迎えるために、妻の実家に会いに行くのが結婚後の夫婦の通例でした。
つまり頻繁に会うような間柄ではなかったということです。
私と義父の仲は悪くはなかったです。でも仲が良いという訳でもなく、俗にいう当たり障りのない関係であったと思います。
そんな当たり障りのない関係だった義父と私が、まさか共同生活を送ることになるとは。
そしてこの共同生活が、私の記憶に深く残る大事な想い出になるとは。当時の私は想像もしていなかったのです。
2019年の年末、義父との通例の年越しを終え2020年を迎えた私たち夫婦は、普段通りの何気ない生活を送っていました。
しかし梅雨の時期に入ろうかという5月を迎えたある日のこと、妻が突然、私に相談があるといってきました。相談内容は義父のことで、2020年に入ってから義父の体調が急に悪くなったと義父の方から連絡がきたそうです。歩くのが億劫になり膵臓の調子が良くないとのことでした。
思えば80歳に差し掛かった義父が、病院に通院するようなこともなく、1人で食事や家事をこなしていたのは、なかなかすごいことです。逆に言えば今までが元気過ぎたのかもしれません。
これまで手がかからな過ぎて、気にも留めていなかったのですが、体の具合が悪くなってもなんら不思議ではない年齢であることを、この時まで忘れていました。
そんな義父が、自分から体調の不良を訴えてきているのです。この時の私の直観としては「只ならぬことなのでは?」っという思いが沸いてきました。
なので妻と話し合いどうしようか?と考えた結果、義父さえ良ければ、こちらの夫婦の家で一緒に暮らしませんか?と伝えることにしました。
そのことを伝えると、義父もこちらで一緒に暮らしたいとのこと。
義父の体調が心配なので、準備は急いで進めることにしました。引っ越しは翌月である6月初めには完了して、義父との共同生活が突然スタートすることになったのです。
義父と共同生活をするに当たって、実は不安なこともありました。
妻と義父はもちろん親子関係なので、一緒に暮らしても何の問題もないだろうと思いました。
しかし私といえば、義父とは今まで1年に1度だけ会うくらいの「当たり障りのない関係」だったのです。
しかも義父とは言え、いわば「赤の他人」です。言い過ぎかもしれませんが、私の感覚からしたらそうなんです。しかも私は生まれてこのかた「赤の他人」と共同生活をしたことが1度もなかったのです。
19歳で実家を出ていき、そこから妻と結婚するまでずっと自由気ままな1人暮らしをしていましたので。他人とひとつ屋根の下で暮らすというのは、経験がないので楽しみよりも不安しかなかったです。
義父と一緒に暮らして「ちゃんとしたコミュニケーション」をとることが果たしてできるのか?仕事上の「ビジネスコミュニケーション」なら自信があったのですが。
生活上の必要なコミュニケーションとビジネスコミュニケーションでは訳が違うと思いました。
そんな不安を抱えながら始まった義父との共同生活でしたが、最初はやはりぎこちなかったです。
義父は元タクシー運転手で社交的で協調性もある人でしたが、積極的なタイプではなかったようです。
人に話しかけられたら話し返すけど、自分から話題を振るということは、どちらかというと苦手な人のようでした。
我が家は食事をする以外にみんなで集まることもなかったので、義父は普段、リビングのソファーに座って静かにスポーツ観戦をしているようでした。私と妻は2階にあるそれぞれの部屋で、趣味である動画鑑賞やドラマを見るのが日課でした。
共同生活が始まって1カ月はこんな感じで、お互い特に干渉することもなかったです。義父のいるリビングを通るときも、挨拶くらい交わして通り過ぎるといった日々を過ごしていました。まさに当たり障りのない関係ですね。
義父はとにかくおとなしかったです。今思えば義父はこちらに居候みたいに引っ越ししてきたので、遠慮もあったのかもしれません。
そんな当たり障りのない関係が、良い意味で変わる「キッカケ」が訪れたのは、季節も真夏に入ろうかという7月の初めのことでした。
ある日、いつものようにリビングを横切ろうとすると、義父がいつものようにテレビを見ていました。よく見るとテレビには、ちょんまげ姿の大男が大声を上げて組み合っている映像が流れているではないですか。それは大相撲の実況中継でした。季節も7月に入りちょうど大相撲夏場所が開幕したようでした。
私は当時、大相撲は見ていませんでしたが、何年か前には大相撲を見ていた時期があったので、数名の力士の名前くらいは知っていました。その数名の力士の名前を何気に義父に聞いてみたら、近況やら現在の番付など詳しく教えてくれました。
その義父の話す様子が本当に楽しそうで、身振り手振りを交えいろいろなことを解説してくれたのです。その表情はもちろん笑顔だったのを今でも良く覚えています。
義父は本当に大相撲が大好きだったのだと思います。
その笑顔を見ていると、興味がそんなになくても、他の知らない力士の話もついつい聞きたくなるのが不思議でした。そしてまた身振り手振りを交えた笑顔で教えてくれるのです。
その話を聞いているうちに、私自身も嬉しくなってしまい、急に大相撲に興味が沸いてくるほどでした。
この時から大人しくて寡黙な義父のイメージが変わった気がします。
義父はプロ野球も大好きだったようです。特に広島カープの大ファンでニュースを欠かさず見ていたようでした。でも民放の番組ではあまりプロ野球の放送はされていませんでした。
なので妻と話し合い、義父のために広島カープの実況が視聴できる有料放送を契約しました。
すると7月のシーズン真っ盛りということもあり、義父は大変、喜んでくれたのでした。
私は義父のように、広島カープのファンでもなかったですし、なんならプロ野球よりサッカーの方が好きな人間でした。
でもそんなプロ野球に興味が薄い私にも、義父は広島カープのことや選手の特徴などを身振り手振りを添えて一生懸命、笑顔で楽しそうに教えてくれました。
その笑顔を見ていると、この人は本当に広島カープが好きなんだなっと理解できました。
楽しそうな義父を見ていると、なんだかこっちも嬉しくなったのが自分では印象的でした。
この頃から時間が合えば、大相撲や広島カープの試合を、義父と一緒に観戦するようになりました。
他にも大好きな犬の話や仕事関係の話もするようになりました。
よくよく義父と話してみると、意外に共通の考え方や共感できる話題が多いことが分かりました。それからは食事中でも、その日のニュースなど、いろんな話題について義父としゃべるようになりました。
大相撲実況から始まり広島カープの話題という些細な「キッカケ」でしたが、このおかげで義父との距離も一気に縮まったように思います。私と義父にとって大きな出来事になりました。
今までの当たり障りのない関係から、共通の話題で楽しく話せる同居人になれた気がするのです。
そういう普通の会話ができることが、いつからか楽しく感じれるようになってから、義父との同居生活はこれから2、3年後も続いていくものと勝手に思っていました。
大相撲の各場所の展望や1、2シーズン後のプロ野球順位の予想をしたり、仕事の悩みを相談したりすることを想像して楽しみにしている自分がいました。
そんな私の本当の父親といえば、高校生の頃に病気で早めに亡くなっていました。それに父親は単身赴任で県外で働いていたので、子供の頃から滅多に会うことができませんでした。
だから父親と息子としての交流があまりなかったのを記憶しています。
そのせいか共同生活の後半は、義父がまるで実の父親のように感じられていました。
父親が生きていればこういう会話をしたんだろうか?酒を交わして朝まで仕事の愚痴などいいながら飲み明かしたのか?
そういう想像ができるくらいに、義父との会話は楽しくなっていたのです。
でも、そんな父親の面影を重ねた義父との楽しかった共同生活は突然に。そしてあっさりと終わりを迎えます。
それは夏の甲子園を義父と観戦して盛り上がりながら暑さを乗り越え、これから秋を迎えようかという10月。共同生活も4か月目に入った頃のことでした。
10月18日。それまで食欲もあり会話も普通にできていた義父でしたが、その日は朝から体が少ししんどいとのこと。なので1階の和室に備え付けていたベッドに横になってもらい様子をみることにしました。食欲もなく、その日は食事をほんの少しだけとって早々に眠りについたようでした。
日付の変わった10月19日。その日の私は仕事が早朝出勤の日だったので、4時45分セットの目覚ましで目を覚ましました。眠い目をこすりながら2階の寝室から1階の台所まで降りてきたのですが、どこからか小さな声で、私の名前を呼ぶ声が聞こえました。
喉から絞り出すような感じのうめき声のようでもありました。和室の方から聞こえる気がしました。その声は義父の声で、私に助けを求める声だったのです。
急いで義父のいる和室に入ってみると、義父がベッドの下でうつ伏せで倒れていました。
驚いた私はすぐに義父を抱えあげて、ベッドに腰掛ける姿勢にしてあげました。
義父は胸の辺りを押さえてかなり苦しそうでした。
何があったか聞いてみると、夜中にトイレに行くためにベッドから起き上がったところ、態勢を崩してベッドの下に転んだそうです。
その時に胸から落ちてしまい、息がしばらくできなかったとのこと。前日に体調を崩していたこともあり、そこから自力で起き上がることが難しかったそうです。助けを呼ぼうにも胸を打ったので呼吸が整わず声が出なかったようでした。
なので数時間の間、うつ伏せの状態で誰かが通るのを待つことしかできなかったらしいです。
この時、いきさつを話しながら義父は涙を流していました。それは助かったという嬉し涙ではなく、自力でなんとかすることができなかった自分の無力さに対する不甲斐なさ。つまり悔し涙からきている感じがしました。ずっとすまん、すまん、と言ってましたから。
しばらく話して義父を落ち着かせると、妻を起こして事情を説明しました。
その日は妻が仕事を休み、義父の様子を見ることになりました。
私も昼までには仕事を終え帰宅できる日だったので、昼過ぎの義父の状態次第では病院に連れていき詳しく検査してもらったほうが良いと思いました。
この時、義父をすぐに病院に連れて行かなかったのは、義父が大丈夫だからと病院に行くことを強く拒んだからです。この時は義父の意思を尊重しました。
そして仕事を終えて、昼前には帰宅したのですが、義父の状態は予想よりも思わしくありませんでした。それは仕事中の妻からの連絡メールで分かっていました。
義父は和室のベッドに横になってうんうん唸って苦しそうにしていました。
そんな状態でも私が帰ってきたことに気づくと、ベッドから上半身を起こし「おかえり」と言ってくれました。その声はとても弱弱しかったですが、顔は精一杯の笑顔でした。
この「おかえり」という言葉が私が義父からかけてもらった最後の言葉になりました。
私はとりあえず義父に水を飲んでもらおうと思い、台所に水を取りに行きました。
そして再び和室に入ると状況が一変。上半身を起こしていた義父が仰向けに倒れていました。
視点が合わず意識が朦朧としているようでした。話すこともできない状態です。
本当に急な変化に私と妻はビックリして気が動転しました。
すぐに救急に電話してまもなく救急車が到着。義父は救急搬送されていきました。
2020年といえば、世はコロナ化の真っただ中で病院も非常に気を遣っている時期でした。なので救急病院の受け入れがなかなか決まりませんでした。
やっと受け入れてもらえる病院が決まったのですが、まずコロナの検査をしないといけないということでした。コロナの検査時間も含めてすべての検査をするのに、非常に時間がかかった記憶があります。
そして義父の検査結果ですが、コロナは陰性でした。容体の方は38度の熱と脱水症状、急性膵炎によるショック状態の可能性があるということでした。その日は手術などせずに入院の手続きを進められました。
なので入院に必要な準備をするため、義父の保険証や着替えなどを取りに、いったん家に帰ることにしました。入院のための準備を終えてもう一度、義父の入院する病院に向かう頃には、辺りが暗くなっていました。確か夕方19:30頃だったと記憶しています。
病院に着くと検査を終えた義父に会うことができました。
車いすに座っていて意識もありましたが、見るからにしんどそうなのが伺えます。
でも救急車を呼んだ時の状態からは、幾分は持ち直したようにも見え安堵しました。
担当の看護婦さんが言うには、食事は本当に少ししか食べることができなかったそうです。
話しかけると声を出すのが辛いのか、もしくは出せなかったのかわかりませんが、うなずく仕草と首を横に振る仕草でこちらの質問に反応していました。
その義父の様子があまりに辛そうだったことと、翌日から詳しい検査もあると思い、早めに切り上げることにしました。
そして変える間際に「義父さん、また明日も見舞いに来るからね」と声をかけました。
すると義父はその言葉がよほど嬉しかったのか、確かにはっきりとした表情でニッコリと笑顔を見せて頷いてくれました。
それが私が見た義父の最後の姿でした。
翌10月20日、朝早くから病院から連絡が入り、義父はあっさりと、そして穏やかに息を引き取ったそうです。享年79歳。