AGE

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Autobiography

義父との最初で最後の共同生活

私は今でも大事にしている想い出があります。大事な大事な想い出です。 この話は3年前の2020年のことです。私は結婚を機に住宅ローンで購入した1軒家で、妻と2人で暮らしていました。子供はいませんでしたが、夫婦で何の不自由もない幸せな日々を過ごしていました。 妻には高齢の父親がいて、少し離れた妻の実家で1人暮らしをしていました。 私にとっては義理の父です。定年をむかえていた義父は、少ない年金で大好きな日本酒を飲みながら、つつましい暮らしをしているようでした。 義父の健康状態といえば、日本酒の影響で少し膵臓を悪くしていたようです。ですが言葉もハッキリしゃべっていましたし、食事や家事なども当時は1人でこなしていたようでした。 そんな義父とは年末に1度だけ、年越しを一緒に迎えるために、妻の実家に会いに行くのが結婚後の夫婦の通例でした。 つまり頻繁に会うような間柄ではなかったということです。 私と義父の仲は悪くはなかったです。でも仲が良いという訳でもなく、俗にいう当たり障りのない関係であったと思います。 そんな当たり障りのない関係だった義父と私が、まさか共同生活を送ることになるとは。 そしてこの共同生活が、私の記憶に深く残る大事な想い出になるとは。当時の私は想像もしていなかったのです。 2019年の年末、義父との通例の年越しを終え2020年を迎えた私たち夫婦は、普段通りの何気ない生活を送っていました。 しかし梅雨の時期に入ろうかという5月を迎えたある日のこと、妻が突然、私に相談があるといってきました。相談内容は義父のことで、2020年に入ってから義父の体調が急に悪くなったと義父の方から連絡がきたそうです。歩くのが億劫になり膵臓の調子が良くないとのことでした。 思えば80歳に差し掛かった義父が、病院に通院するようなこともなく、1人で食事や家事をこなしていたのは、なかなかすごいことです。逆に言えば今までが元気過ぎたのかもしれません。 これまで手がかからな過ぎて、気にも留めていなかったのですが、体の具合が悪くなってもなんら不思議ではない年齢であることを、この時まで忘れていました。 そんな義父が、自分から体調の不良を訴えてきているのです。この時の私の直観としては「只ならぬことなのでは?」っという思いが沸いてきました。 なので妻と話し合いどうしようか?と考えた結果、義父さえ良ければ、こちらの夫婦の家で一緒に暮らしませんか?と伝えることにしました。 そのことを伝えると、義父もこちらで一緒に暮らしたいとのこと。 義父の体調が心配なので、準備は急いで進めることにしました。引っ越しは翌月である6月初めには完了して、義父との共同生活が突然スタートすることになったのです。 義父と共同生活をするに当たって、実は不安なこともありました。 妻と義父はもちろん親子関係なので、一緒に暮らしても何の問題もないだろうと思いました。 しかし私といえば、義父とは今まで1年に1度だけ会うくらいの「当たり障りのない関係」だったのです。 しかも義父とは言え、いわば「赤の他人」です。言い過ぎかもしれませんが、私の感覚からしたらそうなんです。しかも私は生まれてこのかた「赤の他人」と共同生活をしたことが1度もなかったのです。 19歳で実家を出ていき、そこから妻と結婚するまでずっと自由気ままな1人暮らしをしていましたので。他人とひとつ屋根の下で暮らすというのは、経験がないので楽しみよりも不安しかなかったです。 義父と一緒に暮らして「ちゃんとしたコミュニケーション」をとることが果たしてできるのか?仕事上の「ビジネスコミュニケーション」なら自信があったのですが。 生活上の必要なコミュニケーションとビジネスコミュニケーションでは訳が違うと思いました。 そんな不安を抱えながら始まった義父との共同生活でしたが、最初はやはりぎこちなかったです。 義父は元タクシー運転手で社交的で協調性もある人でしたが、積極的なタイプではなかったようです。 人に話しかけられたら話し返すけど、自分から話題を振るということは、どちらかというと苦手な人のようでした。 我が家は食事をする以外にみんなで集まることもなかったので、義父は普段、リビングのソファーに座って静かにスポーツ観戦をしているようでした。私と妻は2階にあるそれぞれの部屋で、趣味である動画鑑賞やドラマを見るのが日課でした。 共同生活が始まって1カ月はこんな感じで、お互い特に干渉することもなかったです。義父のいるリビングを通るときも、挨拶くらい交わして通り過ぎるといった日々を過ごしていました。まさに当たり障りのない関係ですね。 義父はとにかくおとなしかったです。今思えば義父はこちらに居候みたいに引っ越ししてきたので、遠慮もあったのかもしれません。 そんな当たり障りのない関係が、良い意味で変わる「キッカケ」が訪れたのは、季節も真夏に入ろうかという7月の初めのことでした。 ある日、いつものようにリビングを横切ろうとすると、義父がいつものようにテレビを見ていました。よく見るとテレビには、ちょんまげ姿の大男が大声を上げて組み合っている映像が流れているではないですか。それは大相撲の実況中継でした。季節も7月に入りちょうど大相撲夏場所が開幕したようでした。 私は当時、大相撲は見ていませんでしたが、何年か前には大相撲を見ていた時期があったので、数名の力士の名前くらいは知っていました。その数名の力士の名前を何気に義父に聞いてみたら、近況やら現在の番付など詳しく教えてくれました。 その義父の話す様子が本当に楽しそうで、身振り手振りを交えいろいろなことを解説してくれたのです。その表情はもちろん笑顔だったのを今でも良く覚えています。 義父は本当に大相撲が大好きだったのだと思います。 その笑顔を見ていると、興味がそんなになくても、他の知らない力士の話もついつい聞きたくなるのが不思議でした。そしてまた身振り手振りを交えた笑顔で教えてくれるのです。 その話を聞いているうちに、私自身も嬉しくなってしまい、急に大相撲に興味が沸いてくるほどでした。 この時から大人しくて寡黙な義父のイメージが変わった気がします。 義父はプロ野球も大好きだったようです。特に広島カープの大ファンでニュースを欠かさず見ていたようでした。でも民放の番組ではあまりプロ野球の放送はされていませんでした。 なので妻と話し合い、義父のために広島カープの実況が視聴できる有料放送を契約しました。 すると7月のシーズン真っ盛りということもあり、義父は大変、喜んでくれたのでした。 私は義父のように、広島カープのファンでもなかったですし、なんならプロ野球よりサッカーの方が好きな人間でした。 でもそんなプロ野球に興味が薄い私にも、義父は広島カープのことや選手の特徴などを身振り手振りを添えて一生懸命、笑顔で楽しそうに教えてくれました。 その笑顔を見ていると、この人は本当に広島カープが好きなんだなっと理解できました。 楽しそうな義父を見ていると、なんだかこっちも嬉しくなったのが自分では印象的でした。 この頃から時間が合えば、大相撲や広島カープの試合を、義父と一緒に観戦するようになりました。 他にも大好きな犬の話や仕事関係の話もするようになりました。 よくよく義父と話してみると、意外に共通の考え方や共感できる話題が多いことが分かりました。それからは食事中でも、その日のニュースなど、いろんな話題について義父としゃべるようになりました。 大相撲実況から始まり広島カープの話題という些細な「キッカケ」でしたが、このおかげで義父との距離も一気に縮まったように思います。私と義父にとって大きな出来事になりました。 今までの当たり障りのない関係から、共通の話題で楽しく話せる同居人になれた気がするのです。 そういう普通の会話ができることが、いつからか楽しく感じれるようになってから、義父との同居生活はこれから2、3年後も続いていくものと勝手に思っていました。 大相撲の各場所の展望や1、2シーズン後のプロ野球順位の予想をしたり、仕事の悩みを相談したりすることを想像して楽しみにしている自分がいました。 そんな私の本当の父親といえば、高校生の頃に病気で早めに亡くなっていました。それに父親は単身赴任で県外で働いていたので、子供の頃から滅多に会うことができませんでした。 だから父親と息子としての交流があまりなかったのを記憶しています。 そのせいか共同生活の後半は、義父がまるで実の父親のように感じられていました。 父親が生きていればこういう会話をしたんだろうか?酒を交わして朝まで仕事の愚痴などいいながら飲み明かしたのか? そういう想像ができるくらいに、義父との会話は楽しくなっていたのです。 でも、そんな父親の面影を重ねた義父との楽しかった共同生活は突然に。そしてあっさりと終わりを迎えます。 それは夏の甲子園を義父と観戦して盛り上がりながら暑さを乗り越え、これから秋を迎えようかという10月。共同生活も4か月目に入った頃のことでした。 10月18日。それまで食欲もあり会話も普通にできていた義父でしたが、その日は朝から体が少ししんどいとのこと。なので1階の和室に備え付けていたベッドに横になってもらい様子をみることにしました。食欲もなく、その日は食事をほんの少しだけとって早々に眠りについたようでした。 日付の変わった10月19日。その日の私は仕事が早朝出勤の日だったので、4時45分セットの目覚ましで目を覚ましました。眠い目をこすりながら2階の寝室から1階の台所まで降りてきたのですが、どこからか小さな声で、私の名前を呼ぶ声が聞こえました。 喉から絞り出すような感じのうめき声のようでもありました。和室の方から聞こえる気がしました。その声は義父の声で、私に助けを求める声だったのです。 急いで義父のいる和室に入ってみると、義父がベッドの下でうつ伏せで倒れていました。 驚いた私はすぐに義父を抱えあげて、ベッドに腰掛ける姿勢にしてあげました。 義父は胸の辺りを押さえてかなり苦しそうでした。 何があったか聞いてみると、夜中にトイレに行くためにベッドから起き上がったところ、態勢を崩してベッドの下に転んだそうです。 その時に胸から落ちてしまい、息がしばらくできなかったとのこと。前日に体調を崩していたこともあり、そこから自力で起き上がることが難しかったそうです。助けを呼ぼうにも胸を打ったので呼吸が整わず声が出なかったようでした。 なので数時間の間、うつ伏せの状態で誰かが通るのを待つことしかできなかったらしいです。 この時、いきさつを話しながら義父は涙を流していました。それは助かったという嬉し涙ではなく、自力でなんとかすることができなかった自分の無力さに対する不甲斐なさ。つまり悔し涙からきている感じがしました。ずっとすまん、すまん、と言ってましたから。 しばらく話して義父を落ち着かせると、妻を起こして事情を説明しました。 その日は妻が仕事を休み、義父の様子を見ることになりました。 私も昼までには仕事を終え帰宅できる日だったので、昼過ぎの義父の状態次第では病院に連れていき詳しく検査してもらったほうが良いと思いました。 この時、義父をすぐに病院に連れて行かなかったのは、義父が大丈夫だからと病院に行くことを強く拒んだからです。この時は義父の意思を尊重しました。 そして仕事を終えて、昼前には帰宅したのですが、義父の状態は予想よりも思わしくありませんでした。それは仕事中の妻からの連絡メールで分かっていました。 義父は和室のベッドに横になってうんうん唸って苦しそうにしていました。 そんな状態でも私が帰ってきたことに気づくと、ベッドから上半身を起こし「おかえり」と言ってくれました。その声はとても弱弱しかったですが、顔は精一杯の笑顔でした。 この「おかえり」という言葉が私が義父からかけてもらった最後の言葉になりました。 私はとりあえず義父に水を飲んでもらおうと思い、台所に水を取りに行きました。 そして再び和室に入ると状況が一変。上半身を起こしていた義父が仰向けに倒れていました。 視点が合わず意識が朦朧としているようでした。話すこともできない状態です。 本当に急な変化に私と妻はビックリして気が動転しました。 すぐに救急に電話してまもなく救急車が到着。義父は救急搬送されていきました。 2020年といえば、世はコロナ化の真っただ中で病院も非常に気を遣っている時期でした。なので救急病院の受け入れがなかなか決まりませんでした。 やっと受け入れてもらえる病院が決まったのですが、まずコロナの検査をしないといけないということでした。コロナの検査時間も含めてすべての検査をするのに、非常に時間がかかった記憶があります。 そして義父の検査結果ですが、コロナは陰性でした。容体の方は38度の熱と脱水症状、急性膵炎によるショック状態の可能性があるということでした。その日は手術などせずに入院の手続きを進められました。 なので入院に必要な準備をするため、義父の保険証や着替えなどを取りに、いったん家に帰ることにしました。入院のための準備を終えてもう一度、義父の入院する病院に向かう頃には、辺りが暗くなっていました。確か夕方19:30頃だったと記憶しています。 病院に着くと検査を終えた義父に会うことができました。 車いすに座っていて意識もありましたが、見るからにしんどそうなのが伺えます。 でも救急車を呼んだ時の状態からは、幾分は持ち直したようにも見え安堵しました。 担当の看護婦さんが言うには、食事は本当に少ししか食べることができなかったそうです。 話しかけると声を出すのが辛いのか、もしくは出せなかったのかわかりませんが、うなずく仕草と首を横に振る仕草でこちらの質問に反応していました。 その義父の様子があまりに辛そうだったことと、翌日から詳しい検査もあると思い、早めに切り上げることにしました。 そして変える間際に「義父さん、また明日も見舞いに来るからね」と声をかけました。 すると義父はその言葉がよほど嬉しかったのか、確かにはっきりとした表情でニッコリと笑顔を見せて頷いてくれました。 それが私が見た義父の最後の姿でした。 翌10月20日、朝早くから病院から連絡が入り、義父はあっさりと、そして穏やかに息を引き取ったそうです。享年79歳。

ドラマの時期:
2020年
10月
20日
文字数:6532
投稿時の年齢:44

趣味は将棋

趣味は人生を豊かにします。みなさんは趣味はありますか? 私は10年ほど前、将棋にハマっていました。 それもパソコンやスマホで対局するいわゆる「オンライン将棋」つまりネット将棋ですね。 ネット将棋はスマホさえあれば24時間いつでもどこでも、無料で対局が楽しめるので、仕事の休憩時間や休みの日にはとにかく将棋を指していました。 将棋はもともと遊びで指すことはあったのですが、本格的に勉強しようと思ったのは30代になってからです。 それも「あるきっかけ」が原因なんですが、その原因が酷いのです。 私は30代になってから勤めていた仕事も安定し、結婚生活も何不自由なくて生活自体が安定期に入っていました。 それまでは仕事仕事の毎日だったので、時間的にも少し余裕ができてきたのがこの頃です。 休日にやることもないのでネットで動画を見たりしていたのですが、なにか物足りないと思い、気軽にできる趣味を探そうと思ったのです。 そこで思いついたのが将棋でした。 将棋自体はとても弱かったのですが、友達と将棋するのは楽しかったです。 なのでネットで将棋が指せることはなんとなく知っていたので。いっちょやってみるか!と軽い気持ちではじめました。 まず初めに本屋で初心者用の将棋の本を数冊買って勉強しました。 将棋には「型」と「手筋」というものがあり、これらの基本を一通り覚えたので早速、ネット将棋に登録して実際に指してみたのです。 すると勉強の甲斐もあってか、最初は連戦連勝することができました。 初心者用のランクだったのもあるのですが、勝負事は勝つことが本当に楽しいものです。 ネット将棋にはランク戦というものがあり、ランク戦を勝ち進むと自分のランクがドンドンが上がっていくのですが、調子に乗った私はドンドン将棋を指してランクを上げていきました。 このランク戦とは別に練習用の対局ができる練習モードというものもあります。 こちらは勝っても負けてもランクには関係ないので、気軽に将棋を楽しむことができるのです。 ランク戦は実力が拮抗した同じランク同士が対局するのが一般的ですが、自分のランクより上の相手やランクが自分より下の相手とも対局ができるシステムでした。 ランクが上の相手に勝てばランクポイントが多くもらえ、ランクが下の相手に負けるとランクポイントが大きく下がり、勝ってもあまりポイントが増えないので対戦相手を選ぶときは注意が必要でした。 ある日、ネット将棋で将棋を指していると、ある対戦相手が私に勝負を挑んできました。 その相手は私よりランクが下でしたが、なんと21戦21勝の負けなしの成績でした。 ネット将棋は相手に勝負を挑まれても、拒否することが可能でしたが、せっかく対戦を希望してきてくれたので、私は勝負を受けることにしました。 しかしこの対戦相手がやっかいで、いわゆる「ハメ手」を使った初心者狩りだったのです。 将棋の戦法に「ハメ手」というものがあります。 これは指し方が分からないと一気に勝負が決まってしまったり、知らないと対応ができず完敗してしまったりします。 逆に知識があると完封できたりするのですが、初心者に毛が生えた程度の私は、この「ハメ手」をまだ勉強していませんでした。 ちなみにハメ手には「鬼殺し」「新鬼殺し」「筋違い角換わり」「右玉」「早石田」「升田式石田流」といろいろ種類があります。 この時の対戦相手は「早石田」と「升田式石田流」の使い手で、受けを誤ると一気に勝負が決まってしまいます。 でもこれらの戦法の受け方を知らなかった私は、この時に一方的に攻められて連戦連敗を喫してしまいました。 あまりにあっさり負けるので、ムキになってしまい恐らく10連敗くらいはしたでしょうか? ランクが下の相手だったのでランクポイントもダダ下がりです。 これも私が意気地になったポイントだったと思います。 ここで負けるだけなら自分の実力不足で片づけられる問題だったのですが、私が何より悔しくて腹がたったのが、この対戦相手の態度です。 ネット将棋にはチャット機能があり、将棋の対局中にチャットで相手に対してコメントを打つことができます。 この対戦相手はなんとチャットで挑発してきたり暴言を吐いてきたりしました。 いわゆる「バ~カ」や「雑魚雑魚雑魚」「弱すぎwww」とかですね。 もっと酷いことも言われましたが、さすがにここには書けない内容なので書きませんが。 とにかく人を馬鹿にした態度を取ってきたのが、本当に悔しくて悔しくて。 ネットで顔が見えないことをいいことに言いたい放題でしたね。 更にそんな相手に勝てない自分。自分自身が情けなくなりました。 そんなことがあって悔しくてたまらなかった私はもっと将棋が上手くなりたいと、これまで以上に将棋にのめりこむようになりました。 具体的にはプロの棋士の棋譜を見て勉強したり、負けた将棋の負けた理由を考えて研究するといったことですね。 いままで以上に練習と勉強・研究を繰り返した私は、将棋の実力、棋力をつけていき、一度下がったランクを取り戻して順調にランクを上げていったのです。 そしてあの憎き対戦相手との「再戦」の時が訪れます。 ある日、いつものようにネット将棋をしていると、対戦相手に見たことのある名前があるではありませんか。 そうです。「あいつ」です。ハメ手を使い、挑発・暴言を繰り返し私をボロボロにした「あいつ」です。 その「あいつ」がまたも私に勝負を挑んできたのです。 ランクも上がってさすがに無敗ではなくなっていた「あいつ」ですが、いまだに高勝率をキープしていました。 でもそんなことは関係ありません。 私は喜んで挑戦を受け「あいつ」と対局をすることにしました。 ランクが上がっても相変わらず「あいつ」はハメ手である「早石田」や「升田式石田流」といった戦法を繰り出してきましたね。 しかしこの時の私は以前の「わたし」ではありません。 もちろんハメ手の対策もバッチリです。 ハメ手に対する正しい受けを繰り出し、私は「あいつ」に連戦連勝しました。 前にやられたことを倍返ししてやった感じです。 今まで通じていた「早石田」や「升田式石田流」が通用しないことがよほど悔しかったのか「あいつ」は新しいハメ手「鬼殺し」という戦法を使って奇襲をかけてきましたが、もちろんこちらも研究済み。 「鬼殺し」もいともあっさり受けきられた「あいつ」はチャットに一言だけ暴言を吐くと逃げるように対局場から去っていきました。 この時の私の喜びようは凄まじかったと思います。

ドラマの時期:
2013年
--月
--日
文字数:3373
投稿時の年齢:44

初めての交通事故

人生で印象に残った出来事の一つといえば「人生初の交通事故」です。 それは私が20歳のころ。 高校を卒業した私は、特にやりたいこともなかったので、アルバイトをしていました。 そのアルバイトはピザの宅配のお仕事です。 ちょうど原付の免許を取ったことと、地図を見るのが得意だった私には、ピザの宅配という仕事はピッタリだったと思います。 それに仕事仲間の人たちも、同年代が多く話も合いましたし良い人ばかりで楽しかったです。 この頃に一人暮らしを始めたこともあって、日々の生活のためにもお金を貯めるためにも、一日中、頑張って働いていました。 この働いていた当時のピザ屋の店長がすごく良い方で、ものすごく可愛がってもらった記憶があります。そんなピザの宅配の仕事を頑張って続けて、そろそろ仕事に慣れてきた3カ月後のこと。 どんな仕事でもそうですが、仕事を新しく始めたばかりの時期は、仕事をこなそうと一生懸命で集中しているので、割と失敗という失敗って意外に少ないと思うのです。 やはり仕事に慣れてきて、頭で考えなくても自然に体が動くようになる3カ月目の時期が一番危ないといいますし、実際にそうでした。 ある日の昼間、いつものようにピザの宅配を一件終えて、店に帰る道中の事です。 その日は良く晴れていて気温も良く、気が抜けるにはもってこいの日でした。 住宅街の中で信号のない見通しの悪い交差点。 路面標識の「止まれ」がありましたがそれを無視。 恐らく速度は30kmは出てたと思います。 私は交差点を横切ろうとする普通車に、横から突っ込んでしまいました。 これが私の人生で初めての交通事故でした。 事故の状況としては、私がまっすぐ直進しようと止まれ標識を無視して交差点に進入。 そこに優先道路側の車もまっすぐ直進して交差点に進入。 相手方の車の方が先に交差点に進入して、私の方が後から交差点に進入する格好となり、相手方の車の後ろドアの側面にブレーキをかけながら突っ込んだという状況でした。 お互い見通しが悪い交差点で、お互いがまったく相手に気づけなかったと思います。 この事故は止まれを無視した私の不注意で起こった事故で、個人的な感想をいえば私の過失100%をつけてもよい事故でした。 ただ幸いなことに自分も相手の方にも、ケガなどは無かったのです。 ピザのバイクも少しフロントカウルが傷つきましたが自力走行が可能でした。 ただ相手の方の車は、左後ろのドアが事故の衝撃で大きくへこんでいました。 私はお互いに怪我がないことを確認したら、すぐにピザ店も電話をかけて報告しました。 この時、私は生まれて初めて起こした交通事故で激しく動揺していたと思います。 しばらく待っていると店長が駆けつけてきました。 私は事故を起こしたことを店長にひどく怒られるものだと思っていました。 でも駆け付けた店長は「岡本!大丈夫か!?しかしやっちまったな!」っと笑顔で私に声をかけたのです。 この時の店長の対応で、私の心はどれほど救われたか・・いまだに言葉に良い表せないほどです。 まず笑顔で声をかけてくれたこと。 そしてやっちまったな!と冗談をいってくれたこと。 私の起こした事故で、恐らく監督立場として責任が発生したであろう店長。 これが普通の世の中の店長ならかなり怒っても無理はないのです。 なのに私のことを心配して、笑顔で声をかけてくれたのです。 20代前半と自分より少しだけ年上だった若い店長でしたが、心の余裕と安心感と懐の大きさを感じました。 そして店長と二人で改めて相手の方に謝ったのですが、この時の相手の方もご高齢の男性の方でしたが、非常に大人で優しい方で「かまんかまん」と言ってくださいました。 逆に「若いうちはそんなものよ。これから気を付けて」と励まされたのです。 この店長とご高齢の男性、二人の対応に当時、自立もできてない若造の私の心は本当に本当に救われたのです。

ドラマの時期:
1999年
9月
--日
文字数:1993
投稿時の年齢:44

母親の愛とプライド

私は子供の頃から母に愛され、そして甘やかされて育てられてきました。 私が小学校の頃、父親がある事情から多額の借金を背負ってしまい、県外に出稼ぎに行くことになりました。 なので私の幼少期は、家族全員がひどく貧乏な生活を送っていました。 1円玉や5円玉を集めて近所のスーパーに50円の袋ラーメンを買いに行き、晩御飯にしたこともありました。 料金が払えなくて電気やガスが止まったことも何度もあります。 それくらい困窮した生活を送らざるをえませんでした。 そんな生活でしたが、私の母はできる限りの範囲の中で、私を甘やかせてくれたと思います。 小・中・高校とすべての修学旅行に行くことができ、良い想い出を作ることができました。 誕生日に欲しいといったスーパーファミコンの本体を、買ってくれたこともありました。 中学でサッカー部に入った時、ユニフォームやスパイクなど、必要な備品を一式、揃えてくれたりもしました。 普段の生活が厳しかったのに、私への貯えというか、そういうお金は一生懸命に働いて、用意してくれていたのだと思います。 そんな母親だったので、食事や家事やゴミ出しなどすべて母が一人で行い、私は19歳で一人暮らしを始めるまで、一切の家事をした経験がありませんでした。 それに私は何か失敗して母親に怒られたという経験が一切ありませんでした。 今思えば、もしかしたら母は家事や食事などはすべて女がやるもの、という昔ながらの考え方を実践していただけなのかもしれません。 そんな甘やかされて愛されて育った私は、19歳に家を出ていくことになります。 そのきっかけは「母親のプライド」です。 高校生になった私は、バイトを始めました。 その理由は生活が苦しい家にお金を入れる、とかそういう考えではなく、単純に自分のお小遣いが欲しかったからでした。 この時の私は甘やかされて育ったせいか、自分でものを考える能力に乏しく自立するということからは相当にかけ離れた甘ったれでした。 なので家が金銭的に苦しいのは分かっていましたが、家の生活費は母親がなんとかしてくれるだろう!とまだまだ母親に甘える気、満々だったと思います。 親が子を甘やかせて育ててしまうと、子供は自立できない甘い子に育ちます。 このことは私が大人になってから、幼少時代を振り返った時に気づいたことです。 当時は甘えることが当たり前というか「普通のこと」と思い込んでいるので、家事や掃除、ゴミ出しなど、何でも母親がやってくれていることに、なんの疑問も持たなかったですね。 そんな甘々の私が初めてのバイトを悪戦苦闘しながら続けることができ、人生初の給料をもらった時は本当に嬉しかったです。 初めて自分だけの力で何かを成し遂げた感覚といいましょうか? それぐらい高校時代にバイトでお金を得るというのは、大きいことだったと思います。 その初給料の大半は、自分のお小遣いに充てるつもりで財布に入れて、残りのほんの一部を母親に家賃として渡した記憶があります。 そんな人生初の給料で何を買おうかと、楽しみに考えていた私でしたが、しばらくして悲しいことが起こります。 ある日、自分の財布を見たところ、あきらかにお金が減っていました。 自分で何かに使ったかな?と考えてみても一向に思い当たる節がないのです。 そこでちょうど近くにいた母親に、何気なく財布に入ってたはずのお金のこと知らない?と聞いてみたところ。 「ああっ、ちょっと〇万円借りたけど、必ず返すから」 という答えが返ってきたのをハッキリ覚えています。 「えっ?一言、言ってくれたらもっと家にお金を入れたのに、なんで勝手に黙って人の財布からお金を取ったの?」 母が黙って財布からお金を取ったことが信じられなかったので聞いてみると、 「えっ?だって言いにくかったし、あとで返せば良いと思って」 この言葉を聞いて私はとてもとても悲しくなった記憶があります。 家が苦しいのは知ってるので、直に言ってくれればお金をもっと入れることもできたのです。 しかし母親からはどんな時も、催促の相談は一切ありませんでした。 家の生活も苦しかったので、私がバイトを始めることを知って、家にたくさんお金を入れてくれることを期待したのかもしれません。 でも実際に私が渡した金額が、母の想定よりもはるかに少なかったのでしょう。 裏を返せば母の期待を裏切ってしまったとも言えるかもしれません。 そこで母がとった行動が、私に内緒で財布から黙ってお金を借りる=取るという行為だったのは、例えどんな理由であれ、許されることではないと今も思っています。

ドラマの時期:
1996年
12月
--日
文字数:3551
投稿時の年齢:44

ペットと罪

みなさんは何かペットを飼っていますか? ペットって本当に可愛くて癒される存在だったりしますよね。 私も昔、実家で猫を飼っていた時期がありました。 この猫はもらってきたメスの猫で名前を「シーマ」といいました。 雑種でしたが色は白色でふわふわの毛がふさふさで、とても障り心地が良かったです。 生まれて初めて飼いだしたペットだったので、家族みんなでとても可愛がってあげた記憶があります。 当のシーマもとても人懐っこくて愛嬌があり甘えん坊な猫でした。 寝るときは人の布団に入ってきたり、立っている自分に対してジャンプしてきて強制的に抱っこしなければならなかったり、顔をスリスリとくっつけてきたりと本当に本当に可愛い猫でした。 シーマは散歩が好きで良く昼夜問わず良く散歩に出ていました。 家の窓やドアが閉まっていると散歩に行きたいと閉まった窓やドアをコンコンとこずいて開けるように催促してくる猫でした。 なのでこの頃の我が家は冬以外の季節は窓やドアの一部をシーマが通れるように常に開けているような家でした。寒い冬の時はさすがに寒かったのかあまり外には出たがりませんでしたが。 そんなシーマでしたが夕方のご飯時になるとご飯を食べに必ず家に帰ってくる猫でした。 犬や猫もですが動物って時計がないのになぜあんなに正確な時間に家に帰ってくるのか非常に不思議でした。 ですが私が中学三年生になったある日のこと、夕方のご飯時になってもシーマが帰ってこない時がありました。 心配になった私はシーマを探しに家の周りを名前を呼びながら探しましたがシーマは見つかりませんでした。 ちょっと臆病だったシーマは普段はそこまで遠くに行くような猫ではなかったので余計に心配になりました。 なので少し家から離れた場所もくまなく探しましたがそれでも見つかりません。 その頃の家の近くには国道がありとても交通量が多かったのですが、まさかそっちの方にシーマが行ったのかな?っと思い国道線沿いの道路脇をシーマの名前を呼びながら歩いてみました。 すると家から離れた国道脇の茂みの方から猫のような微かなうめき声がするのが聞こえました。急いで茂みの方へ駆け寄ってみると茂みの中でシーマがうずくまってかすかな声で鳴いているではありませんか! 口からは大量の血が出ていて体もボロボロです。 状況的にどうやら国道の車にはねられて命からがら茂みの中へ逃げ込んでそこで動けなくなったようでした。 その姿に動揺した私はどうしてよいか分からず家に助けを求めて走りました。 そして家にいた母や姉とともにシーマをいったん家に連れて帰りましたが傷が想像以上に酷く夕方に診察してくれる動物病院を探して連れていくことになりました。 そのおかげかシーマはなんとか一命はとりとめました。 でもしばらくの間、絶対安静となり傷が治るまでに数カ月を要したのでした。 なので傷が治り元通りに元気になったシーマを見たときは本当に安心しましたし嬉しかったですね。 それから一年後くらいだったでしょうか? 元気になっていつも通りの甘えん坊なシーマとお別れの時が来るのです。 そのお別れの理由がなんと「飼育放棄」だったのです。 実はこの頃はシーマの他にも複数の猫を飼っていたのですが、その猫たちが近所の他人の家の花壇の中におしっこや糞をするようになったのです。 するとせっかく奇麗に植えていた花壇の花や植物が枯れてしまい、近所の人がうちに怒鳴り込んできたのです。 お前の家の猫はどうなっとるんだっと。 しかも一回や二回ではなく何度も枯らしたようでこれは怒るのも当然だったと思います。 そして困ったことにこれの解決方法が無かったのです。 複数の猫を飼っていたので外に出さないようにしてしまうと猫たちが出たい出たいと窓をガリガリ掻き出しますし、もし完全に外に出さなければストレスで猫同士で喧嘩をする始末です。 かといって外に出すとして花壇に糞尿をさせないようにする手段がありませんでした。 怒った近所の人は我が家の賃貸の家主にも話をしにいったようです。 家主からもうちの猫たちをなんとかしないと家を出て行ってもらうと最後通告がきたのです。 これには母も姉も参ったようでした。 すぐに引き取ってもらえるような環境ではなかったし保健所に連れていくという選択肢は取りたくないしで、どうしてよいか分からなくなってしまいました。 そして我が家が話し合った結果、取った手段が「飼育放棄」でした。 保健所に連れていくくらいならせめて生き延びることを願って遠く離れたお寺の敷地内に猫たちを捨てるというものです。 今思うととんでもなく「無責任」だったと思います。 でもあの当時、まだ高校1年生だった私には解決策も思い浮かばず、ただ母と姉の決定に従うしかありませんでした。 この決定をした日は家族みんなで泣きまくった記憶があります。 いよいよお寺に猫たちを放棄する日になった時、私も姉に同行しました。 何も知らない猫たちは一匹ずつ車に乗せられていくのが何故なのか訳も分からなかったと思います。暴れるような猫はいませんでした。 車で猫たちを連れてお寺の駐車場に止めてドアを開けました。 すぐに飛び出す猫もいれば車にとどまり出ようとしない猫と二手に分かれました。 シーマはとどまる方の猫でした。 とどまった猫を一匹づつ外に出していき最後に残ったのがシーマでした。 私はシーマを抱えて外に無理やり出しました。 でもシーマは地面についた瞬間に走って車に戻りました。 まるですべてを解っているかのようでした。 ここに捨てないで・・。家に帰りたいと言っているようでした。 私と姉はそれを見て涙が溢れ出てきました。 それを見た私はもうシーマを抱えることができなくなってしまいました。 でも私より4つ年上の姉は自分がやらなきゃっと私の代わりに泣きながらシーマを抱えて外に連れて行きました。 私は黙ってそれを見ていました。 そして気を機を見計らって車に飛び乗り発進させ猫たちを置いてけぼりにしました。 後ろを見ると後をついて来ようとする猫がいたようでしたが、それがシーマだったのかは分かりません。 この時、心の中で何度も何度もごめんごめんっと繰り返し謝っていたのだけは覚えています。 その後、私はシーマたちを放棄したお寺に見に行こうと何度も思いましたが、自分の犯したことがとても酷いことと分かっていたので・・怖くて見に行くことは結局、できませんでした。

ドラマの時期:
1993年
--月
--日
文字数:3001
投稿時の年齢:44

記憶に残る学校の先生

私の中で記憶に残る人物として小学5・6年生の頃の担任だった「M先生」がいます。 私は父親の借金が原因で、小学校5年生の1学期を終えたときに、転校を余儀なくされました。 そしてこのM先生がいるK小学校に小学5年の2学期初めに転校したのです。 この頃の私は、生まれて初めての引っ越しと転校、父親の県外への出稼ぎなど、人生の中でもジェットコースターのように目まぐるしい怒涛の生活を送っていました。 多感な小学生だった私の心は非常に不安定であり、子供ながらに家の状況が一変したのを肌で感じていて何かと不安な日々でした。 正直、慣れ親しんだ小学校を転校することは嫌でしたし、新しい学校に対する気持ちは、期待よりも不安の方がはるかに大きかったです。 当時の私は母に甘やかされて育ったこともあり、自分の考え方を伝えるのが非常に苦手で周りの意見に流されて自分の意見を隠すような子供でした。 そんな不安を抱える小学生だった私の転校先のクラスの担任がM先生だったのはある意味、運が良かったといえます。 M先生は男性で年齢20代半ばくらいの若い先生だった記憶があります。 とても明るくて正義感に溢れた感情豊かな先生でした。 そんな先生だったのでどんな生徒にも平等に接することができて、同学年のどの生徒にも人気だったと思います。 M先生はとにかく明るくて声もハキハキしていました。 普段からM先生がいるだけで、先生の雰囲気に引っ張られてクラス全体が明るかったのを覚えています。 更にM先生のおかげか、当時のクラスメイトの中に嫌な生徒がなんと1人もいませんでした。 なので途中から転校してきた私もクラスに入り込みやすくて、すぐに友達ができました。 それもこれも本当にM先生のクラスの雰囲気作りが、とても良かったおかげだと言えます。 正義感の強いM先生はクラスの中で喧嘩があっても、すぐに飛んできて止めていました。 そして喧嘩した両方の生徒から言い分をじっくり聞いたあと、原因を指摘して改善策を言い聞かせ最終的には喧嘩両成敗にしていました。 お互いが仲直りして終わったことは水に流すようにと言っていたと思います。 良いとこばかり目立つM先生ですが、唯一の欠点があるとすれば着ていた服装が非常にダサかったです。 Gジャン風の上着に下はジャージでカッコ悪い眼鏡を着けていて、他の先生と比べてもファッションセンスがかなり悪かったことを想い出します。 そんなM先生は転校してきたばかりの自分のことを、非常に気にかけてくれていたようです。 その理由は毎学期に渡される通信簿の「担任からの一言」の記載文でわかります。 押し入れから引っ張り出してきて久々に見てみた当時の通信簿の中にこんな一文がありました。 M先生から「担任からの一言」 「5年生の途中から転校してきて不安だったなか、勉強やスポーツに音楽会など頑張って良い成績を上げていましたね。 友達もできるか心配していましたが、無事に〇〇君や〇〇君と仲良く遊んでいる姿を見て先生は安心しました。 少し落ち着かないことや、自分の考えなどをハッキリ表せないことも見受けられますが、頑張っている君を見ていると、いつかそれらも克服できると先生は信じています。頑張って!」 当時はこんなことが書かれているとは思ってもみませんでしたが、今改めて見返すとM先生は自分のことを分析して、良い部分も悪い部分も気にかけてくれていたのだと知ることができました。 もうひとつM先生のエピソードで思い出したことがあります。 M先生は「差別」という言葉やそういった行為が大嫌いだったと記憶しています。 クラスの中で少し脳の発育が遅れている生徒(仮でI君と呼ばせていただきます)が1人いたのですが、小学生の頃はそういった生徒を馬鹿にする生徒が、残念ながら数人はいるものです。 具体的に言うとテストの点数が悪かったI君のテスト用紙を取り上げて、みんなに見せるようにしながら「Iはテストの点数が〇点しか取れてないぞ!ハハハ」みたいな、晒し者にする・いじめ行動をする(本来、悪い子ではないけど悪ノリでやってしまったのでしょう)こともありました。 M先生はそういうことが大嫌いなのでそれを知ると、普段では見られないような鬼のような顔で、晒し行動をした生徒をめちゃくちゃに怒っていたと思います。 普段は明るくて楽しい人が怒ると、ギャップもありとんでもなく怖いことが多いので、怒っているM先生を見た自分も相当に怖がっていたような気がします。 それと今はあるか分かりませんが、当時の授業で「部落差別」を題材にした授業がありました。 M先生が特に熱心に教えてくれたと思うのですが、部落など勝手に人が作り出したものでそんな境界線みたいなものはあってはならない。 みな平等で同等の権利があるといった内容をおっしゃっていた記憶があります。 小学生ながらこの内容は難しくてすべて理解できていなかったですが、差別やいじめなどがいかに悪いことだということは、小学生の自分でも学べたと思います。 この差別の授業の後に、M先生が「自由」というテーマで好きなことを書いて提出しようという企画を行いました。 「自由」というテーマは恐らく「差別」からの解放といったメッセージが込められていたと思うのですが、この企画は成績とはまったく関係なかったですし、強制ではなく「任意提出」という形でした。 なので、面倒くさいのか最初は誰も提出しなかったです。 この時のM先生は少し寂しそうでした。 私はそんなM先生を見て、このまま誰も「自由」を書かないと、M先生が寂しい思いをしてしまうと思い、家に帰って一生懸命に自分なりの「自由」を用紙に書いて2日後にM先生に提出しました。 内容はびっくりの「桃太郎の話を改変したお笑い漫画」でした。 絵が好きで得意だった私は、当時、何を思ったのか分かりませんが、生まれて初めて漫画を描いて提出したのです。 お笑い漫画でしたが物語の最後の方に、無理やり差別反対的な内容のコマを書いて締めにした記憶があります。 そんな無茶苦茶な内容の自分なりの「自由」でしたが、M先生はものすごく喜んでくれて、褒めてくれました。 そしてそのまま漫画として「自由」という題名で用紙を印刷してクラス全員に配ったのです。 これが意外にも面白かったと大好評でした(笑) 家に持ち帰った生徒から、生徒の親にも見せたらめちゃくちゃ面白かったと言ってたと感想をもらった時は飛び上がるほど嬉しかったです。 それから調子に乗った私は何回か漫画を描いて「自由」として提出したと思います。 私の「自由」を見て、真似て漫画を描いて提出する子もいましたし、日記みたいな文を書いて提出する子もいたと思います。 たくさんの「自由」が書かれて提出されるにしたがって、M先生は印刷が大変だったと思いますが、とても喜んでくれたと胸を張っていえます。

ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:3250
投稿時の年齢:44
AGE

47

Autobiography

義父との最初で最後の共同生活

私は今でも大事にしている想い出があります。大事な大事な想い出です。 この話は3年前の2020年のことです。私は結婚を機に住宅ローンで購入した1軒家で、妻と2人で暮らしていました。子供はいませんでしたが、夫婦で何の不自由もない幸せな日々を過ごしていました。 妻には高齢の父親がいて、少し離れた妻の実家で1人暮らしをしていました。 私にとっては義理の父です。定年をむかえていた義父は、少ない年金で大好きな日本酒を飲みながら、つつましい暮らしをしているようでした。 義父の健康状態といえば、日本酒の影響で少し膵臓を悪くしていたようです。ですが言葉もハッキリしゃべっていましたし、食事や家事なども当時は1人でこなしていたようでした。 そんな義父とは年末に1度だけ、年越しを一緒に迎えるために、妻の実家に会いに行くのが結婚後の夫婦の通例でした。 つまり頻繁に会うような間柄ではなかったということです。 私と義父の仲は悪くはなかったです。でも仲が良いという訳でもなく、俗にいう当たり障りのない関係であったと思います。 そんな当たり障りのない関係だった義父と私が、まさか共同生活を送ることになるとは。 そしてこの共同生活が、私の記憶に深く残る大事な想い出になるとは。当時の私は想像もしていなかったのです。 2019年の年末、義父との通例の年越しを終え2020年を迎えた私たち夫婦は、普段通りの何気ない生活を送っていました。 しかし梅雨の時期に入ろうかという5月を迎えたある日のこと、妻が突然、私に相談があるといってきました。相談内容は義父のことで、2020年に入ってから義父の体調が急に悪くなったと義父の方から連絡がきたそうです。歩くのが億劫になり膵臓の調子が良くないとのことでした。 思えば80歳に差し掛かった義父が、病院に通院するようなこともなく、1人で食事や家事をこなしていたのは、なかなかすごいことです。逆に言えば今までが元気過ぎたのかもしれません。 これまで手がかからな過ぎて、気にも留めていなかったのですが、体の具合が悪くなってもなんら不思議ではない年齢であることを、この時まで忘れていました。 そんな義父が、自分から体調の不良を訴えてきているのです。この時の私の直観としては「只ならぬことなのでは?」っという思いが沸いてきました。 なので妻と話し合いどうしようか?と考えた結果、義父さえ良ければ、こちらの夫婦の家で一緒に暮らしませんか?と伝えることにしました。 そのことを伝えると、義父もこちらで一緒に暮らしたいとのこと。 義父の体調が心配なので、準備は急いで進めることにしました。引っ越しは翌月である6月初めには完了して、義父との共同生活が突然スタートすることになったのです。 義父と共同生活をするに当たって、実は不安なこともありました。 妻と義父はもちろん親子関係なので、一緒に暮らしても何の問題もないだろうと思いました。 しかし私といえば、義父とは今まで1年に1度だけ会うくらいの「当たり障りのない関係」だったのです。 しかも義父とは言え、いわば「赤の他人」です。言い過ぎかもしれませんが、私の感覚からしたらそうなんです。しかも私は生まれてこのかた「赤の他人」と共同生活をしたことが1度もなかったのです。 19歳で実家を出ていき、そこから妻と結婚するまでずっと自由気ままな1人暮らしをしていましたので。他人とひとつ屋根の下で暮らすというのは、経験がないので楽しみよりも不安しかなかったです。 義父と一緒に暮らして「ちゃんとしたコミュニケーション」をとることが果たしてできるのか?仕事上の「ビジネスコミュニケーション」なら自信があったのですが。 生活上の必要なコミュニケーションとビジネスコミュニケーションでは訳が違うと思いました。 そんな不安を抱えながら始まった義父との共同生活でしたが、最初はやはりぎこちなかったです。 義父は元タクシー運転手で社交的で協調性もある人でしたが、積極的なタイプではなかったようです。 人に話しかけられたら話し返すけど、自分から話題を振るということは、どちらかというと苦手な人のようでした。 我が家は食事をする以外にみんなで集まることもなかったので、義父は普段、リビングのソファーに座って静かにスポーツ観戦をしているようでした。私と妻は2階にあるそれぞれの部屋で、趣味である動画鑑賞やドラマを見るのが日課でした。 共同生活が始まって1カ月はこんな感じで、お互い特に干渉することもなかったです。義父のいるリビングを通るときも、挨拶くらい交わして通り過ぎるといった日々を過ごしていました。まさに当たり障りのない関係ですね。 義父はとにかくおとなしかったです。今思えば義父はこちらに居候みたいに引っ越ししてきたので、遠慮もあったのかもしれません。 そんな当たり障りのない関係が、良い意味で変わる「キッカケ」が訪れたのは、季節も真夏に入ろうかという7月の初めのことでした。 ある日、いつものようにリビングを横切ろうとすると、義父がいつものようにテレビを見ていました。よく見るとテレビには、ちょんまげ姿の大男が大声を上げて組み合っている映像が流れているではないですか。それは大相撲の実況中継でした。季節も7月に入りちょうど大相撲夏場所が開幕したようでした。 私は当時、大相撲は見ていませんでしたが、何年か前には大相撲を見ていた時期があったので、数名の力士の名前くらいは知っていました。その数名の力士の名前を何気に義父に聞いてみたら、近況やら現在の番付など詳しく教えてくれました。 その義父の話す様子が本当に楽しそうで、身振り手振りを交えいろいろなことを解説してくれたのです。その表情はもちろん笑顔だったのを今でも良く覚えています。 義父は本当に大相撲が大好きだったのだと思います。 その笑顔を見ていると、興味がそんなになくても、他の知らない力士の話もついつい聞きたくなるのが不思議でした。そしてまた身振り手振りを交えた笑顔で教えてくれるのです。 その話を聞いているうちに、私自身も嬉しくなってしまい、急に大相撲に興味が沸いてくるほどでした。 この時から大人しくて寡黙な義父のイメージが変わった気がします。 義父はプロ野球も大好きだったようです。特に広島カープの大ファンでニュースを欠かさず見ていたようでした。でも民放の番組ではあまりプロ野球の放送はされていませんでした。 なので妻と話し合い、義父のために広島カープの実況が視聴できる有料放送を契約しました。 すると7月のシーズン真っ盛りということもあり、義父は大変、喜んでくれたのでした。 私は義父のように、広島カープのファンでもなかったですし、なんならプロ野球よりサッカーの方が好きな人間でした。 でもそんなプロ野球に興味が薄い私にも、義父は広島カープのことや選手の特徴などを身振り手振りを添えて一生懸命、笑顔で楽しそうに教えてくれました。 その笑顔を見ていると、この人は本当に広島カープが好きなんだなっと理解できました。 楽しそうな義父を見ていると、なんだかこっちも嬉しくなったのが自分では印象的でした。 この頃から時間が合えば、大相撲や広島カープの試合を、義父と一緒に観戦するようになりました。 他にも大好きな犬の話や仕事関係の話もするようになりました。 よくよく義父と話してみると、意外に共通の考え方や共感できる話題が多いことが分かりました。それからは食事中でも、その日のニュースなど、いろんな話題について義父としゃべるようになりました。 大相撲実況から始まり広島カープの話題という些細な「キッカケ」でしたが、このおかげで義父との距離も一気に縮まったように思います。私と義父にとって大きな出来事になりました。 今までの当たり障りのない関係から、共通の話題で楽しく話せる同居人になれた気がするのです。 そういう普通の会話ができることが、いつからか楽しく感じれるようになってから、義父との同居生活はこれから2、3年後も続いていくものと勝手に思っていました。 大相撲の各場所の展望や1、2シーズン後のプロ野球順位の予想をしたり、仕事の悩みを相談したりすることを想像して楽しみにしている自分がいました。 そんな私の本当の父親といえば、高校生の頃に病気で早めに亡くなっていました。それに父親は単身赴任で県外で働いていたので、子供の頃から滅多に会うことができませんでした。 だから父親と息子としての交流があまりなかったのを記憶しています。 そのせいか共同生活の後半は、義父がまるで実の父親のように感じられていました。 父親が生きていればこういう会話をしたんだろうか?酒を交わして朝まで仕事の愚痴などいいながら飲み明かしたのか? そういう想像ができるくらいに、義父との会話は楽しくなっていたのです。 でも、そんな父親の面影を重ねた義父との楽しかった共同生活は突然に。そしてあっさりと終わりを迎えます。 それは夏の甲子園を義父と観戦して盛り上がりながら暑さを乗り越え、これから秋を迎えようかという10月。共同生活も4か月目に入った頃のことでした。 10月18日。それまで食欲もあり会話も普通にできていた義父でしたが、その日は朝から体が少ししんどいとのこと。なので1階の和室に備え付けていたベッドに横になってもらい様子をみることにしました。食欲もなく、その日は食事をほんの少しだけとって早々に眠りについたようでした。 日付の変わった10月19日。その日の私は仕事が早朝出勤の日だったので、4時45分セットの目覚ましで目を覚ましました。眠い目をこすりながら2階の寝室から1階の台所まで降りてきたのですが、どこからか小さな声で、私の名前を呼ぶ声が聞こえました。 喉から絞り出すような感じのうめき声のようでもありました。和室の方から聞こえる気がしました。その声は義父の声で、私に助けを求める声だったのです。 急いで義父のいる和室に入ってみると、義父がベッドの下でうつ伏せで倒れていました。 驚いた私はすぐに義父を抱えあげて、ベッドに腰掛ける姿勢にしてあげました。 義父は胸の辺りを押さえてかなり苦しそうでした。 何があったか聞いてみると、夜中にトイレに行くためにベッドから起き上がったところ、態勢を崩してベッドの下に転んだそうです。 その時に胸から落ちてしまい、息がしばらくできなかったとのこと。前日に体調を崩していたこともあり、そこから自力で起き上がることが難しかったそうです。助けを呼ぼうにも胸を打ったので呼吸が整わず声が出なかったようでした。 なので数時間の間、うつ伏せの状態で誰かが通るのを待つことしかできなかったらしいです。 この時、いきさつを話しながら義父は涙を流していました。それは助かったという嬉し涙ではなく、自力でなんとかすることができなかった自分の無力さに対する不甲斐なさ。つまり悔し涙からきている感じがしました。ずっとすまん、すまん、と言ってましたから。 しばらく話して義父を落ち着かせると、妻を起こして事情を説明しました。 その日は妻が仕事を休み、義父の様子を見ることになりました。 私も昼までには仕事を終え帰宅できる日だったので、昼過ぎの義父の状態次第では病院に連れていき詳しく検査してもらったほうが良いと思いました。 この時、義父をすぐに病院に連れて行かなかったのは、義父が大丈夫だからと病院に行くことを強く拒んだからです。この時は義父の意思を尊重しました。 そして仕事を終えて、昼前には帰宅したのですが、義父の状態は予想よりも思わしくありませんでした。それは仕事中の妻からの連絡メールで分かっていました。 義父は和室のベッドに横になってうんうん唸って苦しそうにしていました。 そんな状態でも私が帰ってきたことに気づくと、ベッドから上半身を起こし「おかえり」と言ってくれました。その声はとても弱弱しかったですが、顔は精一杯の笑顔でした。 この「おかえり」という言葉が私が義父からかけてもらった最後の言葉になりました。 私はとりあえず義父に水を飲んでもらおうと思い、台所に水を取りに行きました。 そして再び和室に入ると状況が一変。上半身を起こしていた義父が仰向けに倒れていました。 視点が合わず意識が朦朧としているようでした。話すこともできない状態です。 本当に急な変化に私と妻はビックリして気が動転しました。 すぐに救急に電話してまもなく救急車が到着。義父は救急搬送されていきました。 2020年といえば、世はコロナ化の真っただ中で病院も非常に気を遣っている時期でした。なので救急病院の受け入れがなかなか決まりませんでした。 やっと受け入れてもらえる病院が決まったのですが、まずコロナの検査をしないといけないということでした。コロナの検査時間も含めてすべての検査をするのに、非常に時間がかかった記憶があります。 そして義父の検査結果ですが、コロナは陰性でした。容体の方は38度の熱と脱水症状、急性膵炎によるショック状態の可能性があるということでした。その日は手術などせずに入院の手続きを進められました。 なので入院に必要な準備をするため、義父の保険証や着替えなどを取りに、いったん家に帰ることにしました。入院のための準備を終えてもう一度、義父の入院する病院に向かう頃には、辺りが暗くなっていました。確か夕方19:30頃だったと記憶しています。 病院に着くと検査を終えた義父に会うことができました。 車いすに座っていて意識もありましたが、見るからにしんどそうなのが伺えます。 でも救急車を呼んだ時の状態からは、幾分は持ち直したようにも見え安堵しました。 担当の看護婦さんが言うには、食事は本当に少ししか食べることができなかったそうです。 話しかけると声を出すのが辛いのか、もしくは出せなかったのかわかりませんが、うなずく仕草と首を横に振る仕草でこちらの質問に反応していました。 その義父の様子があまりに辛そうだったことと、翌日から詳しい検査もあると思い、早めに切り上げることにしました。 そして変える間際に「義父さん、また明日も見舞いに来るからね」と声をかけました。 すると義父はその言葉がよほど嬉しかったのか、確かにはっきりとした表情でニッコリと笑顔を見せて頷いてくれました。 それが私が見た義父の最後の姿でした。 翌10月20日、朝早くから病院から連絡が入り、義父はあっさりと、そして穏やかに息を引き取ったそうです。享年79歳。

サービス職業従事者
投稿時の年齢:44
高知
投稿日時:
2023年02月28日
ドラマの時期:
2020年
文字数:6532

趣味は将棋

趣味は人生を豊かにします。みなさんは趣味はありますか? 私は10年ほど前、将棋にハマっていました。 それもパソコンやスマホで対局するいわゆる「オンライン将棋」つまりネット将棋ですね。 ネット将棋はスマホさえあれば24時間いつでもどこでも、無料で対局が楽しめるので、仕事の休憩時間や休みの日にはとにかく将棋を指していました。 将棋はもともと遊びで指すことはあったのですが、本格的に勉強しようと思ったのは30代になってからです。 それも「あるきっかけ」が原因なんですが、その原因が酷いのです。 私は30代になってから勤めていた仕事も安定し、結婚生活も何不自由なくて生活自体が安定期に入っていました。 それまでは仕事仕事の毎日だったので、時間的にも少し余裕ができてきたのがこの頃です。 休日にやることもないのでネットで動画を見たりしていたのですが、なにか物足りないと思い、気軽にできる趣味を探そうと思ったのです。 そこで思いついたのが将棋でした。 将棋自体はとても弱かったのですが、友達と将棋するのは楽しかったです。 なのでネットで将棋が指せることはなんとなく知っていたので。いっちょやってみるか!と軽い気持ちではじめました。 まず初めに本屋で初心者用の将棋の本を数冊買って勉強しました。 将棋には「型」と「手筋」というものがあり、これらの基本を一通り覚えたので早速、ネット将棋に登録して実際に指してみたのです。 すると勉強の甲斐もあってか、最初は連戦連勝することができました。 初心者用のランクだったのもあるのですが、勝負事は勝つことが本当に楽しいものです。 ネット将棋にはランク戦というものがあり、ランク戦を勝ち進むと自分のランクがドンドンが上がっていくのですが、調子に乗った私はドンドン将棋を指してランクを上げていきました。 このランク戦とは別に練習用の対局ができる練習モードというものもあります。 こちらは勝っても負けてもランクには関係ないので、気軽に将棋を楽しむことができるのです。 ランク戦は実力が拮抗した同じランク同士が対局するのが一般的ですが、自分のランクより上の相手やランクが自分より下の相手とも対局ができるシステムでした。 ランクが上の相手に勝てばランクポイントが多くもらえ、ランクが下の相手に負けるとランクポイントが大きく下がり、勝ってもあまりポイントが増えないので対戦相手を選ぶときは注意が必要でした。 ある日、ネット将棋で将棋を指していると、ある対戦相手が私に勝負を挑んできました。 その相手は私よりランクが下でしたが、なんと21戦21勝の負けなしの成績でした。 ネット将棋は相手に勝負を挑まれても、拒否することが可能でしたが、せっかく対戦を希望してきてくれたので、私は勝負を受けることにしました。 しかしこの対戦相手がやっかいで、いわゆる「ハメ手」を使った初心者狩りだったのです。 将棋の戦法に「ハメ手」というものがあります。 これは指し方が分からないと一気に勝負が決まってしまったり、知らないと対応ができず完敗してしまったりします。 逆に知識があると完封できたりするのですが、初心者に毛が生えた程度の私は、この「ハメ手」をまだ勉強していませんでした。 ちなみにハメ手には「鬼殺し」「新鬼殺し」「筋違い角換わり」「右玉」「早石田」「升田式石田流」といろいろ種類があります。 この時の対戦相手は「早石田」と「升田式石田流」の使い手で、受けを誤ると一気に勝負が決まってしまいます。 でもこれらの戦法の受け方を知らなかった私は、この時に一方的に攻められて連戦連敗を喫してしまいました。 あまりにあっさり負けるので、ムキになってしまい恐らく10連敗くらいはしたでしょうか? ランクが下の相手だったのでランクポイントもダダ下がりです。 これも私が意気地になったポイントだったと思います。 ここで負けるだけなら自分の実力不足で片づけられる問題だったのですが、私が何より悔しくて腹がたったのが、この対戦相手の態度です。 ネット将棋にはチャット機能があり、将棋の対局中にチャットで相手に対してコメントを打つことができます。 この対戦相手はなんとチャットで挑発してきたり暴言を吐いてきたりしました。 いわゆる「バ~カ」や「雑魚雑魚雑魚」「弱すぎwww」とかですね。 もっと酷いことも言われましたが、さすがにここには書けない内容なので書きませんが。 とにかく人を馬鹿にした態度を取ってきたのが、本当に悔しくて悔しくて。 ネットで顔が見えないことをいいことに言いたい放題でしたね。 更にそんな相手に勝てない自分。自分自身が情けなくなりました。 そんなことがあって悔しくてたまらなかった私はもっと将棋が上手くなりたいと、これまで以上に将棋にのめりこむようになりました。 具体的にはプロの棋士の棋譜を見て勉強したり、負けた将棋の負けた理由を考えて研究するといったことですね。 いままで以上に練習と勉強・研究を繰り返した私は、将棋の実力、棋力をつけていき、一度下がったランクを取り戻して順調にランクを上げていったのです。 そしてあの憎き対戦相手との「再戦」の時が訪れます。 ある日、いつものようにネット将棋をしていると、対戦相手に見たことのある名前があるではありませんか。 そうです。「あいつ」です。ハメ手を使い、挑発・暴言を繰り返し私をボロボロにした「あいつ」です。 その「あいつ」がまたも私に勝負を挑んできたのです。 ランクも上がってさすがに無敗ではなくなっていた「あいつ」ですが、いまだに高勝率をキープしていました。 でもそんなことは関係ありません。 私は喜んで挑戦を受け「あいつ」と対局をすることにしました。 ランクが上がっても相変わらず「あいつ」はハメ手である「早石田」や「升田式石田流」といった戦法を繰り出してきましたね。 しかしこの時の私は以前の「わたし」ではありません。 もちろんハメ手の対策もバッチリです。 ハメ手に対する正しい受けを繰り出し、私は「あいつ」に連戦連勝しました。 前にやられたことを倍返ししてやった感じです。 今まで通じていた「早石田」や「升田式石田流」が通用しないことがよほど悔しかったのか「あいつ」は新しいハメ手「鬼殺し」という戦法を使って奇襲をかけてきましたが、もちろんこちらも研究済み。 「鬼殺し」もいともあっさり受けきられた「あいつ」はチャットに一言だけ暴言を吐くと逃げるように対局場から去っていきました。 この時の私の喜びようは凄まじかったと思います。

サービス職業従事者
投稿時の年齢:44
高知
投稿日時:
2023年04月02日
ドラマの時期:
2013年
--月
--日
文字数:3373

初めての交通事故

人生で印象に残った出来事の一つといえば「人生初の交通事故」です。 それは私が20歳のころ。 高校を卒業した私は、特にやりたいこともなかったので、アルバイトをしていました。 そのアルバイトはピザの宅配のお仕事です。 ちょうど原付の免許を取ったことと、地図を見るのが得意だった私には、ピザの宅配という仕事はピッタリだったと思います。 それに仕事仲間の人たちも、同年代が多く話も合いましたし良い人ばかりで楽しかったです。 この頃に一人暮らしを始めたこともあって、日々の生活のためにもお金を貯めるためにも、一日中、頑張って働いていました。 この働いていた当時のピザ屋の店長がすごく良い方で、ものすごく可愛がってもらった記憶があります。そんなピザの宅配の仕事を頑張って続けて、そろそろ仕事に慣れてきた3カ月後のこと。 どんな仕事でもそうですが、仕事を新しく始めたばかりの時期は、仕事をこなそうと一生懸命で集中しているので、割と失敗という失敗って意外に少ないと思うのです。 やはり仕事に慣れてきて、頭で考えなくても自然に体が動くようになる3カ月目の時期が一番危ないといいますし、実際にそうでした。 ある日の昼間、いつものようにピザの宅配を一件終えて、店に帰る道中の事です。 その日は良く晴れていて気温も良く、気が抜けるにはもってこいの日でした。 住宅街の中で信号のない見通しの悪い交差点。 路面標識の「止まれ」がありましたがそれを無視。 恐らく速度は30kmは出てたと思います。 私は交差点を横切ろうとする普通車に、横から突っ込んでしまいました。 これが私の人生で初めての交通事故でした。 事故の状況としては、私がまっすぐ直進しようと止まれ標識を無視して交差点に進入。 そこに優先道路側の車もまっすぐ直進して交差点に進入。 相手方の車の方が先に交差点に進入して、私の方が後から交差点に進入する格好となり、相手方の車の後ろドアの側面にブレーキをかけながら突っ込んだという状況でした。 お互い見通しが悪い交差点で、お互いがまったく相手に気づけなかったと思います。 この事故は止まれを無視した私の不注意で起こった事故で、個人的な感想をいえば私の過失100%をつけてもよい事故でした。 ただ幸いなことに自分も相手の方にも、ケガなどは無かったのです。 ピザのバイクも少しフロントカウルが傷つきましたが自力走行が可能でした。 ただ相手の方の車は、左後ろのドアが事故の衝撃で大きくへこんでいました。 私はお互いに怪我がないことを確認したら、すぐにピザ店も電話をかけて報告しました。 この時、私は生まれて初めて起こした交通事故で激しく動揺していたと思います。 しばらく待っていると店長が駆けつけてきました。 私は事故を起こしたことを店長にひどく怒られるものだと思っていました。 でも駆け付けた店長は「岡本!大丈夫か!?しかしやっちまったな!」っと笑顔で私に声をかけたのです。 この時の店長の対応で、私の心はどれほど救われたか・・いまだに言葉に良い表せないほどです。 まず笑顔で声をかけてくれたこと。 そしてやっちまったな!と冗談をいってくれたこと。 私の起こした事故で、恐らく監督立場として責任が発生したであろう店長。 これが普通の世の中の店長ならかなり怒っても無理はないのです。 なのに私のことを心配して、笑顔で声をかけてくれたのです。 20代前半と自分より少しだけ年上だった若い店長でしたが、心の余裕と安心感と懐の大きさを感じました。 そして店長と二人で改めて相手の方に謝ったのですが、この時の相手の方もご高齢の男性の方でしたが、非常に大人で優しい方で「かまんかまん」と言ってくださいました。 逆に「若いうちはそんなものよ。これから気を付けて」と励まされたのです。 この店長とご高齢の男性、二人の対応に当時、自立もできてない若造の私の心は本当に本当に救われたのです。

サービス職業従事者
投稿時の年齢:44
高知
投稿日時:
2023年03月17日
ドラマの時期:
1999年
--日
文字数:1993

母親の愛とプライド

私は子供の頃から母に愛され、そして甘やかされて育てられてきました。 私が小学校の頃、父親がある事情から多額の借金を背負ってしまい、県外に出稼ぎに行くことになりました。 なので私の幼少期は、家族全員がひどく貧乏な生活を送っていました。 1円玉や5円玉を集めて近所のスーパーに50円の袋ラーメンを買いに行き、晩御飯にしたこともありました。 料金が払えなくて電気やガスが止まったことも何度もあります。 それくらい困窮した生活を送らざるをえませんでした。 そんな生活でしたが、私の母はできる限りの範囲の中で、私を甘やかせてくれたと思います。 小・中・高校とすべての修学旅行に行くことができ、良い想い出を作ることができました。 誕生日に欲しいといったスーパーファミコンの本体を、買ってくれたこともありました。 中学でサッカー部に入った時、ユニフォームやスパイクなど、必要な備品を一式、揃えてくれたりもしました。 普段の生活が厳しかったのに、私への貯えというか、そういうお金は一生懸命に働いて、用意してくれていたのだと思います。 そんな母親だったので、食事や家事やゴミ出しなどすべて母が一人で行い、私は19歳で一人暮らしを始めるまで、一切の家事をした経験がありませんでした。 それに私は何か失敗して母親に怒られたという経験が一切ありませんでした。 今思えば、もしかしたら母は家事や食事などはすべて女がやるもの、という昔ながらの考え方を実践していただけなのかもしれません。 そんな甘やかされて愛されて育った私は、19歳に家を出ていくことになります。 そのきっかけは「母親のプライド」です。 高校生になった私は、バイトを始めました。 その理由は生活が苦しい家にお金を入れる、とかそういう考えではなく、単純に自分のお小遣いが欲しかったからでした。 この時の私は甘やかされて育ったせいか、自分でものを考える能力に乏しく自立するということからは相当にかけ離れた甘ったれでした。 なので家が金銭的に苦しいのは分かっていましたが、家の生活費は母親がなんとかしてくれるだろう!とまだまだ母親に甘える気、満々だったと思います。 親が子を甘やかせて育ててしまうと、子供は自立できない甘い子に育ちます。 このことは私が大人になってから、幼少時代を振り返った時に気づいたことです。 当時は甘えることが当たり前というか「普通のこと」と思い込んでいるので、家事や掃除、ゴミ出しなど、何でも母親がやってくれていることに、なんの疑問も持たなかったですね。 そんな甘々の私が初めてのバイトを悪戦苦闘しながら続けることができ、人生初の給料をもらった時は本当に嬉しかったです。 初めて自分だけの力で何かを成し遂げた感覚といいましょうか? それぐらい高校時代にバイトでお金を得るというのは、大きいことだったと思います。 その初給料の大半は、自分のお小遣いに充てるつもりで財布に入れて、残りのほんの一部を母親に家賃として渡した記憶があります。 そんな人生初の給料で何を買おうかと、楽しみに考えていた私でしたが、しばらくして悲しいことが起こります。 ある日、自分の財布を見たところ、あきらかにお金が減っていました。 自分で何かに使ったかな?と考えてみても一向に思い当たる節がないのです。 そこでちょうど近くにいた母親に、何気なく財布に入ってたはずのお金のこと知らない?と聞いてみたところ。 「ああっ、ちょっと〇万円借りたけど、必ず返すから」 という答えが返ってきたのをハッキリ覚えています。 「えっ?一言、言ってくれたらもっと家にお金を入れたのに、なんで勝手に黙って人の財布からお金を取ったの?」 母が黙って財布からお金を取ったことが信じられなかったので聞いてみると、 「えっ?だって言いにくかったし、あとで返せば良いと思って」 この言葉を聞いて私はとてもとても悲しくなった記憶があります。 家が苦しいのは知ってるので、直に言ってくれればお金をもっと入れることもできたのです。 しかし母親からはどんな時も、催促の相談は一切ありませんでした。 家の生活も苦しかったので、私がバイトを始めることを知って、家にたくさんお金を入れてくれることを期待したのかもしれません。 でも実際に私が渡した金額が、母の想定よりもはるかに少なかったのでしょう。 裏を返せば母の期待を裏切ってしまったとも言えるかもしれません。 そこで母がとった行動が、私に内緒で財布から黙ってお金を借りる=取るという行為だったのは、例えどんな理由であれ、許されることではないと今も思っています。

サービス職業従事者
投稿時の年齢:44
高知
投稿日時:
2023年03月07日
ドラマの時期:
1996年
--日
文字数:3551

ペットと罪

みなさんは何かペットを飼っていますか? ペットって本当に可愛くて癒される存在だったりしますよね。 私も昔、実家で猫を飼っていた時期がありました。 この猫はもらってきたメスの猫で名前を「シーマ」といいました。 雑種でしたが色は白色でふわふわの毛がふさふさで、とても障り心地が良かったです。 生まれて初めて飼いだしたペットだったので、家族みんなでとても可愛がってあげた記憶があります。 当のシーマもとても人懐っこくて愛嬌があり甘えん坊な猫でした。 寝るときは人の布団に入ってきたり、立っている自分に対してジャンプしてきて強制的に抱っこしなければならなかったり、顔をスリスリとくっつけてきたりと本当に本当に可愛い猫でした。 シーマは散歩が好きで良く昼夜問わず良く散歩に出ていました。 家の窓やドアが閉まっていると散歩に行きたいと閉まった窓やドアをコンコンとこずいて開けるように催促してくる猫でした。 なのでこの頃の我が家は冬以外の季節は窓やドアの一部をシーマが通れるように常に開けているような家でした。寒い冬の時はさすがに寒かったのかあまり外には出たがりませんでしたが。 そんなシーマでしたが夕方のご飯時になるとご飯を食べに必ず家に帰ってくる猫でした。 犬や猫もですが動物って時計がないのになぜあんなに正確な時間に家に帰ってくるのか非常に不思議でした。 ですが私が中学三年生になったある日のこと、夕方のご飯時になってもシーマが帰ってこない時がありました。 心配になった私はシーマを探しに家の周りを名前を呼びながら探しましたがシーマは見つかりませんでした。 ちょっと臆病だったシーマは普段はそこまで遠くに行くような猫ではなかったので余計に心配になりました。 なので少し家から離れた場所もくまなく探しましたがそれでも見つかりません。 その頃の家の近くには国道がありとても交通量が多かったのですが、まさかそっちの方にシーマが行ったのかな?っと思い国道線沿いの道路脇をシーマの名前を呼びながら歩いてみました。 すると家から離れた国道脇の茂みの方から猫のような微かなうめき声がするのが聞こえました。急いで茂みの方へ駆け寄ってみると茂みの中でシーマがうずくまってかすかな声で鳴いているではありませんか! 口からは大量の血が出ていて体もボロボロです。 状況的にどうやら国道の車にはねられて命からがら茂みの中へ逃げ込んでそこで動けなくなったようでした。 その姿に動揺した私はどうしてよいか分からず家に助けを求めて走りました。 そして家にいた母や姉とともにシーマをいったん家に連れて帰りましたが傷が想像以上に酷く夕方に診察してくれる動物病院を探して連れていくことになりました。 そのおかげかシーマはなんとか一命はとりとめました。 でもしばらくの間、絶対安静となり傷が治るまでに数カ月を要したのでした。 なので傷が治り元通りに元気になったシーマを見たときは本当に安心しましたし嬉しかったですね。 それから一年後くらいだったでしょうか? 元気になっていつも通りの甘えん坊なシーマとお別れの時が来るのです。 そのお別れの理由がなんと「飼育放棄」だったのです。 実はこの頃はシーマの他にも複数の猫を飼っていたのですが、その猫たちが近所の他人の家の花壇の中におしっこや糞をするようになったのです。 するとせっかく奇麗に植えていた花壇の花や植物が枯れてしまい、近所の人がうちに怒鳴り込んできたのです。 お前の家の猫はどうなっとるんだっと。 しかも一回や二回ではなく何度も枯らしたようでこれは怒るのも当然だったと思います。 そして困ったことにこれの解決方法が無かったのです。 複数の猫を飼っていたので外に出さないようにしてしまうと猫たちが出たい出たいと窓をガリガリ掻き出しますし、もし完全に外に出さなければストレスで猫同士で喧嘩をする始末です。 かといって外に出すとして花壇に糞尿をさせないようにする手段がありませんでした。 怒った近所の人は我が家の賃貸の家主にも話をしにいったようです。 家主からもうちの猫たちをなんとかしないと家を出て行ってもらうと最後通告がきたのです。 これには母も姉も参ったようでした。 すぐに引き取ってもらえるような環境ではなかったし保健所に連れていくという選択肢は取りたくないしで、どうしてよいか分からなくなってしまいました。 そして我が家が話し合った結果、取った手段が「飼育放棄」でした。 保健所に連れていくくらいならせめて生き延びることを願って遠く離れたお寺の敷地内に猫たちを捨てるというものです。 今思うととんでもなく「無責任」だったと思います。 でもあの当時、まだ高校1年生だった私には解決策も思い浮かばず、ただ母と姉の決定に従うしかありませんでした。 この決定をした日は家族みんなで泣きまくった記憶があります。 いよいよお寺に猫たちを放棄する日になった時、私も姉に同行しました。 何も知らない猫たちは一匹ずつ車に乗せられていくのが何故なのか訳も分からなかったと思います。暴れるような猫はいませんでした。 車で猫たちを連れてお寺の駐車場に止めてドアを開けました。 すぐに飛び出す猫もいれば車にとどまり出ようとしない猫と二手に分かれました。 シーマはとどまる方の猫でした。 とどまった猫を一匹づつ外に出していき最後に残ったのがシーマでした。 私はシーマを抱えて外に無理やり出しました。 でもシーマは地面についた瞬間に走って車に戻りました。 まるですべてを解っているかのようでした。 ここに捨てないで・・。家に帰りたいと言っているようでした。 私と姉はそれを見て涙が溢れ出てきました。 それを見た私はもうシーマを抱えることができなくなってしまいました。 でも私より4つ年上の姉は自分がやらなきゃっと私の代わりに泣きながらシーマを抱えて外に連れて行きました。 私は黙ってそれを見ていました。 そして気を機を見計らって車に飛び乗り発進させ猫たちを置いてけぼりにしました。 後ろを見ると後をついて来ようとする猫がいたようでしたが、それがシーマだったのかは分かりません。 この時、心の中で何度も何度もごめんごめんっと繰り返し謝っていたのだけは覚えています。 その後、私はシーマたちを放棄したお寺に見に行こうと何度も思いましたが、自分の犯したことがとても酷いことと分かっていたので・・怖くて見に行くことは結局、できませんでした。

サービス職業従事者
投稿時の年齢:44
高知
投稿日時:
2023年04月10日
ドラマの時期:
1993年
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文字数:3001

記憶に残る学校の先生

私の中で記憶に残る人物として小学5・6年生の頃の担任だった「M先生」がいます。 私は父親の借金が原因で、小学校5年生の1学期を終えたときに、転校を余儀なくされました。 そしてこのM先生がいるK小学校に小学5年の2学期初めに転校したのです。 この頃の私は、生まれて初めての引っ越しと転校、父親の県外への出稼ぎなど、人生の中でもジェットコースターのように目まぐるしい怒涛の生活を送っていました。 多感な小学生だった私の心は非常に不安定であり、子供ながらに家の状況が一変したのを肌で感じていて何かと不安な日々でした。 正直、慣れ親しんだ小学校を転校することは嫌でしたし、新しい学校に対する気持ちは、期待よりも不安の方がはるかに大きかったです。 当時の私は母に甘やかされて育ったこともあり、自分の考え方を伝えるのが非常に苦手で周りの意見に流されて自分の意見を隠すような子供でした。 そんな不安を抱える小学生だった私の転校先のクラスの担任がM先生だったのはある意味、運が良かったといえます。 M先生は男性で年齢20代半ばくらいの若い先生だった記憶があります。 とても明るくて正義感に溢れた感情豊かな先生でした。 そんな先生だったのでどんな生徒にも平等に接することができて、同学年のどの生徒にも人気だったと思います。 M先生はとにかく明るくて声もハキハキしていました。 普段からM先生がいるだけで、先生の雰囲気に引っ張られてクラス全体が明るかったのを覚えています。 更にM先生のおかげか、当時のクラスメイトの中に嫌な生徒がなんと1人もいませんでした。 なので途中から転校してきた私もクラスに入り込みやすくて、すぐに友達ができました。 それもこれも本当にM先生のクラスの雰囲気作りが、とても良かったおかげだと言えます。 正義感の強いM先生はクラスの中で喧嘩があっても、すぐに飛んできて止めていました。 そして喧嘩した両方の生徒から言い分をじっくり聞いたあと、原因を指摘して改善策を言い聞かせ最終的には喧嘩両成敗にしていました。 お互いが仲直りして終わったことは水に流すようにと言っていたと思います。 良いとこばかり目立つM先生ですが、唯一の欠点があるとすれば着ていた服装が非常にダサかったです。 Gジャン風の上着に下はジャージでカッコ悪い眼鏡を着けていて、他の先生と比べてもファッションセンスがかなり悪かったことを想い出します。 そんなM先生は転校してきたばかりの自分のことを、非常に気にかけてくれていたようです。 その理由は毎学期に渡される通信簿の「担任からの一言」の記載文でわかります。 押し入れから引っ張り出してきて久々に見てみた当時の通信簿の中にこんな一文がありました。 M先生から「担任からの一言」 「5年生の途中から転校してきて不安だったなか、勉強やスポーツに音楽会など頑張って良い成績を上げていましたね。 友達もできるか心配していましたが、無事に〇〇君や〇〇君と仲良く遊んでいる姿を見て先生は安心しました。 少し落ち着かないことや、自分の考えなどをハッキリ表せないことも見受けられますが、頑張っている君を見ていると、いつかそれらも克服できると先生は信じています。頑張って!」 当時はこんなことが書かれているとは思ってもみませんでしたが、今改めて見返すとM先生は自分のことを分析して、良い部分も悪い部分も気にかけてくれていたのだと知ることができました。 もうひとつM先生のエピソードで思い出したことがあります。 M先生は「差別」という言葉やそういった行為が大嫌いだったと記憶しています。 クラスの中で少し脳の発育が遅れている生徒(仮でI君と呼ばせていただきます)が1人いたのですが、小学生の頃はそういった生徒を馬鹿にする生徒が、残念ながら数人はいるものです。 具体的に言うとテストの点数が悪かったI君のテスト用紙を取り上げて、みんなに見せるようにしながら「Iはテストの点数が〇点しか取れてないぞ!ハハハ」みたいな、晒し者にする・いじめ行動をする(本来、悪い子ではないけど悪ノリでやってしまったのでしょう)こともありました。 M先生はそういうことが大嫌いなのでそれを知ると、普段では見られないような鬼のような顔で、晒し行動をした生徒をめちゃくちゃに怒っていたと思います。 普段は明るくて楽しい人が怒ると、ギャップもありとんでもなく怖いことが多いので、怒っているM先生を見た自分も相当に怖がっていたような気がします。 それと今はあるか分かりませんが、当時の授業で「部落差別」を題材にした授業がありました。 M先生が特に熱心に教えてくれたと思うのですが、部落など勝手に人が作り出したものでそんな境界線みたいなものはあってはならない。 みな平等で同等の権利があるといった内容をおっしゃっていた記憶があります。 小学生ながらこの内容は難しくてすべて理解できていなかったですが、差別やいじめなどがいかに悪いことだということは、小学生の自分でも学べたと思います。 この差別の授業の後に、M先生が「自由」というテーマで好きなことを書いて提出しようという企画を行いました。 「自由」というテーマは恐らく「差別」からの解放といったメッセージが込められていたと思うのですが、この企画は成績とはまったく関係なかったですし、強制ではなく「任意提出」という形でした。 なので、面倒くさいのか最初は誰も提出しなかったです。 この時のM先生は少し寂しそうでした。 私はそんなM先生を見て、このまま誰も「自由」を書かないと、M先生が寂しい思いをしてしまうと思い、家に帰って一生懸命に自分なりの「自由」を用紙に書いて2日後にM先生に提出しました。 内容はびっくりの「桃太郎の話を改変したお笑い漫画」でした。 絵が好きで得意だった私は、当時、何を思ったのか分かりませんが、生まれて初めて漫画を描いて提出したのです。 お笑い漫画でしたが物語の最後の方に、無理やり差別反対的な内容のコマを書いて締めにした記憶があります。 そんな無茶苦茶な内容の自分なりの「自由」でしたが、M先生はものすごく喜んでくれて、褒めてくれました。 そしてそのまま漫画として「自由」という題名で用紙を印刷してクラス全員に配ったのです。 これが意外にも面白かったと大好評でした(笑) 家に持ち帰った生徒から、生徒の親にも見せたらめちゃくちゃ面白かったと言ってたと感想をもらった時は飛び上がるほど嬉しかったです。 それから調子に乗った私は何回か漫画を描いて「自由」として提出したと思います。 私の「自由」を見て、真似て漫画を描いて提出する子もいましたし、日記みたいな文を書いて提出する子もいたと思います。 たくさんの「自由」が書かれて提出されるにしたがって、M先生は印刷が大変だったと思いますが、とても喜んでくれたと胸を張っていえます。

サービス職業従事者
投稿時の年齢:44
高知
投稿日時:
2023年03月26日
ドラマの時期:
1990年
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文字数:3250