AGE

43

Autobiography

長男の成長

今年、長男が小学校の卒業を迎えました。 この12年間は私達夫婦は長男の成長と共に過ごした人生でした。これからも続いていく人生の軌跡ですが、小学校卒業という一つの節目を無事に迎えることができました。初めての育児で初めての教育。思えば手探りの12年間でした。長男が3歳くらいになるまでは、私達夫婦共に平均睡眠時間が2時間くらいしかなく、とても大変だったのを覚えています。一日中泣いているイメージしか今はありません。。。言葉の話し始めも遅く、歩き始めも一人よりも遅い。とてもマイペースな子供だったと記憶しています。それが保育園に入る直前。急激に成長を始めました。絵やバスケ、音楽。色々な事に興味を持つようになり、私達夫婦のどちらにも似ていない感性を持っていました。 私が親として伝えられる事柄の一つに、「勉強との向き合い方」がありました。「勉強は何のためにするのか」それは、将来やりたいことが見つかり、それを仕事にしたいと思った時。それがどんなジャンルであっても実現するためだと伝え続けました。 ゲームクリエイターになりたいのなら、作るための基礎知識として算数が必要。色々な人と相談しながら作るのだから、国語と英語は必要。そして沢山の人が面白い!と思うゲームを作るためには、難しいことを面白おかしく表現する方法が必要。 長男が小学一年生になった時から、ずっと勉強との向き合い方を伝え続けていました。

ドラマの時期:
2022年
--月
--日
文字数:880
投稿時の年齢:40

家を買うことと家に住みつづけること

私が不動産会社の支店長だった時、ある御客様が「家を買いたい」と来店されました。収入や資金の準備は十分。銀行の担当者も全く問題ないと言っており、御夫婦も安心して家探しをしていました。 新築戸建をベースに色々な物件を内覧し見学をしている中、ふと御夫婦からよく出る言葉が気になりました。 「子供がきたら」という言葉です。 「子供ができたら」ではなく。 来店時、御夫婦にお子様はいらっしゃいませんでした。 将来の話かと思っていましたが、 内覧が終わり商談スペースで話を聞くと 「養子」を受けられるとのことでした。 私は初めて養子を受けられる御客様に出会いましたが、 既に縁組はできており後は手続きの進行待ちという状態でした。 私は御夫婦に尋ねました。「お子様の教育計画はどのようにお考えですか?」 ファイナンシャルの言葉には、人生の三大出費という言葉があります。 「住宅費用」「老後費用」そして「教育費」です。 例えばお子様1人が文系大学を卒業した場合、トータル教育費は約1,800万円かかります。 6年制の理系だと2,000万円を超えます。 御夫婦はしっかりとした教育環境を与えてあげたいという希望があり、 一旦家探しは止めて資金計画(シュミレーション)を行いました。 その結果、いま家を購入すると大学入学時点で貯金がマイナスになり、 破産することが分かりました。 マイホームを夢見ていた御夫婦でしたが、 なくなく人生プランを変更することになりました。 家を購入する夢よりも、十分な教育環境を整えるという もう一つの夢を優先することにしました。

ドラマの時期:
2020年
--月
--日
文字数:884
投稿時の年齢:40

思い出の家

2年前のある日。私は御葬式に参列していました。 亡くなったのは売主様。 久しぶりにお会いした息子様達にお悔やみの言葉を伝え、 最後の言葉を棺に向かってかけることができました。 この売主様との出会いは、家族愛に溢れたとても暖かい気持ちを私に与えてくれました。 売主様と初めてお会いしたのは約5年前。 亡くなった御主人様名義の財産として誰が家を相続するのか、 という相談を受けたのが最初でした。 お子様は2人いらっしゃるので、全財産の半分を売主様(お母様)。 残りの半分をお子様が分けることになります。 特に揉める話ではなかったのですが、困ったことがありました。 家の価値がとても高く、家以外の財産がなかったのです。 この場合、家に住む売主様(お母様)が家を相続し、 その代わりにお子様2人に現金を渡すことなります。 しかし、家の資産価値が高いためお子様に渡せる現金が ありません。 (※例えば家の価値が1,000万ならお子様2人には500万となりますが、 5,000万円なら2,500万を現金で渡す必要があります。) 売主様が一旦全て相続しても良いのですが、 そうすると売主様が亡くなった時の相続税が 莫大になります。 残る手立ては一つ、思い出の家を売却しお金に換えるしかありません。 後日、家を売る覚悟ができました、と売主様から連絡がありました。

ドラマの時期:
2020年
--月
--日
文字数:1265
投稿時の年齢:40

実家への想い

私は不動産の仕事をしています。 家を売って欲しいという依頼を受け、提案をするのが仕事ですが、売主様に必ずする質問があります。 「この家を売ることには、御家族は賛成されていますか?」 所有者が売ると決めていれば売ることができるのが不動産。しかし私はあえてこの質問をするようにしています。 それは、私が不動産の仕事を始めて最初の頃に経験した、忘れられない経験があるからです。不動産を始めてすぐに、実家を売って欲しいという相談をいただく機会がありました。 依頼者は成人した息子様がお二人。産まれてた時からずっとこの家に住んでいたが、もう子育てが終わったので夫婦で小さいマンションに引越ししたいという依頼でした。 家を確認し査定額の提案を行い、家の販売をスタート。立地が良かったということもありすぐに買い手は見つかりました。 購入者の資金も用意でき、順調に契約は完了。売主様が「そろそろ引越しの準備をしないとね」と言っていた時。思いもよらぬことが起きました。 息子様お二人が、とてもお怒りになって家に来られました。 「なんでこの家を売ったんだ!」 家の残置物確認を売主様と行っていた時に息子様が来られ、そう仰っていました。 もうこんな大きな家は必要ないこと、小さなマンションに住んだ方が都合が良いことを売主様は説明されていましたが、息子様達は御納得いかない御様子。 暫く沈黙の時間が続いたあと、息子様の一人が言いました。 「俺たちにとっては大事な実家だったんですよ。」 私はこの瞬間、自分の実家を思い出しました。 もし自分の実家がなくなり、御両親が新しい場所に住んだとして、そこは私にとっての実家になるのだろうか。「両親がいる場所が実家」という考え方もありますが、そんな簡単に割り切れるものではありません。 何故なら、思い出は全て「その家」にあるからです。 私は売主様の御要望に応えるということには成功しましたが、売主様の御家族全員を幸せにする提案という意味では、大失敗をしていました。 その後、契約通りに家は売却。後味の悪さを感じながらも、御夫婦はマンションを購入し引越しをされました。

ドラマの時期:
2013年
--月
--日
文字数:1171
投稿時の年齢:40

人生を変えた海外旅行

就職活動も終わり卒業論文以外の単位を取り終えた私は、卒業までを東南アジアに旅行へいくことを決めていました。社会人になり忙しくなる前に海外で生活してみたいと思うようになっていたわけですが、「運よく人生の目標が見つかる、なんてことがあればいいな」という甘い気持ちもこめていました。 就職氷河期に内定をいただいてはいましたが、あと半年で社会人になるということに漫然とした不安があり、何か行動しておきたいという気持ちに押され一人旅をスタートしました。最初の国、ラオスについた私は慣れないタイ語を使い、首都のヴィエンチャンに向かいました。そこで私が感じたのは、ただただその日を一生懸命に生きる人々の姿でした。必死に生きているわけではなく、その日をただ楽しみ、一生懸命に働き、笑っていきるラオスの人々。私が知っている日本の社会人からは一度も感じたこともない人生を謳歌している人達の生き方でした。 その後、東南アジアをベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマーと陸路で旅行を続けていきましたが、どの国にも共通しているのが「毎日を一生懸命に生きる」という生き方でした。特に私が大きな衝撃を感じた経験が、お金に対する考え方の違いです。 当時の私は、お金はある方が当然良くて貯金は多い方が当然良いと思っていました。20年近く経った今もそう思っています。しかし、彼らはお金よりも人の繋がりを大事にしていました。他の観光客とは違い全くお金を持っていなさそうな貧乏学生の私に、食事や宿を提供していくれる人もいました。地元の人に呼ばれ、タイ語も英語も分からないのに楽しそうに話しかけてくれる人達に、「こんな風に生きていける国もあるんだ!」と思うようになりました。 そう、私が旅行をスタートする前に感じていた「運よく人生の目標が見つかる、なんてことがあればいいな」という甘い考えが成就した旅行になったのです! 日本に帰ってからもこんな気持ちを大事にしていきたい、そう思っていた時に事件が起きました。 2001年9月11日アメリカで同時多発テロ事件が起きました。 当時、帰国する便の手配をしている最中にミャンマーでTV放送があり、この事件を知りました。沢山の人が亡くなったという報道にミャンマーの人も悲しみ、何かできることがないのかと話す人もいました。 当時の私は事件の大きさに実感がなく、ただ遠くの国で大変な事件があったという気持ちでいました。そしてそのまま、日本へ帰国する飛行機に乗りました。

ドラマの時期:
2001年
9月
--日
文字数:1467
投稿時の年齢:40

優秀な兄との関係

私は兄と二人兄弟。兄は4つ上です。 中学生までの私の人生は、兄と比較される人生でした。 兄は超がつく天才。しかもスポーツも万能。 私は全てが平均、という絵に描いたような引き立て役でした。 小学校も中学校も、私は名前で呼ばれることよりも「〇〇の弟」と言われることが多く、「〇〇の弟なのに」というフレーズを聞くことに慣れてしまう。そんな環境でした。 自慢の兄ではありましたがそういう環境もあって素直になれず、優しくしてくれる兄が嫌いでした。そんな中、私と兄の関係が大きく変わる出来事がありました。 それは、私が高校に入学したタイミングです。兄は超進学校。私は中くらいの高校に進学しましたが、「〇〇の弟」というキャッチフレーズから解放された私はとても嬉しく感じていたのを覚えています。そんな中、高校の制度を利用しオーストラリアへ交換留学に行きました。 オーストラリアでは語学学習がメインでしたが、どちらかというと文化の違いを知ることが目的となっていました。当時はまだ観光できたエアーズロックを観光したりする中、一人のイスラム人高校生と仲良くなりました。この人は日本語が少し話せるので、すぐに意気投合。留学期間中、一緒に行動することが多く色々なことを教えてもらいました。 そのイスラム人が、私の兄への考え方を変えてくれました。 キッカケは、その人のイスラム教に関する考え方を知った時です。 イスラム教にはラマダンという、断食の期間があります。後から知ったことですが、断食といっても絶食といういうわけではなく質素な暮らしを心掛けなさいというイメージが近いようです。この期間中に、このイスラム人高校生はバクバクとカレーを食べていたのです。 「今食べていいの?断食は?」 当然の質問を私はしましたが、イスラム人高校生はカレーを食べながらこう返しました。 「イスラム教の考え方は『生き方のベース』みたいなもの。ブレない軸だから断食を守るとか守らないとかはあまり重要じゃない」 今思うと、ただカレーを食べたかっただけのような気もしましたが、当時兄の悩みが解放されたばかりの私には、兄への考え方が変わるキッカケになりました。

ドラマの時期:
1997年
--月
--日
文字数:1248
投稿時の年齢:40
AGE

43

Autobiography

長男の成長

今年、長男が小学校の卒業を迎えました。 この12年間は私達夫婦は長男の成長と共に過ごした人生でした。これからも続いていく人生の軌跡ですが、小学校卒業という一つの節目を無事に迎えることができました。初めての育児で初めての教育。思えば手探りの12年間でした。長男が3歳くらいになるまでは、私達夫婦共に平均睡眠時間が2時間くらいしかなく、とても大変だったのを覚えています。一日中泣いているイメージしか今はありません。。。言葉の話し始めも遅く、歩き始めも一人よりも遅い。とてもマイペースな子供だったと記憶しています。それが保育園に入る直前。急激に成長を始めました。絵やバスケ、音楽。色々な事に興味を持つようになり、私達夫婦のどちらにも似ていない感性を持っていました。 私が親として伝えられる事柄の一つに、「勉強との向き合い方」がありました。「勉強は何のためにするのか」それは、将来やりたいことが見つかり、それを仕事にしたいと思った時。それがどんなジャンルであっても実現するためだと伝え続けました。 ゲームクリエイターになりたいのなら、作るための基礎知識として算数が必要。色々な人と相談しながら作るのだから、国語と英語は必要。そして沢山の人が面白い!と思うゲームを作るためには、難しいことを面白おかしく表現する方法が必要。 長男が小学一年生になった時から、ずっと勉強との向き合い方を伝え続けていました。

管理的業務従事者
投稿時の年齢:40
愛知
投稿日時:
2022年03月23日
ドラマの時期:
2022年
--月
--日
文字数:880

家を買うことと家に住みつづけること

私が不動産会社の支店長だった時、ある御客様が「家を買いたい」と来店されました。収入や資金の準備は十分。銀行の担当者も全く問題ないと言っており、御夫婦も安心して家探しをしていました。 新築戸建をベースに色々な物件を内覧し見学をしている中、ふと御夫婦からよく出る言葉が気になりました。 「子供がきたら」という言葉です。 「子供ができたら」ではなく。 来店時、御夫婦にお子様はいらっしゃいませんでした。 将来の話かと思っていましたが、 内覧が終わり商談スペースで話を聞くと 「養子」を受けられるとのことでした。 私は初めて養子を受けられる御客様に出会いましたが、 既に縁組はできており後は手続きの進行待ちという状態でした。 私は御夫婦に尋ねました。「お子様の教育計画はどのようにお考えですか?」 ファイナンシャルの言葉には、人生の三大出費という言葉があります。 「住宅費用」「老後費用」そして「教育費」です。 例えばお子様1人が文系大学を卒業した場合、トータル教育費は約1,800万円かかります。 6年制の理系だと2,000万円を超えます。 御夫婦はしっかりとした教育環境を与えてあげたいという希望があり、 一旦家探しは止めて資金計画(シュミレーション)を行いました。 その結果、いま家を購入すると大学入学時点で貯金がマイナスになり、 破産することが分かりました。 マイホームを夢見ていた御夫婦でしたが、 なくなく人生プランを変更することになりました。 家を購入する夢よりも、十分な教育環境を整えるという もう一つの夢を優先することにしました。

管理的業務従事者
投稿時の年齢:40
愛知
投稿日時:
2022年03月25日
ドラマの時期:
2020年
--月
--日
文字数:884

思い出の家

2年前のある日。私は御葬式に参列していました。 亡くなったのは売主様。 久しぶりにお会いした息子様達にお悔やみの言葉を伝え、 最後の言葉を棺に向かってかけることができました。 この売主様との出会いは、家族愛に溢れたとても暖かい気持ちを私に与えてくれました。 売主様と初めてお会いしたのは約5年前。 亡くなった御主人様名義の財産として誰が家を相続するのか、 という相談を受けたのが最初でした。 お子様は2人いらっしゃるので、全財産の半分を売主様(お母様)。 残りの半分をお子様が分けることになります。 特に揉める話ではなかったのですが、困ったことがありました。 家の価値がとても高く、家以外の財産がなかったのです。 この場合、家に住む売主様(お母様)が家を相続し、 その代わりにお子様2人に現金を渡すことなります。 しかし、家の資産価値が高いためお子様に渡せる現金が ありません。 (※例えば家の価値が1,000万ならお子様2人には500万となりますが、 5,000万円なら2,500万を現金で渡す必要があります。) 売主様が一旦全て相続しても良いのですが、 そうすると売主様が亡くなった時の相続税が 莫大になります。 残る手立ては一つ、思い出の家を売却しお金に換えるしかありません。 後日、家を売る覚悟ができました、と売主様から連絡がありました。

管理的業務従事者
投稿時の年齢:40
愛知
投稿日時:
2022年03月25日
ドラマの時期:
2020年
--月
--日
文字数:1265

実家への想い

私は不動産の仕事をしています。 家を売って欲しいという依頼を受け、提案をするのが仕事ですが、売主様に必ずする質問があります。 「この家を売ることには、御家族は賛成されていますか?」 所有者が売ると決めていれば売ることができるのが不動産。しかし私はあえてこの質問をするようにしています。 それは、私が不動産の仕事を始めて最初の頃に経験した、忘れられない経験があるからです。不動産を始めてすぐに、実家を売って欲しいという相談をいただく機会がありました。 依頼者は成人した息子様がお二人。産まれてた時からずっとこの家に住んでいたが、もう子育てが終わったので夫婦で小さいマンションに引越ししたいという依頼でした。 家を確認し査定額の提案を行い、家の販売をスタート。立地が良かったということもありすぐに買い手は見つかりました。 購入者の資金も用意でき、順調に契約は完了。売主様が「そろそろ引越しの準備をしないとね」と言っていた時。思いもよらぬことが起きました。 息子様お二人が、とてもお怒りになって家に来られました。 「なんでこの家を売ったんだ!」 家の残置物確認を売主様と行っていた時に息子様が来られ、そう仰っていました。 もうこんな大きな家は必要ないこと、小さなマンションに住んだ方が都合が良いことを売主様は説明されていましたが、息子様達は御納得いかない御様子。 暫く沈黙の時間が続いたあと、息子様の一人が言いました。 「俺たちにとっては大事な実家だったんですよ。」 私はこの瞬間、自分の実家を思い出しました。 もし自分の実家がなくなり、御両親が新しい場所に住んだとして、そこは私にとっての実家になるのだろうか。「両親がいる場所が実家」という考え方もありますが、そんな簡単に割り切れるものではありません。 何故なら、思い出は全て「その家」にあるからです。 私は売主様の御要望に応えるということには成功しましたが、売主様の御家族全員を幸せにする提案という意味では、大失敗をしていました。 その後、契約通りに家は売却。後味の悪さを感じながらも、御夫婦はマンションを購入し引越しをされました。

管理的業務従事者
投稿時の年齢:40
愛知
投稿日時:
2022年03月21日
ドラマの時期:
2013年
--月
--日
文字数:1171

人生を変えた海外旅行

就職活動も終わり卒業論文以外の単位を取り終えた私は、卒業までを東南アジアに旅行へいくことを決めていました。社会人になり忙しくなる前に海外で生活してみたいと思うようになっていたわけですが、「運よく人生の目標が見つかる、なんてことがあればいいな」という甘い気持ちもこめていました。 就職氷河期に内定をいただいてはいましたが、あと半年で社会人になるということに漫然とした不安があり、何か行動しておきたいという気持ちに押され一人旅をスタートしました。最初の国、ラオスについた私は慣れないタイ語を使い、首都のヴィエンチャンに向かいました。そこで私が感じたのは、ただただその日を一生懸命に生きる人々の姿でした。必死に生きているわけではなく、その日をただ楽しみ、一生懸命に働き、笑っていきるラオスの人々。私が知っている日本の社会人からは一度も感じたこともない人生を謳歌している人達の生き方でした。 その後、東南アジアをベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマーと陸路で旅行を続けていきましたが、どの国にも共通しているのが「毎日を一生懸命に生きる」という生き方でした。特に私が大きな衝撃を感じた経験が、お金に対する考え方の違いです。 当時の私は、お金はある方が当然良くて貯金は多い方が当然良いと思っていました。20年近く経った今もそう思っています。しかし、彼らはお金よりも人の繋がりを大事にしていました。他の観光客とは違い全くお金を持っていなさそうな貧乏学生の私に、食事や宿を提供していくれる人もいました。地元の人に呼ばれ、タイ語も英語も分からないのに楽しそうに話しかけてくれる人達に、「こんな風に生きていける国もあるんだ!」と思うようになりました。 そう、私が旅行をスタートする前に感じていた「運よく人生の目標が見つかる、なんてことがあればいいな」という甘い考えが成就した旅行になったのです! 日本に帰ってからもこんな気持ちを大事にしていきたい、そう思っていた時に事件が起きました。 2001年9月11日アメリカで同時多発テロ事件が起きました。 当時、帰国する便の手配をしている最中にミャンマーでTV放送があり、この事件を知りました。沢山の人が亡くなったという報道にミャンマーの人も悲しみ、何かできることがないのかと話す人もいました。 当時の私は事件の大きさに実感がなく、ただ遠くの国で大変な事件があったという気持ちでいました。そしてそのまま、日本へ帰国する飛行機に乗りました。

管理的業務従事者
投稿時の年齢:40
愛知
投稿日時:
2022年03月20日
ドラマの時期:
2001年
--日
文字数:1467

優秀な兄との関係

私は兄と二人兄弟。兄は4つ上です。 中学生までの私の人生は、兄と比較される人生でした。 兄は超がつく天才。しかもスポーツも万能。 私は全てが平均、という絵に描いたような引き立て役でした。 小学校も中学校も、私は名前で呼ばれることよりも「〇〇の弟」と言われることが多く、「〇〇の弟なのに」というフレーズを聞くことに慣れてしまう。そんな環境でした。 自慢の兄ではありましたがそういう環境もあって素直になれず、優しくしてくれる兄が嫌いでした。そんな中、私と兄の関係が大きく変わる出来事がありました。 それは、私が高校に入学したタイミングです。兄は超進学校。私は中くらいの高校に進学しましたが、「〇〇の弟」というキャッチフレーズから解放された私はとても嬉しく感じていたのを覚えています。そんな中、高校の制度を利用しオーストラリアへ交換留学に行きました。 オーストラリアでは語学学習がメインでしたが、どちらかというと文化の違いを知ることが目的となっていました。当時はまだ観光できたエアーズロックを観光したりする中、一人のイスラム人高校生と仲良くなりました。この人は日本語が少し話せるので、すぐに意気投合。留学期間中、一緒に行動することが多く色々なことを教えてもらいました。 そのイスラム人が、私の兄への考え方を変えてくれました。 キッカケは、その人のイスラム教に関する考え方を知った時です。 イスラム教にはラマダンという、断食の期間があります。後から知ったことですが、断食といっても絶食といういうわけではなく質素な暮らしを心掛けなさいというイメージが近いようです。この期間中に、このイスラム人高校生はバクバクとカレーを食べていたのです。 「今食べていいの?断食は?」 当然の質問を私はしましたが、イスラム人高校生はカレーを食べながらこう返しました。 「イスラム教の考え方は『生き方のベース』みたいなもの。ブレない軸だから断食を守るとか守らないとかはあまり重要じゃない」 今思うと、ただカレーを食べたかっただけのような気もしましたが、当時兄の悩みが解放されたばかりの私には、兄への考え方が変わるキッカケになりました。

管理的業務従事者
投稿時の年齢:40
愛知
投稿日時:
2022年03月22日
ドラマの時期:
1997年
--月
--日
文字数:1248