AGE

56

Autobiography

侮りがたし、幼き賢者よ

近所の小さな公園は、陽当たりがよくて、その周囲にめぐらされている植え込みが寒風を受け止めるので、天気のいい冬の寒い日などは、小春日和とでもいいたくなるほどの陽だまりになります。散歩の相棒(愛犬)と一緒に出かけるのですが、気分転換には絶好の“ほんわか“スポットなのです。ソフトボールの内野がギリギリで収まるくらいの小さなグランドに、鉄棒、平均台、滑り台などの遊具が置かれています。相棒とわたしは、そこを何週かして、時間にして15分くらいだと思いますが、気が済んだら日陰の帰り道をいそぐのがほぼ日課になっております。去年のちょうど今頃、正月休みが明けて少しして、いつも通りに相棒と公園に着いてみると、低鉄棒で逆上がりの練習をしている男の子がいました。幼稚園か、小学一年生かといった年恰好の子で、何度も地面を蹴っては見るものの、脚がうまく鉄棒の向こう側にいってはくれませんでした。『違う、コツは腕のほうだ。地面を強く蹴ったら、鉄棒をグイっと自分のほうに寄せるんだ』老婆心ながら、そんなアドバイスをしようかと思っておりましたが、ここはグっとこらえて、彼の様子を見守りました。せっかく一人で努力してるんですから。手柄の横取りになんてできません。彼の額にはうっすらと汗、頬は赤くなっていて、どれだけ頑張っているかがわかりました。しばらくすると、クルリと、ついに一回転。多少強引でしたが、見事に回りました。コツを掴んだのでしょう、その後はスムーズな逆上がりができていました。思わず近づいて、彼に声をかけてみたくなり『すごいね、どうやったらできたの?』と、たずねてみました。帰ってきた答えは、『うん、何度も、何度も、頑張ってやって、そうしたらできたの』でした。意外でした。

ドラマの時期:
2021年
1月
--日
文字数:1050
投稿時の年齢:54

半分違って、半分同じ

家内は、イギリス出身。私は日本人。そこに新しい家族が加わるという幸運が訪れると、両方の背景を持つ子供が誕生します。両方ですから、ダブルなのですが、一般的には、ハーフと呼ばれることが多いですね。でも、半分というのは、どういうことでしょう。 ハーフジャパニーズというのはわからないでもないですが、それでも『いやいや、半分って、何?』と得心がいきません。 小学校、中学校は地元の学校でしたので、小さなころからの顔見知りの子供たち同士で、さほど大きな問題もなかったのですが、受験を経て高校生ともなると少し様相が変わりました。 お洒落に関心を持つ子、可愛い持ち物が気になる子、ファッション好きな子、それぞれに興味関心が芽生え、だんだんと髪の色や、瞳の色、顔かたち、違いが気になり始めます。多感な年頃ですから、何気ない言動の中に、違いの押し付けを感じて、一人抱え込んでいたようでした。子供の通う学校には英語会話の授業を担当する、二人のイギリス人の先生がいらっしゃって、お二人とも日本人の女性と結婚されていて、小学校入学前のお子さんをお持ちであり、休み時間にはよく子供の話し相手になっていただいていたそうです。 ある日、子供のそんな悩みを聞いてくださって、先生はこう話されたそうです。 君は、東洋と西洋の両方の良いところを持っているんだ。例えるなら『テリヤキバーガー』だね。東洋の人にも、西洋の人にも、どちらの文化にも馴染むことができて、どちらの人からも愛される。ハンバーガーが苦手な人も、テリヤキなら大丈夫ということもある。僕もイギリスの両親もテリヤキバーガーが大好きだよ。 それに、君の目は、ひとつのことを日本人の見方とイギリス人の見方と、両方の見方とで見ることができるんだ。素晴らしい事だと思わないかい。 子供はその日、嬉しそうに、先生とのお話のことを話して聞かせてくれました。

ドラマの時期:
2019年
--月
--日
文字数:1221
投稿時の年齢:54

親父の曲がった指

父は、運送会社を経営していた。自宅の庭は車庫であり、オート三輪が6台ほど留まっているのが当たり前の景色だった。車庫には2本のドラム缶があって、片方は新しいエンジンオイル、もう片方はオイル交換した後の廃油入れだった。荷台に荷物を固定するためのロープが常にうず高く積まれていた。オイルと排ガスの匂いが、父の仕事場のにおいだった。 父の会社を継いだのは、28歳になってからだった。留学して、好きな仕事に就いて数年。それらを全て捨てて、継いだ。義務や定めと言うよりは、それが浮世の義理、人の道だと思っていた。最初は、嫌で仕方なかった。跡継ぎとは言え、現場仕事の定石は、まず現場からだ。当然、助手、運転手と、仕事を覚えていった。『遅いぞ』『荷物を丁寧に扱え』、当たり前だがお客様は神様だ、理不尽な文句には笑顔。『ありがとう』『ご苦労様』労いの言葉には感謝。大人にさせてもらった。それでも、仕事は嫌いだった。やがて、管理者の立場になって、子供の頃から訊けずにいた父の曲がった指のことを訊いた。『親父の人差し指、なんでが曲がってるんだ?』

ドラマの時期:
1993年
4月
1日
文字数:620
投稿時の年齢:54

『何を隠そう、その人こそは…』

時は1984年11月、場所はハワイのマウイ島です。 当時、飛ぶ鳥を落とす勢いの某求人紙が、時の人気スポーツである”ウィンドサーフィン”をテーマにしたプロモーションビデオを製作するということで、某広告代理店のスタッフ3人と、求人紙の担当2名と、わたしという、総勢6名で撮影に臨みました。マウイには”Hookipa”という、数多くのビッグイベントが開催される、ウィンドサーフィン界のメッカとされる有名ポイントがあります。わたしは現地コーディネーター兼通訳兼現地でのプロ選手調達係など、要は雑用係ということで、当時勤めていた会社から大役を仰せつかりました。若くして既にレジェンド級プロウィンドサーファーだった二人の知人のツテで、有名どころのライダーを雇い、順調に撮影は進みました。気をよくしたスタッフ6名が、昼食を摂る場所に選んだのがとある有名レストラン。食事を終えて、しばし談笑中のところに、少し離れた席からビール片手にやってきたのが、水中写真家のダン・マーケルでした。 彼は売りだし中のライダー4人とともに『ループ』という技にフォーカスした作品の撮影中で、ライダー4人を連れて昼飯を振舞っていたのでした。ビンビール片手の少々出来上がりぎみのおっさんが『こいつ、エアブラシで絵を描くんだが、日本でどうにかしてやってくれ』って言ってきたわけです。まったくの初対面です。 エアブラシでイルカや海の絵を描いているアーティスト兼サーファーがいるのは、サーファーマガジンの中の広告などで目にして知っていなかったわけではありませんでしたし、ダン・マーケルといえば一流どころのカメラマンですから、知らないはずはありません。ただ私の目には、その様子がなんとも胡散臭く映ったのです。 テーブルにはほかのスタッフやスポンサーもおりましたので、つい『ハイハイ、考えときますね~』のように、いい加減にあしらってしいました。そして、撮影を終え、彼の話などすっかり忘れて、日本に帰りまして、そんな出来事を思い出すこともなく数年が過ぎました。

ドラマの時期:
1984年
11月
--日
文字数:1169
投稿時の年齢:54

電話ノムコウの温故知新

お正月に、大学生の子供と一緒に90年代初めころのテレビドラマを観ておりましたときの子供の何気ない一言でした、『この時代のドラマのほうが、ドラマチックだよね』。 言われてみれば、最近のドラマは設定や展開はドラマチックだけれど、心情の機微にあまり深さが感じられないような気がして、その理由を考えようとしていると、『携帯(電話)がない時代のほうが、相手との物理的な距離感があって、それを埋めるために相手のことを深く思っている気がする』子供がそう続けました。 その言葉に、私の若い頃、90年代をさらに遡ること10年、80年代初めのころにかけた一本の電話を思い出しました。“中・高と男子校だから“と言い訳をしたくなるほどに、浮いた話のひとつもない、部活に明け暮れ、申し訳程度の勉強をして、といった男子校にありがちな中学・高校生活でしたが、大学では、晴れて共学のキャンパスライフを満喫することになったわけです。いやがおうにも期待が高まる大学一年生の自分でした。 高校時代の先輩の誘いもあって、大学でも米式蹴球部(アメリカンフットボール)に入りました。春の新人戦が過ぎ、夏の合宿が終わり、それでも一向に彼女ができる気配はまるでありませんでした。その秋の公式戦開始直前でした。練習試合中に膝を負傷してしまいました。テーピングで傷めた膝の応急処置をして、どうにかその試合を乗り切りましたが、膝の傷み具合は軽くはありませんでした。幸いなことに、アメフトのポジションごとの分業制や専門性の高さという特徴に助けられて、選手を続けることに大きな支障はありませんでした。 ある日、練習を終えて膝のアイシングをしていると、『膝、大丈夫ですか?』と、ひとりの女子マージャーから声をかけられました。妹や親戚以外の同世代の女性とまともに話すのは、小学校以来それが初めてでした。それから少しずつ話す機会が増えて、文化祭のキャンパスを一緒に歩く話になりました。グランド上でそんな話はできませんから、当然帰ってからの電話という運びになります。まだ携帯電話のない時代で、固定の家電が一般的でした。当然、誰が電話を取るかはわかりません。『どうか彼女が出ますように』と祈りつつ、心臓は緊張で爆発しそうでした。 案の定、最初に出たのは彼女の弟でした。『お姉ちゃん、彼氏から電話だよ~』、当時としては当たり前の”家電あるある”の状況です。

ドラマの時期:
1980年
11月
--日
文字数:1244
投稿時の年齢:54

二本の線に感じた『芸術とは』

とても印象に残っている、美術の先生の言葉があります。高校一年生になって、書道、音楽、美術という選択科目の中から美術をとりました。特に興味関心があったわけではないのですが、正直なところ、音楽は小・中の経験から課題曲を楽器で演奏する練習をしなければならないのが面倒くさそうだし、書道は字が下手糞なので敬遠したかったし、そこへいくと美術は授業中の作業だけで収まるし、わりとデッサンは得意だったし、絵画を観るのは嫌いじゃないし、消去法的にも能動的選択としても、“まずまず”な判断だったと思います。まだ中二病が抜けきらず、斜に構えたクール風情を気取りたい年頃の自分でしたが、実は『高校の美術って、どんなことをするんだろう』と、少しの期待があったように思います。美術担当の先生は、背はあまり高くはないけれどガッシリした体躯で、肩の少し上くらいまでに伸びたワンレンの髪形がいかにも“芸術家”を思わせる風貌でした。そこにワイルドな物言いと所作があいまって、歴史資料館で観た竪穴式住居に住む縄文時代の日本人が生きていたらきっとこんな風だろうなんてことを思わされるのですが、その中身は気さくで豪放磊落という語がぴったりな先生でした。最初の授業で、開口一番、『よし、みんな、立ち上がれ。そしてこうグっと腰を落として、思い切り両手のひらを天に向かって突き上げてみろ』。これは“天突き体操と”いうもので、何度か繰り返すと心と体を開放される秘技だということでした。見た目カッコわるいのですが、やってみるとなかなかの効果があり、今でもデスク作業の合間に行うと心身ともにスッキリします。そうして何度か全員で天を突いた後に、一同着席しまして、いよいよ先生がゆっくりと美術の授業について語り始めました。

ドラマの時期:
1974年
4月
--日
文字数:1040
投稿時の年齢:54

トヨダくんの出来心と勇気の教え

理科の実験の授業があった日のことです。あれはカエルだったか、鯉であったか、記憶が曖昧になってしまうほどに昔の日のお話ですが、今でも鮮明に覚えている、その日の出来事があります。生き物と刃物を扱う刺激の強い授業のあとだったせいか、クラスの皆が興奮気味に、思い思いの感想を話しながら、実験室から普段の教室へと戻りました。いつもの席に座っても、まだざわつきの治まらない教室に担任の先生が入って来ました。いつも楽しい話で皆を笑わせてクラスをまとめる先生の顔は、その時はいつになく険しいものでした。『みんな、目をつぶって、先生の話を聞いてください』という、冷静で落ち着いたトーンの先生の声は大人の威厳に満ちていて、噛んで含めるような言葉の運びに、重々しさと、なにかしら深刻な事態を感じたのは、ほかの皆も同じだったと思います。クラスは水を打ったように静まり返りました。おそらく、生徒の全員の様子を見渡されたのだと思うのですが、少しの間を置いて、先生が話されました。『実験室の前の手洗い場と、その先のいくつかの手洗い場の石鹸入れのネットが、切られていました。なにか鋭い刃物のようなもので切られたようです。だれか、なにか知っている人は、手を挙げて先生に教えてください』重苦しい空気が数秒流れた後で、先生はこう続けました『はい、それでは手を下げて、ゆっくり目をあけてください』。皆の手が下りているはずが、トヨダくんだけは手を挙げたままでした。野球チームの仲間でもあるわたしは、思わず『トヨダ、なにやってんだよ、もう手を下げていいんだよ』と、声をかけると彼は言いました。『俺がやったんだ。みんな、ごめん』。驚きが大き過ぎると、言葉が頭の中で空回りするんですね。その言葉の意味をすぐには理解できませんでした。

ドラマの時期:
1970年
--月
--日
文字数:977
投稿時の年齢:54
AGE

56

Autobiography

侮りがたし、幼き賢者よ

近所の小さな公園は、陽当たりがよくて、その周囲にめぐらされている植え込みが寒風を受け止めるので、天気のいい冬の寒い日などは、小春日和とでもいいたくなるほどの陽だまりになります。散歩の相棒(愛犬)と一緒に出かけるのですが、気分転換には絶好の“ほんわか“スポットなのです。ソフトボールの内野がギリギリで収まるくらいの小さなグランドに、鉄棒、平均台、滑り台などの遊具が置かれています。相棒とわたしは、そこを何週かして、時間にして15分くらいだと思いますが、気が済んだら日陰の帰り道をいそぐのがほぼ日課になっております。去年のちょうど今頃、正月休みが明けて少しして、いつも通りに相棒と公園に着いてみると、低鉄棒で逆上がりの練習をしている男の子がいました。幼稚園か、小学一年生かといった年恰好の子で、何度も地面を蹴っては見るものの、脚がうまく鉄棒の向こう側にいってはくれませんでした。『違う、コツは腕のほうだ。地面を強く蹴ったら、鉄棒をグイっと自分のほうに寄せるんだ』老婆心ながら、そんなアドバイスをしようかと思っておりましたが、ここはグっとこらえて、彼の様子を見守りました。せっかく一人で努力してるんですから。手柄の横取りになんてできません。彼の額にはうっすらと汗、頬は赤くなっていて、どれだけ頑張っているかがわかりました。しばらくすると、クルリと、ついに一回転。多少強引でしたが、見事に回りました。コツを掴んだのでしょう、その後はスムーズな逆上がりができていました。思わず近づいて、彼に声をかけてみたくなり『すごいね、どうやったらできたの?』と、たずねてみました。帰ってきた答えは、『うん、何度も、何度も、頑張ってやって、そうしたらできたの』でした。意外でした。

分類不能の職業
投稿時の年齢:54
千葉
投稿日時:
2023年01月12日
ドラマの時期:
2021年
--日
文字数:1050

半分違って、半分同じ

家内は、イギリス出身。私は日本人。そこに新しい家族が加わるという幸運が訪れると、両方の背景を持つ子供が誕生します。両方ですから、ダブルなのですが、一般的には、ハーフと呼ばれることが多いですね。でも、半分というのは、どういうことでしょう。 ハーフジャパニーズというのはわからないでもないですが、それでも『いやいや、半分って、何?』と得心がいきません。 小学校、中学校は地元の学校でしたので、小さなころからの顔見知りの子供たち同士で、さほど大きな問題もなかったのですが、受験を経て高校生ともなると少し様相が変わりました。 お洒落に関心を持つ子、可愛い持ち物が気になる子、ファッション好きな子、それぞれに興味関心が芽生え、だんだんと髪の色や、瞳の色、顔かたち、違いが気になり始めます。多感な年頃ですから、何気ない言動の中に、違いの押し付けを感じて、一人抱え込んでいたようでした。子供の通う学校には英語会話の授業を担当する、二人のイギリス人の先生がいらっしゃって、お二人とも日本人の女性と結婚されていて、小学校入学前のお子さんをお持ちであり、休み時間にはよく子供の話し相手になっていただいていたそうです。 ある日、子供のそんな悩みを聞いてくださって、先生はこう話されたそうです。 君は、東洋と西洋の両方の良いところを持っているんだ。例えるなら『テリヤキバーガー』だね。東洋の人にも、西洋の人にも、どちらの文化にも馴染むことができて、どちらの人からも愛される。ハンバーガーが苦手な人も、テリヤキなら大丈夫ということもある。僕もイギリスの両親もテリヤキバーガーが大好きだよ。 それに、君の目は、ひとつのことを日本人の見方とイギリス人の見方と、両方の見方とで見ることができるんだ。素晴らしい事だと思わないかい。 子供はその日、嬉しそうに、先生とのお話のことを話して聞かせてくれました。

分類不能の職業
投稿時の年齢:54
千葉
投稿日時:
2023年01月30日
ドラマの時期:
2019年
--月
--日
文字数:1221

親父の曲がった指

父は、運送会社を経営していた。自宅の庭は車庫であり、オート三輪が6台ほど留まっているのが当たり前の景色だった。車庫には2本のドラム缶があって、片方は新しいエンジンオイル、もう片方はオイル交換した後の廃油入れだった。荷台に荷物を固定するためのロープが常にうず高く積まれていた。オイルと排ガスの匂いが、父の仕事場のにおいだった。 父の会社を継いだのは、28歳になってからだった。留学して、好きな仕事に就いて数年。それらを全て捨てて、継いだ。義務や定めと言うよりは、それが浮世の義理、人の道だと思っていた。最初は、嫌で仕方なかった。跡継ぎとは言え、現場仕事の定石は、まず現場からだ。当然、助手、運転手と、仕事を覚えていった。『遅いぞ』『荷物を丁寧に扱え』、当たり前だがお客様は神様だ、理不尽な文句には笑顔。『ありがとう』『ご苦労様』労いの言葉には感謝。大人にさせてもらった。それでも、仕事は嫌いだった。やがて、管理者の立場になって、子供の頃から訊けずにいた父の曲がった指のことを訊いた。『親父の人差し指、なんでが曲がってるんだ?』

分類不能の職業
投稿時の年齢:54
千葉
投稿日時:
2023年01月10日
ドラマの時期:
1993年
文字数:620

『何を隠そう、その人こそは…』

時は1984年11月、場所はハワイのマウイ島です。 当時、飛ぶ鳥を落とす勢いの某求人紙が、時の人気スポーツである”ウィンドサーフィン”をテーマにしたプロモーションビデオを製作するということで、某広告代理店のスタッフ3人と、求人紙の担当2名と、わたしという、総勢6名で撮影に臨みました。マウイには”Hookipa”という、数多くのビッグイベントが開催される、ウィンドサーフィン界のメッカとされる有名ポイントがあります。わたしは現地コーディネーター兼通訳兼現地でのプロ選手調達係など、要は雑用係ということで、当時勤めていた会社から大役を仰せつかりました。若くして既にレジェンド級プロウィンドサーファーだった二人の知人のツテで、有名どころのライダーを雇い、順調に撮影は進みました。気をよくしたスタッフ6名が、昼食を摂る場所に選んだのがとある有名レストラン。食事を終えて、しばし談笑中のところに、少し離れた席からビール片手にやってきたのが、水中写真家のダン・マーケルでした。 彼は売りだし中のライダー4人とともに『ループ』という技にフォーカスした作品の撮影中で、ライダー4人を連れて昼飯を振舞っていたのでした。ビンビール片手の少々出来上がりぎみのおっさんが『こいつ、エアブラシで絵を描くんだが、日本でどうにかしてやってくれ』って言ってきたわけです。まったくの初対面です。 エアブラシでイルカや海の絵を描いているアーティスト兼サーファーがいるのは、サーファーマガジンの中の広告などで目にして知っていなかったわけではありませんでしたし、ダン・マーケルといえば一流どころのカメラマンですから、知らないはずはありません。ただ私の目には、その様子がなんとも胡散臭く映ったのです。 テーブルにはほかのスタッフやスポンサーもおりましたので、つい『ハイハイ、考えときますね~』のように、いい加減にあしらってしいました。そして、撮影を終え、彼の話などすっかり忘れて、日本に帰りまして、そんな出来事を思い出すこともなく数年が過ぎました。

分類不能の職業
投稿時の年齢:54
千葉
投稿日時:
2023年01月29日
ドラマの時期:
1984年
--日
文字数:1169

電話ノムコウの温故知新

お正月に、大学生の子供と一緒に90年代初めころのテレビドラマを観ておりましたときの子供の何気ない一言でした、『この時代のドラマのほうが、ドラマチックだよね』。 言われてみれば、最近のドラマは設定や展開はドラマチックだけれど、心情の機微にあまり深さが感じられないような気がして、その理由を考えようとしていると、『携帯(電話)がない時代のほうが、相手との物理的な距離感があって、それを埋めるために相手のことを深く思っている気がする』子供がそう続けました。 その言葉に、私の若い頃、90年代をさらに遡ること10年、80年代初めのころにかけた一本の電話を思い出しました。“中・高と男子校だから“と言い訳をしたくなるほどに、浮いた話のひとつもない、部活に明け暮れ、申し訳程度の勉強をして、といった男子校にありがちな中学・高校生活でしたが、大学では、晴れて共学のキャンパスライフを満喫することになったわけです。いやがおうにも期待が高まる大学一年生の自分でした。 高校時代の先輩の誘いもあって、大学でも米式蹴球部(アメリカンフットボール)に入りました。春の新人戦が過ぎ、夏の合宿が終わり、それでも一向に彼女ができる気配はまるでありませんでした。その秋の公式戦開始直前でした。練習試合中に膝を負傷してしまいました。テーピングで傷めた膝の応急処置をして、どうにかその試合を乗り切りましたが、膝の傷み具合は軽くはありませんでした。幸いなことに、アメフトのポジションごとの分業制や専門性の高さという特徴に助けられて、選手を続けることに大きな支障はありませんでした。 ある日、練習を終えて膝のアイシングをしていると、『膝、大丈夫ですか?』と、ひとりの女子マージャーから声をかけられました。妹や親戚以外の同世代の女性とまともに話すのは、小学校以来それが初めてでした。それから少しずつ話す機会が増えて、文化祭のキャンパスを一緒に歩く話になりました。グランド上でそんな話はできませんから、当然帰ってからの電話という運びになります。まだ携帯電話のない時代で、固定の家電が一般的でした。当然、誰が電話を取るかはわかりません。『どうか彼女が出ますように』と祈りつつ、心臓は緊張で爆発しそうでした。 案の定、最初に出たのは彼女の弟でした。『お姉ちゃん、彼氏から電話だよ~』、当時としては当たり前の”家電あるある”の状況です。

分類不能の職業
投稿時の年齢:54
千葉
投稿日時:
2023年01月20日
ドラマの時期:
1980年
--日
文字数:1244

二本の線に感じた『芸術とは』

とても印象に残っている、美術の先生の言葉があります。高校一年生になって、書道、音楽、美術という選択科目の中から美術をとりました。特に興味関心があったわけではないのですが、正直なところ、音楽は小・中の経験から課題曲を楽器で演奏する練習をしなければならないのが面倒くさそうだし、書道は字が下手糞なので敬遠したかったし、そこへいくと美術は授業中の作業だけで収まるし、わりとデッサンは得意だったし、絵画を観るのは嫌いじゃないし、消去法的にも能動的選択としても、“まずまず”な判断だったと思います。まだ中二病が抜けきらず、斜に構えたクール風情を気取りたい年頃の自分でしたが、実は『高校の美術って、どんなことをするんだろう』と、少しの期待があったように思います。美術担当の先生は、背はあまり高くはないけれどガッシリした体躯で、肩の少し上くらいまでに伸びたワンレンの髪形がいかにも“芸術家”を思わせる風貌でした。そこにワイルドな物言いと所作があいまって、歴史資料館で観た竪穴式住居に住む縄文時代の日本人が生きていたらきっとこんな風だろうなんてことを思わされるのですが、その中身は気さくで豪放磊落という語がぴったりな先生でした。最初の授業で、開口一番、『よし、みんな、立ち上がれ。そしてこうグっと腰を落として、思い切り両手のひらを天に向かって突き上げてみろ』。これは“天突き体操と”いうもので、何度か繰り返すと心と体を開放される秘技だということでした。見た目カッコわるいのですが、やってみるとなかなかの効果があり、今でもデスク作業の合間に行うと心身ともにスッキリします。そうして何度か全員で天を突いた後に、一同着席しまして、いよいよ先生がゆっくりと美術の授業について語り始めました。

分類不能の職業
投稿時の年齢:54
千葉
投稿日時:
2023年01月27日
ドラマの時期:
1974年
--日
文字数:1040

トヨダくんの出来心と勇気の教え

理科の実験の授業があった日のことです。あれはカエルだったか、鯉であったか、記憶が曖昧になってしまうほどに昔の日のお話ですが、今でも鮮明に覚えている、その日の出来事があります。生き物と刃物を扱う刺激の強い授業のあとだったせいか、クラスの皆が興奮気味に、思い思いの感想を話しながら、実験室から普段の教室へと戻りました。いつもの席に座っても、まだざわつきの治まらない教室に担任の先生が入って来ました。いつも楽しい話で皆を笑わせてクラスをまとめる先生の顔は、その時はいつになく険しいものでした。『みんな、目をつぶって、先生の話を聞いてください』という、冷静で落ち着いたトーンの先生の声は大人の威厳に満ちていて、噛んで含めるような言葉の運びに、重々しさと、なにかしら深刻な事態を感じたのは、ほかの皆も同じだったと思います。クラスは水を打ったように静まり返りました。おそらく、生徒の全員の様子を見渡されたのだと思うのですが、少しの間を置いて、先生が話されました。『実験室の前の手洗い場と、その先のいくつかの手洗い場の石鹸入れのネットが、切られていました。なにか鋭い刃物のようなもので切られたようです。だれか、なにか知っている人は、手を挙げて先生に教えてください』重苦しい空気が数秒流れた後で、先生はこう続けました『はい、それでは手を下げて、ゆっくり目をあけてください』。皆の手が下りているはずが、トヨダくんだけは手を挙げたままでした。野球チームの仲間でもあるわたしは、思わず『トヨダ、なにやってんだよ、もう手を下げていいんだよ』と、声をかけると彼は言いました。『俺がやったんだ。みんな、ごめん』。驚きが大き過ぎると、言葉が頭の中で空回りするんですね。その言葉の意味をすぐには理解できませんでした。

分類不能の職業
投稿時の年齢:54
千葉
投稿日時:
2023年01月13日
ドラマの時期:
1970年
--月
--日
文字数:977