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はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト

 私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。  ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。  まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。  そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。  その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。  正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。  ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。  それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。  例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。  そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。  では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。  当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。  話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。  そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。  たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。  ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。  実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。  そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。  仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。  まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。  素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。  また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。  さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。  このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。  夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。  そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)  

無職
投稿日時:2022年03月28日
投稿時の年齢:47
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
東京
文字数:2532

自分らしさ、守りながら

ギターは結構直ぐに弾けるようになったのに作曲はまるでダメで 主旋律とそうでは無い音の区別がつかない、そもそも主旋律に合わせるメロディーがわからない。 ギターを握り始めたのが小学五年生。作曲に興味を持ったのは6年生。 で、24歳になるまで私は何百と作詞はしてきたのに 自分で曲を作ったものは一個もないままであった。 壊滅的にセンスがない自分は、多分一生このままだろうと作曲をしてくれる人を探したりもしてみたが長く続く音楽活動はなく結局1人で誰かの既存曲を歌い上げるだけの日々だった。 さてさて、AIなんてものが昨今普及してきているが 正直、私は苦手。というより、怖い。 いつ、どこで産まれたなんなのかも分からないしなんでも出来てしまうことは脅威でしかないし AIで作曲!なんてことも出来るも聞いたときは「センスのない私が頑張る機会すら無くなる……」と思った。 アンチの3文字がピッタリ。若いのに最近の若い者はコンピューターに頼るのが当たり前になっていくのだろうかなんてのを考えるAIアンチの24歳は、25歳になるまでになんと100曲を超える作曲をAIを味方につけて成すこととなる。 きっかけは子供たちが戯れてる姿を見ていた時、子供を育てている人ならば考えたことはあるだろう「この子達が大人になったらその時代はどんな時代になっているのか」なんてことを私もぼーっと考えていた時のこと。 きっと想像しているよりハイテクになって、今らくらくフォンを使ってるご老人のように、私もその時代のものについていくのがやっとな世界が待っているんだろうなぁ。 子供達は時代と一緒に成長していくんだなぁ。ということは、AI…あれも、もっといろんな企業に使われたり当たり前のものになったりしているんだろうか? Siriを初めて知った時に「こんなの搭載されてるスマホを使うのはアラブの石油王かそれに似たお金持ちだけだろう」と本気で思ったのに、案外そこからすぐに周囲も私も使える普通の機能として普及していた。 当時もスマホに話しかけるなんて…みたいな賛否の否も多かったがそんなのも聞こえなくなっていった。 だからきっと、AIも、当たり前のものになっていくんだろうな。 そんなふうに思ったら、今まで苦手意識のあったAIに対して「このまま得体の知れないものだと怖がっていていいのか?」と疑問が湧く。 苦手なもの、不気味なもの。 それはきっと私の先入観や人生観が作った気持ちであって AIが実際に何かを私にしたわけでもないのに遠ざけている。 これじゃあ、ずっと何もわからないまま最先端の技術に恐怖して ネットやテレビでちょくちょく見かける「AIが仕事を奪う」なんてことが可能になった時に 私はその時代そのものに飲み込まれて何もわからないまま時代にため息をつくだけになってしまう。 その時代に我が子も生きているのに。 私自身も、人生を生きていたいのに。 良い使い方もできず、子供達にとって当たり前のものとなるであろう媒体を 気嫌いする大人になるような気がした。 このままじゃダメだ。 そんな風に、考えた事が私の生き方を変えた。 昔から、決めたら学び尽くす主義な私は まず初めに自分が使えるものを幾つかダウンロードしてみた。 チャットGPTや音楽再生アプリのSUNO、G emini。 あらかた何日かかけて使ってみた後は「あら便利なのね」では済ませない。 大体使った後は、すぐ本屋に直行。 AIに関する本、それぞれのアプリの使い方や特化した部分の説明が記載されてる本、何冊か買い込んで読んでは試す。 そんなふうにとことん、自分なりにAIと向き合ってみた。 専門的な知識をつめこみ、便利に利用するだけではなくどんなふうに作られてどんなふうに世界で使われていて、危険性や利便性はもちろん、画像生成、楽曲生成の際にはどうやれば個性を詰め込めるのかも研究した。権利問題ももちろんきちんと学んだ。 多分思い立った時から、専門書を20〜30冊は読んだと思う。 マーカーを引いて、付箋をつけて、調べられるだけ調べた。 実際AIを使ってお小遣い稼ぎをしてみよう!なんて項目のある本を見つけたならその日中に書かれてるままを実践。 LINEスタンプを作ってみたりもした。 販売の審査をきちんと通して販売も実行。 二、三ヶ月向き合ってみて分かったことは 便利だということ。 ほぼなんでも出来るし知識の情報源として有効に使えること。 使い手次第で、AI任せにも、自分の補佐にも出来ること。 収穫は大きかった。 自分の補佐をさせる事ができることと、AIに完全に任せて何かを作ることもできること、この両方を知った日には、「やっぱり先入観だけで嫌うもんじゃないな」とため息が出た。 これは、私の味方につけたい。 私が私らしく私の力でできることにはどうしたって限りがある。 作曲がまさにそれだろう。 作詞はできるが作曲はできない。これは向き合った時間の長さが 1人じゃ何も出来ないことを証明していた。 だが、AIがあれば私にも、出来ないを出来るにすることが可能なのだ。 そこからは綱渡りの気分だった。 主に、AIは私の曲作りの補佐をさせるものとしたが 全ては委ねたくない。 どうしても、私の手入れておきたいし 本当に便利性を大切にするなら、なおさら本当に自分の補佐だけに留めておくべきだと思った。 一歩間違えれば 私の入る隙のない完璧なものが出来上がってしまうAIの力に 対抗するには、作曲の知識をもっと持つ必要がある。 作曲アプリもそうだが画像を作り出すアプリやツールも、使い手に不足しているものをAIが補助してくれる。 ということは、不足してるものが多ければ多いほど機械任せになる。 ならば、やはり人間の力で、知識をつけよう。 そこからは苦手だった作曲のあらゆる知識を詰め込んだ。 最先端のツールのことも学びつつ、どんなふうな用語があるのか、音はどんなものをどんなリズムで打つのか。 楽譜の読めないタイプの私は挫折しかけること数十回。 ちんぷんかんぷんながらに叩き込んだ。 さて、いざ、AIを「補佐」として使ってみよう。 今まで叩き込んだ知識を詰め込んで 主導権を自分が持つ、AIとの作曲の日々を始めた。 歌詞は必ず自分の言葉で書く。 主体になる音は、私が打ち込む。 楽曲生成のツールは素材として使い、歌がまだ下手な私のかわりに歌わせるものとしても使う。 オリジナリティをAIとの作業につぎ込むことは知識があれど所詮初心者。やはり難しかった。 それでも向き合い続けたのは 生きていく時代に背を向ける人になりたくない。 そう思い続けたからであった。 そんな日々を送るうちに、曲は完成した。 完全に委ねてしまった訳じゃなく、ちゃんと私の思い描いていた曲をつけることが出来た。 これは、たしかに私の曲だ。そう思えるものができたのだった。 そこからは 一日に何十曲も作って、作ったものを披露する場所も早急に探した。 この技術に賛否があることを理由に、次は「作曲したものを世の中に出すのが怖い」と思い始めてしまいそうで それじゃあ作曲を頑張った意味が無い!と、まずは誰かに私の曲を使ってもらおうと考えたのだった。 ちょうど、行きつけの雑貨屋さんが主催するマルシェイベントがあった。 そこのお店とは不思議な縁で、実は私も現在はそのお店に自分の作ったものを置かせていただいている。 だから、マルシェに出店しない?と誘っていただけた時に 「よかったら会場内のBGM、作らせてくれませんか?」と打診した。 いいの!?と驚かれたが、私の方から頭を下げてお願いしたい事だったから喜んでもらえる反応は、有難かった。 世の中に、自分の作品を出してみなければ 賛否両論の否も聞くことが出来ない。 ならば、どんな意見があったとしても 隠れるより挑む方が賢明だ。 私の意思はこんなふうに固まっていた。 慣れてしまえばこっちのもんで、どんどん曲を作って 無事当日のマルシェイベント会場には私が作った曲が13曲ループで流れた。 当日私は、自身のハンドメイド品を売る出展者側だったのだが準備中から流れる自分の曲に感動してしまった。 きちんと誰かに聞いてもらえることが嬉しかったし家にはない大きなスピーカーからこの手で作った曲が流れていることには興奮した。 会場内で曲を流した結果大成功。 KーPOP風の曲調を自分で基盤作りし、歌詞を考え、歌わせる。 一息には言えない手間をかけた甲斐があった。なぜならどう聞いてもどこかのアイドルグループの曲なのに、そこには私の魂がきちんと強く大きく出ていた。 会場内で、「この曲どこのグループ?」とザワつく十代のお客様たちの反応が、嬉しかった。 主催者側からも、だいぶ気に入って貰えた。 私が曲を作った人だと知ったお客様の中には AI使ったら自分の曲じゃないじゃないとわざわざ伝えに来る人もいたが その否定意見さえ、自分が動かなければ聞けなかったものだった。

分類不能の職業
投稿日時:
2025年11月29日
投稿時の年齢:25
新潟
ドラマの時期:
2024年
--月
--日
文字数:4572

職人として生きる男

家庭のことはまったく我関せずな塗装職人がいる。 酒にのまれるタイプで短気、オマケに顔は真顔が鬼のよう。花屋のバイトをしたら客が来なくなって裏方に回された事実を持っている般若顔の塗装職人、私の父である。 とにかく荒いとか酷い、という言葉が似合う人だったと思う。 外面が良いから周囲に話したところで理解して貰えないのだが家の中での父はそれはそれは酷かった。 まず、母を大切にしちゃいなかった。母は現在も絵描きや歌手といった個性に溢れる肩書きを持つ人だが父が昔何かに腹を立てた時母の絵を母本人の目の前でビリビリに引き裂いてしまった。あの時は「この男の塗った家を目の前で崩し倒してやりたい」と思った。 こんなんだからもちろん、子供のことなんて全く考えていない。 そのことが一番伝わる話をするならば、私がまだ3歳に満たないかどうかの時の事件がちょうどいい。 会社仲間と飲んだくれることが好きな父はなぜか夜桜の花見の席に私を連れていき、解散となった時にはべろべろに酔っ払っており 帰り際、私の大切な三輪車に父が跨り勝手に漕いで私は深夜、父に置き去りにされた。 三輪車もない、ここがどこかも分からない、不安で仕方なかったのは今も忘れられない。そりゃそうだ、まだ3歳に満たないかどうかだ。 私にも現在、同じくらいの娘がいるが、我が子の幼さを見ていると「この幼い子供が深夜一人で歩いている」なんてことはとんだ恐怖だとよく分かる。 幸い、母が見つけに来てくれたことで事なきを得たが子供に無関心の意味がこの事例をもってどれほどのものかは伝わったと思う。 父親として、まぁ、酷かった。 そんな父を、私は理解できる日が来るわけが無いと思っていたし、正直今でも父について分からないことだらけだ。 どうして、私は彼の娘として育ったのだろうと考えた月日は短いものではなかった。 そして答えが出ないことは、父と親子でいる以上、答えを出したい大きな悩みだった。 子は親を選べない、なんて言葉があるが親もそれは同じだろう。私は自分を見る父に対して、どこか申し訳なさがあった。父が、一人の人間として父親という責任の重さを煩わしく思っていることが共にすごして歳を追うごとに伝わってきていたからである。 でもそれなら母のことだけでも大切にして欲しかった。 荒ぶり怒る時は手をあげることもあった父。 正直に一言で言おう、大嫌いだった。 怖くて嫌味で、軽々しくて、母すら大切にしない父親が、大っ嫌いだった。 さて、以上は私が父を娘としてみた時の過去である。 娘が父親を娘視点以外で見た時、私は私が父の娘として育ったその理由にやっと行き着くことが出来た。 時は20歳前後。 私もひとりの大人になり、親になった。 まだ乳飲み子1人抱えただけの新米母ではあるが人の子の親になり、子を育てることの大変さに毎日驚いてばかりで自身の母親に脱帽してばかり。 親になってから、より一層私は父のことを理解できなくなっていたが、親になったからこそ子供を育てない親には時間があることに気がついた。しかし思い返すと父は仕事仲間との飲み会は毎日夕食どきから深夜であり土日は飲みに出かけた訳でもないのにいないことが多かった。なら、何をしていたのか。私が生まれてから20年間ほぼ休みなく親をせずに何をしていたのか。 仕事である。 父は、仕事を、ずっと ずっとしてきた人だったのだ。 塗装職人の仕事は、簡単じゃない。 職人の世界は全てそうであるように、塗装の世界も下っ端からスタートする。 母から聞いた話だが、今では依頼が溢れる職人の父も初めはハケすら持つことを許されず数十階のビルの階段を両手に20~30きろのペンキ缶持ち状態で何往復もして上にいる先輩職人に届けるところからスタートしたという。 さらに家をひとつ、ぽんと想像したとにペンキのはけをなんとなく想像してみてみれば分かるようにハケは家ひとつに対して小さい。 だがそれを真夏の炎天下の中つかって仕事をするわけだが屋根の上は地上よりももちろん暑い。 聞くだけで熱中症になりそうな話である。 そして、塗装だけが父の仕事ではなかった。 いつだったか、街でいちばん大きな橋を作るとなった時父は責任者を務めていた。 責任者を務めていた頃を思い出すと父が見たことの無いげっそりとした顔をしてなにかに落ち込んでいた姿がある。 この時の橋は今ももちろん現存していて街ではよく耳にする橋。 建築関係に関して、父はおそらくすごい人なんだろうとは幼い頃から思っていたが実際本当にすごい人だったことを大人になってからきちんと知った。 そうなるまで、なんども命の危機には晒されている。 熱中症で倒れたなんてよく聞く話になっていて、8階のビルから転落したなんてこともあった。 それでも仕事をやり続ける父は生まれながらの職人、それ以外の何者でもない。 やりがいを見出して、やり遂げるまでやり続ける、これが簡単じゃないことくらい 私にもわかる。 どんなに忙しくても親が親であることを放棄することは許されない。 だが、一個人の人生が命を賭けられるものも限られている。それが、父にとっては仕事だったのだ。 父は、否、彼は職人として生きるために人生があるのだ。 不器用な父は、父親としての立場と、自分の人生で賭けるべきものを両立することが出来なかったんだろう。 私の育った家庭に居たのは、父親ではなくひとりの職人だったのだ。 そう、なんとなくふと気がついた時に、私の中で憎しみは無くなった。 父と私が親子である理由もこの時、やっと分かったからである。 私は、人を憎みそうになった時、別の角度から相手を見ることを知れたのだ。 そりゃ家庭的ではなかった だが、その分ありえないくらい凄い腕を持って仕事をこなし目眩のしそうな日々を送り続けた父を、大人になって人の苦労を少しは想像できるようになった頃人としてすごいと素直に思った。 私なら、もし自分が男でも父の生きている道は生きられない。 現在父は50を超えた。だが普通の50歳よりも体にガタがきてる。屋根から落ちたりなんなり、色々あったし年中ほぼ無休で25年以上働いているのだから無理もない。 それでも、今日も出勤しているのだろう。 住まいが離れてからは、たまに顔を合わせる度、私の子供二人をとにかく可愛がってくれている。その可愛がる心の裏には昔私たち姉弟を蔑ろにしたことへの申し訳なさが滲み出ている。父の中でも、どこかで、親と職人のどちらか片方しか取れないことへの葛藤や悩みがあったのかもしれない。 不器用なのは、本人のせいではない。そこを責めるのは、虐めに思う。

分類不能の職業
投稿日時:
2025年11月20日
投稿時の年齢:25
新潟
ドラマの時期:
2020年
--月
--日
文字数:3157

いまを生きる

人と理解し合うことは容易ではない。 向き合って、何か話し合い、寄り添い合うことが簡単だったならもっと平和で穏やかな世界があったはずだ。 私の初婚は、中国の方との国際結婚だった。 まだ20そこそこだったが子供も2人授かり、生まれ故郷の違うもの同士でもわかり合い生きていた、つもりだった。 第二子妊娠中、元夫は日本の歴史に腹を立てて半狂乱になった。私が神社めぐりが好きであることがわかったことがきっかけだったと思う。日本人は自分たちの国に酷い行いをしたと言うのに善人ぶって慎ましやかに参拝していると避難し始めたのである。 そんなことをしてる暇があるならば過去の日本人の罪を償う態度を見せるべきだと言い出した。 戦後数十年後の日本に日本人として生まれた私にとっては寝耳に水であり、まるで国を代表しているかのような口ぶりで荒れる彼の姿に、分かり合える可能性を見出せなかった。 そんなこんなで、22歳の誕生日を目前に控えた10月、私は長男と、お腹の中の娘の2人を育てるシングルマザーとなったのだった。 ここでご理解いただきたいのは 私は愛国心で日本を贔屓することや他国を非難することはしないが 事実は事実として受け止め、今を生きるものとしてどの国の戦死者にもその遺族にも顔向けできるような平和がこの世に訪れるよう祈り、生きるただの日本人であることだ。 どこの国が悪い、良いという大それたことは言えない。 ひたすら慰霊の気持ちと敬意をもつことしか、できない現代人である。 離婚する時、私は自分の力で覚えた中国語を後悔していた。 ある憧れを追い、必死で覚えた言葉たちが元夫の口から汚い言葉として吐かれて耳に届く。 それを理解できてしまうから本当に嫌だった。 私にとって、言葉は形のない宝石のようなもの。それがどんどん傷ついていく。 こんなことなら、他の国の言葉なんて知らなければよかったとすら思った。 それから、2年半がすぎた。 すでに私には新しい婚約者がいて、私の子供たちは彼を父と慕って 夢にまでみた温かい家庭がここに咲いた。 そんなタイミングであのお店を思い出したのは、どうしてだろう。 新居から車で2分ほどの距離にあった、中国料理店。 かつて、一度だけ元夫と行ったことのあるお店。 そこは、私を突き放した元夫と同じ国で育った中国人の夫妻が経営していた。 「すっごい美味しい中華まんがたべたいよね…」 けっこうグルメを楽しむ婚約者のYと私は次の休日はどこにいくかと話しているうちに食べたいものを思い浮かべ合い、ふと私が思ったことを口にした。 個人的にはこの頃肉まんの季節になってコンビニではどんどん肉まんが美味しそうに宣伝されていたのでその中から一番美味しいものを探し出してお腹いっぱい食べたい…と庶民の贅沢を想像していたのだが 話が進むにつれて、せっかくなら本場のもの食べたいなんてことになった。 しかし、ここは日本。そしてど田舎。そんな本場のものを食べられる場所なんて… 「…あった」 あったのである。 記憶を遡る。 元夫と一度だけそのお店は行った。 店主とその女将さんは日本語が堪能ではないが日本語の対応をしながら良い意味でサバサバとした接客をしてた。 来店した私も元夫はメニューを見ていたが元夫が女将さんを呼び止めて中国語で中国人向けのメニューがないかを尋ねた時裏メニューが出てきたが、そこには「包子」があったはずだ。 日本で言う肉まんにあたるそれはどんな味だろうか。まだ食べたことがないそれを思い出して食べてみたくなった。 果たして日本人でも注文はできるのだろうか…? 行ってみてダメ、となるよりはまず電話をしてみようと思いスマホでお店を調べる。電話番号はすぐ出てきた。 私はその時何故か、中国語で電話をしていた。無意識だった。 (以下、中国語の会話を日本語に訳したものである) 「こんにちは、すみません少し聞きたいんですが」 「あぁこんにちは!どうしたんだい?」 気さくで優しい女将さんが電話に出た。 中国語の中でも少し私とは違う方言の中国語だったが聞き取りやすい。 「実は、以前お店に行った時に裏メニューを見たのですが、その時、連れの中国人が裏メニューを頼んでたんです。それ、日本人でも注文できますか?…あ、私は日本人なんですが…」 もしかしたら同じ祖国同士の者たちだけが味わえるものかもしれないと思い恐る恐る聞く。 「日本人だったのかい!気が付かなかったよ!いいよ、裏メニュー出すよ!注文するかい?」 「はい!確か包子がありましたよね…あれが食べたいです!」 スムーズに話が進む。 こんなに楽しく中国語を話したのは、いつぶりだろうか。 ほっこりしていると女将さんはきいてきた。 「中国語が上手だねぇ!なんでだい?今回も前一緒に来た中国人とくるのかい?」 「…えっと…」 すうっと心の空気が冷える。祖国の客が来るのはやはり嬉しいのか、女将さんは私の答えを待つ。 だが嘘はつけない。お店には婚約者と行くことにしている。 「今回は日本人2人で行きます、中国語は自分で勉強してて…」 ごにょごにょと話す私の声に何か察したのか 「じゃあ店に来てくれた時話を聞かせておくれ!」 そう話を終わらせてくれた。 包子はテイクアウトだがお店の中で少し待つことになっていた。仕上げは客が来てからやって、客に出来立てを渡すのだと言う。 受け取る日時を約束したのち、電話は終わった。 いままで、元夫と同じ国の人に、離婚の理由を話すのは嫌だった。怖くなってしまっていたのだ。 また、非難されるかもしれないことを恐れていた。 だがこの時は不思議な気持ちで、私は女将さんに軽く話してみたくなった。 受け取りに行く当日、私は手紙でこれまでの経緯を書いてお店に向かった。 お店に婚約者と私、2人で着くと そこは客がおらず、よく見ると準備中の札がかかっている。 裏メニューのテイクアウトは準備中に…と言うことだろうか。なんだか申し訳ない気持ちにもなる。 店内に入り、你好ー!と声を出すと、奥から前に見たときと変わらない姿の女将さんが出てきた。店主は奥の厨房にいるようだ。 「こんにちは!予約してた者です、裏メニュー、すごく楽しみです!」 「いらっしゃいハジメマシテ、スワッテ、マッテネ、お水イル?」 拙さの残る日本語だが優しさが滲み出ている。 ありがたくお水をいただきながら、私は持参した手紙を女将さんに渡した。 内容は至ってシンプルに事実を伝えるものと、今日ここの料理を食べることをとっても楽しみにしていた事実。 「文字の方が伝えやすくて…」と中国語で伝えると、女将さんはニコッと笑って読んでくれた。 なんで話せるのか、前一緒に来た中国人はなぜいないのか、その答えになればそれでいいくらいの気持ちで書いた。 だが女将さんを見ると、目に、涙を浮かべていた。 読み終わる頃には指には強く、紙がくしゃっとなるくらい力が入っていて悔しそうな顔をしていた。 やってしまったか。 一瞬焦る。やはり、理解はしてもらえないのだろうか。 身構える私と、私たちを見守る婚約者。 婚約者も全てを知っているから、同じ緊張感で沈黙を耐えていたと思う。 数秒の沈黙の後、女将さんは中国語と日本語、両方が混ざりごちゃごちゃになりながら話し始めた。 「こんなことがあったなんて、信じられない…アンタ、お金、もらえなかった!?前の夫は、どうしてこんな酷いことした!?何があっても、家族を捨てることはダメネ!」 顔を赤くしながら、続ける。 「こんな…こんなことがあったのに、アンタは中国人の血が入った子供を1人で2人も産んで、育ててくれていたのかい…中国人を恨まなかったのかい?」 女将さんは手が震えていた。 そんな反応が来ると思っていなくて焦ったが、聞かれたことに答える。 「私は、私の子供を産んだまでですから…それに、私は元夫のことは憎いけれど、中国も中国の人も大好きです…だから今日ここに来ています…日本人にも酷い人はたくさんいるし、いい人もいるから、あなたの祖国とそこに生きる人を嫌いになることはなかった」 実際、そうだ。 そりゃ、多少離婚からしばらくの間は中国語を話すことに抵抗があったし、中国人との友人たちとも少し距離が空いてしまったがそれは元夫を思い出すからではなかった。 自分がこれまで大切に学んできた言葉たちを、私自身が元夫との言い合いの中で汚く使ったことが悔しくて悲しかったのだ。 そして、何かを話すことを、恐れたのだ。 でもだからと言って、そんな大きな規模で何かを嫌いになんてなれない。こんなことで全部投げ出せるほど、私の中国を、否、他国を愛する力は軽くはなかった。 かつて戦争があった時 確かに人々は殺し合っただろう。 しかしそれは、なんのためだったか。 自分の家族や国を守ろうとしたから戦ったのではないか。  平和を求めていたはずではないか。 ただ穏やかな日々や愛する人たちとの時間をもとめて、散っていった命がある。 その先に続く時間の上に私たちは生きている。 平和を願った命が散った時間の続きで生きている。 ここにいる私たちができることは、憎しみあうことではない。 もう2度と苦しみが戦火となり燃え広がらないように互いに認め合うことではなかろうか。 少なくとも私はそう思っている。  だから、この日まで、何があっても平和から目を背けずに生きてきた。 だから、何があっても、何かを罪のない何かを嫌うこともせずに生きてきた。 「私はきっと、中国も、中国の文化も言葉も造形物も京劇もずっとずっと大好きです。なにがあってもです…母国も、母国じゃない国も、全部大好きです」 色んな気持ちを込めて伝えた。 あの日、日本を非難して出ていった男に、分かって欲しくて言った言葉と同じような言葉を伝えた。 あの時も、わたしは似たことを話していた。 憎しみが残ることは仕方なくても、できる事は憎しみ合う事や繰り返すことではなく寄り添い合うことではないかと。 だって、私たちはいまを生きているのだから。 私は何があっても、全てを好きでいたい。日本も、中国も。 この気持ちはあの男に伝わらなかった。それどころか心に刃を突き立ててくるような言葉が帰ってきた。 だから、女将さんに気持ちを伝える事は、砕かれた心をもう一度拾い集めて挑んだ、私のささやかなリベンジだったのである。 平和を、小さくここに咲かせたい一心の、願い。 自然と視線を落として話をしていたから 女将さんが発した涙声に顔をあげた時、そこにはかつてあの男が見せた歪んだ顔ではなく 優しく、涙を止められないでいる母のような顔をした女将さんがいることにやっと気がついた。 「ありがとう……ありがとうね……でも、私たちの国から家族を捨てる人間がでたことは事実よ、だから謝らせて、お願い、本当にごめんなさい……ごめんなさい……そしてありがとう……私たちの国の血を持つ子を産んでくれてありがとう……私たちの国を好きでいてくれてありがとう……本当に、ごめんね……」 悔しそうに何度もごめんなさいとありがとうを繰り返す女将さんに、どうか謝らないでと伝えても、彼女はきちんとあったことも無い男の罪を、自分の国の罪として、謝罪し続けた。 「本当に苦労したでしょう……あなたの中国語はとても綺麗だから、きちんと中国を愛してくれてる事は伝わるわ……2人の子供を育てる事は簡単じゃないはずよ、それなのに、あなたは笑顔でいてくれたのね…今日会う日まで…ありがとう…本当に…あぁ…」 悔しそうな、切なそうな、優しい声が続く。 もうなんと声をかけたらいいか、わからなかった。でも嬉しかった。 気持ちが伝わったことも。 気持ちを伝えてくれたことも。 感傷的な雰囲気の中、 奥から店主の声がする。 中国語だが、「できたぞ!」と言っているのがわかる。 女将さんははっとして、涙をふいたあと まっててねと、店主の方に向かっていった。 沈んでた空気が少し和む。 女将さんの言葉を受け止めた私は女将さんが去った後中国語だった部分を婚約者に通訳し、2人で気持ちを分かち合った。 温かい雰囲気になる。 しかし、店主の方に行くなりやや訛りのある中国語で店主に話しかけていた。 ……その声は多分本人が思っているより、大きな声であった。 店主の方に向かうなり、女将さんは私たちのまえで我慢していた怒りが爆発したようで 「うちの国からクソ野郎がでたわよ!!!」と私と話してたときには見せなかった苛立ちを吐き出していた。 私には聞こえないと思っているようだがはっきり聞こえる。「家族捨てて出ていった男が……!」「信じられない!ありえない!金も置いていかないなんていっそ調理してやろうじゃないの!!」 と鬼のようだ。 だけど、これさえ嬉しかった。もし、かつての義母だった人がこの人だったならどれだけ良かったか。元義母本人は、薄情なことに私の連絡を全てブロックし一言の挨拶もなかった。最後の最後まで。 悔しかったが、そんなことに取り合ってる暇がなかった。 だけどやっぱ心の傷になってたのだ。気が付かなかった。 気が付けたのは、苛立ちを露わにする女将さんのおかげだ。本当は愛する中国人の義家族、誰か一人にでも味方をして欲しかったのだ、私は。 少しすると、女将さんが戻ってきた。 手には包子と、野菜の入った袋が握られている。 いい香りが漂って、今にも涎が垂れそうになる。 「できたよ!ほら、包子!出来立てだから、すぐに食べな!あと…これ!」 渡されたのは、シシトウとナス。 「これは、私の故郷の種を日本に植えて自分で育てたものなの。あなたたちに食べて欲しい」 袋にどっさり、みずみずしい野菜が入っている。 「朝とったばかりよ!よかったら、たべてね」 思わず遠慮する私に、ほーら、と袋を持たせる女将さん。 一緒に包子も受け取った。 袋越しにでもわかる包子の美味しい香りに、わっと声が出る。婚約者も隣でわくわくした顔をしていた。 「ありがとうございます…お野菜まで…」 「いいのよ、あなたたちに会えてよかった…この方は今の旦那さんなのよね?」 婚約者の方を見る。正式には籍をまだ入れてないが 女将さんを安心させたいとおもいすぐに、はいと答えた。 もし私がまた、1人で子育てをすることになる可能性が高いとしれば、女将さんに心配をかける気がした。 その考えは間違っていなかったみたいで、「あぁ、よかった…優しそうだね、彼」とほっと胸を撫で下ろしていた。 お会計をして、玄関まで見送られる。 店の入り口で、「それじゃあ、またきてね」と笑う女将さん。私は彼女をみて、いつのまにか母親に抱きつくかのように抱きついていた。 だが驚かれることはなく、彼女もまた娘を抱きしめるかのように私を抱きしめてくれた。 「ありがとう…絶対またきます」 「待ってるね、本当に、うちの国の者が迷惑をかけたね…幸せになるんだよ…またすぐきてね」 いつのまにか、私の目からも涙が溢れてしまっていた。 ゆっくり体を離すと、今度は女将さんが婚約者の方を向いて片言の日本語で話した。 「頼んダヨ、ガンバッテ、子供達ヲ、よろしくネ」 女将さんの想いは、短い日本語にぎゅっと込められていた。婚約者もそれに気がついたのだろう。力強く、はい、と答えた。 名残惜しさが残る中、私たちはまたねと言う意味の「再見」を言い合ってその場を離れる。 女将さんは、私たちが車に乗り込んで、発進し、見えなくなるまで見送り続けてくれた。 わたしがかつて、元旦那と果たしたかった「憎しみあった両国の歴史を乗り越えて互いを理解し合う」という夢は、ここで果たされた。 包子は日本にない美味しさで私たちを釘付けにした。 手作りの生地に包まれた独特なスパイスの効く肉たちが口いっぱいに旨味を広げて本場の味はこれだ!と思わせてくれる。 この包子は今後、私にとって大好物の一つとなるのである。女将さんとの交流も、ずっと続くものとなる。 帰りの道で、私は涙が止まらないままでいた。 伝わった、私の想いが、確かに伝わった。そして想いを受け止めてくれた女将さんは、ありがとうも、ごめんなさいも繰り返して私に伝えていた。彼女の想いもまた、私が受け取った。 離婚した直後は辛かったが それでも、出て行ったあの男のようにならなくてよかった。 中国を好きで居続けてよかった。容易なことではなかったが彼への憎しみが増大するたび、悪いのは彼であって彼の国ではないことを何度も思い出すようにした。 私は平和を願いたい、憎しみは、現代人として断ち切らなければならない。何度もそう自分に言い聞かせた。 その日々が、この日、実を結んだと思えた。 きっともう、元旦那に会うことはないだろう。そして彼はずっと日本と、私を恨み続けるのだろう。 だが彼が行き着く先には、平和や優しさなんてないことは誰でもわかることだろう。 憎しみは、何も生まないのだから。  女将さん、ありがとう。私はあなたに会えたから今まで自分に言い聞かせてきたことが正しかったのだと思えました。 涙を流し合えた日を死ぬその日まで忘れることはきっとない。

分類不能の職業
投稿日時:
2025年11月15日
投稿時の年齢:25
新潟
ドラマの時期:
2025年
--月
--日
文字数:7826

破かれた参考書

ビリビリに破られた参考書を見たのは、小学四年生の夏頃が最初で最後だった。 足元に散らばるそれらは母が不登校のわたしのために買ってくれたもの。 そしてそれを破いたのは、買ってくれた母本人だった。 大人が子供に利己的な理由で我慢を強いたり、理不尽なねじ伏せかたを平気でしたりすることが嫌で、わたしは不登校になった。 クラスメイトからのイジメはあったと思うがその記憶が曖昧になるくらいには教師への不信感や猜疑心で満たされてしまっていた。 学校に少しずついかなくなったのは小学二年生。完全に行かない日々を過ごした訳ではなくても週に2回、行ければ良い方だった気がする。 だから四年生になった頃は当然周りとは学習に差がついてしまいもう追いつくことはほぼ不可能に近かった。 たった二、三年間だが、その二、三年間の遅れはこの先も響いていくわけで この事態に絶望して、どこから手をつけたらいいのかわからなくてもう普通に勉強なんてできないんだと諦めていた。 だから、やる気を出させようと母が参考書を何冊も買ってペンケースやその中身も新品にして揃えてくれた時、嬉しくはあったが 勉強に取り掛かった後で本当に自分が何も問題を解けない現実が見えるだけな気がしてしまい、怖くて手をつけられなかった。 怠惰にすごし、現実から逃げていた。世の中を知った気になってそのまま、堕落していく日々だった。 そんなわたしを見かねた母にも限界が来ていたのだと思う。 娘が学校へいかずに、好きな時間に起きて寝て 学習も諦めていたのだから 見守る側としてはストレスも、不安も溜まったもんじゃないだろう。今わたしも母になったからわかることだ。 家にいれば給食費とは別で昼代がかかる、心身への負担だけでなく家計にも負担をかけて私本人は拗ねて寝てばかり。参考書を買い与えたとてなんにも動きがなければがっかりもするし焦りもしただろう。 だから母は、私の部屋で新品の状態で積み上がっていた参考書たちを破いた。ある水曜日のことだった。 「あんたは!なんにもしないで!このままでいいとおもってんの!?」 ふて寝してた私の元へ、なんらかの用があった母は部屋に来るなりそれを見つけて私を叱り出した。 「こんなもの!買っても意味ないんか!!!どうしたらいいの!!」 一冊の参考書を手に取って叫ぶ。 この時点で反省はしていたが、どう母に話をしたらいいのかわからずただ怒られていることが嫌だったような気がする。 そんな私の態度も、母にとってはお見通しだったのだろう、参考書で私の頭をがんっと殴るとそのままビリビリと大きな音を立てながら分厚いそれを引き裂き始めた。 母の行動に驚いた私は、「おかあさん!やめてよ!ごめんなさい!ちゃんとやるから!大切にするから!やめて!」と止めたが母はやめなかった。 「不登校になって、かわいそうだと思うけど、学校に行かない選択をしてるのはあんたでしょう!!!! その責任はどこにあるの!!! 責任から逃げていいなんて教えた覚えはないよ!!!! 勉強をしたくてもできない人だって世界にはたくさんいるのに、あんたはただかわいそうなことを理由になんにもしてないだけじゃない!!」 叫んで、叫び続けて大粒の涙をこぼしながら自分が買った数冊の参考書や問題集を破り続けた。 その姿は、大人になった今でも鮮明に覚えているほど、胸に刺さっている。 それまで気がつかなかったが、私の行動はお金を無駄にした、なんてもんじゃない。 「人として人の気持ちを踏み躙った行動」だったのだ。 そして、ただ「なにもしない」という逃げ。それ以外の何者でもない。逃げて、人の心を踏み躙る阿呆だった。 ハッとしてからは、その場しのぎの言い訳は何にもできず 自分の傲慢さに、怠惰さに、ショックを受けた。 勉強を、めんどくさがっていただけ。 学校に行っていない、行けない、それは仕方ないことだとしてもその選択をしているのは自分なのだ。 追いつかないほどの差をまわりと感じていながら、知っていながら逃げていた自分が本当に恥ずかしく思えた。 全て破いた母は、よく考えろと叱って、部屋を後にした。 部屋に残ったのは、母の想いの形の参考書だったものたち。 泣きながら、それらを拾って、私は一晩中セロハンテープでやぶかれてシワクチャなページをくっつけながらいろんなことを考えていた。 人が取る責任に初めて気がついた日の夜だったと思う。 嫌なことがあって、そこから逃げたってかまわない。 けれど、逃げる選択をする以上、その先で自分が何をするのかは選択をした者の責任として考えて実行しなくては行けない。 それを知った時、今までの自分を何発でも殴りたい気持ちになった。 娘にこれを教えることは、ただナイフは危ないと教えることの何倍も難しい。 母はどんな想いで、紙を割いて、心を割いたのだろう。 考えれば考えるほどに、涙が止まらなくなった。自分が今からでもできることを、考えて、考えて、考えながらつなげた参考書のページたちは数ページ揃わなかったが問題を読めるくらいになおった。

分類不能の職業
投稿日時:
2025年11月03日
投稿時の年齢:25
新潟
ドラマの時期:
2009年
--月
--日
文字数:4276

まだ喋らない、私の息子

現在4歳になった息子は、まだ言葉らしい言葉を話さない。 いわゆる発達障害である。 先日、療育手帳の発行を主治医に勧められた、といえばその程度がつたわるだろうか。 成長に偏りがあり、息子の場合は言葉を話す様子がなかなかみられなかったため療育園に通い始め今も月一の診察が欠かせない。 成長というものは人それぞれであるが ある程度の目安があり月齢に伴った成長があまりに遅れているとなれば別の問題が出てくる。 人によってはその現実から目を背けたくもなるだろう、私もきっとそのひとりだったのだ。 なかなか話さない息子に不安はあっても きっと、すぐに喋ってくれる、ママと呼んでくれるはず。 そう思い込むようにしながら生活していた。 普通にこだわるわけではなくても不安に勝てるほどまだ私は肝がすわってなかったのかもしれない。 しかし 言葉が伝わらないというのは想像していた何倍も苦難が多く、育児のストレスで私は両耳の難聴によく見舞われ始めた。 そうこうしてるうちに息子も2歳になる年になり、もう手を打たなければマズいと思い、2歳になる手前で小児科にいくと診察室に入るや否やすぐ「療育園への紹介状を出します」と医者が手配しはじめた。 あぁ、この子が話す日は遠いのか…と目の前が真っ暗になる想いだった。 我が子が心に抱えたものを言いたいのに言えないという現実に置かれていることが悲しくて悔しかった。 わかってあげられないことが、たまらなく辛かった。 伝わらないことが、本当に苦しかった。 療育園へ行くことになりすぐに療育は始まったが 通ってすぐに効果があるわけでもなく日々労力が募っていくだけにも思えた。 「いつ話せるようになるだろう」ということを心配して最初の三ヶ月間、毎回待ち時間に癇癪を起こす息子を宥めながら重い心で過ごしていた気がする。 難聴が癖になってしまった自身の体のことも夜が来るたびに責めた。親なのに、子供の声に耐えられずストレス難聴になったのかと今にして思えばそこまで自分を責める必要なんてないのに、当時離婚していたこともあってひとり親として自分が情けなかったのである。 早く息子の言葉を聞きたい。 どんなに反抗的でも構わない。この子の選ぶ言葉を聞きたい。 好きな色はなんだろう? 好きなお菓子はなんだろう? どうか明日、一言でいいから言葉を交わしたい。 その願いはまだ、かなったことは無い。 まだ、息子の言葉は、聞けてはいない。 しかし当初のような不安や願いは、息子の成長を見守る中で薄れていった。 療育園でも効果がなかなかみられない中、ある出来事が私の真っ暗だった世界に光を灯した。 それは、息子がまだ3歳になる前。療育園に通い出して三ヶ月もかからない頃の話。 私が第二子を出産するにあたり1週間家をあけた時のことだった。 まだ幼い息子に、事情も伝えられないまま家を空けることが心配だった私は出産中も息子のことが頭から離れないでいた。 いまごろ、突然いなくなったママを探してはいないだろうか。 不安に思っているのではないか。なんて気持ちで私は胸が張り裂けそうになっていた。 それもそのはず。 先ほど述べたように、私は離婚している。それも第二子出産前に。 息子からしたらある日突然人が居なくなり二度とかえってこないという体感をしてすぐに母がいなくなったのだ。 帰ってこないのではないかと不安になるには充分すぎる条件が揃っていた。ただでさえ母親の姿が見えなければ泣く年齢の息子には重すぎる現実だ。 事情を言葉で伝えられない今、息子がこころのどこかで私も同じように二度と会えない人になっているのではないか不安だった。 きっと私が息子の立場なら、不安でたまらないはずだとも思った。 早く、息子に会いたい。そして、ちゃんと帰ってきたよと安心させてあげたい。 考えれば考えるほど、息子の言葉の遅れがもたらす現実は息子を寂しくさせているような気がしてより一層、悔しい気持ちで涙がこぼれてしまっていた。 しかし、その頃息子は全く泣かなかったとあとから実家の母に聞いた。 1日だけではなく、私が退院するまでの7日間、ずっと泣かないでいたという。 ママが居なくても平気なわけではない。 普段ならば息子は真夜中に起きればすぐに大泣きをするのに 私の入院期間は真夜中に目が覚めてもそっと起きてリビングで翌日のご飯の仕込みをしてる私の母の元へちょっと遠慮気味にちょこちょこと歩いてきて、一緒に寝てくれるかやや不安そうに甘えてきたとのことだった。 息子は、なんの事情もわからないはずだ。 いや、言葉で伝わっていないのだ。 それなのに、息子は私がいない1週間、泣くのを我慢していた様子だったと母が教えてくれた。 全てを聞いた時、息子の心根を知った気がした。 優しいだけじゃない。 人を信じる強さを持った子だと確信した。 息子は、私を信じたのだ。 この幼さで 家族が必ず帰ってくると信じて、泣くことを我慢したのだ。そこにいない母の存在のために。 第二子を連れて帰ってきた日 息子は私を見るなり、びっくりするでも泣き崩れるでもなく 朗らかなえがおで、私の所へゆっくりと歩いてきた。 そして、目で、「おかえり」と言ってくれた。 そっと近寄る息子の胸には不安は絶対あっただろうに、 それを自分だけの胸にしまい込み私の腕にだかれていた自分の妹を見て少しだけ照れたような顔をしながらニコニコしている。 口で言えない「こんにちは」を伝えようとしている。 この子は、自分が話せないことを知っていながら、伝えることを諦めたことは無い。 わがままだってちゃんと言える。 伝わらないことで伝えることを諦めたことが一度もないことにもこの時気がついた。 目は口ほどに物を言う、とはよく言ったもので 妹にちょっと照れながら目を合わせる息子は、確かに妹にまで語りかけていた。 帰ってきた日の夜、寝ようとするとそっと私の隣に来て眠ったことを一生忘れないだろう。 普段は騒ぐだけ騒いでコテンと寝るこの子が、甘えて眠ったことを、絶対、忘れない。 一晩中その日だけは夜泣きをせずに私の裾を掴んで眠った。

分類不能の職業
投稿日時:
2025年10月30日
投稿時の年齢:25
新潟
ドラマの時期:
2023年
--月
--日
文字数:3705

失われた命、生まれた命

地面が揺れた。激しく上下左右に家ごと揺れたそれが新潟県中越地震だと知ったのはこの数年後。何もかもが壊れて崩れてゆきました。母は私を抱えてすぐに屋根が崩れてきても子を守れるように抱きしめてくれたのです。いえ、母のとっさの行動で守られたのは私だけじゃないのです。こんな時にもおなかの中で元気に動く男の子、すなわち私の弟を守っていたのです。 死者68名とされる地震のさなか母は臨月にはいっていました。 朝目が覚めるたびに今日は無事に母と弟が生きられるか不安に駆られていました。 避難生活は過酷で横になれる日が果たして何回あったことやら。 ほぼ車の中での寝泊まりがきつかったことは言うまでもありませんが体の小さな私で耐えるのがやっとだったあの生活は母にとっては生きたここちのしない日々たっただはず。 だから、最悪の事態を考えていたのでしょう。 ある日避難中の車の中で大きなはさみと貴重な2リットルの水、タオルを渡して言うのです。 「いい?ママはいつ赤ちゃんを産むかわからないの、だからこれを持っていて!もしお産が始まったらこれで赤ちゃんを取り上げて!」 「もし、ママが死んでも、命を諦めちゃダメ!あなたなら、できるから!」 幼い子供にはあまりに重い話でした。 母が死ぬことなんて考えたくない、駄々を捏ねたい。 でも、伝わったのです。 母の中で、今は守るべきもがあることが。 幼い私に託してでも、命を繋いでいくことを諦める姿を見せまいという意思を。 小さな私だからこそ、その先のことなんて考えませんでした。 この誰かの大切な人が生きられない時に 生まれてくる命があるならば お姉ちゃんになる私が、やるべきことがあるのだ。 この日からずっと強く頷き命をつないでいく約束は、生きている者の役目に思えてなりません。

分類不能の職業
投稿日時:
2025年09月12日
投稿時の年齢:24
新潟
ドラマの時期:
2004年
11月
4日
文字数:966

アメリカの高校のブラスバンドを体験して感じたこと

1985年の9月から一年間、私たち家族は父の仕事の都合でアメリカのイリノイ州の某田舎町で生活することになりました。 当時高校生だった私は日本の高校を一年休学して現地の高校に通ったのですが、そこで受けていた授業の一つに「バンドクラス」というものがありました。 内容は日本の吹奏楽とほぼ同じなのですが、課外活動ではなく選択式の授業の一つです。 オーディションのようなものは無く、自分の楽器を持っていれば誰でも入ることができます。 ただし、その高校の音楽活動には、他にジャズバンド(ジャズのビッグバンド)とオーケストラ(クラシック音楽の管弦楽団)があり、これらはオーディションに合格しないと入れません。 ちなみに、音楽なら殆どなんでも好きな私ですが、日本の部活動の吹奏楽だけはあまり好きではありません。 体育会的な独特のノリが苦手なのに加えて、一部強豪校が行う無茶な練習に強い抵抗感を覚えるからです。 今回はここら辺のことも含めて、アメリカのバンドクラスを一年間体験して感じたことと、そこで出会った一人の友人のことについて書きたいと思います。 授業は基本的に合奏のみで、先生が指揮をして演奏についてあれこれ指示を出すという形ですすめられます。 何を演奏するのかというと、スポーツの季節(アメフト、バスケ)はその応援がメイン、そしてこれらが無い時期は、吹奏楽のオリジナル曲などを練習します。 演奏のレベルは、技術的な面では日本の平均的な高校と比較して遙かに低かったと思います。 コンクールで他校の演奏もある程度聴きましたが、恐らくアメリカの高校生全体がそんなものなのだと感じました。 最初の授業の時に、同じクラリネットの仲間達が皆ペラペラな音色な上に、指使いも十分にわからないまま吹いているのを見て本当に驚きました。 (後述するクラリネットの名手は、この日バリトンサックスを吹いていました) ですが、技術的に低レベルだからといって、全てにおいて日本の吹奏楽よりダメなのかというと全くそんなことはありません。 先ず、ニューヨーク・ニューヨーク(映画の主題歌)やバードランド(ウェザー・リポートというフュージョンバンドの曲)のようなジャズ風の曲を演奏すると、日本の音大生より遙かに見事な演奏をします。 もちろん技術的には下手なのですが、音楽を演奏する上で技術以上に大切な、その楽曲で求められる固有の音色や音程、音の強弱、音が出るタイミングと切るタイミング、正しいテンポ等々を、彼らは生まれたときからジャズという音楽に慣れ親しんでいて体で覚えているので、ジャズとして聴けば素晴らしい演奏が可能なのです。 そして何よりも、彼らはどんなに下手でも堂々と演奏します。 合奏で上手く出来ない箇所があれば先生は当然怒りますが(30代位の女の先生で怒るとそれなりに迫力がありました)、日本の吹奏楽では当たり前の居残り練習なんて誰もしないしさせない、終業ベルが鳴れば先生も生徒も速攻で帰り支度を始め、次の日になれば皆ケロッと忘れて練習を始めます。 それで同じ箇所が上手く出来なければ再度先生は怒り、次の日は再度皆忘れるのループなのですが、ある日スルッと上手くいくことがあれば、皆で「イェー」と喜んで、それで終わりです 一方で日本の高校の吹奏楽のレベルの高さというのは、非常に無理な内容の練習に支えられています。 私が日本で通っていた高校の近くにはコンクール全国大会の常連校があり、何回か練習を見学に行ったことがあるのですが、放課後の練習は夜の9時までやっておりその他に朝練もあります。 音大を卒業したばかりの若い先生が非常に厳しい指導をしていて、上手くいかない箇所があると誰が悪いのかというところまで徹底追求して、メンバー全員が見ている前でその生徒のプライドが傷つくような暴言の繰り返し。 仲間たちもそんな様子を庇いもせず、上手く吹けない仲間をゲラゲラと嘲笑したりとか、見ているだけで辛く悲しくなりました。 私の音大時代のクラリネットの師匠は、こういう学校に頼まれて指導に行かれることが多く、高校生が厳しすぎる練習をさせられていることについて、生徒の将来を考えれば悪影響しかないと常に仰っていました。 しかしながら、日本の部活動はコンクール至上主義なため、どうしてもこういうことが起こります。 私の高校は弱小校で先生も良い意味でやる気が無かったので、比較的のびのびと練習をしていましたが、それでもアメリカの高校に比べればかなり厳しかったと思います。 再びアメリカの高校の話に戻って、コンクールについて少し書きます。 日本の吹奏楽コンクールは全体合奏のみですが、アメリカの私の高校があった地域では、合奏に加えてメンバー全員がソロ曲(ピアノの伴奏が付くもの等)を一曲演奏させられ、それぞれにS~Dの評価が付き、その総合点みたいなもの(メンバーの人数は学校毎に違うので、どうやって計算していたのかは不明ですが)を競っていたと思います。 このコンクールで私たちバンドクラスの合奏は確かAかBの評価をもらったと思いますが、私のクラリネットのソロ演奏はS評価をもらいました。 クラス全員の中でS評価をもらったのは3~4人程度だったのですが、日本で音大受験を考えるような人であれば、まずS評価がもらえると思います。 しかし、そんな私でも、このバンドクラスで、決してクラリネットパートのトップを取ることが出来なかったのです。 それは、このコンクールのクラリネットソロ演奏でもう一人S評価をもらった、デイブ(仮名)という少年がいたからです。 デイブは完全に別格でした。 バンドクラス以外でも、ジャズバンドではサックスパートのトップ、オーケストラでもクラリネットのトップを任されていました。(何故かスポーツの試合応援時のみバリトンサックスを担当していましたが) そして彼は、バンドクラスの中でただ一人の黒人でした。(アフリカ系アメリカ人という表現の方が正しいですが、便宜上「黒人」と表記します、ジャズバンドにはもう一人黒人の生徒がいましたが、オーケストラにはデイブ一人でした) デイブに会うまでは、私は黒人というとなんとなくワイルドで、音楽もノリノリで激しい演奏をするような先入観を持っていましたが、彼はモーツァルトとクラシック音楽を愛するとてももの静かな少年で、クラリネットの音色は誰よりも優しく柔らかく、音の繋がりも滑らかで、まるで美しい玉をコロコロと転がすように、自由自在にメロディーを紡ぐことができました。 彼の演奏技術は日本であれば最難関の音大にも楽々合格できるレベルであり、更に、技術とは別の音色のような部分では、日本のトッププロと比較しても彼の方が上であろうと思えた程です。 また、彼は大変知的な上に誰にでも優しい人物で、皆から好かれていました。 私が出会ったアメリカの高校生達は、もごもごとこもった感じの発音で早口で喋る人が多く(そういうのがかっこいいと思われていたようです)英語の発音を聞き取るのが大変だったのですが、彼は外国人にとっての外国語の難しさをよく理解していて、私と話しをする時はとりわけはっきりした発音でゆっくりと喋ってくれました。 ある日、彼と二人きりになった時に、私がなんとなく「なかなか英語が上手くならなくて」という話をすると、彼は「これは聞いた話なんだけど」と断って「君は話す前に日本語で考えてそれを英語に訳してる?それとも最初から英語で考えてる?」と質問してきました。 そして「日本語で考えずに英語で考えてそのまま話すようにすると上手になるらしいよ、聞いた話なんだけどね。」と言って照れくさそうに笑ったのです。 これは、実は彼の楽器演奏の上手さの秘密にも通じている、大変奥が深い本質を突いたアドバイスであったと思います。 そして、1986年の5月、一年間の音楽活動の締めくくりとして(アメリカでは9月が新学期で6月から夏休みです)、バンドクラス、ジャズバンド、オーケストラが合同で、ジャズ発祥の地であるニューオーリンズへ6泊7日の演奏旅行に行くことになりました。 一週間ライブ演奏を行いながら、地元のジャズ演奏を聴いたりプロのクリニックを受けたりという夢のようなイベントです。 しかし、その演奏旅行へ行く一週間位前の授業で事件は起こりました。 授業の冒頭で、先生はとても深刻な顔をして「このクラスで学業の成績が悪すぎてニューオーリンズへ行けなくなった者がいる」と話し始めました。 そして、低いドスの効いた声で「Dave」と一言名指しすると、見たことがないような恐ろしい顔でデイブのことを睨みつけたのです。 日本の平均的な高校生と比べても遙かに早熟で頭の良いデイブが、簡単なアメリカの高校の授業で落第点をとるなんて私には信じられませんでしたが、デイブは暗い顔をしてうなだれたまま一言も発しません。 「Don't worry Dave, we love you!(心配しないでデイブ、皆あなたのことが好きよ!)」とサックス担当の女の子が声を掛けると、クラス中が「イェー」と盛り上がりましたが、それでも先生はずっと怖い顔をしたままで、デイブはうなだれたままでした。 しかしその後、演奏旅行へ行く日がやってくると、デイブは当たり前のように皆の前に現れたのです。 先生もクラスメイト達もそのことには一切触れないまま、彼は皆と一緒にニューオーリンズへ行き、ライブでは見事な演奏を聴かせてくれました。 ただ、夜は先生も生徒も同じホテルに泊まっていた(4人部屋で部屋割りは先生が決めました)筈なのですが、彼は寝る時間になると、もう一人の黒人であったジャズバンドの男子と二人でそそくさと何処かへ行ってしまうようでした。 夢のような一週間が終わり、私の家族はいよいよ日本へ帰ることになり、お世話になった人達(父の仕事関係)に感謝を込めて、家族で食事を振る舞おうということになりました。 その時、我々家族と一番親しくしてくれた方が言ったことは、今でも決して忘れることができません。 「○○さんを呼んだら白人は一人も来ませんよ、何故なら彼が黒人だから。」 このアドバイスをしてくれた方は、帰国後もずっとお付き合いしてくれた本当に良い方で、あくまでも我々のことを心配してこんなことを言ってくれたのです。 この時、ニューオーリンズ演奏旅行で起こった一連の出来事が理解できたような気がしました。 これはあくまでも私の想像であり証拠は何も無いのですが、恐らく黒人の生徒と一緒に一週間も旅行することについて、クレームを付けた白人の親がいたのだと思います。 あるいは、誰も何も言わなかったとしても、当時のこの地方の社会常識として許されないことだったのかもしれません。 そこで、あくまでも建前で勉強の成績が悪いから行けないということにしたものの、先生は最初から連れて行くつもりで、クラスメイト達も皆それをわかっていたから、その後一切誰もそのことに触れなかったのだと思います。 それでも、他の生徒達と同じホテルの部屋に泊めることだけは出来なかったのでしょう。

分類不能の職業
投稿日時:
2023年05月09日
投稿時の年齢:54
茨城
ドラマの時期:
1986年
5月
--日
文字数:4990

ペットと罪

みなさんは何かペットを飼っていますか? ペットって本当に可愛くて癒される存在だったりしますよね。 私も昔、実家で猫を飼っていた時期がありました。 この猫はもらってきたメスの猫で名前を「シーマ」といいました。 雑種でしたが色は白色でふわふわの毛がふさふさで、とても障り心地が良かったです。 生まれて初めて飼いだしたペットだったので、家族みんなでとても可愛がってあげた記憶があります。 当のシーマもとても人懐っこくて愛嬌があり甘えん坊な猫でした。 寝るときは人の布団に入ってきたり、立っている自分に対してジャンプしてきて強制的に抱っこしなければならなかったり、顔をスリスリとくっつけてきたりと本当に本当に可愛い猫でした。 シーマは散歩が好きで良く昼夜問わず良く散歩に出ていました。 家の窓やドアが閉まっていると散歩に行きたいと閉まった窓やドアをコンコンとこずいて開けるように催促してくる猫でした。 なのでこの頃の我が家は冬以外の季節は窓やドアの一部をシーマが通れるように常に開けているような家でした。寒い冬の時はさすがに寒かったのかあまり外には出たがりませんでしたが。 そんなシーマでしたが夕方のご飯時になるとご飯を食べに必ず家に帰ってくる猫でした。 犬や猫もですが動物って時計がないのになぜあんなに正確な時間に家に帰ってくるのか非常に不思議でした。 ですが私が中学三年生になったある日のこと、夕方のご飯時になってもシーマが帰ってこない時がありました。 心配になった私はシーマを探しに家の周りを名前を呼びながら探しましたがシーマは見つかりませんでした。 ちょっと臆病だったシーマは普段はそこまで遠くに行くような猫ではなかったので余計に心配になりました。 なので少し家から離れた場所もくまなく探しましたがそれでも見つかりません。 その頃の家の近くには国道がありとても交通量が多かったのですが、まさかそっちの方にシーマが行ったのかな?っと思い国道線沿いの道路脇をシーマの名前を呼びながら歩いてみました。 すると家から離れた国道脇の茂みの方から猫のような微かなうめき声がするのが聞こえました。急いで茂みの方へ駆け寄ってみると茂みの中でシーマがうずくまってかすかな声で鳴いているではありませんか! 口からは大量の血が出ていて体もボロボロです。 状況的にどうやら国道の車にはねられて命からがら茂みの中へ逃げ込んでそこで動けなくなったようでした。 その姿に動揺した私はどうしてよいか分からず家に助けを求めて走りました。 そして家にいた母や姉とともにシーマをいったん家に連れて帰りましたが傷が想像以上に酷く夕方に診察してくれる動物病院を探して連れていくことになりました。 そのおかげかシーマはなんとか一命はとりとめました。 でもしばらくの間、絶対安静となり傷が治るまでに数カ月を要したのでした。 なので傷が治り元通りに元気になったシーマを見たときは本当に安心しましたし嬉しかったですね。 それから一年後くらいだったでしょうか? 元気になっていつも通りの甘えん坊なシーマとお別れの時が来るのです。 そのお別れの理由がなんと「飼育放棄」だったのです。 実はこの頃はシーマの他にも複数の猫を飼っていたのですが、その猫たちが近所の他人の家の花壇の中におしっこや糞をするようになったのです。 するとせっかく奇麗に植えていた花壇の花や植物が枯れてしまい、近所の人がうちに怒鳴り込んできたのです。 お前の家の猫はどうなっとるんだっと。 しかも一回や二回ではなく何度も枯らしたようでこれは怒るのも当然だったと思います。 そして困ったことにこれの解決方法が無かったのです。 複数の猫を飼っていたので外に出さないようにしてしまうと猫たちが出たい出たいと窓をガリガリ掻き出しますし、もし完全に外に出さなければストレスで猫同士で喧嘩をする始末です。 かといって外に出すとして花壇に糞尿をさせないようにする手段がありませんでした。 怒った近所の人は我が家の賃貸の家主にも話をしにいったようです。 家主からもうちの猫たちをなんとかしないと家を出て行ってもらうと最後通告がきたのです。 これには母も姉も参ったようでした。 すぐに引き取ってもらえるような環境ではなかったし保健所に連れていくという選択肢は取りたくないしで、どうしてよいか分からなくなってしまいました。 そして我が家が話し合った結果、取った手段が「飼育放棄」でした。 保健所に連れていくくらいならせめて生き延びることを願って遠く離れたお寺の敷地内に猫たちを捨てるというものです。 今思うととんでもなく「無責任」だったと思います。 でもあの当時、まだ高校1年生だった私には解決策も思い浮かばず、ただ母と姉の決定に従うしかありませんでした。 この決定をした日は家族みんなで泣きまくった記憶があります。 いよいよお寺に猫たちを放棄する日になった時、私も姉に同行しました。 何も知らない猫たちは一匹ずつ車に乗せられていくのが何故なのか訳も分からなかったと思います。暴れるような猫はいませんでした。 車で猫たちを連れてお寺の駐車場に止めてドアを開けました。 すぐに飛び出す猫もいれば車にとどまり出ようとしない猫と二手に分かれました。 シーマはとどまる方の猫でした。 とどまった猫を一匹づつ外に出していき最後に残ったのがシーマでした。 私はシーマを抱えて外に無理やり出しました。 でもシーマは地面についた瞬間に走って車に戻りました。 まるですべてを解っているかのようでした。 ここに捨てないで・・。家に帰りたいと言っているようでした。 私と姉はそれを見て涙が溢れ出てきました。 それを見た私はもうシーマを抱えることができなくなってしまいました。 でも私より4つ年上の姉は自分がやらなきゃっと私の代わりに泣きながらシーマを抱えて外に連れて行きました。 私は黙ってそれを見ていました。 そして気を機を見計らって車に飛び乗り発進させ猫たちを置いてけぼりにしました。 後ろを見ると後をついて来ようとする猫がいたようでしたが、それがシーマだったのかは分かりません。 この時、心の中で何度も何度もごめんごめんっと繰り返し謝っていたのだけは覚えています。 その後、私はシーマたちを放棄したお寺に見に行こうと何度も思いましたが、自分の犯したことがとても酷いことと分かっていたので・・怖くて見に行くことは結局、できませんでした。

サービス職業従事者
投稿日時:
2023年04月10日
投稿時の年齢:44
高知
ドラマの時期:
1993年
--月
--日
文字数:3001

趣味は将棋

趣味は人生を豊かにします。みなさんは趣味はありますか? 私は10年ほど前、将棋にハマっていました。 それもパソコンやスマホで対局するいわゆる「オンライン将棋」つまりネット将棋ですね。 ネット将棋はスマホさえあれば24時間いつでもどこでも、無料で対局が楽しめるので、仕事の休憩時間や休みの日にはとにかく将棋を指していました。 将棋はもともと遊びで指すことはあったのですが、本格的に勉強しようと思ったのは30代になってからです。 それも「あるきっかけ」が原因なんですが、その原因が酷いのです。 私は30代になってから勤めていた仕事も安定し、結婚生活も何不自由なくて生活自体が安定期に入っていました。 それまでは仕事仕事の毎日だったので、時間的にも少し余裕ができてきたのがこの頃です。 休日にやることもないのでネットで動画を見たりしていたのですが、なにか物足りないと思い、気軽にできる趣味を探そうと思ったのです。 そこで思いついたのが将棋でした。 将棋自体はとても弱かったのですが、友達と将棋するのは楽しかったです。 なのでネットで将棋が指せることはなんとなく知っていたので。いっちょやってみるか!と軽い気持ちではじめました。 まず初めに本屋で初心者用の将棋の本を数冊買って勉強しました。 将棋には「型」と「手筋」というものがあり、これらの基本を一通り覚えたので早速、ネット将棋に登録して実際に指してみたのです。 すると勉強の甲斐もあってか、最初は連戦連勝することができました。 初心者用のランクだったのもあるのですが、勝負事は勝つことが本当に楽しいものです。 ネット将棋にはランク戦というものがあり、ランク戦を勝ち進むと自分のランクがドンドンが上がっていくのですが、調子に乗った私はドンドン将棋を指してランクを上げていきました。 このランク戦とは別に練習用の対局ができる練習モードというものもあります。 こちらは勝っても負けてもランクには関係ないので、気軽に将棋を楽しむことができるのです。 ランク戦は実力が拮抗した同じランク同士が対局するのが一般的ですが、自分のランクより上の相手やランクが自分より下の相手とも対局ができるシステムでした。 ランクが上の相手に勝てばランクポイントが多くもらえ、ランクが下の相手に負けるとランクポイントが大きく下がり、勝ってもあまりポイントが増えないので対戦相手を選ぶときは注意が必要でした。 ある日、ネット将棋で将棋を指していると、ある対戦相手が私に勝負を挑んできました。 その相手は私よりランクが下でしたが、なんと21戦21勝の負けなしの成績でした。 ネット将棋は相手に勝負を挑まれても、拒否することが可能でしたが、せっかく対戦を希望してきてくれたので、私は勝負を受けることにしました。 しかしこの対戦相手がやっかいで、いわゆる「ハメ手」を使った初心者狩りだったのです。 将棋の戦法に「ハメ手」というものがあります。 これは指し方が分からないと一気に勝負が決まってしまったり、知らないと対応ができず完敗してしまったりします。 逆に知識があると完封できたりするのですが、初心者に毛が生えた程度の私は、この「ハメ手」をまだ勉強していませんでした。 ちなみにハメ手には「鬼殺し」「新鬼殺し」「筋違い角換わり」「右玉」「早石田」「升田式石田流」といろいろ種類があります。 この時の対戦相手は「早石田」と「升田式石田流」の使い手で、受けを誤ると一気に勝負が決まってしまいます。 でもこれらの戦法の受け方を知らなかった私は、この時に一方的に攻められて連戦連敗を喫してしまいました。 あまりにあっさり負けるので、ムキになってしまい恐らく10連敗くらいはしたでしょうか? ランクが下の相手だったのでランクポイントもダダ下がりです。 これも私が意気地になったポイントだったと思います。 ここで負けるだけなら自分の実力不足で片づけられる問題だったのですが、私が何より悔しくて腹がたったのが、この対戦相手の態度です。 ネット将棋にはチャット機能があり、将棋の対局中にチャットで相手に対してコメントを打つことができます。 この対戦相手はなんとチャットで挑発してきたり暴言を吐いてきたりしました。 いわゆる「バ~カ」や「雑魚雑魚雑魚」「弱すぎwww」とかですね。 もっと酷いことも言われましたが、さすがにここには書けない内容なので書きませんが。 とにかく人を馬鹿にした態度を取ってきたのが、本当に悔しくて悔しくて。 ネットで顔が見えないことをいいことに言いたい放題でしたね。 更にそんな相手に勝てない自分。自分自身が情けなくなりました。 そんなことがあって悔しくてたまらなかった私はもっと将棋が上手くなりたいと、これまで以上に将棋にのめりこむようになりました。 具体的にはプロの棋士の棋譜を見て勉強したり、負けた将棋の負けた理由を考えて研究するといったことですね。 いままで以上に練習と勉強・研究を繰り返した私は、将棋の実力、棋力をつけていき、一度下がったランクを取り戻して順調にランクを上げていったのです。 そしてあの憎き対戦相手との「再戦」の時が訪れます。 ある日、いつものようにネット将棋をしていると、対戦相手に見たことのある名前があるではありませんか。 そうです。「あいつ」です。ハメ手を使い、挑発・暴言を繰り返し私をボロボロにした「あいつ」です。 その「あいつ」がまたも私に勝負を挑んできたのです。 ランクも上がってさすがに無敗ではなくなっていた「あいつ」ですが、いまだに高勝率をキープしていました。 でもそんなことは関係ありません。 私は喜んで挑戦を受け「あいつ」と対局をすることにしました。 ランクが上がっても相変わらず「あいつ」はハメ手である「早石田」や「升田式石田流」といった戦法を繰り出してきましたね。 しかしこの時の私は以前の「わたし」ではありません。 もちろんハメ手の対策もバッチリです。 ハメ手に対する正しい受けを繰り出し、私は「あいつ」に連戦連勝しました。 前にやられたことを倍返ししてやった感じです。 今まで通じていた「早石田」や「升田式石田流」が通用しないことがよほど悔しかったのか「あいつ」は新しいハメ手「鬼殺し」という戦法を使って奇襲をかけてきましたが、もちろんこちらも研究済み。 「鬼殺し」もいともあっさり受けきられた「あいつ」はチャットに一言だけ暴言を吐くと逃げるように対局場から去っていきました。 この時の私の喜びようは凄まじかったと思います。

サービス職業従事者
投稿日時:
2023年04月02日
投稿時の年齢:44
高知
ドラマの時期:
2013年
--月
--日
文字数:3373

アメリカでの高校生活初日の出来事

1985年高校2年の夏、父の仕事の都合により一年間限定で、家族(両親と弟の4人、専門学校生だった兄のみ途中から参加)でアメリカに行くことになり、私と一つ下の弟は日本の高校を一年間休学してアメリカの高校に通うことになりました。 父の仕事の都合と書きましたがこの事情がやや特殊で、父は当時教育者だったのですが、一年間お給料をもらいながら海外で勉強できるというような制度があり、これを利用して渡米するのに家族も自費でついて行った形です。 行った先はイリノイ州にある某田舎町で、ここの大学には教育の世界では神様みたいな人に関わる研究の資料が大量に残っているそうなのですが、一般的な日本人には全く知られていない場所です。 そんなわけで私と弟が通ったのは、日本の企業など全く進出していない土地の、交換留学生など受け入れていない高校でしたので、それ故に「素」のアメリカの高校を体験することができたのではないかと思っています。 家族4人がある程度アメリカの生活にも慣れ始めた9月のある日、私と両親と弟、更に案内役のアメリカ人女性の5人でこれから通うことになる地元の高校を訪れました。(アメリカは日本とは違い9月が新学期です) 高校に着くとすぐに、好奇心の強い母は一人で校舎の中の探索を始めてしまいました。 仕方なく残りの4人で校長室のようなところで待っていると、アジア人のような男子2人がその部屋に入ってきて「Where is your mom?(君たちのお母さんは何処?)」と話しかけてきたのですが、これが私と弟の一年間を決定づけてしまうことになります。 私は「なんでこんなことを訊くんだろう」と不思議に思いながら、母が何処へ行ってしまったのかはわからないので「I don't know.(知らない)」と答えました。 しかし、2人は首をかしげながらしつこく同じ質問を繰り返してきます。 私と弟は困ってしまって、うろたえながらも「何処にいるのか知らない」ということを必死に伝えようとましたが、彼らには全く通じてないようでした。 程なくして、威張った感じ(私が苦手なタイプ)の初老の男性が教室に入ってきて、この人が校長先生だったのですが、最初の2人組が「彼らは自分の母親が何処にいるかもわからないんだ」ということを校長先生に訴え始めました。 すると、校長先生はその2人の言葉を受けて「この2人の少年(私と弟のこと)はdull(愚か、鈍い)だから時間割は全部俺が決める、一番成績の悪いクラスに入れる」ということを言い出したのです。 これに対して案内をしてくれたアメリカ人女性が激怒して、「日本人は皆喋らない、それは愚かなのではなくシャイだからなんだ」と反論をしましたが、校長先生は全く聞く耳を持ってくれません。 結局「母親が何処にいるのか」という質問に対してまごまごしてしまった、たったそれだけのことで、私と弟は愚かという烙印を押され、最低ランクのクラスに勝手に振り分けられてしまったのです。 今ならはっきりわかることなのですが、ここで「dull」と判定されてしまったのは単に簡単な質問に答えられなかったというよりは、そのタイミングで積極的に自己主張しなかったのが一番の理由なんですね。 だから、案内役の女性も「喋らないのはシャイだからだ」と反論していたわけです。 日本では、初対面の相手にいきなり自分のことをべらべら喋りだしたら図々しいヤツだと思われてしまいますが、反対にアメリカではそれができないとダメなんだと思います。 そしてその翌日から私と弟はその高校に通い始めました。 割り当てられた授業はつぎのようなものでした。 一限目:英語、英語が喋れない外国人向けのクラスで、その中でも最低ランクだったので「This is an apple.」みたいな文章からのやり直しです。 二限目:数学、この科目だけは担当の先生が日本人は数学が得意だということを知っていて、上から2番目のクラスに強引に入れてくれましたが、それでも日本のレベルでは高校受験よりやや難しい程度に感じた記憶があり、とにかく平均以下程度の日本の高校生にとっても簡単すぎる内容でした。 三限目:P.E.、体育(physical education)のことで、この科目は成績関係なし。 四限目:セラミック、陶芸のことで、粘土で好きなものを作って釜で焼くだけの授業。殆ど遊びのような時間でしたが、先生は博士号を持っている立派な方でとても親切でした。 五限目:バンドクラス、日本のブラスバンドとやることはほぼ同じですが、部活動ではなく授業の一つです。私は日本の高校ではブラスバンドに入っていて自分のクラリネットも持っていたのでこのクラスに割り当てられました。(この時間、弟は一時間教室で好きな本を読むだけでした) そんなこんなでアメリカの高校生活初日の授業が全て終わり、楽器を片付けて家に帰る支度をしていると、一人の男子生徒が私のところへやってきました。 彼はクイーンのロジャー・テイラーを彷彿とさせるブロンドヘアーの二枚目で、今日バンドクラスに日本からの転校生が来ることを知っていたようです。 そして、自分のことを「マイク」と自己紹介し、私に名前と出身地をたずねると、色々なことを話し始めました。 マイクは学校のジャズバンド(オーディションに合格した人しか入れません)ドラムを叩いており、音楽が大好きで日本の音楽にも興味があるということ、東京はニューヨーク、ロンドンと並んでアメリカの高校生が一番憧れる都市の一つなのだということ、それから好きなバンドがレベル42(イギリスのフュージョンバンド)であることや、好きな食べ物、家族の話等々。 彼は私がよく聞き取れないところがあると、嫌な顔をせずに何回も繰り返して話してくれましたし、私の拙い英語にも熱心に耳を傾けてくれました。 「Where is your mom?」という無意味な質問を一方的に繰り返した、前日に会った2人組とのあまりの違いに驚きましたが、やはりアメリカ人にも色々なタイプの人がいるということなのでしょう。 その後も彼は、私がギターも弾けるとわかるとバンドに誘ってくれたり、何回も家まで遊びに来てくれたりと、日本に帰るまでの一年間、彼のおかげでアメリカでの高校生活が充実したものになったと言っても過言ではありません。

分類不能の職業
投稿日時:
2023年04月01日
投稿時の年齢:54
茨城
ドラマの時期:
1985年
9月
--日
文字数:3840

記憶に残る学校の先生

私の中で記憶に残る人物として小学5・6年生の頃の担任だった「M先生」がいます。 私は父親の借金が原因で、小学校5年生の1学期を終えたときに、転校を余儀なくされました。 そしてこのM先生がいるK小学校に小学5年の2学期初めに転校したのです。 この頃の私は、生まれて初めての引っ越しと転校、父親の県外への出稼ぎなど、人生の中でもジェットコースターのように目まぐるしい怒涛の生活を送っていました。 多感な小学生だった私の心は非常に不安定であり、子供ながらに家の状況が一変したのを肌で感じていて何かと不安な日々でした。 正直、慣れ親しんだ小学校を転校することは嫌でしたし、新しい学校に対する気持ちは、期待よりも不安の方がはるかに大きかったです。 当時の私は母に甘やかされて育ったこともあり、自分の考え方を伝えるのが非常に苦手で周りの意見に流されて自分の意見を隠すような子供でした。 そんな不安を抱える小学生だった私の転校先のクラスの担任がM先生だったのはある意味、運が良かったといえます。 M先生は男性で年齢20代半ばくらいの若い先生だった記憶があります。 とても明るくて正義感に溢れた感情豊かな先生でした。 そんな先生だったのでどんな生徒にも平等に接することができて、同学年のどの生徒にも人気だったと思います。 M先生はとにかく明るくて声もハキハキしていました。 普段からM先生がいるだけで、先生の雰囲気に引っ張られてクラス全体が明るかったのを覚えています。 更にM先生のおかげか、当時のクラスメイトの中に嫌な生徒がなんと1人もいませんでした。 なので途中から転校してきた私もクラスに入り込みやすくて、すぐに友達ができました。 それもこれも本当にM先生のクラスの雰囲気作りが、とても良かったおかげだと言えます。 正義感の強いM先生はクラスの中で喧嘩があっても、すぐに飛んできて止めていました。 そして喧嘩した両方の生徒から言い分をじっくり聞いたあと、原因を指摘して改善策を言い聞かせ最終的には喧嘩両成敗にしていました。 お互いが仲直りして終わったことは水に流すようにと言っていたと思います。 良いとこばかり目立つM先生ですが、唯一の欠点があるとすれば着ていた服装が非常にダサかったです。 Gジャン風の上着に下はジャージでカッコ悪い眼鏡を着けていて、他の先生と比べてもファッションセンスがかなり悪かったことを想い出します。 そんなM先生は転校してきたばかりの自分のことを、非常に気にかけてくれていたようです。 その理由は毎学期に渡される通信簿の「担任からの一言」の記載文でわかります。 押し入れから引っ張り出してきて久々に見てみた当時の通信簿の中にこんな一文がありました。 M先生から「担任からの一言」 「5年生の途中から転校してきて不安だったなか、勉強やスポーツに音楽会など頑張って良い成績を上げていましたね。 友達もできるか心配していましたが、無事に〇〇君や〇〇君と仲良く遊んでいる姿を見て先生は安心しました。 少し落ち着かないことや、自分の考えなどをハッキリ表せないことも見受けられますが、頑張っている君を見ていると、いつかそれらも克服できると先生は信じています。頑張って!」 当時はこんなことが書かれているとは思ってもみませんでしたが、今改めて見返すとM先生は自分のことを分析して、良い部分も悪い部分も気にかけてくれていたのだと知ることができました。 もうひとつM先生のエピソードで思い出したことがあります。 M先生は「差別」という言葉やそういった行為が大嫌いだったと記憶しています。 クラスの中で少し脳の発育が遅れている生徒(仮でI君と呼ばせていただきます)が1人いたのですが、小学生の頃はそういった生徒を馬鹿にする生徒が、残念ながら数人はいるものです。 具体的に言うとテストの点数が悪かったI君のテスト用紙を取り上げて、みんなに見せるようにしながら「Iはテストの点数が〇点しか取れてないぞ!ハハハ」みたいな、晒し者にする・いじめ行動をする(本来、悪い子ではないけど悪ノリでやってしまったのでしょう)こともありました。 M先生はそういうことが大嫌いなのでそれを知ると、普段では見られないような鬼のような顔で、晒し行動をした生徒をめちゃくちゃに怒っていたと思います。 普段は明るくて楽しい人が怒ると、ギャップもありとんでもなく怖いことが多いので、怒っているM先生を見た自分も相当に怖がっていたような気がします。 それと今はあるか分かりませんが、当時の授業で「部落差別」を題材にした授業がありました。 M先生が特に熱心に教えてくれたと思うのですが、部落など勝手に人が作り出したものでそんな境界線みたいなものはあってはならない。 みな平等で同等の権利があるといった内容をおっしゃっていた記憶があります。 小学生ながらこの内容は難しくてすべて理解できていなかったですが、差別やいじめなどがいかに悪いことだということは、小学生の自分でも学べたと思います。 この差別の授業の後に、M先生が「自由」というテーマで好きなことを書いて提出しようという企画を行いました。 「自由」というテーマは恐らく「差別」からの解放といったメッセージが込められていたと思うのですが、この企画は成績とはまったく関係なかったですし、強制ではなく「任意提出」という形でした。 なので、面倒くさいのか最初は誰も提出しなかったです。 この時のM先生は少し寂しそうでした。 私はそんなM先生を見て、このまま誰も「自由」を書かないと、M先生が寂しい思いをしてしまうと思い、家に帰って一生懸命に自分なりの「自由」を用紙に書いて2日後にM先生に提出しました。 内容はびっくりの「桃太郎の話を改変したお笑い漫画」でした。 絵が好きで得意だった私は、当時、何を思ったのか分かりませんが、生まれて初めて漫画を描いて提出したのです。 お笑い漫画でしたが物語の最後の方に、無理やり差別反対的な内容のコマを書いて締めにした記憶があります。 そんな無茶苦茶な内容の自分なりの「自由」でしたが、M先生はものすごく喜んでくれて、褒めてくれました。 そしてそのまま漫画として「自由」という題名で用紙を印刷してクラス全員に配ったのです。 これが意外にも面白かったと大好評でした(笑) 家に持ち帰った生徒から、生徒の親にも見せたらめちゃくちゃ面白かったと言ってたと感想をもらった時は飛び上がるほど嬉しかったです。 それから調子に乗った私は何回か漫画を描いて「自由」として提出したと思います。 私の「自由」を見て、真似て漫画を描いて提出する子もいましたし、日記みたいな文を書いて提出する子もいたと思います。 たくさんの「自由」が書かれて提出されるにしたがって、M先生は印刷が大変だったと思いますが、とても喜んでくれたと胸を張っていえます。

サービス職業従事者
投稿日時:
2023年03月26日
投稿時の年齢:44
高知
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:3250

初めての交通事故

人生で印象に残った出来事の一つといえば「人生初の交通事故」です。 それは私が20歳のころ。 高校を卒業した私は、特にやりたいこともなかったので、アルバイトをしていました。 そのアルバイトはピザの宅配のお仕事です。 ちょうど原付の免許を取ったことと、地図を見るのが得意だった私には、ピザの宅配という仕事はピッタリだったと思います。 それに仕事仲間の人たちも、同年代が多く話も合いましたし良い人ばかりで楽しかったです。 この頃に一人暮らしを始めたこともあって、日々の生活のためにもお金を貯めるためにも、一日中、頑張って働いていました。 この働いていた当時のピザ屋の店長がすごく良い方で、ものすごく可愛がってもらった記憶があります。そんなピザの宅配の仕事を頑張って続けて、そろそろ仕事に慣れてきた3カ月後のこと。 どんな仕事でもそうですが、仕事を新しく始めたばかりの時期は、仕事をこなそうと一生懸命で集中しているので、割と失敗という失敗って意外に少ないと思うのです。 やはり仕事に慣れてきて、頭で考えなくても自然に体が動くようになる3カ月目の時期が一番危ないといいますし、実際にそうでした。 ある日の昼間、いつものようにピザの宅配を一件終えて、店に帰る道中の事です。 その日は良く晴れていて気温も良く、気が抜けるにはもってこいの日でした。 住宅街の中で信号のない見通しの悪い交差点。 路面標識の「止まれ」がありましたがそれを無視。 恐らく速度は30kmは出てたと思います。 私は交差点を横切ろうとする普通車に、横から突っ込んでしまいました。 これが私の人生で初めての交通事故でした。 事故の状況としては、私がまっすぐ直進しようと止まれ標識を無視して交差点に進入。 そこに優先道路側の車もまっすぐ直進して交差点に進入。 相手方の車の方が先に交差点に進入して、私の方が後から交差点に進入する格好となり、相手方の車の後ろドアの側面にブレーキをかけながら突っ込んだという状況でした。 お互い見通しが悪い交差点で、お互いがまったく相手に気づけなかったと思います。 この事故は止まれを無視した私の不注意で起こった事故で、個人的な感想をいえば私の過失100%をつけてもよい事故でした。 ただ幸いなことに自分も相手の方にも、ケガなどは無かったのです。 ピザのバイクも少しフロントカウルが傷つきましたが自力走行が可能でした。 ただ相手の方の車は、左後ろのドアが事故の衝撃で大きくへこんでいました。 私はお互いに怪我がないことを確認したら、すぐにピザ店も電話をかけて報告しました。 この時、私は生まれて初めて起こした交通事故で激しく動揺していたと思います。 しばらく待っていると店長が駆けつけてきました。 私は事故を起こしたことを店長にひどく怒られるものだと思っていました。 でも駆け付けた店長は「岡本!大丈夫か!?しかしやっちまったな!」っと笑顔で私に声をかけたのです。 この時の店長の対応で、私の心はどれほど救われたか・・いまだに言葉に良い表せないほどです。 まず笑顔で声をかけてくれたこと。 そしてやっちまったな!と冗談をいってくれたこと。 私の起こした事故で、恐らく監督立場として責任が発生したであろう店長。 これが普通の世の中の店長ならかなり怒っても無理はないのです。 なのに私のことを心配して、笑顔で声をかけてくれたのです。 20代前半と自分より少しだけ年上だった若い店長でしたが、心の余裕と安心感と懐の大きさを感じました。 そして店長と二人で改めて相手の方に謝ったのですが、この時の相手の方もご高齢の男性の方でしたが、非常に大人で優しい方で「かまんかまん」と言ってくださいました。 逆に「若いうちはそんなものよ。これから気を付けて」と励まされたのです。 この店長とご高齢の男性、二人の対応に当時、自立もできてない若造の私の心は本当に本当に救われたのです。

サービス職業従事者
投稿日時:
2023年03月17日
投稿時の年齢:44
高知
ドラマの時期:
1999年
9月
--日
文字数:1993

母親の愛とプライド

私は子供の頃から母に愛され、そして甘やかされて育てられてきました。 私が小学校の頃、父親がある事情から多額の借金を背負ってしまい、県外に出稼ぎに行くことになりました。 なので私の幼少期は、家族全員がひどく貧乏な生活を送っていました。 1円玉や5円玉を集めて近所のスーパーに50円の袋ラーメンを買いに行き、晩御飯にしたこともありました。 料金が払えなくて電気やガスが止まったことも何度もあります。 それくらい困窮した生活を送らざるをえませんでした。 そんな生活でしたが、私の母はできる限りの範囲の中で、私を甘やかせてくれたと思います。 小・中・高校とすべての修学旅行に行くことができ、良い想い出を作ることができました。 誕生日に欲しいといったスーパーファミコンの本体を、買ってくれたこともありました。 中学でサッカー部に入った時、ユニフォームやスパイクなど、必要な備品を一式、揃えてくれたりもしました。 普段の生活が厳しかったのに、私への貯えというか、そういうお金は一生懸命に働いて、用意してくれていたのだと思います。 そんな母親だったので、食事や家事やゴミ出しなどすべて母が一人で行い、私は19歳で一人暮らしを始めるまで、一切の家事をした経験がありませんでした。 それに私は何か失敗して母親に怒られたという経験が一切ありませんでした。 今思えば、もしかしたら母は家事や食事などはすべて女がやるもの、という昔ながらの考え方を実践していただけなのかもしれません。 そんな甘やかされて愛されて育った私は、19歳に家を出ていくことになります。 そのきっかけは「母親のプライド」です。 高校生になった私は、バイトを始めました。 その理由は生活が苦しい家にお金を入れる、とかそういう考えではなく、単純に自分のお小遣いが欲しかったからでした。 この時の私は甘やかされて育ったせいか、自分でものを考える能力に乏しく自立するということからは相当にかけ離れた甘ったれでした。 なので家が金銭的に苦しいのは分かっていましたが、家の生活費は母親がなんとかしてくれるだろう!とまだまだ母親に甘える気、満々だったと思います。 親が子を甘やかせて育ててしまうと、子供は自立できない甘い子に育ちます。 このことは私が大人になってから、幼少時代を振り返った時に気づいたことです。 当時は甘えることが当たり前というか「普通のこと」と思い込んでいるので、家事や掃除、ゴミ出しなど、何でも母親がやってくれていることに、なんの疑問も持たなかったですね。 そんな甘々の私が初めてのバイトを悪戦苦闘しながら続けることができ、人生初の給料をもらった時は本当に嬉しかったです。 初めて自分だけの力で何かを成し遂げた感覚といいましょうか? それぐらい高校時代にバイトでお金を得るというのは、大きいことだったと思います。 その初給料の大半は、自分のお小遣いに充てるつもりで財布に入れて、残りのほんの一部を母親に家賃として渡した記憶があります。 そんな人生初の給料で何を買おうかと、楽しみに考えていた私でしたが、しばらくして悲しいことが起こります。 ある日、自分の財布を見たところ、あきらかにお金が減っていました。 自分で何かに使ったかな?と考えてみても一向に思い当たる節がないのです。 そこでちょうど近くにいた母親に、何気なく財布に入ってたはずのお金のこと知らない?と聞いてみたところ。 「ああっ、ちょっと〇万円借りたけど、必ず返すから」 という答えが返ってきたのをハッキリ覚えています。 「えっ?一言、言ってくれたらもっと家にお金を入れたのに、なんで勝手に黙って人の財布からお金を取ったの?」 母が黙って財布からお金を取ったことが信じられなかったので聞いてみると、 「えっ?だって言いにくかったし、あとで返せば良いと思って」 この言葉を聞いて私はとてもとても悲しくなった記憶があります。 家が苦しいのは知ってるので、直に言ってくれればお金をもっと入れることもできたのです。 しかし母親からはどんな時も、催促の相談は一切ありませんでした。 家の生活も苦しかったので、私がバイトを始めることを知って、家にたくさんお金を入れてくれることを期待したのかもしれません。 でも実際に私が渡した金額が、母の想定よりもはるかに少なかったのでしょう。 裏を返せば母の期待を裏切ってしまったとも言えるかもしれません。 そこで母がとった行動が、私に内緒で財布から黙ってお金を借りる=取るという行為だったのは、例えどんな理由であれ、許されることではないと今も思っています。

サービス職業従事者
投稿日時:
2023年03月07日
投稿時の年齢:44
高知
ドラマの時期:
1996年
12月
--日
文字数:3551

普通に生活するということ

3月になると、ふと思い出す。 「今年は桜を見ることができそうだな・・・」 わりと最近の話ではあるが、私には自宅で過ごせなかった春がある。 それは、次男を妊娠中のこと。いつものように妊婦健診へ行くと、先生から思わぬことを言われた。 「今から歩かないでください!すぐに入院してもらいます。」 このとき私は妊娠8カ月。何が起こったのか分からず、同席していた夫と無言のまま目を合わせた。 先生の話によると、予定日まで2カ月以上あるにも関わらず15分おきに軽い陣痛が来ているとのこと。 確かに少しお腹が張っている気はしたが、先生の言葉はまさに青天の霹靂であった。 そしてこの日から地獄の入院生活が始まった。 歩かないでとまで言われた私は、もちろん荷物を取りに自宅へ帰ることは許されない。 頭の中は大混乱である。 「布団干しっぱなしだ・・・」 「冷蔵庫の中に作りかけのおかずが・・・」 「というか、これから長男の面倒は誰が見るんだ!?」 今となっては笑いのネタになるが、当時は本当に焦った。 病室で1人になると、長男のことが気がかりで仕方なかった。コロナ禍のこのご時世、家族ですら面会はできない。今まで母親にべったりだった3歳児が突然離ればなれになったらどうなってしまうのだろう。考えるだけで涙が出てきた。 結局長男は夫の実家でしばらく暮らすことになったが、ご飯もおやつも食べず、機嫌の悪い日が続いていると聞かされた。 そして、私は私で24時間点滴を繋がれ、歩行禁止の入院生活はとても辛いものだった。唯一の希望はお腹の赤ちゃんの成長だけだ。 それから1カ月半、幸いにして薬がよく効き、臨月を迎えたあたりで退院許可が下りた。外へ出ると、寒かった冬は終わり、暖かな春になっている。 この日、幼稚園から帰宅した長男は、1カ月半ぶりに私を見ると号泣しながら抱きついてきた。ぎゅっとつかむ手から伝わる「もうどこにも行かないで」という強い思いは、この先も一生忘れることはないだろう。

主婦
投稿日時:
2023年03月03日
投稿時の年齢:31
千葉
ドラマの時期:
2022年
3月
--日
文字数:1048

人生観を180度変えたカンボジア生活

旅好きで東南アジア各国を巡っていた私は、2016年のある日、私はカンボジアのシェムリアップ(Siem Reap)という街に降り立ちました。さまざまな経験を積む中で、月日があっという間に過ぎ去り、結果的に半年ほど生活することになりました。シェムリアップは世界的な観光名所の一つとして知られるアンコールワットがある場所です。 中心地のオールド・マーケットは、世界各国から訪れた旅人や旅行客で賑わいを見せる活気ある街でした。買い物好きの私は、初めて訪れたこの国でショッピングを楽しみました。これからの生活のために高級家電をはじめ、ブランドものの洋服も購入しました。 この中心地から3キロほど離れた住宅地に私の住むアパートはあります。最初に訪れた際の印象は、「たった3キロの距離でこんなにも街の様相が変わってしまうのか」というものでした。その理由は、道路も舗装されておらず、放し飼いの牛が道を闊歩していたからです。

分類不能の職業
投稿日時:
2023年02月28日
投稿時の年齢:51
長崎
ドラマの時期:
2016年
--月
--日
文字数:654

義父との最初で最後の共同生活

私は今でも大事にしている想い出があります。大事な大事な想い出です。 この話は3年前の2020年のことです。私は結婚を機に住宅ローンで購入した1軒家で、妻と2人で暮らしていました。子供はいませんでしたが、夫婦で何の不自由もない幸せな日々を過ごしていました。 妻には高齢の父親がいて、少し離れた妻の実家で1人暮らしをしていました。 私にとっては義理の父です。定年をむかえていた義父は、少ない年金で大好きな日本酒を飲みながら、つつましい暮らしをしているようでした。 義父の健康状態といえば、日本酒の影響で少し膵臓を悪くしていたようです。ですが言葉もハッキリしゃべっていましたし、食事や家事なども当時は1人でこなしていたようでした。 そんな義父とは年末に1度だけ、年越しを一緒に迎えるために、妻の実家に会いに行くのが結婚後の夫婦の通例でした。 つまり頻繁に会うような間柄ではなかったということです。 私と義父の仲は悪くはなかったです。でも仲が良いという訳でもなく、俗にいう当たり障りのない関係であったと思います。 そんな当たり障りのない関係だった義父と私が、まさか共同生活を送ることになるとは。 そしてこの共同生活が、私の記憶に深く残る大事な想い出になるとは。当時の私は想像もしていなかったのです。 2019年の年末、義父との通例の年越しを終え2020年を迎えた私たち夫婦は、普段通りの何気ない生活を送っていました。 しかし梅雨の時期に入ろうかという5月を迎えたある日のこと、妻が突然、私に相談があるといってきました。相談内容は義父のことで、2020年に入ってから義父の体調が急に悪くなったと義父の方から連絡がきたそうです。歩くのが億劫になり膵臓の調子が良くないとのことでした。 思えば80歳に差し掛かった義父が、病院に通院するようなこともなく、1人で食事や家事をこなしていたのは、なかなかすごいことです。逆に言えば今までが元気過ぎたのかもしれません。 これまで手がかからな過ぎて、気にも留めていなかったのですが、体の具合が悪くなってもなんら不思議ではない年齢であることを、この時まで忘れていました。 そんな義父が、自分から体調の不良を訴えてきているのです。この時の私の直観としては「只ならぬことなのでは?」っという思いが沸いてきました。 なので妻と話し合いどうしようか?と考えた結果、義父さえ良ければ、こちらの夫婦の家で一緒に暮らしませんか?と伝えることにしました。 そのことを伝えると、義父もこちらで一緒に暮らしたいとのこと。 義父の体調が心配なので、準備は急いで進めることにしました。引っ越しは翌月である6月初めには完了して、義父との共同生活が突然スタートすることになったのです。 義父と共同生活をするに当たって、実は不安なこともありました。 妻と義父はもちろん親子関係なので、一緒に暮らしても何の問題もないだろうと思いました。 しかし私といえば、義父とは今まで1年に1度だけ会うくらいの「当たり障りのない関係」だったのです。 しかも義父とは言え、いわば「赤の他人」です。言い過ぎかもしれませんが、私の感覚からしたらそうなんです。しかも私は生まれてこのかた「赤の他人」と共同生活をしたことが1度もなかったのです。 19歳で実家を出ていき、そこから妻と結婚するまでずっと自由気ままな1人暮らしをしていましたので。他人とひとつ屋根の下で暮らすというのは、経験がないので楽しみよりも不安しかなかったです。 義父と一緒に暮らして「ちゃんとしたコミュニケーション」をとることが果たしてできるのか?仕事上の「ビジネスコミュニケーション」なら自信があったのですが。 生活上の必要なコミュニケーションとビジネスコミュニケーションでは訳が違うと思いました。 そんな不安を抱えながら始まった義父との共同生活でしたが、最初はやはりぎこちなかったです。 義父は元タクシー運転手で社交的で協調性もある人でしたが、積極的なタイプではなかったようです。 人に話しかけられたら話し返すけど、自分から話題を振るということは、どちらかというと苦手な人のようでした。 我が家は食事をする以外にみんなで集まることもなかったので、義父は普段、リビングのソファーに座って静かにスポーツ観戦をしているようでした。私と妻は2階にあるそれぞれの部屋で、趣味である動画鑑賞やドラマを見るのが日課でした。 共同生活が始まって1カ月はこんな感じで、お互い特に干渉することもなかったです。義父のいるリビングを通るときも、挨拶くらい交わして通り過ぎるといった日々を過ごしていました。まさに当たり障りのない関係ですね。 義父はとにかくおとなしかったです。今思えば義父はこちらに居候みたいに引っ越ししてきたので、遠慮もあったのかもしれません。 そんな当たり障りのない関係が、良い意味で変わる「キッカケ」が訪れたのは、季節も真夏に入ろうかという7月の初めのことでした。 ある日、いつものようにリビングを横切ろうとすると、義父がいつものようにテレビを見ていました。よく見るとテレビには、ちょんまげ姿の大男が大声を上げて組み合っている映像が流れているではないですか。それは大相撲の実況中継でした。季節も7月に入りちょうど大相撲夏場所が開幕したようでした。 私は当時、大相撲は見ていませんでしたが、何年か前には大相撲を見ていた時期があったので、数名の力士の名前くらいは知っていました。その数名の力士の名前を何気に義父に聞いてみたら、近況やら現在の番付など詳しく教えてくれました。 その義父の話す様子が本当に楽しそうで、身振り手振りを交えいろいろなことを解説してくれたのです。その表情はもちろん笑顔だったのを今でも良く覚えています。 義父は本当に大相撲が大好きだったのだと思います。 その笑顔を見ていると、興味がそんなになくても、他の知らない力士の話もついつい聞きたくなるのが不思議でした。そしてまた身振り手振りを交えた笑顔で教えてくれるのです。 その話を聞いているうちに、私自身も嬉しくなってしまい、急に大相撲に興味が沸いてくるほどでした。 この時から大人しくて寡黙な義父のイメージが変わった気がします。 義父はプロ野球も大好きだったようです。特に広島カープの大ファンでニュースを欠かさず見ていたようでした。でも民放の番組ではあまりプロ野球の放送はされていませんでした。 なので妻と話し合い、義父のために広島カープの実況が視聴できる有料放送を契約しました。 すると7月のシーズン真っ盛りということもあり、義父は大変、喜んでくれたのでした。 私は義父のように、広島カープのファンでもなかったですし、なんならプロ野球よりサッカーの方が好きな人間でした。 でもそんなプロ野球に興味が薄い私にも、義父は広島カープのことや選手の特徴などを身振り手振りを添えて一生懸命、笑顔で楽しそうに教えてくれました。 その笑顔を見ていると、この人は本当に広島カープが好きなんだなっと理解できました。 楽しそうな義父を見ていると、なんだかこっちも嬉しくなったのが自分では印象的でした。 この頃から時間が合えば、大相撲や広島カープの試合を、義父と一緒に観戦するようになりました。 他にも大好きな犬の話や仕事関係の話もするようになりました。 よくよく義父と話してみると、意外に共通の考え方や共感できる話題が多いことが分かりました。それからは食事中でも、その日のニュースなど、いろんな話題について義父としゃべるようになりました。 大相撲実況から始まり広島カープの話題という些細な「キッカケ」でしたが、このおかげで義父との距離も一気に縮まったように思います。私と義父にとって大きな出来事になりました。 今までの当たり障りのない関係から、共通の話題で楽しく話せる同居人になれた気がするのです。 そういう普通の会話ができることが、いつからか楽しく感じれるようになってから、義父との同居生活はこれから2、3年後も続いていくものと勝手に思っていました。 大相撲の各場所の展望や1、2シーズン後のプロ野球順位の予想をしたり、仕事の悩みを相談したりすることを想像して楽しみにしている自分がいました。 そんな私の本当の父親といえば、高校生の頃に病気で早めに亡くなっていました。それに父親は単身赴任で県外で働いていたので、子供の頃から滅多に会うことができませんでした。 だから父親と息子としての交流があまりなかったのを記憶しています。 そのせいか共同生活の後半は、義父がまるで実の父親のように感じられていました。 父親が生きていればこういう会話をしたんだろうか?酒を交わして朝まで仕事の愚痴などいいながら飲み明かしたのか? そういう想像ができるくらいに、義父との会話は楽しくなっていたのです。 でも、そんな父親の面影を重ねた義父との楽しかった共同生活は突然に。そしてあっさりと終わりを迎えます。 それは夏の甲子園を義父と観戦して盛り上がりながら暑さを乗り越え、これから秋を迎えようかという10月。共同生活も4か月目に入った頃のことでした。 10月18日。それまで食欲もあり会話も普通にできていた義父でしたが、その日は朝から体が少ししんどいとのこと。なので1階の和室に備え付けていたベッドに横になってもらい様子をみることにしました。食欲もなく、その日は食事をほんの少しだけとって早々に眠りについたようでした。 日付の変わった10月19日。その日の私は仕事が早朝出勤の日だったので、4時45分セットの目覚ましで目を覚ましました。眠い目をこすりながら2階の寝室から1階の台所まで降りてきたのですが、どこからか小さな声で、私の名前を呼ぶ声が聞こえました。 喉から絞り出すような感じのうめき声のようでもありました。和室の方から聞こえる気がしました。その声は義父の声で、私に助けを求める声だったのです。 急いで義父のいる和室に入ってみると、義父がベッドの下でうつ伏せで倒れていました。 驚いた私はすぐに義父を抱えあげて、ベッドに腰掛ける姿勢にしてあげました。 義父は胸の辺りを押さえてかなり苦しそうでした。 何があったか聞いてみると、夜中にトイレに行くためにベッドから起き上がったところ、態勢を崩してベッドの下に転んだそうです。 その時に胸から落ちてしまい、息がしばらくできなかったとのこと。前日に体調を崩していたこともあり、そこから自力で起き上がることが難しかったそうです。助けを呼ぼうにも胸を打ったので呼吸が整わず声が出なかったようでした。 なので数時間の間、うつ伏せの状態で誰かが通るのを待つことしかできなかったらしいです。 この時、いきさつを話しながら義父は涙を流していました。それは助かったという嬉し涙ではなく、自力でなんとかすることができなかった自分の無力さに対する不甲斐なさ。つまり悔し涙からきている感じがしました。ずっとすまん、すまん、と言ってましたから。 しばらく話して義父を落ち着かせると、妻を起こして事情を説明しました。 その日は妻が仕事を休み、義父の様子を見ることになりました。 私も昼までには仕事を終え帰宅できる日だったので、昼過ぎの義父の状態次第では病院に連れていき詳しく検査してもらったほうが良いと思いました。 この時、義父をすぐに病院に連れて行かなかったのは、義父が大丈夫だからと病院に行くことを強く拒んだからです。この時は義父の意思を尊重しました。 そして仕事を終えて、昼前には帰宅したのですが、義父の状態は予想よりも思わしくありませんでした。それは仕事中の妻からの連絡メールで分かっていました。 義父は和室のベッドに横になってうんうん唸って苦しそうにしていました。 そんな状態でも私が帰ってきたことに気づくと、ベッドから上半身を起こし「おかえり」と言ってくれました。その声はとても弱弱しかったですが、顔は精一杯の笑顔でした。 この「おかえり」という言葉が私が義父からかけてもらった最後の言葉になりました。 私はとりあえず義父に水を飲んでもらおうと思い、台所に水を取りに行きました。 そして再び和室に入ると状況が一変。上半身を起こしていた義父が仰向けに倒れていました。 視点が合わず意識が朦朧としているようでした。話すこともできない状態です。 本当に急な変化に私と妻はビックリして気が動転しました。 すぐに救急に電話してまもなく救急車が到着。義父は救急搬送されていきました。 2020年といえば、世はコロナ化の真っただ中で病院も非常に気を遣っている時期でした。なので救急病院の受け入れがなかなか決まりませんでした。 やっと受け入れてもらえる病院が決まったのですが、まずコロナの検査をしないといけないということでした。コロナの検査時間も含めてすべての検査をするのに、非常に時間がかかった記憶があります。 そして義父の検査結果ですが、コロナは陰性でした。容体の方は38度の熱と脱水症状、急性膵炎によるショック状態の可能性があるということでした。その日は手術などせずに入院の手続きを進められました。 なので入院に必要な準備をするため、義父の保険証や着替えなどを取りに、いったん家に帰ることにしました。入院のための準備を終えてもう一度、義父の入院する病院に向かう頃には、辺りが暗くなっていました。確か夕方19:30頃だったと記憶しています。 病院に着くと検査を終えた義父に会うことができました。 車いすに座っていて意識もありましたが、見るからにしんどそうなのが伺えます。 でも救急車を呼んだ時の状態からは、幾分は持ち直したようにも見え安堵しました。 担当の看護婦さんが言うには、食事は本当に少ししか食べることができなかったそうです。 話しかけると声を出すのが辛いのか、もしくは出せなかったのかわかりませんが、うなずく仕草と首を横に振る仕草でこちらの質問に反応していました。 その義父の様子があまりに辛そうだったことと、翌日から詳しい検査もあると思い、早めに切り上げることにしました。 そして変える間際に「義父さん、また明日も見舞いに来るからね」と声をかけました。 すると義父はその言葉がよほど嬉しかったのか、確かにはっきりとした表情でニッコリと笑顔を見せて頷いてくれました。 それが私が見た義父の最後の姿でした。 翌10月20日、朝早くから病院から連絡が入り、義父はあっさりと、そして穏やかに息を引き取ったそうです。享年79歳。

サービス職業従事者
投稿日時:
2023年02月28日
投稿時の年齢:44
高知
ドラマの時期:
2020年
10月
20日
文字数:6532

ありがとう、お姉ちゃん

私の長男はすごくおしゃべり好きな反面、人見知りで相手を目の前にすると「ありがとう」や「ごめんなさい」が出てこない。まだ4歳だから仕方ないと思いつつも、親としては悩みの種だ。 この間もおもちゃの取り合いが原因で、弟を叩いて泣かせてしまったことがあった。それでも謝ろうとしない長男に、私はつい怒ってしまった。 「きちんとごめんなさいが言えないと、幼稚園でもお友だちに嫌な思いをさせてしまうよ!」 あれ?このフレーズ、どこかで聞いたことがあるぞ・・・ 私は長男を怒りながら、そんなことを考えていた。その夜、私はようやく思い出した。 「ごめんなさいが言えないと幼稚園で困るよ!」 この言葉は、私が4歳のときに姉から言われたものである。 姉は私より12歳年上、いわゆる年の差姉妹だ。実家で一緒に暮らしていたのは6年ほどだが、そのうち記憶に残っているのは、私が物心ついてからのわずか2~3年しかない。 姉は昔から面倒見が良く、幼いころはたくさん可愛がってもらった。そして、いけないことはいけないと、きちんと教えてくれた。 当時の私にとって姉は少し怖かったが、どうしてやってしまったのか、どう思っているのか、私の話を遮ることなく最後まで聞いてくれたことは今でも鮮明に覚えている。 そんな姉からのサポートもあり、私はいつの間にか、誰が相手であってもきちんと謝罪や感謝の言葉を言えるようになった。

主婦
投稿日時:
2023年02月28日
投稿時の年齢:31
千葉
ドラマの時期:
1996年
--月
--日
文字数:840

熱いうちに打たれたもの

高校を卒業して建設会社に就職した。 一般事務が希望だったので総務部に配属となった。 こだわって選んだ仕事ではなかったこともあり、やたらと部署異動させられた。 建設現場、営業部など。 若いうちにいろいろな経験をさせたい、という上司の意向だった。 どんな理由があろうと、希望する部署ではないことに自分は不満を感じていた。当時の自分は若かったこともあり、 「絶対間違いありません」 「絶対間違いなくやりました」 ということをよく言っていた。 そんな自分に、父親と同じくらいの年齢の上司は言った。 「お前は絶対なのか?」 なにを言っているのか当時は、まったく意味が分からなかった。 自分がトゲのあるような発言をすると、上司に強く注意された。 注意されるたびに自分は表情に出して、不快感を示していた。 おばさんの事務員から「もう少し我慢しないと!」と言われるほどだった。 入社から3年経った頃、自分はその建設会社を辞めることになった。 退職の意思を伝えたとき、驚きよりもショックのほうが大きい上司の表情は、いまだに忘れられない。

事務従事者
投稿日時:
2023年02月27日
投稿時の年齢:40
大阪
ドラマの時期:
2001年
--月
--日
文字数:769

スポーツは意外と楽しい

私は趣味の一環で市民マラソンに出場するほどスポーツ、特に走ることが大好きだ。 しかしながら、これは幼少期から続くものではない。むしろ、小学校までは運動が嫌いだった。幼稚園時代は毎日のように転んで膝を擦りむき、小学校時代はマラソン大会で最下位を取り、悔しくて泣いたことを今でもよく覚えている。 そんな私の転機ともいえるのが、中学校の部活動であった。入学当初は文化系の部活に入る予定だったが、小学校時代からの親友に誘われるがままバドミントン部に入ることになったのだ。私の通っていた中学では、バドミントン部は練習が厳しいことで有名、陸上部並みの走り込みがあると言われていたほどだった。実際に練習が始まると、元々体力のない私は到底みんなについていけず、居残りでメニューをこなす日々。何度も入部を後悔し、何度も辞めようと思った。 それでも、親や友人に励まされ、続けること1年。中学2年になったある日、突然いつもの走り込み練習が楽に感じるようになったのだ。それだけではない。バドミントンの勝率もぐんぐん上がり、さまざまな大会に出場できるようになった。 まるで霧が晴れたかのように、持久力・バドミントン技術ともに体の芯から習得したこの感覚は、とても不思議で気分が良かったことを思い出す。 それからというもの、私は走ることもバドミントンの試合をすることも楽しくて仕方がなかった。真面目に練習していれば、結果は何らかの形で付いてくる。この言葉を胸に、中学3年の総体で私のバドミントン競技は集大成を迎えた。

主婦
投稿日時:
2023年02月26日
投稿時の年齢:31
千葉
ドラマの時期:
2004年
4月
--日
文字数:926

好きなこととの出会い

私は大変な運動音痴で、小さい頃からスポーツ全般が大の苦手でした。 小学校の体育の授業で長距離走をすれば、他の生徒達とは周回遅れの差を付けられ、皆がゴールした後もしばらく一人で走り続けることになります。 これは当時の私にはとても屈辱的なことでした。 また、その頃は巨人軍の王選手がホームランの世界記録を更新したりしていた時期で(1977年9月に達成)、小学生の間では野球が大人気であり、友達との遊びも決まって野球でした。 しかし、運動音痴の私は飛んでくるボールが怖く、外野フライをほぼ全てヒットにしてしまうので、その度に仲間から○○のせいで試合に負けたなどと責められることになります。 そんな状況の中で、いつしかこの運動神経の低さがそのまま自分の価値の低さのような感覚に陥ってしまい、毎日がとても憂鬱でいつも下ばかり向いていました。 そんな小学校生活を送っていた私ですが、忘れもしない小学校三年生の時、始めて自分が本当に好きだと思うことに出会うことになります。 きっかけは、Gという若い男の先生が私のクラスの音楽の授業の担当になったことです。 この先生はとても優しくて、他の男の先生達のように威張っていませんでした。 また、授業に直接関係ないのにわざわざにトランペットを持ってきて吹いてくれるような先生で、本当に音楽が好きな感じが伝わってきて、優しさも相まって生徒達から慕われていました。 そんなある日、G先生の何回目かの音楽の授業で、リコーダーの「タンギング」の練習をすることになったのです。 「タンギング」とは、音楽用語で舌を使って音を切る(或いは発音する)ことで、リコーダーに限らず殆ど全ての管楽器で使われる非常に重要なテクニックです。 先生は「真っ直ぐの糸をイメージして、それにハサミでプツンと切れ目を入れていくように」と教えて下さって、生徒一人ずつ順番にタンギングをさせ個別にアドバイスを始めました。 この時、私はクラスメイト達の音を聴きながら「おや?」と思いました。 皆のタンギングは力が入り過ぎて音が濁っていたり、反対にちゃんと舌が使えておらず音が不明瞭だったりでどれも今一な感じに聞こえます。 「体を使うことはなんでも下手な私だけど、もしかするとこれだけは自分の方がずっと上手に出来ているのではないか」という予感がしました。 そして私の番が回ってくると、私は先生から教わった通り、真っ直ぐ伸びた自分の息に舌で切れ目を入れるように「トゥートゥートゥー」と吹いてみました。 何故かクラス中がシーンとしています。 そして、静まりかえった教室の中で先生はゆっくりと口を開き「○○(私の名前)、とーっても良い音だよ」と私のことを褒めて下さったのです。 先生は決してお世辞を言ったのではなく、私の音にしっかりと耳を傾けた上で評価してくれました。 このことが本当に嬉しくて、また、野球では私のことを責めるクラスの男子達まできょとんとして私の音に聴き入っているのが不思議な感じがして、人前で何かを表現することの気持ち良さにこの時始めて気がつきます。 これは人生の中で極めて貴重な瞬間でした。 また、同じ頃東京の小学校から転校生がやってきたのですが、これがもう一つの転機になりました。 この転校生は名前をBといいましたが、大変な変わり者で周囲の評価など全く気にしない完全にマイペースな性格。 男子なのに読書や音楽が好きで、休み時間にはグラウンドに走る他のクラスメイト達には目もくれず、一人で本を読んだりリコーダーを吹いたりしています。 特に音楽に関しては、東京では児童合唱団に入っていてレコーディングの経験まであったそうで(アーティストのレコード録音で合唱パートを歌ったことがあるそうです)、歌もリコーダーも大変な腕前でした。 私とB君は直ぐに意気投合して一緒に遊ぶようになり、音楽の教科書に載っている楽譜の中から二重奏になっているものを探しては、それを二人でリコーダーで演奏することを繰り返しました。 二重奏とは二つの楽器で一緒に演奏することであり、二人でハーモニーになるもの、メロディーと伴奏に分かれているもの、二つの違うメロディーを同時に演奏するもの等がありますが、二人の音が一つの音楽になるのはとても気持ちが良く、B君のリコーダーがとても上手いこともあり、どれだけ繰り返しても決して飽きることがありません。 この二重奏は学年が上がってクラスが別々になっても続き、中学に入ると二人で「クイーン」や「レッド・ツェッペリン」のレコードやカセットテープを聴くようになり、やがて、私がギターを弾いてB君ベースを弾く、私の最初のロックバンドへと発展することになります。

分類不能の職業
投稿日時:
2023年02月25日
投稿時の年齢:54
茨城
ドラマの時期:
1977年
--月
--日
文字数:2369
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今月のピックアップ

はじめての職場で経験した無感情と強烈なインパクト

 私は貧困家庭で育ったことから、労働の意味すら分からないまま、中学卒業と同時に岩手を出て、三重県の工場に就職した。  ちなみに私の身長はクラスで前から3番目だったため、働きはじめたときは見た目も幼い子供だった。そんな子供の自分は、当時の仕事をどのように捉えていただろうか?ふとこの機会に一度思い出してみる。  まず、はじめての職場は車の部品工場で、バンパーの塗装を行うライン(通称:「バンパーライン」)だった。  そこでの最初の作業は、バンパーをラインのハンガーに掛けていく単純作業。台車に入ったバンパー、十数個を片手で一つずつ持ち、一定の間隔で流れて来るハンガーに一つずつ掛けていく。台車のバンパーを使い切ったら、台車を両手で押して100メートルくらい先の台車置き場に置きに行く。  その後、帰りの途中にあるバンパーの入った台車をラインに持って行く。朝8時から17時まで、お昼休憩を挟んで一日8時間、それの繰り返し。  正直面白いわけではなく、単なる肉体労働。体力的にはきついが、今思えば重労働というほどの現場ではなかった。とにかく、単調な肉体労働が延々と続く時間で、子供の自分は無感情のまま、仕事に徹していた。  ただし、そんな日々の中でも新しい価値観に触れ、強烈なインパクトが残る場面もあった。  それは、残業時間での出来事だ。実は社長に、「日ごろから残業しろ」と言われていたので、残業は半強制の空気だった。今なら労働基準法で未成年の残業は認められないが、当時はバブル景気の真っ只中。労働基準法なんてあって無いようなもの。必ずといっていいほど毎日残業が2~4時間あった。実際、工場内には腐るほど仕事も残っていた。  例えば、同じバンパーラインでも、違う作業場所に仕事はたまっている。バンパー塗装終わりの回収検品場所がその一つだ。  そこにはいつも優しいおばちゃんがいて、色々話しかけてくれたのを覚えている。そのおばちゃんには頻繁に「えらいなぁ」と言われた。なんで「えらい」のか分からなかったが、それは方言で「疲れた」という意味だとあとに知り驚いたものだ。ただし、これはまだインパクトというほどの事ではない。  では、どこで強烈なインパクトを感じたか。それは、バンパーラインから200メートルくらい離れた別のライン。  当時、その製造ラインは「カチオン」と呼ばれていた。最初に「カチオン」に連れて行かれた時、カルチャーショックを受ける。なんと、普段仕事していたバンパーラインとは異なり、そこには大勢の外国人がいたのだ。 とくに多かったのはイラン人。見た目も、肌の色も、日本人とはかなり異なっており、びっくりしたのを鮮明に覚えている。  話は少し逸れるが、現時点で15歳の人からすると、「ちょっと大げさじゃないか?」と思うかもしれない。それほど、2022年の今、外国人を日常で見かけるようになった。海外からの観光客も多いし、その人種も幅広い。日本人より裕福な人も当たり前のようにいる。だが、当時と今では状況が異なる。 当時は外国人の数が今ほど多くはなかった。(ちなみに外国人のほとんどは、貧しい国から出稼ぎに来た労働者が中心だった。) 私の出身地の岩手では、外国人はさらに珍しく、実際に見たのは片手で数えるほど。中学時代、英語教師でアメリカ人が学校に来た記憶があるが、全校生徒の注目の的になるほどだった。  そんな世間知らずの子供が、いきなり目の前に大勢のイラン人を目の当たりにしたのである(イラン人以外もいたかもしれないが。。)。まるで違う世界だ。  たとえるなら、漫画やアニメでいう、違う世界に飛ばされた「異世界」のような場所に感じていたかもしれない。  ここで話を製造ラインの「カチオン」に戻す。  実はインパクトの理由はイラン人がいたからだけではない。  そこでの仕事内容がとても危険できつかったのだ。  仕事自体はいたって単純。ラインから流れてくる部品をハンガーから外し、台車に放り込むだけ。ただそれだけだ。ただし、部品は危険で、環境が過酷だった。  まず、部品は炉から次々と排出される。それは粘着質で黒色の塗装がされており、とにかく熱かった。  素手で触ると肉が溶けるくらい危険な熱さなので、直接肌に触らないよう、厚手の軍手を二重に装着し、夏場でも長袖を着用した。  また、流れてくる部品の形状も千差万別。細かい物から、十キロ以上の大型の物までランダムだ。先端が鋭利、あるいはカドのある部品の場合、ちょっとした負荷でスパッと軍手も切れた。2時間の残業で、2~3回は軍手を取り替えていたように思う。  さらに、部品が流れるスピードもとにかく速かった。走って急がないと間に合わないほどだ。  このような環境ではじめて作業した時は冬。開始当初は温かいと感じていても、炉から吹き出す熱風と流れ出る部品の熱で、周囲の気温は高まり、大汗が吹き出た。その環境下で、集中しながらの素早い作業。体力は刻一刻と奪われていった。  夏場はさらに地獄。イラン人のような中東圏出身の人たちだからこそ、灼熱で過酷な労働環境に耐えられたのではないか?と、ふと思ったりする。  そんなイラン人の現場の中に一人だけ混じる、小柄の子供は、客観的に見ても「異質」な存在だったのだろう。まわりからは気をつかわれ、なるべく重い物や、危ない物は触らないように配慮してもらった記憶は印象的だ。(単に戦力になってなかったのかもしれないが。。)  

無職
投稿時の年齢: 47
東京
投稿日時:
2022年03月28日
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:2532

自分らしさ、守りながら

ギターは結構直ぐに弾けるようになったのに作曲はまるでダメで 主旋律とそうでは無い音の区別がつかない、そもそも主旋律に合わせるメロディーがわからない。 ギターを握り始めたのが小学五年生。作曲に興味を持ったのは6年生。 で、24歳になるまで私は何百と作詞はしてきたのに 自分で曲を作ったものは一個もないままであった。 壊滅的にセンスがない自分は、多分一生このままだろうと作曲をしてくれる人を探したりもしてみたが長く続く音楽活動はなく結局1人で誰かの既存曲を歌い上げるだけの日々だった。 さてさて、AIなんてものが昨今普及してきているが 正直、私は苦手。というより、怖い。 いつ、どこで産まれたなんなのかも分からないしなんでも出来てしまうことは脅威でしかないし AIで作曲!なんてことも出来るも聞いたときは「センスのない私が頑張る機会すら無くなる……」と思った。 アンチの3文字がピッタリ。若いのに最近の若い者はコンピューターに頼るのが当たり前になっていくのだろうかなんてのを考えるAIアンチの24歳は、25歳になるまでになんと100曲を超える作曲をAIを味方につけて成すこととなる。 きっかけは子供たちが戯れてる姿を見ていた時、子供を育てている人ならば考えたことはあるだろう「この子達が大人になったらその時代はどんな時代になっているのか」なんてことを私もぼーっと考えていた時のこと。 きっと想像しているよりハイテクになって、今らくらくフォンを使ってるご老人のように、私もその時代のものについていくのがやっとな世界が待っているんだろうなぁ。 子供達は時代と一緒に成長していくんだなぁ。ということは、AI…あれも、もっといろんな企業に使われたり当たり前のものになったりしているんだろうか? Siriを初めて知った時に「こんなの搭載されてるスマホを使うのはアラブの石油王かそれに似たお金持ちだけだろう」と本気で思ったのに、案外そこからすぐに周囲も私も使える普通の機能として普及していた。 当時もスマホに話しかけるなんて…みたいな賛否の否も多かったがそんなのも聞こえなくなっていった。 だからきっと、AIも、当たり前のものになっていくんだろうな。 そんなふうに思ったら、今まで苦手意識のあったAIに対して「このまま得体の知れないものだと怖がっていていいのか?」と疑問が湧く。 苦手なもの、不気味なもの。 それはきっと私の先入観や人生観が作った気持ちであって AIが実際に何かを私にしたわけでもないのに遠ざけている。 これじゃあ、ずっと何もわからないまま最先端の技術に恐怖して ネットやテレビでちょくちょく見かける「AIが仕事を奪う」なんてことが可能になった時に 私はその時代そのものに飲み込まれて何もわからないまま時代にため息をつくだけになってしまう。 その時代に我が子も生きているのに。 私自身も、人生を生きていたいのに。 良い使い方もできず、子供達にとって当たり前のものとなるであろう媒体を 気嫌いする大人になるような気がした。 このままじゃダメだ。 そんな風に、考えた事が私の生き方を変えた。 昔から、決めたら学び尽くす主義な私は まず初めに自分が使えるものを幾つかダウンロードしてみた。 チャットGPTや音楽再生アプリのSUNO、G emini。 あらかた何日かかけて使ってみた後は「あら便利なのね」では済ませない。 大体使った後は、すぐ本屋に直行。 AIに関する本、それぞれのアプリの使い方や特化した部分の説明が記載されてる本、何冊か買い込んで読んでは試す。 そんなふうにとことん、自分なりにAIと向き合ってみた。 専門的な知識をつめこみ、便利に利用するだけではなくどんなふうに作られてどんなふうに世界で使われていて、危険性や利便性はもちろん、画像生成、楽曲生成の際にはどうやれば個性を詰め込めるのかも研究した。権利問題ももちろんきちんと学んだ。 多分思い立った時から、専門書を20〜30冊は読んだと思う。 マーカーを引いて、付箋をつけて、調べられるだけ調べた。 実際AIを使ってお小遣い稼ぎをしてみよう!なんて項目のある本を見つけたならその日中に書かれてるままを実践。 LINEスタンプを作ってみたりもした。 販売の審査をきちんと通して販売も実行。 二、三ヶ月向き合ってみて分かったことは 便利だということ。 ほぼなんでも出来るし知識の情報源として有効に使えること。 使い手次第で、AI任せにも、自分の補佐にも出来ること。 収穫は大きかった。 自分の補佐をさせる事ができることと、AIに完全に任せて何かを作ることもできること、この両方を知った日には、「やっぱり先入観だけで嫌うもんじゃないな」とため息が出た。 これは、私の味方につけたい。 私が私らしく私の力でできることにはどうしたって限りがある。 作曲がまさにそれだろう。 作詞はできるが作曲はできない。これは向き合った時間の長さが 1人じゃ何も出来ないことを証明していた。 だが、AIがあれば私にも、出来ないを出来るにすることが可能なのだ。 そこからは綱渡りの気分だった。 主に、AIは私の曲作りの補佐をさせるものとしたが 全ては委ねたくない。 どうしても、私の手入れておきたいし 本当に便利性を大切にするなら、なおさら本当に自分の補佐だけに留めておくべきだと思った。 一歩間違えれば 私の入る隙のない完璧なものが出来上がってしまうAIの力に 対抗するには、作曲の知識をもっと持つ必要がある。 作曲アプリもそうだが画像を作り出すアプリやツールも、使い手に不足しているものをAIが補助してくれる。 ということは、不足してるものが多ければ多いほど機械任せになる。 ならば、やはり人間の力で、知識をつけよう。 そこからは苦手だった作曲のあらゆる知識を詰め込んだ。 最先端のツールのことも学びつつ、どんなふうな用語があるのか、音はどんなものをどんなリズムで打つのか。 楽譜の読めないタイプの私は挫折しかけること数十回。 ちんぷんかんぷんながらに叩き込んだ。 さて、いざ、AIを「補佐」として使ってみよう。 今まで叩き込んだ知識を詰め込んで 主導権を自分が持つ、AIとの作曲の日々を始めた。 歌詞は必ず自分の言葉で書く。 主体になる音は、私が打ち込む。 楽曲生成のツールは素材として使い、歌がまだ下手な私のかわりに歌わせるものとしても使う。 オリジナリティをAIとの作業につぎ込むことは知識があれど所詮初心者。やはり難しかった。 それでも向き合い続けたのは 生きていく時代に背を向ける人になりたくない。 そう思い続けたからであった。 そんな日々を送るうちに、曲は完成した。 完全に委ねてしまった訳じゃなく、ちゃんと私の思い描いていた曲をつけることが出来た。 これは、たしかに私の曲だ。そう思えるものができたのだった。 そこからは 一日に何十曲も作って、作ったものを披露する場所も早急に探した。 この技術に賛否があることを理由に、次は「作曲したものを世の中に出すのが怖い」と思い始めてしまいそうで それじゃあ作曲を頑張った意味が無い!と、まずは誰かに私の曲を使ってもらおうと考えたのだった。 ちょうど、行きつけの雑貨屋さんが主催するマルシェイベントがあった。 そこのお店とは不思議な縁で、実は私も現在はそのお店に自分の作ったものを置かせていただいている。 だから、マルシェに出店しない?と誘っていただけた時に 「よかったら会場内のBGM、作らせてくれませんか?」と打診した。 いいの!?と驚かれたが、私の方から頭を下げてお願いしたい事だったから喜んでもらえる反応は、有難かった。 世の中に、自分の作品を出してみなければ 賛否両論の否も聞くことが出来ない。 ならば、どんな意見があったとしても 隠れるより挑む方が賢明だ。 私の意思はこんなふうに固まっていた。 慣れてしまえばこっちのもんで、どんどん曲を作って 無事当日のマルシェイベント会場には私が作った曲が13曲ループで流れた。 当日私は、自身のハンドメイド品を売る出展者側だったのだが準備中から流れる自分の曲に感動してしまった。 きちんと誰かに聞いてもらえることが嬉しかったし家にはない大きなスピーカーからこの手で作った曲が流れていることには興奮した。 会場内で曲を流した結果大成功。 KーPOP風の曲調を自分で基盤作りし、歌詞を考え、歌わせる。 一息には言えない手間をかけた甲斐があった。なぜならどう聞いてもどこかのアイドルグループの曲なのに、そこには私の魂がきちんと強く大きく出ていた。 会場内で、「この曲どこのグループ?」とザワつく十代のお客様たちの反応が、嬉しかった。 主催者側からも、だいぶ気に入って貰えた。 私が曲を作った人だと知ったお客様の中には AI使ったら自分の曲じゃないじゃないとわざわざ伝えに来る人もいたが その否定意見さえ、自分が動かなければ聞けなかったものだった。

分類不能の職業
投稿時の年齢: 25
新潟
投稿日時: 2025年11月29日
ドラマの時期:
2024年
--月
--日
文字数:4572

職人として生きる男

家庭のことはまったく我関せずな塗装職人がいる。 酒にのまれるタイプで短気、オマケに顔は真顔が鬼のよう。花屋のバイトをしたら客が来なくなって裏方に回された事実を持っている般若顔の塗装職人、私の父である。 とにかく荒いとか酷い、という言葉が似合う人だったと思う。 外面が良いから周囲に話したところで理解して貰えないのだが家の中での父はそれはそれは酷かった。 まず、母を大切にしちゃいなかった。母は現在も絵描きや歌手といった個性に溢れる肩書きを持つ人だが父が昔何かに腹を立てた時母の絵を母本人の目の前でビリビリに引き裂いてしまった。あの時は「この男の塗った家を目の前で崩し倒してやりたい」と思った。 こんなんだからもちろん、子供のことなんて全く考えていない。 そのことが一番伝わる話をするならば、私がまだ3歳に満たないかどうかの時の事件がちょうどいい。 会社仲間と飲んだくれることが好きな父はなぜか夜桜の花見の席に私を連れていき、解散となった時にはべろべろに酔っ払っており 帰り際、私の大切な三輪車に父が跨り勝手に漕いで私は深夜、父に置き去りにされた。 三輪車もない、ここがどこかも分からない、不安で仕方なかったのは今も忘れられない。そりゃそうだ、まだ3歳に満たないかどうかだ。 私にも現在、同じくらいの娘がいるが、我が子の幼さを見ていると「この幼い子供が深夜一人で歩いている」なんてことはとんだ恐怖だとよく分かる。 幸い、母が見つけに来てくれたことで事なきを得たが子供に無関心の意味がこの事例をもってどれほどのものかは伝わったと思う。 父親として、まぁ、酷かった。 そんな父を、私は理解できる日が来るわけが無いと思っていたし、正直今でも父について分からないことだらけだ。 どうして、私は彼の娘として育ったのだろうと考えた月日は短いものではなかった。 そして答えが出ないことは、父と親子でいる以上、答えを出したい大きな悩みだった。 子は親を選べない、なんて言葉があるが親もそれは同じだろう。私は自分を見る父に対して、どこか申し訳なさがあった。父が、一人の人間として父親という責任の重さを煩わしく思っていることが共にすごして歳を追うごとに伝わってきていたからである。 でもそれなら母のことだけでも大切にして欲しかった。 荒ぶり怒る時は手をあげることもあった父。 正直に一言で言おう、大嫌いだった。 怖くて嫌味で、軽々しくて、母すら大切にしない父親が、大っ嫌いだった。 さて、以上は私が父を娘としてみた時の過去である。 娘が父親を娘視点以外で見た時、私は私が父の娘として育ったその理由にやっと行き着くことが出来た。 時は20歳前後。 私もひとりの大人になり、親になった。 まだ乳飲み子1人抱えただけの新米母ではあるが人の子の親になり、子を育てることの大変さに毎日驚いてばかりで自身の母親に脱帽してばかり。 親になってから、より一層私は父のことを理解できなくなっていたが、親になったからこそ子供を育てない親には時間があることに気がついた。しかし思い返すと父は仕事仲間との飲み会は毎日夕食どきから深夜であり土日は飲みに出かけた訳でもないのにいないことが多かった。なら、何をしていたのか。私が生まれてから20年間ほぼ休みなく親をせずに何をしていたのか。 仕事である。 父は、仕事を、ずっと ずっとしてきた人だったのだ。 塗装職人の仕事は、簡単じゃない。 職人の世界は全てそうであるように、塗装の世界も下っ端からスタートする。 母から聞いた話だが、今では依頼が溢れる職人の父も初めはハケすら持つことを許されず数十階のビルの階段を両手に20~30きろのペンキ缶持ち状態で何往復もして上にいる先輩職人に届けるところからスタートしたという。 さらに家をひとつ、ぽんと想像したとにペンキのはけをなんとなく想像してみてみれば分かるようにハケは家ひとつに対して小さい。 だがそれを真夏の炎天下の中つかって仕事をするわけだが屋根の上は地上よりももちろん暑い。 聞くだけで熱中症になりそうな話である。 そして、塗装だけが父の仕事ではなかった。 いつだったか、街でいちばん大きな橋を作るとなった時父は責任者を務めていた。 責任者を務めていた頃を思い出すと父が見たことの無いげっそりとした顔をしてなにかに落ち込んでいた姿がある。 この時の橋は今ももちろん現存していて街ではよく耳にする橋。 建築関係に関して、父はおそらくすごい人なんだろうとは幼い頃から思っていたが実際本当にすごい人だったことを大人になってからきちんと知った。 そうなるまで、なんども命の危機には晒されている。 熱中症で倒れたなんてよく聞く話になっていて、8階のビルから転落したなんてこともあった。 それでも仕事をやり続ける父は生まれながらの職人、それ以外の何者でもない。 やりがいを見出して、やり遂げるまでやり続ける、これが簡単じゃないことくらい 私にもわかる。 どんなに忙しくても親が親であることを放棄することは許されない。 だが、一個人の人生が命を賭けられるものも限られている。それが、父にとっては仕事だったのだ。 父は、否、彼は職人として生きるために人生があるのだ。 不器用な父は、父親としての立場と、自分の人生で賭けるべきものを両立することが出来なかったんだろう。 私の育った家庭に居たのは、父親ではなくひとりの職人だったのだ。 そう、なんとなくふと気がついた時に、私の中で憎しみは無くなった。 父と私が親子である理由もこの時、やっと分かったからである。 私は、人を憎みそうになった時、別の角度から相手を見ることを知れたのだ。 そりゃ家庭的ではなかった だが、その分ありえないくらい凄い腕を持って仕事をこなし目眩のしそうな日々を送り続けた父を、大人になって人の苦労を少しは想像できるようになった頃人としてすごいと素直に思った。 私なら、もし自分が男でも父の生きている道は生きられない。 現在父は50を超えた。だが普通の50歳よりも体にガタがきてる。屋根から落ちたりなんなり、色々あったし年中ほぼ無休で25年以上働いているのだから無理もない。 それでも、今日も出勤しているのだろう。 住まいが離れてからは、たまに顔を合わせる度、私の子供二人をとにかく可愛がってくれている。その可愛がる心の裏には昔私たち姉弟を蔑ろにしたことへの申し訳なさが滲み出ている。父の中でも、どこかで、親と職人のどちらか片方しか取れないことへの葛藤や悩みがあったのかもしれない。 不器用なのは、本人のせいではない。そこを責めるのは、虐めに思う。

分類不能の職業
投稿時の年齢: 25
新潟
投稿日時: 2025年11月20日
ドラマの時期:
2020年
--月
--日
文字数:3157

いまを生きる

人と理解し合うことは容易ではない。 向き合って、何か話し合い、寄り添い合うことが簡単だったならもっと平和で穏やかな世界があったはずだ。 私の初婚は、中国の方との国際結婚だった。 まだ20そこそこだったが子供も2人授かり、生まれ故郷の違うもの同士でもわかり合い生きていた、つもりだった。 第二子妊娠中、元夫は日本の歴史に腹を立てて半狂乱になった。私が神社めぐりが好きであることがわかったことがきっかけだったと思う。日本人は自分たちの国に酷い行いをしたと言うのに善人ぶって慎ましやかに参拝していると避難し始めたのである。 そんなことをしてる暇があるならば過去の日本人の罪を償う態度を見せるべきだと言い出した。 戦後数十年後の日本に日本人として生まれた私にとっては寝耳に水であり、まるで国を代表しているかのような口ぶりで荒れる彼の姿に、分かり合える可能性を見出せなかった。 そんなこんなで、22歳の誕生日を目前に控えた10月、私は長男と、お腹の中の娘の2人を育てるシングルマザーとなったのだった。 ここでご理解いただきたいのは 私は愛国心で日本を贔屓することや他国を非難することはしないが 事実は事実として受け止め、今を生きるものとしてどの国の戦死者にもその遺族にも顔向けできるような平和がこの世に訪れるよう祈り、生きるただの日本人であることだ。 どこの国が悪い、良いという大それたことは言えない。 ひたすら慰霊の気持ちと敬意をもつことしか、できない現代人である。 離婚する時、私は自分の力で覚えた中国語を後悔していた。 ある憧れを追い、必死で覚えた言葉たちが元夫の口から汚い言葉として吐かれて耳に届く。 それを理解できてしまうから本当に嫌だった。 私にとって、言葉は形のない宝石のようなもの。それがどんどん傷ついていく。 こんなことなら、他の国の言葉なんて知らなければよかったとすら思った。 それから、2年半がすぎた。 すでに私には新しい婚約者がいて、私の子供たちは彼を父と慕って 夢にまでみた温かい家庭がここに咲いた。 そんなタイミングであのお店を思い出したのは、どうしてだろう。 新居から車で2分ほどの距離にあった、中国料理店。 かつて、一度だけ元夫と行ったことのあるお店。 そこは、私を突き放した元夫と同じ国で育った中国人の夫妻が経営していた。 「すっごい美味しい中華まんがたべたいよね…」 けっこうグルメを楽しむ婚約者のYと私は次の休日はどこにいくかと話しているうちに食べたいものを思い浮かべ合い、ふと私が思ったことを口にした。 個人的にはこの頃肉まんの季節になってコンビニではどんどん肉まんが美味しそうに宣伝されていたのでその中から一番美味しいものを探し出してお腹いっぱい食べたい…と庶民の贅沢を想像していたのだが 話が進むにつれて、せっかくなら本場のもの食べたいなんてことになった。 しかし、ここは日本。そしてど田舎。そんな本場のものを食べられる場所なんて… 「…あった」 あったのである。 記憶を遡る。 元夫と一度だけそのお店は行った。 店主とその女将さんは日本語が堪能ではないが日本語の対応をしながら良い意味でサバサバとした接客をしてた。 来店した私も元夫はメニューを見ていたが元夫が女将さんを呼び止めて中国語で中国人向けのメニューがないかを尋ねた時裏メニューが出てきたが、そこには「包子」があったはずだ。 日本で言う肉まんにあたるそれはどんな味だろうか。まだ食べたことがないそれを思い出して食べてみたくなった。 果たして日本人でも注文はできるのだろうか…? 行ってみてダメ、となるよりはまず電話をしてみようと思いスマホでお店を調べる。電話番号はすぐ出てきた。 私はその時何故か、中国語で電話をしていた。無意識だった。 (以下、中国語の会話を日本語に訳したものである) 「こんにちは、すみません少し聞きたいんですが」 「あぁこんにちは!どうしたんだい?」 気さくで優しい女将さんが電話に出た。 中国語の中でも少し私とは違う方言の中国語だったが聞き取りやすい。 「実は、以前お店に行った時に裏メニューを見たのですが、その時、連れの中国人が裏メニューを頼んでたんです。それ、日本人でも注文できますか?…あ、私は日本人なんですが…」 もしかしたら同じ祖国同士の者たちだけが味わえるものかもしれないと思い恐る恐る聞く。 「日本人だったのかい!気が付かなかったよ!いいよ、裏メニュー出すよ!注文するかい?」 「はい!確か包子がありましたよね…あれが食べたいです!」 スムーズに話が進む。 こんなに楽しく中国語を話したのは、いつぶりだろうか。 ほっこりしていると女将さんはきいてきた。 「中国語が上手だねぇ!なんでだい?今回も前一緒に来た中国人とくるのかい?」 「…えっと…」 すうっと心の空気が冷える。祖国の客が来るのはやはり嬉しいのか、女将さんは私の答えを待つ。 だが嘘はつけない。お店には婚約者と行くことにしている。 「今回は日本人2人で行きます、中国語は自分で勉強してて…」 ごにょごにょと話す私の声に何か察したのか 「じゃあ店に来てくれた時話を聞かせておくれ!」 そう話を終わらせてくれた。 包子はテイクアウトだがお店の中で少し待つことになっていた。仕上げは客が来てからやって、客に出来立てを渡すのだと言う。 受け取る日時を約束したのち、電話は終わった。 いままで、元夫と同じ国の人に、離婚の理由を話すのは嫌だった。怖くなってしまっていたのだ。 また、非難されるかもしれないことを恐れていた。 だがこの時は不思議な気持ちで、私は女将さんに軽く話してみたくなった。 受け取りに行く当日、私は手紙でこれまでの経緯を書いてお店に向かった。 お店に婚約者と私、2人で着くと そこは客がおらず、よく見ると準備中の札がかかっている。 裏メニューのテイクアウトは準備中に…と言うことだろうか。なんだか申し訳ない気持ちにもなる。 店内に入り、你好ー!と声を出すと、奥から前に見たときと変わらない姿の女将さんが出てきた。店主は奥の厨房にいるようだ。 「こんにちは!予約してた者です、裏メニュー、すごく楽しみです!」 「いらっしゃいハジメマシテ、スワッテ、マッテネ、お水イル?」 拙さの残る日本語だが優しさが滲み出ている。 ありがたくお水をいただきながら、私は持参した手紙を女将さんに渡した。 内容は至ってシンプルに事実を伝えるものと、今日ここの料理を食べることをとっても楽しみにしていた事実。 「文字の方が伝えやすくて…」と中国語で伝えると、女将さんはニコッと笑って読んでくれた。 なんで話せるのか、前一緒に来た中国人はなぜいないのか、その答えになればそれでいいくらいの気持ちで書いた。 だが女将さんを見ると、目に、涙を浮かべていた。 読み終わる頃には指には強く、紙がくしゃっとなるくらい力が入っていて悔しそうな顔をしていた。 やってしまったか。 一瞬焦る。やはり、理解はしてもらえないのだろうか。 身構える私と、私たちを見守る婚約者。 婚約者も全てを知っているから、同じ緊張感で沈黙を耐えていたと思う。 数秒の沈黙の後、女将さんは中国語と日本語、両方が混ざりごちゃごちゃになりながら話し始めた。 「こんなことがあったなんて、信じられない…アンタ、お金、もらえなかった!?前の夫は、どうしてこんな酷いことした!?何があっても、家族を捨てることはダメネ!」 顔を赤くしながら、続ける。 「こんな…こんなことがあったのに、アンタは中国人の血が入った子供を1人で2人も産んで、育ててくれていたのかい…中国人を恨まなかったのかい?」 女将さんは手が震えていた。 そんな反応が来ると思っていなくて焦ったが、聞かれたことに答える。 「私は、私の子供を産んだまでですから…それに、私は元夫のことは憎いけれど、中国も中国の人も大好きです…だから今日ここに来ています…日本人にも酷い人はたくさんいるし、いい人もいるから、あなたの祖国とそこに生きる人を嫌いになることはなかった」 実際、そうだ。 そりゃ、多少離婚からしばらくの間は中国語を話すことに抵抗があったし、中国人との友人たちとも少し距離が空いてしまったがそれは元夫を思い出すからではなかった。 自分がこれまで大切に学んできた言葉たちを、私自身が元夫との言い合いの中で汚く使ったことが悔しくて悲しかったのだ。 そして、何かを話すことを、恐れたのだ。 でもだからと言って、そんな大きな規模で何かを嫌いになんてなれない。こんなことで全部投げ出せるほど、私の中国を、否、他国を愛する力は軽くはなかった。 かつて戦争があった時 確かに人々は殺し合っただろう。 しかしそれは、なんのためだったか。 自分の家族や国を守ろうとしたから戦ったのではないか。  平和を求めていたはずではないか。 ただ穏やかな日々や愛する人たちとの時間をもとめて、散っていった命がある。 その先に続く時間の上に私たちは生きている。 平和を願った命が散った時間の続きで生きている。 ここにいる私たちができることは、憎しみあうことではない。 もう2度と苦しみが戦火となり燃え広がらないように互いに認め合うことではなかろうか。 少なくとも私はそう思っている。  だから、この日まで、何があっても平和から目を背けずに生きてきた。 だから、何があっても、何かを罪のない何かを嫌うこともせずに生きてきた。 「私はきっと、中国も、中国の文化も言葉も造形物も京劇もずっとずっと大好きです。なにがあってもです…母国も、母国じゃない国も、全部大好きです」 色んな気持ちを込めて伝えた。 あの日、日本を非難して出ていった男に、分かって欲しくて言った言葉と同じような言葉を伝えた。 あの時も、わたしは似たことを話していた。 憎しみが残ることは仕方なくても、できる事は憎しみ合う事や繰り返すことではなく寄り添い合うことではないかと。 だって、私たちはいまを生きているのだから。 私は何があっても、全てを好きでいたい。日本も、中国も。 この気持ちはあの男に伝わらなかった。それどころか心に刃を突き立ててくるような言葉が帰ってきた。 だから、女将さんに気持ちを伝える事は、砕かれた心をもう一度拾い集めて挑んだ、私のささやかなリベンジだったのである。 平和を、小さくここに咲かせたい一心の、願い。 自然と視線を落として話をしていたから 女将さんが発した涙声に顔をあげた時、そこにはかつてあの男が見せた歪んだ顔ではなく 優しく、涙を止められないでいる母のような顔をした女将さんがいることにやっと気がついた。 「ありがとう……ありがとうね……でも、私たちの国から家族を捨てる人間がでたことは事実よ、だから謝らせて、お願い、本当にごめんなさい……ごめんなさい……そしてありがとう……私たちの国の血を持つ子を産んでくれてありがとう……私たちの国を好きでいてくれてありがとう……本当に、ごめんね……」 悔しそうに何度もごめんなさいとありがとうを繰り返す女将さんに、どうか謝らないでと伝えても、彼女はきちんとあったことも無い男の罪を、自分の国の罪として、謝罪し続けた。 「本当に苦労したでしょう……あなたの中国語はとても綺麗だから、きちんと中国を愛してくれてる事は伝わるわ……2人の子供を育てる事は簡単じゃないはずよ、それなのに、あなたは笑顔でいてくれたのね…今日会う日まで…ありがとう…本当に…あぁ…」 悔しそうな、切なそうな、優しい声が続く。 もうなんと声をかけたらいいか、わからなかった。でも嬉しかった。 気持ちが伝わったことも。 気持ちを伝えてくれたことも。 感傷的な雰囲気の中、 奥から店主の声がする。 中国語だが、「できたぞ!」と言っているのがわかる。 女将さんははっとして、涙をふいたあと まっててねと、店主の方に向かっていった。 沈んでた空気が少し和む。 女将さんの言葉を受け止めた私は女将さんが去った後中国語だった部分を婚約者に通訳し、2人で気持ちを分かち合った。 温かい雰囲気になる。 しかし、店主の方に行くなりやや訛りのある中国語で店主に話しかけていた。 ……その声は多分本人が思っているより、大きな声であった。 店主の方に向かうなり、女将さんは私たちのまえで我慢していた怒りが爆発したようで 「うちの国からクソ野郎がでたわよ!!!」と私と話してたときには見せなかった苛立ちを吐き出していた。 私には聞こえないと思っているようだがはっきり聞こえる。「家族捨てて出ていった男が……!」「信じられない!ありえない!金も置いていかないなんていっそ調理してやろうじゃないの!!」 と鬼のようだ。 だけど、これさえ嬉しかった。もし、かつての義母だった人がこの人だったならどれだけ良かったか。元義母本人は、薄情なことに私の連絡を全てブロックし一言の挨拶もなかった。最後の最後まで。 悔しかったが、そんなことに取り合ってる暇がなかった。 だけどやっぱ心の傷になってたのだ。気が付かなかった。 気が付けたのは、苛立ちを露わにする女将さんのおかげだ。本当は愛する中国人の義家族、誰か一人にでも味方をして欲しかったのだ、私は。 少しすると、女将さんが戻ってきた。 手には包子と、野菜の入った袋が握られている。 いい香りが漂って、今にも涎が垂れそうになる。 「できたよ!ほら、包子!出来立てだから、すぐに食べな!あと…これ!」 渡されたのは、シシトウとナス。 「これは、私の故郷の種を日本に植えて自分で育てたものなの。あなたたちに食べて欲しい」 袋にどっさり、みずみずしい野菜が入っている。 「朝とったばかりよ!よかったら、たべてね」 思わず遠慮する私に、ほーら、と袋を持たせる女将さん。 一緒に包子も受け取った。 袋越しにでもわかる包子の美味しい香りに、わっと声が出る。婚約者も隣でわくわくした顔をしていた。 「ありがとうございます…お野菜まで…」 「いいのよ、あなたたちに会えてよかった…この方は今の旦那さんなのよね?」 婚約者の方を見る。正式には籍をまだ入れてないが 女将さんを安心させたいとおもいすぐに、はいと答えた。 もし私がまた、1人で子育てをすることになる可能性が高いとしれば、女将さんに心配をかける気がした。 その考えは間違っていなかったみたいで、「あぁ、よかった…優しそうだね、彼」とほっと胸を撫で下ろしていた。 お会計をして、玄関まで見送られる。 店の入り口で、「それじゃあ、またきてね」と笑う女将さん。私は彼女をみて、いつのまにか母親に抱きつくかのように抱きついていた。 だが驚かれることはなく、彼女もまた娘を抱きしめるかのように私を抱きしめてくれた。 「ありがとう…絶対またきます」 「待ってるね、本当に、うちの国の者が迷惑をかけたね…幸せになるんだよ…またすぐきてね」 いつのまにか、私の目からも涙が溢れてしまっていた。 ゆっくり体を離すと、今度は女将さんが婚約者の方を向いて片言の日本語で話した。 「頼んダヨ、ガンバッテ、子供達ヲ、よろしくネ」 女将さんの想いは、短い日本語にぎゅっと込められていた。婚約者もそれに気がついたのだろう。力強く、はい、と答えた。 名残惜しさが残る中、私たちはまたねと言う意味の「再見」を言い合ってその場を離れる。 女将さんは、私たちが車に乗り込んで、発進し、見えなくなるまで見送り続けてくれた。 わたしがかつて、元旦那と果たしたかった「憎しみあった両国の歴史を乗り越えて互いを理解し合う」という夢は、ここで果たされた。 包子は日本にない美味しさで私たちを釘付けにした。 手作りの生地に包まれた独特なスパイスの効く肉たちが口いっぱいに旨味を広げて本場の味はこれだ!と思わせてくれる。 この包子は今後、私にとって大好物の一つとなるのである。女将さんとの交流も、ずっと続くものとなる。 帰りの道で、私は涙が止まらないままでいた。 伝わった、私の想いが、確かに伝わった。そして想いを受け止めてくれた女将さんは、ありがとうも、ごめんなさいも繰り返して私に伝えていた。彼女の想いもまた、私が受け取った。 離婚した直後は辛かったが それでも、出て行ったあの男のようにならなくてよかった。 中国を好きで居続けてよかった。容易なことではなかったが彼への憎しみが増大するたび、悪いのは彼であって彼の国ではないことを何度も思い出すようにした。 私は平和を願いたい、憎しみは、現代人として断ち切らなければならない。何度もそう自分に言い聞かせた。 その日々が、この日、実を結んだと思えた。 きっともう、元旦那に会うことはないだろう。そして彼はずっと日本と、私を恨み続けるのだろう。 だが彼が行き着く先には、平和や優しさなんてないことは誰でもわかることだろう。 憎しみは、何も生まないのだから。  女将さん、ありがとう。私はあなたに会えたから今まで自分に言い聞かせてきたことが正しかったのだと思えました。 涙を流し合えた日を死ぬその日まで忘れることはきっとない。

分類不能の職業
投稿時の年齢: 25
新潟
投稿日時: 2025年11月15日
ドラマの時期:
2025年
--月
--日
文字数:7826

破かれた参考書

ビリビリに破られた参考書を見たのは、小学四年生の夏頃が最初で最後だった。 足元に散らばるそれらは母が不登校のわたしのために買ってくれたもの。 そしてそれを破いたのは、買ってくれた母本人だった。 大人が子供に利己的な理由で我慢を強いたり、理不尽なねじ伏せかたを平気でしたりすることが嫌で、わたしは不登校になった。 クラスメイトからのイジメはあったと思うがその記憶が曖昧になるくらいには教師への不信感や猜疑心で満たされてしまっていた。 学校に少しずついかなくなったのは小学二年生。完全に行かない日々を過ごした訳ではなくても週に2回、行ければ良い方だった気がする。 だから四年生になった頃は当然周りとは学習に差がついてしまいもう追いつくことはほぼ不可能に近かった。 たった二、三年間だが、その二、三年間の遅れはこの先も響いていくわけで この事態に絶望して、どこから手をつけたらいいのかわからなくてもう普通に勉強なんてできないんだと諦めていた。 だから、やる気を出させようと母が参考書を何冊も買ってペンケースやその中身も新品にして揃えてくれた時、嬉しくはあったが 勉強に取り掛かった後で本当に自分が何も問題を解けない現実が見えるだけな気がしてしまい、怖くて手をつけられなかった。 怠惰にすごし、現実から逃げていた。世の中を知った気になってそのまま、堕落していく日々だった。 そんなわたしを見かねた母にも限界が来ていたのだと思う。 娘が学校へいかずに、好きな時間に起きて寝て 学習も諦めていたのだから 見守る側としてはストレスも、不安も溜まったもんじゃないだろう。今わたしも母になったからわかることだ。 家にいれば給食費とは別で昼代がかかる、心身への負担だけでなく家計にも負担をかけて私本人は拗ねて寝てばかり。参考書を買い与えたとてなんにも動きがなければがっかりもするし焦りもしただろう。 だから母は、私の部屋で新品の状態で積み上がっていた参考書たちを破いた。ある水曜日のことだった。 「あんたは!なんにもしないで!このままでいいとおもってんの!?」 ふて寝してた私の元へ、なんらかの用があった母は部屋に来るなりそれを見つけて私を叱り出した。 「こんなもの!買っても意味ないんか!!!どうしたらいいの!!」 一冊の参考書を手に取って叫ぶ。 この時点で反省はしていたが、どう母に話をしたらいいのかわからずただ怒られていることが嫌だったような気がする。 そんな私の態度も、母にとってはお見通しだったのだろう、参考書で私の頭をがんっと殴るとそのままビリビリと大きな音を立てながら分厚いそれを引き裂き始めた。 母の行動に驚いた私は、「おかあさん!やめてよ!ごめんなさい!ちゃんとやるから!大切にするから!やめて!」と止めたが母はやめなかった。 「不登校になって、かわいそうだと思うけど、学校に行かない選択をしてるのはあんたでしょう!!!! その責任はどこにあるの!!! 責任から逃げていいなんて教えた覚えはないよ!!!! 勉強をしたくてもできない人だって世界にはたくさんいるのに、あんたはただかわいそうなことを理由になんにもしてないだけじゃない!!」 叫んで、叫び続けて大粒の涙をこぼしながら自分が買った数冊の参考書や問題集を破り続けた。 その姿は、大人になった今でも鮮明に覚えているほど、胸に刺さっている。 それまで気がつかなかったが、私の行動はお金を無駄にした、なんてもんじゃない。 「人として人の気持ちを踏み躙った行動」だったのだ。 そして、ただ「なにもしない」という逃げ。それ以外の何者でもない。逃げて、人の心を踏み躙る阿呆だった。 ハッとしてからは、その場しのぎの言い訳は何にもできず 自分の傲慢さに、怠惰さに、ショックを受けた。 勉強を、めんどくさがっていただけ。 学校に行っていない、行けない、それは仕方ないことだとしてもその選択をしているのは自分なのだ。 追いつかないほどの差をまわりと感じていながら、知っていながら逃げていた自分が本当に恥ずかしく思えた。 全て破いた母は、よく考えろと叱って、部屋を後にした。 部屋に残ったのは、母の想いの形の参考書だったものたち。 泣きながら、それらを拾って、私は一晩中セロハンテープでやぶかれてシワクチャなページをくっつけながらいろんなことを考えていた。 人が取る責任に初めて気がついた日の夜だったと思う。 嫌なことがあって、そこから逃げたってかまわない。 けれど、逃げる選択をする以上、その先で自分が何をするのかは選択をした者の責任として考えて実行しなくては行けない。 それを知った時、今までの自分を何発でも殴りたい気持ちになった。 娘にこれを教えることは、ただナイフは危ないと教えることの何倍も難しい。 母はどんな想いで、紙を割いて、心を割いたのだろう。 考えれば考えるほどに、涙が止まらなくなった。自分が今からでもできることを、考えて、考えて、考えながらつなげた参考書のページたちは数ページ揃わなかったが問題を読めるくらいになおった。

分類不能の職業
投稿時の年齢: 25
新潟
投稿日時: 2025年11月03日
ドラマの時期:
2009年
--月
--日
文字数:4276

まだ喋らない、私の息子

現在4歳になった息子は、まだ言葉らしい言葉を話さない。 いわゆる発達障害である。 先日、療育手帳の発行を主治医に勧められた、といえばその程度がつたわるだろうか。 成長に偏りがあり、息子の場合は言葉を話す様子がなかなかみられなかったため療育園に通い始め今も月一の診察が欠かせない。 成長というものは人それぞれであるが ある程度の目安があり月齢に伴った成長があまりに遅れているとなれば別の問題が出てくる。 人によってはその現実から目を背けたくもなるだろう、私もきっとそのひとりだったのだ。 なかなか話さない息子に不安はあっても きっと、すぐに喋ってくれる、ママと呼んでくれるはず。 そう思い込むようにしながら生活していた。 普通にこだわるわけではなくても不安に勝てるほどまだ私は肝がすわってなかったのかもしれない。 しかし 言葉が伝わらないというのは想像していた何倍も苦難が多く、育児のストレスで私は両耳の難聴によく見舞われ始めた。 そうこうしてるうちに息子も2歳になる年になり、もう手を打たなければマズいと思い、2歳になる手前で小児科にいくと診察室に入るや否やすぐ「療育園への紹介状を出します」と医者が手配しはじめた。 あぁ、この子が話す日は遠いのか…と目の前が真っ暗になる想いだった。 我が子が心に抱えたものを言いたいのに言えないという現実に置かれていることが悲しくて悔しかった。 わかってあげられないことが、たまらなく辛かった。 伝わらないことが、本当に苦しかった。 療育園へ行くことになりすぐに療育は始まったが 通ってすぐに効果があるわけでもなく日々労力が募っていくだけにも思えた。 「いつ話せるようになるだろう」ということを心配して最初の三ヶ月間、毎回待ち時間に癇癪を起こす息子を宥めながら重い心で過ごしていた気がする。 難聴が癖になってしまった自身の体のことも夜が来るたびに責めた。親なのに、子供の声に耐えられずストレス難聴になったのかと今にして思えばそこまで自分を責める必要なんてないのに、当時離婚していたこともあってひとり親として自分が情けなかったのである。 早く息子の言葉を聞きたい。 どんなに反抗的でも構わない。この子の選ぶ言葉を聞きたい。 好きな色はなんだろう? 好きなお菓子はなんだろう? どうか明日、一言でいいから言葉を交わしたい。 その願いはまだ、かなったことは無い。 まだ、息子の言葉は、聞けてはいない。 しかし当初のような不安や願いは、息子の成長を見守る中で薄れていった。 療育園でも効果がなかなかみられない中、ある出来事が私の真っ暗だった世界に光を灯した。 それは、息子がまだ3歳になる前。療育園に通い出して三ヶ月もかからない頃の話。 私が第二子を出産するにあたり1週間家をあけた時のことだった。 まだ幼い息子に、事情も伝えられないまま家を空けることが心配だった私は出産中も息子のことが頭から離れないでいた。 いまごろ、突然いなくなったママを探してはいないだろうか。 不安に思っているのではないか。なんて気持ちで私は胸が張り裂けそうになっていた。 それもそのはず。 先ほど述べたように、私は離婚している。それも第二子出産前に。 息子からしたらある日突然人が居なくなり二度とかえってこないという体感をしてすぐに母がいなくなったのだ。 帰ってこないのではないかと不安になるには充分すぎる条件が揃っていた。ただでさえ母親の姿が見えなければ泣く年齢の息子には重すぎる現実だ。 事情を言葉で伝えられない今、息子がこころのどこかで私も同じように二度と会えない人になっているのではないか不安だった。 きっと私が息子の立場なら、不安でたまらないはずだとも思った。 早く、息子に会いたい。そして、ちゃんと帰ってきたよと安心させてあげたい。 考えれば考えるほど、息子の言葉の遅れがもたらす現実は息子を寂しくさせているような気がしてより一層、悔しい気持ちで涙がこぼれてしまっていた。 しかし、その頃息子は全く泣かなかったとあとから実家の母に聞いた。 1日だけではなく、私が退院するまでの7日間、ずっと泣かないでいたという。 ママが居なくても平気なわけではない。 普段ならば息子は真夜中に起きればすぐに大泣きをするのに 私の入院期間は真夜中に目が覚めてもそっと起きてリビングで翌日のご飯の仕込みをしてる私の母の元へちょっと遠慮気味にちょこちょこと歩いてきて、一緒に寝てくれるかやや不安そうに甘えてきたとのことだった。 息子は、なんの事情もわからないはずだ。 いや、言葉で伝わっていないのだ。 それなのに、息子は私がいない1週間、泣くのを我慢していた様子だったと母が教えてくれた。 全てを聞いた時、息子の心根を知った気がした。 優しいだけじゃない。 人を信じる強さを持った子だと確信した。 息子は、私を信じたのだ。 この幼さで 家族が必ず帰ってくると信じて、泣くことを我慢したのだ。そこにいない母の存在のために。 第二子を連れて帰ってきた日 息子は私を見るなり、びっくりするでも泣き崩れるでもなく 朗らかなえがおで、私の所へゆっくりと歩いてきた。 そして、目で、「おかえり」と言ってくれた。 そっと近寄る息子の胸には不安は絶対あっただろうに、 それを自分だけの胸にしまい込み私の腕にだかれていた自分の妹を見て少しだけ照れたような顔をしながらニコニコしている。 口で言えない「こんにちは」を伝えようとしている。 この子は、自分が話せないことを知っていながら、伝えることを諦めたことは無い。 わがままだってちゃんと言える。 伝わらないことで伝えることを諦めたことが一度もないことにもこの時気がついた。 目は口ほどに物を言う、とはよく言ったもので 妹にちょっと照れながら目を合わせる息子は、確かに妹にまで語りかけていた。 帰ってきた日の夜、寝ようとするとそっと私の隣に来て眠ったことを一生忘れないだろう。 普段は騒ぐだけ騒いでコテンと寝るこの子が、甘えて眠ったことを、絶対、忘れない。 一晩中その日だけは夜泣きをせずに私の裾を掴んで眠った。

分類不能の職業
投稿時の年齢: 25
新潟
投稿日時: 2025年10月30日
ドラマの時期:
2023年
--月
--日
文字数:3705

失われた命、生まれた命

地面が揺れた。激しく上下左右に家ごと揺れたそれが新潟県中越地震だと知ったのはこの数年後。何もかもが壊れて崩れてゆきました。母は私を抱えてすぐに屋根が崩れてきても子を守れるように抱きしめてくれたのです。いえ、母のとっさの行動で守られたのは私だけじゃないのです。こんな時にもおなかの中で元気に動く男の子、すなわち私の弟を守っていたのです。 死者68名とされる地震のさなか母は臨月にはいっていました。 朝目が覚めるたびに今日は無事に母と弟が生きられるか不安に駆られていました。 避難生活は過酷で横になれる日が果たして何回あったことやら。 ほぼ車の中での寝泊まりがきつかったことは言うまでもありませんが体の小さな私で耐えるのがやっとだったあの生活は母にとっては生きたここちのしない日々たっただはず。 だから、最悪の事態を考えていたのでしょう。 ある日避難中の車の中で大きなはさみと貴重な2リットルの水、タオルを渡して言うのです。 「いい?ママはいつ赤ちゃんを産むかわからないの、だからこれを持っていて!もしお産が始まったらこれで赤ちゃんを取り上げて!」 「もし、ママが死んでも、命を諦めちゃダメ!あなたなら、できるから!」 幼い子供にはあまりに重い話でした。 母が死ぬことなんて考えたくない、駄々を捏ねたい。 でも、伝わったのです。 母の中で、今は守るべきもがあることが。 幼い私に託してでも、命を繋いでいくことを諦める姿を見せまいという意思を。 小さな私だからこそ、その先のことなんて考えませんでした。 この誰かの大切な人が生きられない時に 生まれてくる命があるならば お姉ちゃんになる私が、やるべきことがあるのだ。 この日からずっと強く頷き命をつないでいく約束は、生きている者の役目に思えてなりません。

分類不能の職業
投稿時の年齢: 24
新潟
投稿日時: 2025年09月12日
ドラマの時期:
2004年
11月
4日
文字数:966

アメリカの高校のブラスバンドを体験して感じたこと

1985年の9月から一年間、私たち家族は父の仕事の都合でアメリカのイリノイ州の某田舎町で生活することになりました。 当時高校生だった私は日本の高校を一年休学して現地の高校に通ったのですが、そこで受けていた授業の一つに「バンドクラス」というものがありました。 内容は日本の吹奏楽とほぼ同じなのですが、課外活動ではなく選択式の授業の一つです。 オーディションのようなものは無く、自分の楽器を持っていれば誰でも入ることができます。 ただし、その高校の音楽活動には、他にジャズバンド(ジャズのビッグバンド)とオーケストラ(クラシック音楽の管弦楽団)があり、これらはオーディションに合格しないと入れません。 ちなみに、音楽なら殆どなんでも好きな私ですが、日本の部活動の吹奏楽だけはあまり好きではありません。 体育会的な独特のノリが苦手なのに加えて、一部強豪校が行う無茶な練習に強い抵抗感を覚えるからです。 今回はここら辺のことも含めて、アメリカのバンドクラスを一年間体験して感じたことと、そこで出会った一人の友人のことについて書きたいと思います。 授業は基本的に合奏のみで、先生が指揮をして演奏についてあれこれ指示を出すという形ですすめられます。 何を演奏するのかというと、スポーツの季節(アメフト、バスケ)はその応援がメイン、そしてこれらが無い時期は、吹奏楽のオリジナル曲などを練習します。 演奏のレベルは、技術的な面では日本の平均的な高校と比較して遙かに低かったと思います。 コンクールで他校の演奏もある程度聴きましたが、恐らくアメリカの高校生全体がそんなものなのだと感じました。 最初の授業の時に、同じクラリネットの仲間達が皆ペラペラな音色な上に、指使いも十分にわからないまま吹いているのを見て本当に驚きました。 (後述するクラリネットの名手は、この日バリトンサックスを吹いていました) ですが、技術的に低レベルだからといって、全てにおいて日本の吹奏楽よりダメなのかというと全くそんなことはありません。 先ず、ニューヨーク・ニューヨーク(映画の主題歌)やバードランド(ウェザー・リポートというフュージョンバンドの曲)のようなジャズ風の曲を演奏すると、日本の音大生より遙かに見事な演奏をします。 もちろん技術的には下手なのですが、音楽を演奏する上で技術以上に大切な、その楽曲で求められる固有の音色や音程、音の強弱、音が出るタイミングと切るタイミング、正しいテンポ等々を、彼らは生まれたときからジャズという音楽に慣れ親しんでいて体で覚えているので、ジャズとして聴けば素晴らしい演奏が可能なのです。 そして何よりも、彼らはどんなに下手でも堂々と演奏します。 合奏で上手く出来ない箇所があれば先生は当然怒りますが(30代位の女の先生で怒るとそれなりに迫力がありました)、日本の吹奏楽では当たり前の居残り練習なんて誰もしないしさせない、終業ベルが鳴れば先生も生徒も速攻で帰り支度を始め、次の日になれば皆ケロッと忘れて練習を始めます。 それで同じ箇所が上手く出来なければ再度先生は怒り、次の日は再度皆忘れるのループなのですが、ある日スルッと上手くいくことがあれば、皆で「イェー」と喜んで、それで終わりです 一方で日本の高校の吹奏楽のレベルの高さというのは、非常に無理な内容の練習に支えられています。 私が日本で通っていた高校の近くにはコンクール全国大会の常連校があり、何回か練習を見学に行ったことがあるのですが、放課後の練習は夜の9時までやっておりその他に朝練もあります。 音大を卒業したばかりの若い先生が非常に厳しい指導をしていて、上手くいかない箇所があると誰が悪いのかというところまで徹底追求して、メンバー全員が見ている前でその生徒のプライドが傷つくような暴言の繰り返し。 仲間たちもそんな様子を庇いもせず、上手く吹けない仲間をゲラゲラと嘲笑したりとか、見ているだけで辛く悲しくなりました。 私の音大時代のクラリネットの師匠は、こういう学校に頼まれて指導に行かれることが多く、高校生が厳しすぎる練習をさせられていることについて、生徒の将来を考えれば悪影響しかないと常に仰っていました。 しかしながら、日本の部活動はコンクール至上主義なため、どうしてもこういうことが起こります。 私の高校は弱小校で先生も良い意味でやる気が無かったので、比較的のびのびと練習をしていましたが、それでもアメリカの高校に比べればかなり厳しかったと思います。 再びアメリカの高校の話に戻って、コンクールについて少し書きます。 日本の吹奏楽コンクールは全体合奏のみですが、アメリカの私の高校があった地域では、合奏に加えてメンバー全員がソロ曲(ピアノの伴奏が付くもの等)を一曲演奏させられ、それぞれにS~Dの評価が付き、その総合点みたいなもの(メンバーの人数は学校毎に違うので、どうやって計算していたのかは不明ですが)を競っていたと思います。 このコンクールで私たちバンドクラスの合奏は確かAかBの評価をもらったと思いますが、私のクラリネットのソロ演奏はS評価をもらいました。 クラス全員の中でS評価をもらったのは3~4人程度だったのですが、日本で音大受験を考えるような人であれば、まずS評価がもらえると思います。 しかし、そんな私でも、このバンドクラスで、決してクラリネットパートのトップを取ることが出来なかったのです。 それは、このコンクールのクラリネットソロ演奏でもう一人S評価をもらった、デイブ(仮名)という少年がいたからです。 デイブは完全に別格でした。 バンドクラス以外でも、ジャズバンドではサックスパートのトップ、オーケストラでもクラリネットのトップを任されていました。(何故かスポーツの試合応援時のみバリトンサックスを担当していましたが) そして彼は、バンドクラスの中でただ一人の黒人でした。(アフリカ系アメリカ人という表現の方が正しいですが、便宜上「黒人」と表記します、ジャズバンドにはもう一人黒人の生徒がいましたが、オーケストラにはデイブ一人でした) デイブに会うまでは、私は黒人というとなんとなくワイルドで、音楽もノリノリで激しい演奏をするような先入観を持っていましたが、彼はモーツァルトとクラシック音楽を愛するとてももの静かな少年で、クラリネットの音色は誰よりも優しく柔らかく、音の繋がりも滑らかで、まるで美しい玉をコロコロと転がすように、自由自在にメロディーを紡ぐことができました。 彼の演奏技術は日本であれば最難関の音大にも楽々合格できるレベルであり、更に、技術とは別の音色のような部分では、日本のトッププロと比較しても彼の方が上であろうと思えた程です。 また、彼は大変知的な上に誰にでも優しい人物で、皆から好かれていました。 私が出会ったアメリカの高校生達は、もごもごとこもった感じの発音で早口で喋る人が多く(そういうのがかっこいいと思われていたようです)英語の発音を聞き取るのが大変だったのですが、彼は外国人にとっての外国語の難しさをよく理解していて、私と話しをする時はとりわけはっきりした発音でゆっくりと喋ってくれました。 ある日、彼と二人きりになった時に、私がなんとなく「なかなか英語が上手くならなくて」という話をすると、彼は「これは聞いた話なんだけど」と断って「君は話す前に日本語で考えてそれを英語に訳してる?それとも最初から英語で考えてる?」と質問してきました。 そして「日本語で考えずに英語で考えてそのまま話すようにすると上手になるらしいよ、聞いた話なんだけどね。」と言って照れくさそうに笑ったのです。 これは、実は彼の楽器演奏の上手さの秘密にも通じている、大変奥が深い本質を突いたアドバイスであったと思います。 そして、1986年の5月、一年間の音楽活動の締めくくりとして(アメリカでは9月が新学期で6月から夏休みです)、バンドクラス、ジャズバンド、オーケストラが合同で、ジャズ発祥の地であるニューオーリンズへ6泊7日の演奏旅行に行くことになりました。 一週間ライブ演奏を行いながら、地元のジャズ演奏を聴いたりプロのクリニックを受けたりという夢のようなイベントです。 しかし、その演奏旅行へ行く一週間位前の授業で事件は起こりました。 授業の冒頭で、先生はとても深刻な顔をして「このクラスで学業の成績が悪すぎてニューオーリンズへ行けなくなった者がいる」と話し始めました。 そして、低いドスの効いた声で「Dave」と一言名指しすると、見たことがないような恐ろしい顔でデイブのことを睨みつけたのです。 日本の平均的な高校生と比べても遙かに早熟で頭の良いデイブが、簡単なアメリカの高校の授業で落第点をとるなんて私には信じられませんでしたが、デイブは暗い顔をしてうなだれたまま一言も発しません。 「Don't worry Dave, we love you!(心配しないでデイブ、皆あなたのことが好きよ!)」とサックス担当の女の子が声を掛けると、クラス中が「イェー」と盛り上がりましたが、それでも先生はずっと怖い顔をしたままで、デイブはうなだれたままでした。 しかしその後、演奏旅行へ行く日がやってくると、デイブは当たり前のように皆の前に現れたのです。 先生もクラスメイト達もそのことには一切触れないまま、彼は皆と一緒にニューオーリンズへ行き、ライブでは見事な演奏を聴かせてくれました。 ただ、夜は先生も生徒も同じホテルに泊まっていた(4人部屋で部屋割りは先生が決めました)筈なのですが、彼は寝る時間になると、もう一人の黒人であったジャズバンドの男子と二人でそそくさと何処かへ行ってしまうようでした。 夢のような一週間が終わり、私の家族はいよいよ日本へ帰ることになり、お世話になった人達(父の仕事関係)に感謝を込めて、家族で食事を振る舞おうということになりました。 その時、我々家族と一番親しくしてくれた方が言ったことは、今でも決して忘れることができません。 「○○さんを呼んだら白人は一人も来ませんよ、何故なら彼が黒人だから。」 このアドバイスをしてくれた方は、帰国後もずっとお付き合いしてくれた本当に良い方で、あくまでも我々のことを心配してこんなことを言ってくれたのです。 この時、ニューオーリンズ演奏旅行で起こった一連の出来事が理解できたような気がしました。 これはあくまでも私の想像であり証拠は何も無いのですが、恐らく黒人の生徒と一緒に一週間も旅行することについて、クレームを付けた白人の親がいたのだと思います。 あるいは、誰も何も言わなかったとしても、当時のこの地方の社会常識として許されないことだったのかもしれません。 そこで、あくまでも建前で勉強の成績が悪いから行けないということにしたものの、先生は最初から連れて行くつもりで、クラスメイト達も皆それをわかっていたから、その後一切誰もそのことに触れなかったのだと思います。 それでも、他の生徒達と同じホテルの部屋に泊めることだけは出来なかったのでしょう。

分類不能の職業
投稿時の年齢: 54
茨城
投稿日時: 2023年05月09日
ドラマの時期:
1986年
5月
--日
文字数:4990

ペットと罪

みなさんは何かペットを飼っていますか? ペットって本当に可愛くて癒される存在だったりしますよね。 私も昔、実家で猫を飼っていた時期がありました。 この猫はもらってきたメスの猫で名前を「シーマ」といいました。 雑種でしたが色は白色でふわふわの毛がふさふさで、とても障り心地が良かったです。 生まれて初めて飼いだしたペットだったので、家族みんなでとても可愛がってあげた記憶があります。 当のシーマもとても人懐っこくて愛嬌があり甘えん坊な猫でした。 寝るときは人の布団に入ってきたり、立っている自分に対してジャンプしてきて強制的に抱っこしなければならなかったり、顔をスリスリとくっつけてきたりと本当に本当に可愛い猫でした。 シーマは散歩が好きで良く昼夜問わず良く散歩に出ていました。 家の窓やドアが閉まっていると散歩に行きたいと閉まった窓やドアをコンコンとこずいて開けるように催促してくる猫でした。 なのでこの頃の我が家は冬以外の季節は窓やドアの一部をシーマが通れるように常に開けているような家でした。寒い冬の時はさすがに寒かったのかあまり外には出たがりませんでしたが。 そんなシーマでしたが夕方のご飯時になるとご飯を食べに必ず家に帰ってくる猫でした。 犬や猫もですが動物って時計がないのになぜあんなに正確な時間に家に帰ってくるのか非常に不思議でした。 ですが私が中学三年生になったある日のこと、夕方のご飯時になってもシーマが帰ってこない時がありました。 心配になった私はシーマを探しに家の周りを名前を呼びながら探しましたがシーマは見つかりませんでした。 ちょっと臆病だったシーマは普段はそこまで遠くに行くような猫ではなかったので余計に心配になりました。 なので少し家から離れた場所もくまなく探しましたがそれでも見つかりません。 その頃の家の近くには国道がありとても交通量が多かったのですが、まさかそっちの方にシーマが行ったのかな?っと思い国道線沿いの道路脇をシーマの名前を呼びながら歩いてみました。 すると家から離れた国道脇の茂みの方から猫のような微かなうめき声がするのが聞こえました。急いで茂みの方へ駆け寄ってみると茂みの中でシーマがうずくまってかすかな声で鳴いているではありませんか! 口からは大量の血が出ていて体もボロボロです。 状況的にどうやら国道の車にはねられて命からがら茂みの中へ逃げ込んでそこで動けなくなったようでした。 その姿に動揺した私はどうしてよいか分からず家に助けを求めて走りました。 そして家にいた母や姉とともにシーマをいったん家に連れて帰りましたが傷が想像以上に酷く夕方に診察してくれる動物病院を探して連れていくことになりました。 そのおかげかシーマはなんとか一命はとりとめました。 でもしばらくの間、絶対安静となり傷が治るまでに数カ月を要したのでした。 なので傷が治り元通りに元気になったシーマを見たときは本当に安心しましたし嬉しかったですね。 それから一年後くらいだったでしょうか? 元気になっていつも通りの甘えん坊なシーマとお別れの時が来るのです。 そのお別れの理由がなんと「飼育放棄」だったのです。 実はこの頃はシーマの他にも複数の猫を飼っていたのですが、その猫たちが近所の他人の家の花壇の中におしっこや糞をするようになったのです。 するとせっかく奇麗に植えていた花壇の花や植物が枯れてしまい、近所の人がうちに怒鳴り込んできたのです。 お前の家の猫はどうなっとるんだっと。 しかも一回や二回ではなく何度も枯らしたようでこれは怒るのも当然だったと思います。 そして困ったことにこれの解決方法が無かったのです。 複数の猫を飼っていたので外に出さないようにしてしまうと猫たちが出たい出たいと窓をガリガリ掻き出しますし、もし完全に外に出さなければストレスで猫同士で喧嘩をする始末です。 かといって外に出すとして花壇に糞尿をさせないようにする手段がありませんでした。 怒った近所の人は我が家の賃貸の家主にも話をしにいったようです。 家主からもうちの猫たちをなんとかしないと家を出て行ってもらうと最後通告がきたのです。 これには母も姉も参ったようでした。 すぐに引き取ってもらえるような環境ではなかったし保健所に連れていくという選択肢は取りたくないしで、どうしてよいか分からなくなってしまいました。 そして我が家が話し合った結果、取った手段が「飼育放棄」でした。 保健所に連れていくくらいならせめて生き延びることを願って遠く離れたお寺の敷地内に猫たちを捨てるというものです。 今思うととんでもなく「無責任」だったと思います。 でもあの当時、まだ高校1年生だった私には解決策も思い浮かばず、ただ母と姉の決定に従うしかありませんでした。 この決定をした日は家族みんなで泣きまくった記憶があります。 いよいよお寺に猫たちを放棄する日になった時、私も姉に同行しました。 何も知らない猫たちは一匹ずつ車に乗せられていくのが何故なのか訳も分からなかったと思います。暴れるような猫はいませんでした。 車で猫たちを連れてお寺の駐車場に止めてドアを開けました。 すぐに飛び出す猫もいれば車にとどまり出ようとしない猫と二手に分かれました。 シーマはとどまる方の猫でした。 とどまった猫を一匹づつ外に出していき最後に残ったのがシーマでした。 私はシーマを抱えて外に無理やり出しました。 でもシーマは地面についた瞬間に走って車に戻りました。 まるですべてを解っているかのようでした。 ここに捨てないで・・。家に帰りたいと言っているようでした。 私と姉はそれを見て涙が溢れ出てきました。 それを見た私はもうシーマを抱えることができなくなってしまいました。 でも私より4つ年上の姉は自分がやらなきゃっと私の代わりに泣きながらシーマを抱えて外に連れて行きました。 私は黙ってそれを見ていました。 そして気を機を見計らって車に飛び乗り発進させ猫たちを置いてけぼりにしました。 後ろを見ると後をついて来ようとする猫がいたようでしたが、それがシーマだったのかは分かりません。 この時、心の中で何度も何度もごめんごめんっと繰り返し謝っていたのだけは覚えています。 その後、私はシーマたちを放棄したお寺に見に行こうと何度も思いましたが、自分の犯したことがとても酷いことと分かっていたので・・怖くて見に行くことは結局、できませんでした。

サービス職業従事者
投稿時の年齢: 44
高知
投稿日時: 2023年04月10日
ドラマの時期:
1993年
--月
--日
文字数:3001

趣味は将棋

趣味は人生を豊かにします。みなさんは趣味はありますか? 私は10年ほど前、将棋にハマっていました。 それもパソコンやスマホで対局するいわゆる「オンライン将棋」つまりネット将棋ですね。 ネット将棋はスマホさえあれば24時間いつでもどこでも、無料で対局が楽しめるので、仕事の休憩時間や休みの日にはとにかく将棋を指していました。 将棋はもともと遊びで指すことはあったのですが、本格的に勉強しようと思ったのは30代になってからです。 それも「あるきっかけ」が原因なんですが、その原因が酷いのです。 私は30代になってから勤めていた仕事も安定し、結婚生活も何不自由なくて生活自体が安定期に入っていました。 それまでは仕事仕事の毎日だったので、時間的にも少し余裕ができてきたのがこの頃です。 休日にやることもないのでネットで動画を見たりしていたのですが、なにか物足りないと思い、気軽にできる趣味を探そうと思ったのです。 そこで思いついたのが将棋でした。 将棋自体はとても弱かったのですが、友達と将棋するのは楽しかったです。 なのでネットで将棋が指せることはなんとなく知っていたので。いっちょやってみるか!と軽い気持ちではじめました。 まず初めに本屋で初心者用の将棋の本を数冊買って勉強しました。 将棋には「型」と「手筋」というものがあり、これらの基本を一通り覚えたので早速、ネット将棋に登録して実際に指してみたのです。 すると勉強の甲斐もあってか、最初は連戦連勝することができました。 初心者用のランクだったのもあるのですが、勝負事は勝つことが本当に楽しいものです。 ネット将棋にはランク戦というものがあり、ランク戦を勝ち進むと自分のランクがドンドンが上がっていくのですが、調子に乗った私はドンドン将棋を指してランクを上げていきました。 このランク戦とは別に練習用の対局ができる練習モードというものもあります。 こちらは勝っても負けてもランクには関係ないので、気軽に将棋を楽しむことができるのです。 ランク戦は実力が拮抗した同じランク同士が対局するのが一般的ですが、自分のランクより上の相手やランクが自分より下の相手とも対局ができるシステムでした。 ランクが上の相手に勝てばランクポイントが多くもらえ、ランクが下の相手に負けるとランクポイントが大きく下がり、勝ってもあまりポイントが増えないので対戦相手を選ぶときは注意が必要でした。 ある日、ネット将棋で将棋を指していると、ある対戦相手が私に勝負を挑んできました。 その相手は私よりランクが下でしたが、なんと21戦21勝の負けなしの成績でした。 ネット将棋は相手に勝負を挑まれても、拒否することが可能でしたが、せっかく対戦を希望してきてくれたので、私は勝負を受けることにしました。 しかしこの対戦相手がやっかいで、いわゆる「ハメ手」を使った初心者狩りだったのです。 将棋の戦法に「ハメ手」というものがあります。 これは指し方が分からないと一気に勝負が決まってしまったり、知らないと対応ができず完敗してしまったりします。 逆に知識があると完封できたりするのですが、初心者に毛が生えた程度の私は、この「ハメ手」をまだ勉強していませんでした。 ちなみにハメ手には「鬼殺し」「新鬼殺し」「筋違い角換わり」「右玉」「早石田」「升田式石田流」といろいろ種類があります。 この時の対戦相手は「早石田」と「升田式石田流」の使い手で、受けを誤ると一気に勝負が決まってしまいます。 でもこれらの戦法の受け方を知らなかった私は、この時に一方的に攻められて連戦連敗を喫してしまいました。 あまりにあっさり負けるので、ムキになってしまい恐らく10連敗くらいはしたでしょうか? ランクが下の相手だったのでランクポイントもダダ下がりです。 これも私が意気地になったポイントだったと思います。 ここで負けるだけなら自分の実力不足で片づけられる問題だったのですが、私が何より悔しくて腹がたったのが、この対戦相手の態度です。 ネット将棋にはチャット機能があり、将棋の対局中にチャットで相手に対してコメントを打つことができます。 この対戦相手はなんとチャットで挑発してきたり暴言を吐いてきたりしました。 いわゆる「バ~カ」や「雑魚雑魚雑魚」「弱すぎwww」とかですね。 もっと酷いことも言われましたが、さすがにここには書けない内容なので書きませんが。 とにかく人を馬鹿にした態度を取ってきたのが、本当に悔しくて悔しくて。 ネットで顔が見えないことをいいことに言いたい放題でしたね。 更にそんな相手に勝てない自分。自分自身が情けなくなりました。 そんなことがあって悔しくてたまらなかった私はもっと将棋が上手くなりたいと、これまで以上に将棋にのめりこむようになりました。 具体的にはプロの棋士の棋譜を見て勉強したり、負けた将棋の負けた理由を考えて研究するといったことですね。 いままで以上に練習と勉強・研究を繰り返した私は、将棋の実力、棋力をつけていき、一度下がったランクを取り戻して順調にランクを上げていったのです。 そしてあの憎き対戦相手との「再戦」の時が訪れます。 ある日、いつものようにネット将棋をしていると、対戦相手に見たことのある名前があるではありませんか。 そうです。「あいつ」です。ハメ手を使い、挑発・暴言を繰り返し私をボロボロにした「あいつ」です。 その「あいつ」がまたも私に勝負を挑んできたのです。 ランクも上がってさすがに無敗ではなくなっていた「あいつ」ですが、いまだに高勝率をキープしていました。 でもそんなことは関係ありません。 私は喜んで挑戦を受け「あいつ」と対局をすることにしました。 ランクが上がっても相変わらず「あいつ」はハメ手である「早石田」や「升田式石田流」といった戦法を繰り出してきましたね。 しかしこの時の私は以前の「わたし」ではありません。 もちろんハメ手の対策もバッチリです。 ハメ手に対する正しい受けを繰り出し、私は「あいつ」に連戦連勝しました。 前にやられたことを倍返ししてやった感じです。 今まで通じていた「早石田」や「升田式石田流」が通用しないことがよほど悔しかったのか「あいつ」は新しいハメ手「鬼殺し」という戦法を使って奇襲をかけてきましたが、もちろんこちらも研究済み。 「鬼殺し」もいともあっさり受けきられた「あいつ」はチャットに一言だけ暴言を吐くと逃げるように対局場から去っていきました。 この時の私の喜びようは凄まじかったと思います。

サービス職業従事者
投稿時の年齢: 44
高知
投稿日時: 2023年04月02日
ドラマの時期:
2013年
--月
--日
文字数:3373

アメリカでの高校生活初日の出来事

1985年高校2年の夏、父の仕事の都合により一年間限定で、家族(両親と弟の4人、専門学校生だった兄のみ途中から参加)でアメリカに行くことになり、私と一つ下の弟は日本の高校を一年間休学してアメリカの高校に通うことになりました。 父の仕事の都合と書きましたがこの事情がやや特殊で、父は当時教育者だったのですが、一年間お給料をもらいながら海外で勉強できるというような制度があり、これを利用して渡米するのに家族も自費でついて行った形です。 行った先はイリノイ州にある某田舎町で、ここの大学には教育の世界では神様みたいな人に関わる研究の資料が大量に残っているそうなのですが、一般的な日本人には全く知られていない場所です。 そんなわけで私と弟が通ったのは、日本の企業など全く進出していない土地の、交換留学生など受け入れていない高校でしたので、それ故に「素」のアメリカの高校を体験することができたのではないかと思っています。 家族4人がある程度アメリカの生活にも慣れ始めた9月のある日、私と両親と弟、更に案内役のアメリカ人女性の5人でこれから通うことになる地元の高校を訪れました。(アメリカは日本とは違い9月が新学期です) 高校に着くとすぐに、好奇心の強い母は一人で校舎の中の探索を始めてしまいました。 仕方なく残りの4人で校長室のようなところで待っていると、アジア人のような男子2人がその部屋に入ってきて「Where is your mom?(君たちのお母さんは何処?)」と話しかけてきたのですが、これが私と弟の一年間を決定づけてしまうことになります。 私は「なんでこんなことを訊くんだろう」と不思議に思いながら、母が何処へ行ってしまったのかはわからないので「I don't know.(知らない)」と答えました。 しかし、2人は首をかしげながらしつこく同じ質問を繰り返してきます。 私と弟は困ってしまって、うろたえながらも「何処にいるのか知らない」ということを必死に伝えようとましたが、彼らには全く通じてないようでした。 程なくして、威張った感じ(私が苦手なタイプ)の初老の男性が教室に入ってきて、この人が校長先生だったのですが、最初の2人組が「彼らは自分の母親が何処にいるかもわからないんだ」ということを校長先生に訴え始めました。 すると、校長先生はその2人の言葉を受けて「この2人の少年(私と弟のこと)はdull(愚か、鈍い)だから時間割は全部俺が決める、一番成績の悪いクラスに入れる」ということを言い出したのです。 これに対して案内をしてくれたアメリカ人女性が激怒して、「日本人は皆喋らない、それは愚かなのではなくシャイだからなんだ」と反論をしましたが、校長先生は全く聞く耳を持ってくれません。 結局「母親が何処にいるのか」という質問に対してまごまごしてしまった、たったそれだけのことで、私と弟は愚かという烙印を押され、最低ランクのクラスに勝手に振り分けられてしまったのです。 今ならはっきりわかることなのですが、ここで「dull」と判定されてしまったのは単に簡単な質問に答えられなかったというよりは、そのタイミングで積極的に自己主張しなかったのが一番の理由なんですね。 だから、案内役の女性も「喋らないのはシャイだからだ」と反論していたわけです。 日本では、初対面の相手にいきなり自分のことをべらべら喋りだしたら図々しいヤツだと思われてしまいますが、反対にアメリカではそれができないとダメなんだと思います。 そしてその翌日から私と弟はその高校に通い始めました。 割り当てられた授業はつぎのようなものでした。 一限目:英語、英語が喋れない外国人向けのクラスで、その中でも最低ランクだったので「This is an apple.」みたいな文章からのやり直しです。 二限目:数学、この科目だけは担当の先生が日本人は数学が得意だということを知っていて、上から2番目のクラスに強引に入れてくれましたが、それでも日本のレベルでは高校受験よりやや難しい程度に感じた記憶があり、とにかく平均以下程度の日本の高校生にとっても簡単すぎる内容でした。 三限目:P.E.、体育(physical education)のことで、この科目は成績関係なし。 四限目:セラミック、陶芸のことで、粘土で好きなものを作って釜で焼くだけの授業。殆ど遊びのような時間でしたが、先生は博士号を持っている立派な方でとても親切でした。 五限目:バンドクラス、日本のブラスバンドとやることはほぼ同じですが、部活動ではなく授業の一つです。私は日本の高校ではブラスバンドに入っていて自分のクラリネットも持っていたのでこのクラスに割り当てられました。(この時間、弟は一時間教室で好きな本を読むだけでした) そんなこんなでアメリカの高校生活初日の授業が全て終わり、楽器を片付けて家に帰る支度をしていると、一人の男子生徒が私のところへやってきました。 彼はクイーンのロジャー・テイラーを彷彿とさせるブロンドヘアーの二枚目で、今日バンドクラスに日本からの転校生が来ることを知っていたようです。 そして、自分のことを「マイク」と自己紹介し、私に名前と出身地をたずねると、色々なことを話し始めました。 マイクは学校のジャズバンド(オーディションに合格した人しか入れません)ドラムを叩いており、音楽が大好きで日本の音楽にも興味があるということ、東京はニューヨーク、ロンドンと並んでアメリカの高校生が一番憧れる都市の一つなのだということ、それから好きなバンドがレベル42(イギリスのフュージョンバンド)であることや、好きな食べ物、家族の話等々。 彼は私がよく聞き取れないところがあると、嫌な顔をせずに何回も繰り返して話してくれましたし、私の拙い英語にも熱心に耳を傾けてくれました。 「Where is your mom?」という無意味な質問を一方的に繰り返した、前日に会った2人組とのあまりの違いに驚きましたが、やはりアメリカ人にも色々なタイプの人がいるということなのでしょう。 その後も彼は、私がギターも弾けるとわかるとバンドに誘ってくれたり、何回も家まで遊びに来てくれたりと、日本に帰るまでの一年間、彼のおかげでアメリカでの高校生活が充実したものになったと言っても過言ではありません。

分類不能の職業
投稿時の年齢: 54
茨城
投稿日時: 2023年04月01日
ドラマの時期:
1985年
9月
--日
文字数:3840

記憶に残る学校の先生

私の中で記憶に残る人物として小学5・6年生の頃の担任だった「M先生」がいます。 私は父親の借金が原因で、小学校5年生の1学期を終えたときに、転校を余儀なくされました。 そしてこのM先生がいるK小学校に小学5年の2学期初めに転校したのです。 この頃の私は、生まれて初めての引っ越しと転校、父親の県外への出稼ぎなど、人生の中でもジェットコースターのように目まぐるしい怒涛の生活を送っていました。 多感な小学生だった私の心は非常に不安定であり、子供ながらに家の状況が一変したのを肌で感じていて何かと不安な日々でした。 正直、慣れ親しんだ小学校を転校することは嫌でしたし、新しい学校に対する気持ちは、期待よりも不安の方がはるかに大きかったです。 当時の私は母に甘やかされて育ったこともあり、自分の考え方を伝えるのが非常に苦手で周りの意見に流されて自分の意見を隠すような子供でした。 そんな不安を抱える小学生だった私の転校先のクラスの担任がM先生だったのはある意味、運が良かったといえます。 M先生は男性で年齢20代半ばくらいの若い先生だった記憶があります。 とても明るくて正義感に溢れた感情豊かな先生でした。 そんな先生だったのでどんな生徒にも平等に接することができて、同学年のどの生徒にも人気だったと思います。 M先生はとにかく明るくて声もハキハキしていました。 普段からM先生がいるだけで、先生の雰囲気に引っ張られてクラス全体が明るかったのを覚えています。 更にM先生のおかげか、当時のクラスメイトの中に嫌な生徒がなんと1人もいませんでした。 なので途中から転校してきた私もクラスに入り込みやすくて、すぐに友達ができました。 それもこれも本当にM先生のクラスの雰囲気作りが、とても良かったおかげだと言えます。 正義感の強いM先生はクラスの中で喧嘩があっても、すぐに飛んできて止めていました。 そして喧嘩した両方の生徒から言い分をじっくり聞いたあと、原因を指摘して改善策を言い聞かせ最終的には喧嘩両成敗にしていました。 お互いが仲直りして終わったことは水に流すようにと言っていたと思います。 良いとこばかり目立つM先生ですが、唯一の欠点があるとすれば着ていた服装が非常にダサかったです。 Gジャン風の上着に下はジャージでカッコ悪い眼鏡を着けていて、他の先生と比べてもファッションセンスがかなり悪かったことを想い出します。 そんなM先生は転校してきたばかりの自分のことを、非常に気にかけてくれていたようです。 その理由は毎学期に渡される通信簿の「担任からの一言」の記載文でわかります。 押し入れから引っ張り出してきて久々に見てみた当時の通信簿の中にこんな一文がありました。 M先生から「担任からの一言」 「5年生の途中から転校してきて不安だったなか、勉強やスポーツに音楽会など頑張って良い成績を上げていましたね。 友達もできるか心配していましたが、無事に〇〇君や〇〇君と仲良く遊んでいる姿を見て先生は安心しました。 少し落ち着かないことや、自分の考えなどをハッキリ表せないことも見受けられますが、頑張っている君を見ていると、いつかそれらも克服できると先生は信じています。頑張って!」 当時はこんなことが書かれているとは思ってもみませんでしたが、今改めて見返すとM先生は自分のことを分析して、良い部分も悪い部分も気にかけてくれていたのだと知ることができました。 もうひとつM先生のエピソードで思い出したことがあります。 M先生は「差別」という言葉やそういった行為が大嫌いだったと記憶しています。 クラスの中で少し脳の発育が遅れている生徒(仮でI君と呼ばせていただきます)が1人いたのですが、小学生の頃はそういった生徒を馬鹿にする生徒が、残念ながら数人はいるものです。 具体的に言うとテストの点数が悪かったI君のテスト用紙を取り上げて、みんなに見せるようにしながら「Iはテストの点数が〇点しか取れてないぞ!ハハハ」みたいな、晒し者にする・いじめ行動をする(本来、悪い子ではないけど悪ノリでやってしまったのでしょう)こともありました。 M先生はそういうことが大嫌いなのでそれを知ると、普段では見られないような鬼のような顔で、晒し行動をした生徒をめちゃくちゃに怒っていたと思います。 普段は明るくて楽しい人が怒ると、ギャップもありとんでもなく怖いことが多いので、怒っているM先生を見た自分も相当に怖がっていたような気がします。 それと今はあるか分かりませんが、当時の授業で「部落差別」を題材にした授業がありました。 M先生が特に熱心に教えてくれたと思うのですが、部落など勝手に人が作り出したものでそんな境界線みたいなものはあってはならない。 みな平等で同等の権利があるといった内容をおっしゃっていた記憶があります。 小学生ながらこの内容は難しくてすべて理解できていなかったですが、差別やいじめなどがいかに悪いことだということは、小学生の自分でも学べたと思います。 この差別の授業の後に、M先生が「自由」というテーマで好きなことを書いて提出しようという企画を行いました。 「自由」というテーマは恐らく「差別」からの解放といったメッセージが込められていたと思うのですが、この企画は成績とはまったく関係なかったですし、強制ではなく「任意提出」という形でした。 なので、面倒くさいのか最初は誰も提出しなかったです。 この時のM先生は少し寂しそうでした。 私はそんなM先生を見て、このまま誰も「自由」を書かないと、M先生が寂しい思いをしてしまうと思い、家に帰って一生懸命に自分なりの「自由」を用紙に書いて2日後にM先生に提出しました。 内容はびっくりの「桃太郎の話を改変したお笑い漫画」でした。 絵が好きで得意だった私は、当時、何を思ったのか分かりませんが、生まれて初めて漫画を描いて提出したのです。 お笑い漫画でしたが物語の最後の方に、無理やり差別反対的な内容のコマを書いて締めにした記憶があります。 そんな無茶苦茶な内容の自分なりの「自由」でしたが、M先生はものすごく喜んでくれて、褒めてくれました。 そしてそのまま漫画として「自由」という題名で用紙を印刷してクラス全員に配ったのです。 これが意外にも面白かったと大好評でした(笑) 家に持ち帰った生徒から、生徒の親にも見せたらめちゃくちゃ面白かったと言ってたと感想をもらった時は飛び上がるほど嬉しかったです。 それから調子に乗った私は何回か漫画を描いて「自由」として提出したと思います。 私の「自由」を見て、真似て漫画を描いて提出する子もいましたし、日記みたいな文を書いて提出する子もいたと思います。 たくさんの「自由」が書かれて提出されるにしたがって、M先生は印刷が大変だったと思いますが、とても喜んでくれたと胸を張っていえます。

サービス職業従事者
投稿時の年齢: 44
高知
投稿日時: 2023年03月26日
ドラマの時期:
1990年
--月
--日
文字数:3250

初めての交通事故

人生で印象に残った出来事の一つといえば「人生初の交通事故」です。 それは私が20歳のころ。 高校を卒業した私は、特にやりたいこともなかったので、アルバイトをしていました。 そのアルバイトはピザの宅配のお仕事です。 ちょうど原付の免許を取ったことと、地図を見るのが得意だった私には、ピザの宅配という仕事はピッタリだったと思います。 それに仕事仲間の人たちも、同年代が多く話も合いましたし良い人ばかりで楽しかったです。 この頃に一人暮らしを始めたこともあって、日々の生活のためにもお金を貯めるためにも、一日中、頑張って働いていました。 この働いていた当時のピザ屋の店長がすごく良い方で、ものすごく可愛がってもらった記憶があります。そんなピザの宅配の仕事を頑張って続けて、そろそろ仕事に慣れてきた3カ月後のこと。 どんな仕事でもそうですが、仕事を新しく始めたばかりの時期は、仕事をこなそうと一生懸命で集中しているので、割と失敗という失敗って意外に少ないと思うのです。 やはり仕事に慣れてきて、頭で考えなくても自然に体が動くようになる3カ月目の時期が一番危ないといいますし、実際にそうでした。 ある日の昼間、いつものようにピザの宅配を一件終えて、店に帰る道中の事です。 その日は良く晴れていて気温も良く、気が抜けるにはもってこいの日でした。 住宅街の中で信号のない見通しの悪い交差点。 路面標識の「止まれ」がありましたがそれを無視。 恐らく速度は30kmは出てたと思います。 私は交差点を横切ろうとする普通車に、横から突っ込んでしまいました。 これが私の人生で初めての交通事故でした。 事故の状況としては、私がまっすぐ直進しようと止まれ標識を無視して交差点に進入。 そこに優先道路側の車もまっすぐ直進して交差点に進入。 相手方の車の方が先に交差点に進入して、私の方が後から交差点に進入する格好となり、相手方の車の後ろドアの側面にブレーキをかけながら突っ込んだという状況でした。 お互い見通しが悪い交差点で、お互いがまったく相手に気づけなかったと思います。 この事故は止まれを無視した私の不注意で起こった事故で、個人的な感想をいえば私の過失100%をつけてもよい事故でした。 ただ幸いなことに自分も相手の方にも、ケガなどは無かったのです。 ピザのバイクも少しフロントカウルが傷つきましたが自力走行が可能でした。 ただ相手の方の車は、左後ろのドアが事故の衝撃で大きくへこんでいました。 私はお互いに怪我がないことを確認したら、すぐにピザ店も電話をかけて報告しました。 この時、私は生まれて初めて起こした交通事故で激しく動揺していたと思います。 しばらく待っていると店長が駆けつけてきました。 私は事故を起こしたことを店長にひどく怒られるものだと思っていました。 でも駆け付けた店長は「岡本!大丈夫か!?しかしやっちまったな!」っと笑顔で私に声をかけたのです。 この時の店長の対応で、私の心はどれほど救われたか・・いまだに言葉に良い表せないほどです。 まず笑顔で声をかけてくれたこと。 そしてやっちまったな!と冗談をいってくれたこと。 私の起こした事故で、恐らく監督立場として責任が発生したであろう店長。 これが普通の世の中の店長ならかなり怒っても無理はないのです。 なのに私のことを心配して、笑顔で声をかけてくれたのです。 20代前半と自分より少しだけ年上だった若い店長でしたが、心の余裕と安心感と懐の大きさを感じました。 そして店長と二人で改めて相手の方に謝ったのですが、この時の相手の方もご高齢の男性の方でしたが、非常に大人で優しい方で「かまんかまん」と言ってくださいました。 逆に「若いうちはそんなものよ。これから気を付けて」と励まされたのです。 この店長とご高齢の男性、二人の対応に当時、自立もできてない若造の私の心は本当に本当に救われたのです。

サービス職業従事者
投稿時の年齢: 44
高知
投稿日時: 2023年03月17日
ドラマの時期:
1999年
9月
--日
文字数:1993

母親の愛とプライド

私は子供の頃から母に愛され、そして甘やかされて育てられてきました。 私が小学校の頃、父親がある事情から多額の借金を背負ってしまい、県外に出稼ぎに行くことになりました。 なので私の幼少期は、家族全員がひどく貧乏な生活を送っていました。 1円玉や5円玉を集めて近所のスーパーに50円の袋ラーメンを買いに行き、晩御飯にしたこともありました。 料金が払えなくて電気やガスが止まったことも何度もあります。 それくらい困窮した生活を送らざるをえませんでした。 そんな生活でしたが、私の母はできる限りの範囲の中で、私を甘やかせてくれたと思います。 小・中・高校とすべての修学旅行に行くことができ、良い想い出を作ることができました。 誕生日に欲しいといったスーパーファミコンの本体を、買ってくれたこともありました。 中学でサッカー部に入った時、ユニフォームやスパイクなど、必要な備品を一式、揃えてくれたりもしました。 普段の生活が厳しかったのに、私への貯えというか、そういうお金は一生懸命に働いて、用意してくれていたのだと思います。 そんな母親だったので、食事や家事やゴミ出しなどすべて母が一人で行い、私は19歳で一人暮らしを始めるまで、一切の家事をした経験がありませんでした。 それに私は何か失敗して母親に怒られたという経験が一切ありませんでした。 今思えば、もしかしたら母は家事や食事などはすべて女がやるもの、という昔ながらの考え方を実践していただけなのかもしれません。 そんな甘やかされて愛されて育った私は、19歳に家を出ていくことになります。 そのきっかけは「母親のプライド」です。 高校生になった私は、バイトを始めました。 その理由は生活が苦しい家にお金を入れる、とかそういう考えではなく、単純に自分のお小遣いが欲しかったからでした。 この時の私は甘やかされて育ったせいか、自分でものを考える能力に乏しく自立するということからは相当にかけ離れた甘ったれでした。 なので家が金銭的に苦しいのは分かっていましたが、家の生活費は母親がなんとかしてくれるだろう!とまだまだ母親に甘える気、満々だったと思います。 親が子を甘やかせて育ててしまうと、子供は自立できない甘い子に育ちます。 このことは私が大人になってから、幼少時代を振り返った時に気づいたことです。 当時は甘えることが当たり前というか「普通のこと」と思い込んでいるので、家事や掃除、ゴミ出しなど、何でも母親がやってくれていることに、なんの疑問も持たなかったですね。 そんな甘々の私が初めてのバイトを悪戦苦闘しながら続けることができ、人生初の給料をもらった時は本当に嬉しかったです。 初めて自分だけの力で何かを成し遂げた感覚といいましょうか? それぐらい高校時代にバイトでお金を得るというのは、大きいことだったと思います。 その初給料の大半は、自分のお小遣いに充てるつもりで財布に入れて、残りのほんの一部を母親に家賃として渡した記憶があります。 そんな人生初の給料で何を買おうかと、楽しみに考えていた私でしたが、しばらくして悲しいことが起こります。 ある日、自分の財布を見たところ、あきらかにお金が減っていました。 自分で何かに使ったかな?と考えてみても一向に思い当たる節がないのです。 そこでちょうど近くにいた母親に、何気なく財布に入ってたはずのお金のこと知らない?と聞いてみたところ。 「ああっ、ちょっと〇万円借りたけど、必ず返すから」 という答えが返ってきたのをハッキリ覚えています。 「えっ?一言、言ってくれたらもっと家にお金を入れたのに、なんで勝手に黙って人の財布からお金を取ったの?」 母が黙って財布からお金を取ったことが信じられなかったので聞いてみると、 「えっ?だって言いにくかったし、あとで返せば良いと思って」 この言葉を聞いて私はとてもとても悲しくなった記憶があります。 家が苦しいのは知ってるので、直に言ってくれればお金をもっと入れることもできたのです。 しかし母親からはどんな時も、催促の相談は一切ありませんでした。 家の生活も苦しかったので、私がバイトを始めることを知って、家にたくさんお金を入れてくれることを期待したのかもしれません。 でも実際に私が渡した金額が、母の想定よりもはるかに少なかったのでしょう。 裏を返せば母の期待を裏切ってしまったとも言えるかもしれません。 そこで母がとった行動が、私に内緒で財布から黙ってお金を借りる=取るという行為だったのは、例えどんな理由であれ、許されることではないと今も思っています。

サービス職業従事者
投稿時の年齢: 44
高知
投稿日時: 2023年03月07日
ドラマの時期:
1996年
12月
--日
文字数:3551

普通に生活するということ

3月になると、ふと思い出す。 「今年は桜を見ることができそうだな・・・」 わりと最近の話ではあるが、私には自宅で過ごせなかった春がある。 それは、次男を妊娠中のこと。いつものように妊婦健診へ行くと、先生から思わぬことを言われた。 「今から歩かないでください!すぐに入院してもらいます。」 このとき私は妊娠8カ月。何が起こったのか分からず、同席していた夫と無言のまま目を合わせた。 先生の話によると、予定日まで2カ月以上あるにも関わらず15分おきに軽い陣痛が来ているとのこと。 確かに少しお腹が張っている気はしたが、先生の言葉はまさに青天の霹靂であった。 そしてこの日から地獄の入院生活が始まった。 歩かないでとまで言われた私は、もちろん荷物を取りに自宅へ帰ることは許されない。 頭の中は大混乱である。 「布団干しっぱなしだ・・・」 「冷蔵庫の中に作りかけのおかずが・・・」 「というか、これから長男の面倒は誰が見るんだ!?」 今となっては笑いのネタになるが、当時は本当に焦った。 病室で1人になると、長男のことが気がかりで仕方なかった。コロナ禍のこのご時世、家族ですら面会はできない。今まで母親にべったりだった3歳児が突然離ればなれになったらどうなってしまうのだろう。考えるだけで涙が出てきた。 結局長男は夫の実家でしばらく暮らすことになったが、ご飯もおやつも食べず、機嫌の悪い日が続いていると聞かされた。 そして、私は私で24時間点滴を繋がれ、歩行禁止の入院生活はとても辛いものだった。唯一の希望はお腹の赤ちゃんの成長だけだ。 それから1カ月半、幸いにして薬がよく効き、臨月を迎えたあたりで退院許可が下りた。外へ出ると、寒かった冬は終わり、暖かな春になっている。 この日、幼稚園から帰宅した長男は、1カ月半ぶりに私を見ると号泣しながら抱きついてきた。ぎゅっとつかむ手から伝わる「もうどこにも行かないで」という強い思いは、この先も一生忘れることはないだろう。

主婦
投稿時の年齢: 31
千葉
投稿日時: 2023年03月03日
ドラマの時期:
2022年
3月
--日
文字数:1048

人生観を180度変えたカンボジア生活

旅好きで東南アジア各国を巡っていた私は、2016年のある日、私はカンボジアのシェムリアップ(Siem Reap)という街に降り立ちました。さまざまな経験を積む中で、月日があっという間に過ぎ去り、結果的に半年ほど生活することになりました。シェムリアップは世界的な観光名所の一つとして知られるアンコールワットがある場所です。 中心地のオールド・マーケットは、世界各国から訪れた旅人や旅行客で賑わいを見せる活気ある街でした。買い物好きの私は、初めて訪れたこの国でショッピングを楽しみました。これからの生活のために高級家電をはじめ、ブランドものの洋服も購入しました。 この中心地から3キロほど離れた住宅地に私の住むアパートはあります。最初に訪れた際の印象は、「たった3キロの距離でこんなにも街の様相が変わってしまうのか」というものでした。その理由は、道路も舗装されておらず、放し飼いの牛が道を闊歩していたからです。

分類不能の職業
投稿時の年齢: 51
長崎
投稿日時: 2023年02月28日
ドラマの時期:
2016年
--月
--日
文字数:654

義父との最初で最後の共同生活

私は今でも大事にしている想い出があります。大事な大事な想い出です。 この話は3年前の2020年のことです。私は結婚を機に住宅ローンで購入した1軒家で、妻と2人で暮らしていました。子供はいませんでしたが、夫婦で何の不自由もない幸せな日々を過ごしていました。 妻には高齢の父親がいて、少し離れた妻の実家で1人暮らしをしていました。 私にとっては義理の父です。定年をむかえていた義父は、少ない年金で大好きな日本酒を飲みながら、つつましい暮らしをしているようでした。 義父の健康状態といえば、日本酒の影響で少し膵臓を悪くしていたようです。ですが言葉もハッキリしゃべっていましたし、食事や家事なども当時は1人でこなしていたようでした。 そんな義父とは年末に1度だけ、年越しを一緒に迎えるために、妻の実家に会いに行くのが結婚後の夫婦の通例でした。 つまり頻繁に会うような間柄ではなかったということです。 私と義父の仲は悪くはなかったです。でも仲が良いという訳でもなく、俗にいう当たり障りのない関係であったと思います。 そんな当たり障りのない関係だった義父と私が、まさか共同生活を送ることになるとは。 そしてこの共同生活が、私の記憶に深く残る大事な想い出になるとは。当時の私は想像もしていなかったのです。 2019年の年末、義父との通例の年越しを終え2020年を迎えた私たち夫婦は、普段通りの何気ない生活を送っていました。 しかし梅雨の時期に入ろうかという5月を迎えたある日のこと、妻が突然、私に相談があるといってきました。相談内容は義父のことで、2020年に入ってから義父の体調が急に悪くなったと義父の方から連絡がきたそうです。歩くのが億劫になり膵臓の調子が良くないとのことでした。 思えば80歳に差し掛かった義父が、病院に通院するようなこともなく、1人で食事や家事をこなしていたのは、なかなかすごいことです。逆に言えば今までが元気過ぎたのかもしれません。 これまで手がかからな過ぎて、気にも留めていなかったのですが、体の具合が悪くなってもなんら不思議ではない年齢であることを、この時まで忘れていました。 そんな義父が、自分から体調の不良を訴えてきているのです。この時の私の直観としては「只ならぬことなのでは?」っという思いが沸いてきました。 なので妻と話し合いどうしようか?と考えた結果、義父さえ良ければ、こちらの夫婦の家で一緒に暮らしませんか?と伝えることにしました。 そのことを伝えると、義父もこちらで一緒に暮らしたいとのこと。 義父の体調が心配なので、準備は急いで進めることにしました。引っ越しは翌月である6月初めには完了して、義父との共同生活が突然スタートすることになったのです。 義父と共同生活をするに当たって、実は不安なこともありました。 妻と義父はもちろん親子関係なので、一緒に暮らしても何の問題もないだろうと思いました。 しかし私といえば、義父とは今まで1年に1度だけ会うくらいの「当たり障りのない関係」だったのです。 しかも義父とは言え、いわば「赤の他人」です。言い過ぎかもしれませんが、私の感覚からしたらそうなんです。しかも私は生まれてこのかた「赤の他人」と共同生活をしたことが1度もなかったのです。 19歳で実家を出ていき、そこから妻と結婚するまでずっと自由気ままな1人暮らしをしていましたので。他人とひとつ屋根の下で暮らすというのは、経験がないので楽しみよりも不安しかなかったです。 義父と一緒に暮らして「ちゃんとしたコミュニケーション」をとることが果たしてできるのか?仕事上の「ビジネスコミュニケーション」なら自信があったのですが。 生活上の必要なコミュニケーションとビジネスコミュニケーションでは訳が違うと思いました。 そんな不安を抱えながら始まった義父との共同生活でしたが、最初はやはりぎこちなかったです。 義父は元タクシー運転手で社交的で協調性もある人でしたが、積極的なタイプではなかったようです。 人に話しかけられたら話し返すけど、自分から話題を振るということは、どちらかというと苦手な人のようでした。 我が家は食事をする以外にみんなで集まることもなかったので、義父は普段、リビングのソファーに座って静かにスポーツ観戦をしているようでした。私と妻は2階にあるそれぞれの部屋で、趣味である動画鑑賞やドラマを見るのが日課でした。 共同生活が始まって1カ月はこんな感じで、お互い特に干渉することもなかったです。義父のいるリビングを通るときも、挨拶くらい交わして通り過ぎるといった日々を過ごしていました。まさに当たり障りのない関係ですね。 義父はとにかくおとなしかったです。今思えば義父はこちらに居候みたいに引っ越ししてきたので、遠慮もあったのかもしれません。 そんな当たり障りのない関係が、良い意味で変わる「キッカケ」が訪れたのは、季節も真夏に入ろうかという7月の初めのことでした。 ある日、いつものようにリビングを横切ろうとすると、義父がいつものようにテレビを見ていました。よく見るとテレビには、ちょんまげ姿の大男が大声を上げて組み合っている映像が流れているではないですか。それは大相撲の実況中継でした。季節も7月に入りちょうど大相撲夏場所が開幕したようでした。 私は当時、大相撲は見ていませんでしたが、何年か前には大相撲を見ていた時期があったので、数名の力士の名前くらいは知っていました。その数名の力士の名前を何気に義父に聞いてみたら、近況やら現在の番付など詳しく教えてくれました。 その義父の話す様子が本当に楽しそうで、身振り手振りを交えいろいろなことを解説してくれたのです。その表情はもちろん笑顔だったのを今でも良く覚えています。 義父は本当に大相撲が大好きだったのだと思います。 その笑顔を見ていると、興味がそんなになくても、他の知らない力士の話もついつい聞きたくなるのが不思議でした。そしてまた身振り手振りを交えた笑顔で教えてくれるのです。 その話を聞いているうちに、私自身も嬉しくなってしまい、急に大相撲に興味が沸いてくるほどでした。 この時から大人しくて寡黙な義父のイメージが変わった気がします。 義父はプロ野球も大好きだったようです。特に広島カープの大ファンでニュースを欠かさず見ていたようでした。でも民放の番組ではあまりプロ野球の放送はされていませんでした。 なので妻と話し合い、義父のために広島カープの実況が視聴できる有料放送を契約しました。 すると7月のシーズン真っ盛りということもあり、義父は大変、喜んでくれたのでした。 私は義父のように、広島カープのファンでもなかったですし、なんならプロ野球よりサッカーの方が好きな人間でした。 でもそんなプロ野球に興味が薄い私にも、義父は広島カープのことや選手の特徴などを身振り手振りを添えて一生懸命、笑顔で楽しそうに教えてくれました。 その笑顔を見ていると、この人は本当に広島カープが好きなんだなっと理解できました。 楽しそうな義父を見ていると、なんだかこっちも嬉しくなったのが自分では印象的でした。 この頃から時間が合えば、大相撲や広島カープの試合を、義父と一緒に観戦するようになりました。 他にも大好きな犬の話や仕事関係の話もするようになりました。 よくよく義父と話してみると、意外に共通の考え方や共感できる話題が多いことが分かりました。それからは食事中でも、その日のニュースなど、いろんな話題について義父としゃべるようになりました。 大相撲実況から始まり広島カープの話題という些細な「キッカケ」でしたが、このおかげで義父との距離も一気に縮まったように思います。私と義父にとって大きな出来事になりました。 今までの当たり障りのない関係から、共通の話題で楽しく話せる同居人になれた気がするのです。 そういう普通の会話ができることが、いつからか楽しく感じれるようになってから、義父との同居生活はこれから2、3年後も続いていくものと勝手に思っていました。 大相撲の各場所の展望や1、2シーズン後のプロ野球順位の予想をしたり、仕事の悩みを相談したりすることを想像して楽しみにしている自分がいました。 そんな私の本当の父親といえば、高校生の頃に病気で早めに亡くなっていました。それに父親は単身赴任で県外で働いていたので、子供の頃から滅多に会うことができませんでした。 だから父親と息子としての交流があまりなかったのを記憶しています。 そのせいか共同生活の後半は、義父がまるで実の父親のように感じられていました。 父親が生きていればこういう会話をしたんだろうか?酒を交わして朝まで仕事の愚痴などいいながら飲み明かしたのか? そういう想像ができるくらいに、義父との会話は楽しくなっていたのです。 でも、そんな父親の面影を重ねた義父との楽しかった共同生活は突然に。そしてあっさりと終わりを迎えます。 それは夏の甲子園を義父と観戦して盛り上がりながら暑さを乗り越え、これから秋を迎えようかという10月。共同生活も4か月目に入った頃のことでした。 10月18日。それまで食欲もあり会話も普通にできていた義父でしたが、その日は朝から体が少ししんどいとのこと。なので1階の和室に備え付けていたベッドに横になってもらい様子をみることにしました。食欲もなく、その日は食事をほんの少しだけとって早々に眠りについたようでした。 日付の変わった10月19日。その日の私は仕事が早朝出勤の日だったので、4時45分セットの目覚ましで目を覚ましました。眠い目をこすりながら2階の寝室から1階の台所まで降りてきたのですが、どこからか小さな声で、私の名前を呼ぶ声が聞こえました。 喉から絞り出すような感じのうめき声のようでもありました。和室の方から聞こえる気がしました。その声は義父の声で、私に助けを求める声だったのです。 急いで義父のいる和室に入ってみると、義父がベッドの下でうつ伏せで倒れていました。 驚いた私はすぐに義父を抱えあげて、ベッドに腰掛ける姿勢にしてあげました。 義父は胸の辺りを押さえてかなり苦しそうでした。 何があったか聞いてみると、夜中にトイレに行くためにベッドから起き上がったところ、態勢を崩してベッドの下に転んだそうです。 その時に胸から落ちてしまい、息がしばらくできなかったとのこと。前日に体調を崩していたこともあり、そこから自力で起き上がることが難しかったそうです。助けを呼ぼうにも胸を打ったので呼吸が整わず声が出なかったようでした。 なので数時間の間、うつ伏せの状態で誰かが通るのを待つことしかできなかったらしいです。 この時、いきさつを話しながら義父は涙を流していました。それは助かったという嬉し涙ではなく、自力でなんとかすることができなかった自分の無力さに対する不甲斐なさ。つまり悔し涙からきている感じがしました。ずっとすまん、すまん、と言ってましたから。 しばらく話して義父を落ち着かせると、妻を起こして事情を説明しました。 その日は妻が仕事を休み、義父の様子を見ることになりました。 私も昼までには仕事を終え帰宅できる日だったので、昼過ぎの義父の状態次第では病院に連れていき詳しく検査してもらったほうが良いと思いました。 この時、義父をすぐに病院に連れて行かなかったのは、義父が大丈夫だからと病院に行くことを強く拒んだからです。この時は義父の意思を尊重しました。 そして仕事を終えて、昼前には帰宅したのですが、義父の状態は予想よりも思わしくありませんでした。それは仕事中の妻からの連絡メールで分かっていました。 義父は和室のベッドに横になってうんうん唸って苦しそうにしていました。 そんな状態でも私が帰ってきたことに気づくと、ベッドから上半身を起こし「おかえり」と言ってくれました。その声はとても弱弱しかったですが、顔は精一杯の笑顔でした。 この「おかえり」という言葉が私が義父からかけてもらった最後の言葉になりました。 私はとりあえず義父に水を飲んでもらおうと思い、台所に水を取りに行きました。 そして再び和室に入ると状況が一変。上半身を起こしていた義父が仰向けに倒れていました。 視点が合わず意識が朦朧としているようでした。話すこともできない状態です。 本当に急な変化に私と妻はビックリして気が動転しました。 すぐに救急に電話してまもなく救急車が到着。義父は救急搬送されていきました。 2020年といえば、世はコロナ化の真っただ中で病院も非常に気を遣っている時期でした。なので救急病院の受け入れがなかなか決まりませんでした。 やっと受け入れてもらえる病院が決まったのですが、まずコロナの検査をしないといけないということでした。コロナの検査時間も含めてすべての検査をするのに、非常に時間がかかった記憶があります。 そして義父の検査結果ですが、コロナは陰性でした。容体の方は38度の熱と脱水症状、急性膵炎によるショック状態の可能性があるということでした。その日は手術などせずに入院の手続きを進められました。 なので入院に必要な準備をするため、義父の保険証や着替えなどを取りに、いったん家に帰ることにしました。入院のための準備を終えてもう一度、義父の入院する病院に向かう頃には、辺りが暗くなっていました。確か夕方19:30頃だったと記憶しています。 病院に着くと検査を終えた義父に会うことができました。 車いすに座っていて意識もありましたが、見るからにしんどそうなのが伺えます。 でも救急車を呼んだ時の状態からは、幾分は持ち直したようにも見え安堵しました。 担当の看護婦さんが言うには、食事は本当に少ししか食べることができなかったそうです。 話しかけると声を出すのが辛いのか、もしくは出せなかったのかわかりませんが、うなずく仕草と首を横に振る仕草でこちらの質問に反応していました。 その義父の様子があまりに辛そうだったことと、翌日から詳しい検査もあると思い、早めに切り上げることにしました。 そして変える間際に「義父さん、また明日も見舞いに来るからね」と声をかけました。 すると義父はその言葉がよほど嬉しかったのか、確かにはっきりとした表情でニッコリと笑顔を見せて頷いてくれました。 それが私が見た義父の最後の姿でした。 翌10月20日、朝早くから病院から連絡が入り、義父はあっさりと、そして穏やかに息を引き取ったそうです。享年79歳。

サービス職業従事者
投稿時の年齢: 44
高知
投稿日時: 2023年02月28日
ドラマの時期:
2020年
10月
20日
文字数:6532

ありがとう、お姉ちゃん

私の長男はすごくおしゃべり好きな反面、人見知りで相手を目の前にすると「ありがとう」や「ごめんなさい」が出てこない。まだ4歳だから仕方ないと思いつつも、親としては悩みの種だ。 この間もおもちゃの取り合いが原因で、弟を叩いて泣かせてしまったことがあった。それでも謝ろうとしない長男に、私はつい怒ってしまった。 「きちんとごめんなさいが言えないと、幼稚園でもお友だちに嫌な思いをさせてしまうよ!」 あれ?このフレーズ、どこかで聞いたことがあるぞ・・・ 私は長男を怒りながら、そんなことを考えていた。その夜、私はようやく思い出した。 「ごめんなさいが言えないと幼稚園で困るよ!」 この言葉は、私が4歳のときに姉から言われたものである。 姉は私より12歳年上、いわゆる年の差姉妹だ。実家で一緒に暮らしていたのは6年ほどだが、そのうち記憶に残っているのは、私が物心ついてからのわずか2~3年しかない。 姉は昔から面倒見が良く、幼いころはたくさん可愛がってもらった。そして、いけないことはいけないと、きちんと教えてくれた。 当時の私にとって姉は少し怖かったが、どうしてやってしまったのか、どう思っているのか、私の話を遮ることなく最後まで聞いてくれたことは今でも鮮明に覚えている。 そんな姉からのサポートもあり、私はいつの間にか、誰が相手であってもきちんと謝罪や感謝の言葉を言えるようになった。

主婦
投稿時の年齢: 31
千葉
投稿日時: 2023年02月28日
ドラマの時期:
1996年
--月
--日
文字数:840

熱いうちに打たれたもの

高校を卒業して建設会社に就職した。 一般事務が希望だったので総務部に配属となった。 こだわって選んだ仕事ではなかったこともあり、やたらと部署異動させられた。 建設現場、営業部など。 若いうちにいろいろな経験をさせたい、という上司の意向だった。 どんな理由があろうと、希望する部署ではないことに自分は不満を感じていた。当時の自分は若かったこともあり、 「絶対間違いありません」 「絶対間違いなくやりました」 ということをよく言っていた。 そんな自分に、父親と同じくらいの年齢の上司は言った。 「お前は絶対なのか?」 なにを言っているのか当時は、まったく意味が分からなかった。 自分がトゲのあるような発言をすると、上司に強く注意された。 注意されるたびに自分は表情に出して、不快感を示していた。 おばさんの事務員から「もう少し我慢しないと!」と言われるほどだった。 入社から3年経った頃、自分はその建設会社を辞めることになった。 退職の意思を伝えたとき、驚きよりもショックのほうが大きい上司の表情は、いまだに忘れられない。

事務従事者
投稿時の年齢: 40
大阪
投稿日時: 2023年02月27日
ドラマの時期:
2001年
--月
--日
文字数:769

スポーツは意外と楽しい

私は趣味の一環で市民マラソンに出場するほどスポーツ、特に走ることが大好きだ。 しかしながら、これは幼少期から続くものではない。むしろ、小学校までは運動が嫌いだった。幼稚園時代は毎日のように転んで膝を擦りむき、小学校時代はマラソン大会で最下位を取り、悔しくて泣いたことを今でもよく覚えている。 そんな私の転機ともいえるのが、中学校の部活動であった。入学当初は文化系の部活に入る予定だったが、小学校時代からの親友に誘われるがままバドミントン部に入ることになったのだ。私の通っていた中学では、バドミントン部は練習が厳しいことで有名、陸上部並みの走り込みがあると言われていたほどだった。実際に練習が始まると、元々体力のない私は到底みんなについていけず、居残りでメニューをこなす日々。何度も入部を後悔し、何度も辞めようと思った。 それでも、親や友人に励まされ、続けること1年。中学2年になったある日、突然いつもの走り込み練習が楽に感じるようになったのだ。それだけではない。バドミントンの勝率もぐんぐん上がり、さまざまな大会に出場できるようになった。 まるで霧が晴れたかのように、持久力・バドミントン技術ともに体の芯から習得したこの感覚は、とても不思議で気分が良かったことを思い出す。 それからというもの、私は走ることもバドミントンの試合をすることも楽しくて仕方がなかった。真面目に練習していれば、結果は何らかの形で付いてくる。この言葉を胸に、中学3年の総体で私のバドミントン競技は集大成を迎えた。

主婦
投稿時の年齢: 31
千葉
投稿日時: 2023年02月26日
ドラマの時期:
2004年
4月
--日
文字数:926

好きなこととの出会い

私は大変な運動音痴で、小さい頃からスポーツ全般が大の苦手でした。 小学校の体育の授業で長距離走をすれば、他の生徒達とは周回遅れの差を付けられ、皆がゴールした後もしばらく一人で走り続けることになります。 これは当時の私にはとても屈辱的なことでした。 また、その頃は巨人軍の王選手がホームランの世界記録を更新したりしていた時期で(1977年9月に達成)、小学生の間では野球が大人気であり、友達との遊びも決まって野球でした。 しかし、運動音痴の私は飛んでくるボールが怖く、外野フライをほぼ全てヒットにしてしまうので、その度に仲間から○○のせいで試合に負けたなどと責められることになります。 そんな状況の中で、いつしかこの運動神経の低さがそのまま自分の価値の低さのような感覚に陥ってしまい、毎日がとても憂鬱でいつも下ばかり向いていました。 そんな小学校生活を送っていた私ですが、忘れもしない小学校三年生の時、始めて自分が本当に好きだと思うことに出会うことになります。 きっかけは、Gという若い男の先生が私のクラスの音楽の授業の担当になったことです。 この先生はとても優しくて、他の男の先生達のように威張っていませんでした。 また、授業に直接関係ないのにわざわざにトランペットを持ってきて吹いてくれるような先生で、本当に音楽が好きな感じが伝わってきて、優しさも相まって生徒達から慕われていました。 そんなある日、G先生の何回目かの音楽の授業で、リコーダーの「タンギング」の練習をすることになったのです。 「タンギング」とは、音楽用語で舌を使って音を切る(或いは発音する)ことで、リコーダーに限らず殆ど全ての管楽器で使われる非常に重要なテクニックです。 先生は「真っ直ぐの糸をイメージして、それにハサミでプツンと切れ目を入れていくように」と教えて下さって、生徒一人ずつ順番にタンギングをさせ個別にアドバイスを始めました。 この時、私はクラスメイト達の音を聴きながら「おや?」と思いました。 皆のタンギングは力が入り過ぎて音が濁っていたり、反対にちゃんと舌が使えておらず音が不明瞭だったりでどれも今一な感じに聞こえます。 「体を使うことはなんでも下手な私だけど、もしかするとこれだけは自分の方がずっと上手に出来ているのではないか」という予感がしました。 そして私の番が回ってくると、私は先生から教わった通り、真っ直ぐ伸びた自分の息に舌で切れ目を入れるように「トゥートゥートゥー」と吹いてみました。 何故かクラス中がシーンとしています。 そして、静まりかえった教室の中で先生はゆっくりと口を開き「○○(私の名前)、とーっても良い音だよ」と私のことを褒めて下さったのです。 先生は決してお世辞を言ったのではなく、私の音にしっかりと耳を傾けた上で評価してくれました。 このことが本当に嬉しくて、また、野球では私のことを責めるクラスの男子達まできょとんとして私の音に聴き入っているのが不思議な感じがして、人前で何かを表現することの気持ち良さにこの時始めて気がつきます。 これは人生の中で極めて貴重な瞬間でした。 また、同じ頃東京の小学校から転校生がやってきたのですが、これがもう一つの転機になりました。 この転校生は名前をBといいましたが、大変な変わり者で周囲の評価など全く気にしない完全にマイペースな性格。 男子なのに読書や音楽が好きで、休み時間にはグラウンドに走る他のクラスメイト達には目もくれず、一人で本を読んだりリコーダーを吹いたりしています。 特に音楽に関しては、東京では児童合唱団に入っていてレコーディングの経験まであったそうで(アーティストのレコード録音で合唱パートを歌ったことがあるそうです)、歌もリコーダーも大変な腕前でした。 私とB君は直ぐに意気投合して一緒に遊ぶようになり、音楽の教科書に載っている楽譜の中から二重奏になっているものを探しては、それを二人でリコーダーで演奏することを繰り返しました。 二重奏とは二つの楽器で一緒に演奏することであり、二人でハーモニーになるもの、メロディーと伴奏に分かれているもの、二つの違うメロディーを同時に演奏するもの等がありますが、二人の音が一つの音楽になるのはとても気持ちが良く、B君のリコーダーがとても上手いこともあり、どれだけ繰り返しても決して飽きることがありません。 この二重奏は学年が上がってクラスが別々になっても続き、中学に入ると二人で「クイーン」や「レッド・ツェッペリン」のレコードやカセットテープを聴くようになり、やがて、私がギターを弾いてB君ベースを弾く、私の最初のロックバンドへと発展することになります。

分類不能の職業
投稿時の年齢: 54
茨城
投稿日時: 2023年02月25日
ドラマの時期:
1977年
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文字数:2369